少女でおじさんな悪 23 (弱者のあがき 3)
更新を出来る限り優先したため、おかしなところがあると思います。気づき次第修正していきます。
目に見える場所には誰もいない。
院長と車が一台あるのみだ。
車のフロントドアに背を預けた。そのままずるずると体が重力におちていく。足がのびるように投げ出され、地面に座りこんだ。アスファルトの冷たさが服の布地を貫通して伝わってくる。
上を見上げ、常に変わらぬ雲が漂っている。
晴天のもよう。人間一人の立場も関係ない。結城市が制圧されることも関係ない。ただ晴れの世界と青空が広がっていた。雲がゆらりと流れ、光が地上を照らす。
一人になりたくて、全員追い出した。
院長の気持ちをわかるものは誰もいない。
八千代の武力集団たちは強さはある。でも強さしかない。政治力もなければ、生かすための重圧もない。自身の身を守るという重圧はあるぐらいだろうか。強さが正義はどこも一緒。だから武力集団たちは正しい。
純粋無垢な力のみを追求。複雑な事情も鑑みず、武力を向ける理由などを持たない。弱者の理論などもなく、ただ強いだけだ。
そういう奴らが持たないものを院長が背負っている。
責任だ。
その指示の過程も結果も全部院長の責任だ。その功績は部下たちと院長に分け与えられる。だが失態は院長だけが背負う。
八千代の武力集団を束ねる責任。
八千代の領地を守る責任。
住人の生命および、環境整備においてもそう。孤児院を経営し子供たちの命も管理している。最近では暴力団を排除し、その構成員だった男を社長とした会社。その会社を裏で管理するのもそう。また暴力団によっての性的搾取を受けた被害者たちも増えた。
外敵に対しての圧力、警戒、脅迫。様々な政治要因や外交もどきの仕事。
その苦労が。
その労力が。
異なる業種をまとめる責任が。
弱者には非常に重かった。院長は普通の人間だ。誰一人殺すこともできない、圧倒的な貧弱。八千代の誰もが院長よりも強い。特に部下の武力集団に嫉妬している。自信をもち、力をもって敵を駆逐する。その強さと自信が弱者にはまぶしかった。
まぶしくて、怖いものだ。
いつ牙をむくかわからない。
自分を圧倒するものが、自分の言葉に従う。
今の世だ。強者は弱者を食らう。弱者は強者を引きずり落とそうとする。一度失態を犯した強者に再起はほぼない。弱者によって引きずり落とされ、どうにもならないところまで落ちる。
この世は誰もが信用できない地獄。
自分の利益や感情のためなら他人を平気で消耗する。誰かの苦痛が自分の幸せになるのであれば、誰も躊躇わない。
そんな時代の強者が弱者に従う。
冗談じゃないと疑うしかなかった。
常に疑心暗鬼だ。誰もを疑い、顔に出さず必死に取り繕う。いつ自分の寝首をかいてくるのか、その時期はいつなのか。常に考え、常に自分の危機を感じている。隠すのが上手いだけで、何も思わないわけがなかった。
院長はこんなのを背負いたくなかった。
こんな立場になりたくなかった。
一人の人間が背負うには重すぎる。直接命のやり取りをする環境にはない。殺し合いを直接するわけじゃない。しかしながら命を奪う指示なら幾つも出した。
胸元をおさえ、痛みをます心臓の音。ぐるぐると胃から痛みを訴えかけてくる。痛みが心臓の鼓動を高めていく。また鼓動が高まるから胃から食道へ逆流しかけるものもあった。
「っ」
思わず口元を抑えた。背をドアに預けて、座り込む姿勢。地面に逃げていく自身の体温。空から降り注がれる光の温かみ。ドアの薄い鉄板が背からの冷たさを伝達。現実との比較。
自然は何があっても自然のままだ。
人工物は何があっても人工物のまま。
温かみも冷たさも日ごとに変わる。
人間の環境は日ごとに変わらない。責任の重さと突き詰めていく現実の辛さ。それだけは永遠に変わらない。生きている命は、面倒ごとだけを引き起こす。そのくせ誰もが安定という退屈さを求めている。
