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後編 ReSTART

「はじめまして」


 あの『部屋』を出て。彼女は最初にそう言った。


 ……言葉が出なかった。私は、私も、彼女に忘れられたのか。それは、つまり。


「……これで全て終わり、ということですか」


 私はそれをしたくないと思っているのか。知っているのに覚えていないこの少女に、そのような思い入れは無い……無い、はずだ。


 少女はきょとんと目を丸くした後で、声を上げて笑った。


「何言ってるんですか? はじめまして、は始まりの言葉ですよ?」


 甘やかな声で、弾むように言う。


「え、でも、忘れた、ん、ですよね?」

 戸惑いが勝って、そんなぶつ切れの言葉になる。


 んー、と少女は小首を傾げて、いまだ繋いだままだった手を軽く掲げてみせた。


「忘れたことは、たった今差し引きゼロになったので」


 良くわからない。けれど、私を完全に忘れたわけでは無い様子だったので、それならどうして『はじめまして』なのかと訊けば、彼女は笑って答えた。

「貴方にとって、今の私は見知らぬ誰かなんでしょう? だから、はじめまして。これからもよろしくお願いします」


 はい、よろしくお願いします、と返しながら思う。喜んでいる、のだろうか、私は。……わからない。わからない、けれど。


 彼女のことは、嫌いではない。と、思った。




 私の親友も含めた3人で集まることが増えた。外見や言動で誤解されることが多いが、これで彼は面倒見が良い。


 それで……前後の流れはあまり覚えていないのだが、私が彼女の甘すぎる声が少し苦手だいうことを伝えると、彼女はふらふらと出て行ってしまった。


「……彼女のこと、お願いしても良いですか?」

 唯一の――いや、たぶん彼女も含めてふたりなのだろうが――友人に依頼する。


「心配なら自分で行きゃいいのに」彼はそんなことを言うが、

「今私が行っても逆効果でしょう」私は笑って返す。


「……そこまでわかってんなら、なんであんなこと言ったんだか」

「思ったことを正直に伝えないのは不誠実じゃないですか。ただでさえ、彼女との関係性は薄れているのに」


 私の中に残っているのは、彼女とはまるで重なることのない『あのひと』の印象だけで。どう関わるのが正解かわからない。


 何故かため息をつかれた。

「お前さ。それ、濃くしたい、ってふうに聞こえんぞ?」

「……そうなんでしょうか?」


 そして繰り返されるため息。何故だろう。


「ま、いいや。とりあえず行ってくる」


 頼りになる友人を見送って、私は私と向き合うことにする。


 彼女は過去を語らない。


 私が何を訊いても、返ってくる答えはいつも同じ「内緒です」だった。私の中に残っている『あのひと』と彼女の印象が一致しないのだから、ただの情報をいくら詰め込んでも無駄だろう、と。

 納得できない話ではなかったが……そのせいで、いまだ彼女を何と呼んで良いのかわからずにいる。とりあえず愛称に『さん』をつけて呼んではいるものの、きっと以前のそれとは違うのだろう。それくらいは、見ていればわかる。


 私の呼称についても、少しよそよそしい感じがするので、友人の彼と同じように呼んでいたのではないかと訊いてみたのだが。


「貴方がそう呼んでほしいのなら、そうします」

 と、これが返答だった。


 そちらの方が違和感が無いようには感じるのだが、強いてそうしてほしいのかと言われると、そこまでではない、という結論に至る。


 どうにも、噛み合わない感じだ。けれど、何をどうすれば良いのかはわからない。以前の私なら……と、考えかけたが、やめる。

 今ではなく、過去に目を向けるのは、彼女に対して失礼だ。


 不誠実とか、失礼とか。私が考えるのはそういう、否定的なものを否定する類ばかりで。思考を廻らせれば廻らせるほどに、前だけを見ている彼女との差異ばかりが目に付く。


 感情の温度が違う。想いの色彩が違う。


 ――私と彼女は、どしようもなく、違う。


 無理に関わろうとしても、軋轢あつれきばかりが生まれて、噛み合わない歯車のようにぎしぎしと音を立て、きしむ。たわむ。そしてついには砕けて壊れてしまうのだろうと容易く予想できた。