世の中は地獄だ。
常に闘争だ。その中で安定をもとめれば堕落していく。休息などしていたら、その隙を誰かに奪われる。油断も休息もない、競争社会。
でも逃げ道も必要だった。
心の逃げ場、思わず一人になりたくて、その理由付けをして追い出した。八千代では一人になれない。侵略した土地で、ようやく一人になった。
膝をもどし、両脛を抱え込んだ。体育座りというやつだ。
侵略した土地での非道な行い。人の餓死した様子。腐乱死体。怪人の死にざま、首が飛ぶさま。悲鳴と爆撃の音。常人では耐えれない数々の現場を見た。
生きるために似たようなこともする。
院長だって、拷問を相手にしたこともある。
暴力団、裏でまとめた会社の社長。その人間に拷問を自らして、こちら側にひきずりこんだ。殺したほうが手間はかからない。実際、邪魔者でしかないし、不安要素の一つだったからだ。でも、殺したくはない。
院長は人を殺したくない。命を奪いたくない。
自分の手で、誰かの手による惨状すら見たくない。汚いものに蓋をして、現実を逃避したい。
できる限り、生かしておきたい。
しかし邪魔になるなら排除もする。自分が生きるためには他者すら消す。利益のためでも、生命の危機でも何でもいい。理由はどうであれば邪魔であれば消す
本心とやっていることの違い。人間は常に矛盾を抱えて生きている。
抱えた矛盾が大きくなるほど、精神にかける負担は凄まじい。
背に預けたドアがぼこりと沈み込む。国産車の特徴として薄い鉄板を用いて軽量化、コストカットを図る。そのくせ耐久性、安全性は確保するといった高度技術。
たかが人間の体重でもぼこりと鉄がへこむ音を立てる。
その感覚に思わず背を離した。ドアの沈みは反発して元通りになった。だが一気に体の傾きを前にもっていったことで胃からの暴走が生じた。
逆流してくる。
思わず立ち上がり、駆け出した。
できうる限り距離を取ろうとしたが、数メートル先だ。崩れた街路樹の土壌。そのへし折れた幹の前で両膝をついた。
上半身全体を屈ませる形になった。
「っ」
そして吐く。食道からさかのぼってくる際の苦み。混合された香りが内側から口内を満たしていく。
心の痛み、体の悲鳴。責任と激務からのストレス。怪人を相手にする恐怖。自分より強いやつを指揮することへの不安。
院長が嗚咽を漏らし、逆流してきたものは外へ。地面を汚し、心を乱す。過大なる精神的負荷が限界をこえた。耐えれる許容度を抜けるほどのストレス。
くしゃげた顔。恥ずかしくもあり、苦しくもある。どっちにも偏れない心の歪み。ごちゃごちゃした頭では上手く物事を考えれない。
「‥」
鵺との交渉の際食べていたものの固形物。また小さな塊、錠剤。吐き気止めの薬だ。また吐しゃ物として液体になっているものの、胃薬も胃液と混じっていた。
このたびの侵攻の際、院長はほとんど何も食べていない。
水分と交渉の際に食べた固形物だけだ。
あとは薬を事前にのみ、必死に耐えていた。だが耐えきれなかった。体も心も限界なのだった。だから自然のささやかな風程度にも調子を狂わされる。
吐くたびに。
自分の威厳が溶けていく感覚。
この惨めさが、弱さが、恥ずかしくすら思う。
しかし、生きている。
どんなに無様でも惨めでも耐えている。
命を明日へ紡げる以上、院長はこの瞬間も必死に戦っていた。苦悶の表情と両目から垂れた屈辱の感情。涙が屈辱と威厳を奪い地上へ落としていく。
吐しゃ物に涙が当たっても何も変わらない。
屈んで、吐いて、泣いて。
やがて胃の中全部が外へ出た感覚。手に力が入らない。体全体が億劫の感覚。ポケットから出すウェットティッシュ。それをつかむ手が弱弱しかった。
自分の手を見て、院長は笑う。
こんなにも弱い自分。
その惨めさに本気で笑うしかなかった。
だがウェットティッシュを一枚抜き、口元をぬぐう。弱くても、惨めでもだ。身だしなみは整える。吐しゃ物が口元についている上司など格好がつかない。
人はどんな相手にも強く見せなければいけない。弱い自分が強い覚悟をもつ。だけどもだ体は正直だった。綺麗にしたあと、ティッシュをつかむ手に力が入らなくなった。思わず落とす。
苦笑した。
全部に苦笑した。
力が多少戻り、新しいティッシュを一枚手に取る。それで口元をふく。拭い終われば、両膝立ちしたまま空を見上げる。下を見続ければ、また同じことの繰り返しになろう。
上を目指した視線、太陽が雲に隠れていた。地上全体が小さな日陰になっていた。
天気だけが変われる。人間は変われない
空の足元では、弱者があがいた痕跡があるというのにだ。その雄大すぎる比較対象。
思わず伸ばした手。つかみ、引きずり落とさんとする自分。できるわけがないし、現実は変わらない。事実を直視させられるようで、非常に腹が立つ。
上空にも。
世の中に対してもだ。
自然は日ごとに様子がかわる。晴れだったり、雲や雨や雪だってある。だが人間は変わらない。遠いどこかの誰かが犠牲になろうと、自分さえ無事であれば何でもいい。そういう奴らが人間だ。
そんな奴らが作る社会。それらを空に見立ててしまった。
院長の頬に濡れたものが触れた。水滴が生じた無機物の感触。見上げていた視線を横へとずらす。300mlの小型ペットボトルが見えた。同時に人の頬に押し付けている存在もだ。
常に意地悪そうに笑う男だった。いつも同じ格好をし、変化をもたない。いつものジャージ、上下紺色の服。中心をチャックで閉じる上着、だらっとしたズボンは清潔感はあまり感じない。
その男が院長の隣にたって、頬にペットボトルを押し付けている。
まとわりつく水滴が肌にひんやりと伝えてくる。
冷たかった。
買ったばかりと思わせるほどの冷たさだ。院長が思わず横目を向けた。見知った顔をとらえる。その瞬間ジト目となった。抗議するような表情にもなった。互いの視線があうと、相手はにこりと頬を歪ませる。
相手の表情はいつもと変わらない。
そこに苛立ちすら感じるほどだった。自分の苦境と辛さを前にのほほんとした姿。これらの比較に院長が感情を高ぶらせかけた。
だが穏やかさを等しく保つ
「浅田さん」
自然とか細くなった声が出た。我慢した弊害だろう。
冷たいペットボトル。頬に押し付けられて、肌が痛みを感じるほどになっていく。だからだろう。軽く指で押し返した。相手も抵抗する気がない。だから弱い力でもなんとかなった。相手の上着に水滴がつくほどの押し返し。
薄気味悪いさすら感じる、相手の笑み
浅田の様子は変わらない。
20代前半とも思える肌質。年を取ることすら忘れたと思うほどの肌。最初に出会った時と何ら変わらない。
こうして何時も通りを作り上げる浅田の姿に恐怖すら感じる。
だが恐怖ごときで院長は変わらない。
「浅田さん」
再び名前を呼ぶ。無機質な淡々とした口調。院長はすかさず次の言葉を継げようとした。
だが浅田が先んじてきた。院長の肌に再びペットボトルを押し付ける。今度は院長が抵抗する力を押し返してくるほどのものだ。八千代最弱での力では抗いきれない。そのまま押し付けられた。
冷たさと水滴。
不快な濡れた感覚と冷たさが肌を襲う中。
「うがいでもしたら?」
浅田の不意な言葉に院長が固まった。常識がない相手の気遣い。自分が吐いた後拭っても残るものがある。
匂いだ。
口内の気持ち悪さも今だ残る。胃液と薬などの複合した残り香があった。
肌に押し付けられたペットボトルに手を差し向け、素直につかんだ。浅田は素直に手放してくれた。だからか院長はキャップを開け、口元へ飲み口を運んだ。