 それなのに、どうして、彼女は……


「――私も、ですか」


 ため息をつき、掌を見る。彼女がきつく握り返してくれた掌。私は未だ、その感触と熱を手放せずにいる。




 一週間が過ぎても、何が変わることもなかった。


 ただただ、彼女に対して申し訳ない気持ちばかりがおりのように溜まって、澱んで、誰にも気づかれないままに、腐敗してゆく。


 ただただ、表面上を取り繕うだけの、寒々しい会話が上滑りして……


 大きく、深い、聞えよがしなため息に、ついに彼女を失望させたのか、と慌てて見遣れば、彼女も驚いた顔で私を見ていて。

 ふたり揃って、残るひとりへと視線を転じる。


「お前らさぁ」

 赤毛の友人の、呆れ果てた、という態度が意外で、思わず彼女と顔を見合わせる。私と同じ感情を抱いているであろうことが見て取れた。

 彼女はそうではないのだろうな、と作り笑いばかりが巧い自分を顧みて、また申し訳なく思う。それでも、他の表情は上手に作れない。


「この際だから、知り合い全員が思ってることを教えてやるよ。

 ――いーからさっさとくっつけ。」


 付け加えられたひと言は、少し彼らしくなかったから、他の誰かの受け売りなのだろう。それでも、それを言ったということは、彼自身も同じように思っているということか。


 ――彼の言葉でも、到底受け入れられるものではないけれど。


「私なんかに彼女はもったいないですよ」

 いつものように笑って、やんわりと否定するのに「――なんか?」と、彼女が眦を釣り上げた。なんだろう、と小首を傾げる私を睨む彼女に、以前の私なら、と何度沈めても浮かび上がってくる思いがあった。それに重石をつけて、また心の奥底に沈める作業は、死体でも隠すかのようだった。


「呑み込むなよ」


 不意打ちに差し込まれた言葉に、笑顔の仮面が僅かに歪む。他の誰かにになら隠し通せたであろうそれも、しかし彼女には気取られてしまったようだ。

 彼に関しては、まぁ、驚くほどのこともない。なにしろ私の笑顔を作り笑いと見抜いたひとだ。


「お前もいい加減、傷を負わせる覚悟くらい決めろ。負わされる方の覚悟はとっくに定まってんだから」


 なるほど。と、妙に納得してしまう。消極的な私は彼女を傷つけることを恐れ、対照的に彼女は、望むものを得るためならば、自分が傷だらけになることですら許容するのだろう。


 ――それでも、私は……


「……以前の私なら、彼女の想いに応えることができたんでしょうか」

 押し込めようとしたそれが、とうとう口を突いてしまう。吐き出した言葉は呑み込めず、浮かび上がった亡骸は腐臭を放つ。

 やはり私は、彼女のようには……


「――はい?」

 けれど返されたのは、そんな音の外れた疑問符で。


「……えっ?」

 私も同じく、疑問を発すると……彼女の、笑い声が弾けた。


 それはそれは楽し気に、声を上げて、お腹を抱えて笑っている。それは澄ました顔よりもずっと魅力的なものに私の目には映った。


「いや、えっと……」

「そっか、なるほど、そうなんですね。これは確かに、何も変わってない」

「だから言ったろ?」

 戸惑うばかりの私とは対照的に、彼女と彼は納得を得た様子だった。


「ねぇ、貴方は私に対して、同じ想いを返せない、同じ熱量で応えられない、同じ色彩で向き合えない――そんなふうに思っているんでしょう?」

 得意げに、詠うように、彼女が語る。私がまさに、考えていたことを。


「なんで……」

「それ、貴方が言う、前の貴方そのままですよ?」


 答えを聞いて、ますますわからなくなる。前の私が巧くやれていたのかと思えば、まるでそんなことはなかったらしい。なのに、何故、彼女は……


「とりあえず、私から貴方に言うべきことはひとつです」ぴっ、と私に指を突き付けて、彼女は言った「私の初恋のひとを悪く言ったら赦しませんよ」


「――えぇと……それは前の私、今の私、どっちのことです?」

 ぱちぱちと目を瞬いて問う私に、彼女は決まっているじゃないですか、と胸を張る。肩をそびやかし、自慢げな笑みを浮かべて。


「――どっちもです。」


 失われた記憶は戻らない。知っていた彼女のことは、何ひとつとして覚えてはいないし、記憶にこびりついた『あのひと』と、彼女が重なることはない。


 なのに、何故か確信できた。居た、という記憶しか残っていない『あのひと』は、きっとこんなふうに笑ったのだろうと。


 だから、私は。


 彼女の名を呼ぶ。勿論愛称で、敬称などは付けずに。


 そうして、伝えた言葉は……私と彼女だけの、秘密だ。




 ……などとカッコつけようとした私は、何かを吐き出しそうな顔をしている友人の存在に気づくのだった。


 うん。実に締まらない。

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