水を口内に入れ、頬を膨らませる院長。軽くうがいをした。がらがらと音をたて、地面へと吐きだす。吐しゃ物とは違う側面側の地面へと吐き捨てた。
何回か繰り返し、口がすっきりとした感覚。
ペットボトルの蓋をとじて、握りしめる。
そのまま院長が見上げるよう浅田の顔をとらえた。伝えるべきことがあるからだ。用事がある以上、人との対話は顔を見てする。
「浅田さん、ロッテンダストさんが逮捕されました」
院長が東京からの使者、高梨の言葉をそのまま伝える。浅田が作り上げ、ロッテンダスト名義の会社口座。社長は暴力団の組織構成員だった商人。従業員は元スラム。そのスラムの中でも浅田が選んだ男、高梨の言葉だ。
信じるに値するかは不明。
しかし浅田は頷いて見せた。
そのうえで相手も口を開く。
「なんてことだ。ロッテンダストが逮捕されるなんて」
額に手をあてた男の表情は深刻そうなものだった。
白々しく感じもするし、初めて知った様子にも見える。相手の表情は良くも悪くも通常と変わらない。院長の観察眼をもってしても、答えはでない。嘘も真実も見えない。だから喉元から出かかる言葉を飲み込んだ。
貴方は今までどこにいたの?
その疑問を投げかけることはしなかった。院長は足元に広がる醜態があったからだ。追求されたくないこともあるから、追及もしない。
それがわかっているのか、相手は深刻そうな顔を一転。真顔となっていた。若干口元が緩んでいるけどもだ。嘲笑によるゆるみにも見えるし、そうじゃなくも見える。
強い憤りによるものを堪えた感じにも見える。どんな表情にも見えてしまう、内側が見えない人だった。
できうる限りの真面目な顔をした男。
その浅田が爆弾を落とす。
「元スラム従業員ね、高梨と社長を除き皆殺しにされたから」
目を大きく開き、珍しく感情を表情に乗せる院長。
理解が及ばない。軽々ともいえる内容ではない。状況把握に戸惑いが生じた。その後、頭が再起動したように言葉が理解できた。
途端に頭は真っ白になった。また胃からの逆流しかけてくる違和感も現れた。苦痛と気持ち悪さが同時に訪れる。それを必死に息を呑み、耐えていく。人前での醜態は晒さない。晒した跡があっても、実際の失態を見せつけたわけじゃない。
人間としての意地が院長にはあった。
「すぅ」
口元を再び抑え、深く息を吸う。掌と唇の間に隙間があり、そこから大きく喉へ空気を送り込む。頭をできる限り空っぽにもした。余計な思考が被害を生み出す。常日頃に培う無駄な思考。それらも今は封印。
無を意識。
表情も無を作っての、徹底した意識づくり。
そうして吐き気が収まっていく。
心臓の鼓動が早くなる。心の叫びが痛くなる。重圧が更にのしかかる。敵対勢力、強大な化物たちとの交渉への恐怖。
多くの挑戦と結果。その責任を担うのは常に院長。
誰かの仕事も、誰かの生きる環境も、誰かが与えてくれるわけじゃない。自分で切り開き、自分で形をつくって枠組みとする。
そうやって院長は立場を作った。
作った枠組みに、部下がいる。周辺勢力の植民地がいる。院長の成したことは、偉業だ。自分でもよくやったと褒めている。しかしながら、その偉業の裏には多大な血が流れている。だから素直に喜ぶことはない。
この部下が皆殺しにされた言葉は、自分の責任だと。思い込んでしまった。抱えるべきものではないが、必要以上に考えこんでしまった。
どうしようもない空虚な思いが心を支配。抑えた吐き気は再び顔を出す気配。必死に心を落ち着かせるよう、短い呼吸を繰り返す。院長は醜態を再度見せる気はなかった。
耐えても無表情。そう取り繕う院長の様子をうかがう浅田。先ほどの真面目そうな顔は一変、興味深そうなものになっていた。
顎に手をやり、見下ろす男の目線。
「苦しそうだね」
同情ではない。親切による相手への配慮でもない。事実確認をしただけで、院長に対してのやさしさなどではなかった。
この男は決して人を心配する奴じゃない。特に院長に対してはだ。逆に自分のものに対しては不自然なほどに干渉的。
最近では東京で雇用した人間などに対してもそうだ。いつもの浅田であれば絶対に受け入れない。少なくても院長の許可なしではだ。八千代の代表を蔑ろにして、勝手に物事を進めることはなかった。
「…いいえ」
間が空いたが、何とか喉から音を出せた。動揺と混乱からの思考の錯乱。それらを一時的にでも落ち着かせて、淡々とした態度を作った。
浅田は自分のものに対しては執着する。院長の観察した記憶からの推察だ。
自分のもの以外であれば関わることはしない。
そう思えば院長は浅田のものではない。
浅田とは独立した一人の人間。自分のために考えれる立場にあった。もう少し時間があれば院長の思考まとまるだろう。逡巡させた視線が浅田をとらえている。飄々とした態度だった。とらえどころもなければ、つかみどころすらない。
どこまでも純粋。
どこまでも過激。
なんとなく観察したうえで思った答えだった。
両膝立ちする自分と隣で直立する浅田。その姿勢の差が現在の立ち位置を示しているようだった。院長の立場はあくまで中途半端で、誰かの力によるものだ。八千代の武力も浅田が中心となって集まった。その武力の指揮権も浅田との契約によって与えられた。
誰かの力がなければ、院長は何も為せない。
弱いだけの人間だ。
弱いままでは、地方どころか一都三県でも悪意の餌食になる。その餌食を跳ねのける強さは院長自身にはない。
自立などしていないし、己の両足で立っているわけでもない。両膝立ち程度がお似合いだろう。
その点浅田は違う。全部自分の力で武力をそろえ、立ちむかう意志をもっている。院長の判断でも浅田は戦闘力がない。だが八千代の武力全部が浅田に敬意を向けている。だから何かがある。
知らないだけだ。
知らないだけで、この男は自分の力のみで生き、足で立っている。
誰かの介護で生きられる院長。
その残酷な事実を自覚している。その自覚が自己嫌悪に浸らせる。
そんな思いを知ってか知らずか、浅田は院長へ手を差し伸べた。心配するような表情になった男。その表情は嘘だ。間違いなく演技によるもの。
演技をしたまま、頬を緩ませる相手。
「院長の荷を下ろしてあげようか?」
優しく告げられた。院長と同じ目線になるよう軽く屈んでまでだ。
心にしみわたるような、甘さ。極大なストレス、精神的負荷による心の疲労。その疲労にしみわたっていく。孤立気味だった心を満たす、他人からの関心と同情。
差し出された手にゆっくりと手を伸ばす院長。それらの行動に浅田の優し気な微笑みが深くなる。
指と指が触れる瞬間。院長は答えを出した。元々答えはもっていて、悩む必要などなかった。
思いっきり叩いた。ばちんという音が自身の手から響く。相手はそんな凶行をされても驚きはなさそうだった。それどころか叩くことすら予想していた素振りだ。
「結構です」
叩いた手が赤くなり、肌がひりひりと痛みを訴える。
浅田の手を取ることは簡単。
頼ることも簡単。院長自身の荷を下ろすことも実は簡単。それをした際の今後もだ。全部わかっていて、答えた。院長自身にはどちらに転んでも不利益はない。しかし自身に不利益がなくても、必要以上のリスクを背負うことになる。
荷を下ろし、甘えれば。
浅田の物になる。きっと干渉的で過保護にされることだ。生命も自由も与えられることだろう。苦痛もなければ悲劇も少ないかもしれない。
そこには未来はない。自分が作る未来はなく、浅田の思い通りになるだけの玩具。責任も浅田が負うだけで、自分の人生の重みは背負えない。永遠に誰かに依存して、丸投げする人生。
そこには院長が守りたいものは反映されない。
守りたいものを助ける力が消える。院長が八千代の代表であるための責任を失う。責任を失えば、権力を失う。権力がなければ武力たちは従わない。周辺勢力からも院長が失脚したと判断される。二度と這い上がるための基盤はない。
一度失敗すれば終わり。
這い上がりしたとしても、見下す態度が周辺から向けられる。
そうすれば地獄が訪れることだ。安定させようとする周辺勢力も蜂起。植民地の独立から主流が鵺へと移る。八千代と鵺の対立構造によって起きた平和も消える。八千代が人間勢力だからこその、人間に対しての配慮も掻き消える。八千代がいるから、悪は人々を減らすのを抑えだした。
悪の人々への配慮は目をつけられないためのもの。八千代に、院長に目をつけられないための処置。
失脚すれば悪の時代が再び周囲を襲う。それらの現実を一人で背負っている。
これからも背負う覚悟はあった。
だから浅田の甘い提案を拒絶した。
両膝だちから無理くり立ち上がる。その際大きく両足は震える。緊張とストレス。一人で立ち上がることへの重圧があった。逃げたい心を押し殺す。下唇を無意識で噛み、握りこぶしを思わず作る。心の準備をする際の覚悟が体に現れていた。
大きく口から息を吸った。
息を吐き出す。深呼吸を繰り返した。
そして指を浅田へ向けた。
「あたしの責任は誰にも渡さない」
静かに告げる。何事も反論させない意志を言葉にのせてだ。断固とした態度を院長が向ければ、浅田は叩かれた手をようやくひっこめた。
「あはは」
浅田が笑う。愉悦の表情をもって声を出している。その様子を院長は慣れた様子で見ていた。
ひっこめた手で自身の顔を覆う浅田。額から鼻筋まで手で隠す。愉快気に頬が吊り上げられていく。
その変化の最中、指と指の隙間からみえる眼光。
どこまで貫かんとする眼光が院長の視線と衝突。視線同士の戦いに勝敗はない。院長は決して引くことはない。
「院長がそういうならね」
楽し気に笑う男。声だけは素直な楽しい感情そのもの。作られた表情はどこまでも残酷な嘲笑。弱者が油断をすれば、命と安全以外を失う危険な選択肢。
それを知っていて院長は啖呵を切る。
指を突き付けたまま、無表情で吐き捨てる
「黙って見てて下さい」
その院長の覚悟を見て、浅田の様子は愉快気なままだった。予想通りといった反応だった。院長も浅田の様子が予想通りだった。
お互いがお互いに予想をたてて、当てた。
そうして院長は次のステップへ進む。浅田は院長の覚悟を問うた後、踵を返した。今回の浅田の行動。牽制のようなものだ。院長が責任放棄しない確認。および圧力をかけられたようなもの。逃げても安全と命は保証されるが、それだけの人生になる。だが逃げない限り、浅田と対等である。仮初の権力だとしても、院長の手元に部下がいる。
それを院長自身に再認識させるためだろう。
知っているし、逃げる気もない。
権力があれば、武力があれば、どうとでもだ。
だから院長はあがき苦しむ道を進む。トランクを開け、車からスコップを取り出した。吐しゃ物を土壌ごと救い上げる。救ってひっくり返す。表向きの隠ぺいをした後、足で踏む。何回か踏み鳴らした。そのあとは手に持った水をスコップにかけて、土を流した。
濡れたまま車へしまう。
浅田が去って、数分後。前髪に赤メッシュが入った女性がやってくる。恐る恐るといった態度で院長をうかがってくる。東京へ送り込んだ戦力。護衛対象が激減したため、浅田が戻したのかもしれない。そうなるとロッテンダスト逮捕も知っていた可能性。
ロッテンダストが戻したのかもしれない。
真相は闇の中。
「ちょうどよかった」
院長は慣れ親しんだ相手を手招き。ゆっくりときた相手が自然と足を止めた際、肩越しまで自分の顔を近づけた。
自分の顔の影が赤メッシュの肩を覆った。
耳元でささやく。
「数日で全部収める、誰にも邪魔はさせない」




