中編 ReSET
結論から言うと、私の方が正解だった。
一番大切なもの――彼への恋心を、私は忘れた。
いや、忘れてしまったのだから、はっきりそうだとわかったわけではないのだが、彼がそうしたように、状況や残された記憶から類推した結果だ。
とりあえず、忘れたものが彼への恋愛感情だ、という仮定で話を進める。
それ以外のことを、私は全て覚えていた。これまでの彼との関わりや、あの閉じた部屋であったことの全てを。
帰還を果たした私が、最初に意識したのは掌の感触だった。どうやって『部屋』を出たのかはわからない。まるで夢から覚めるように、彼と私は街中にいる自分たちを自覚した。
きょろきょろとせわしなくあたりを見回す私とは対照的に、彼はゆったりと視線を巡らせている。マイペースだなぁ。
道行くひとたちが、手を繋いで立ち尽くす私たちのことを怪訝そうに見遣りながら通り過ぎていく。見知った街並みにいくばくかの安堵を得て、左手の感触へと意識を戻す。
記憶を失うことに怯えていた私の手を握ってくれた、私の9倍もの記憶を失くした直後の少年の掌。今更だが、それは意外にも骨ばっていて、ちゃんと男の子の手だった。当たり前なんだけれど、当たり前と言い切れないあたりがこの美人な少年のややこしいところだ。
その予想外に頼り甲斐のある掌が、私の不安を祓ってくれる。
ひとことで言うならば……惚れ直したのだ、私は。まさに、言葉通りの意味で。賢いのに愚かで、優しくないのに優しくて、強いくせして弱い、矛盾だらけのその在り方に。
――こんなひと、とても放ってはおけない。
かつての私が好きにならなかったとは到底思えないから、きっと忘れたものはそれだろうと、私は納得する。
失われた記憶は喪われたままに、私はもう一度彼に初恋をした。
これで、失くしたものなど無かったも同然で。もう私の勝ちは決まったようなものだった。家に帰ってのんびりお風呂にでも入るとしよう。
「――そんなふうに思っていた時期が私にもありました……」
数日後。私は自室の机に突っ伏していた。
「誰に向かって言ってんだよ……」呆れた様子の呟きに、
「誰にともなくぼやいてます」ため息交じりに応じる。
机の上の頭を傾けて、言葉を交わした相手を見る。心配して様子を見に来てくれた、『彼』の親友にして私とも友人関係にある赤い髪の男の子。
男の子、という表現が非常にしっくりくる人物だ。やんちゃで、無遠慮で、けれどとてもまっすぐで。主人公気質、とでも言えば良いのだろうか。私と彼にとって、ヒーローと言われて真っ先に浮かぶのがこの赤い髪だった。
「……なに?」
ぼやっ、とその赤毛を見ていると、怪訝そうな声がかけられる。
「いえ、一般的な価値観では、貴方ってかなりの優良物件だよなー、と。」
でも、私が焦がれた相手は「なんだそりゃ」と苦笑しているこのひとではない。私が欲しいのは、心から希うのは、綺麗で儚いあのひとだ。
「なんで貴方じゃダメなんでしょうねー」
そんなことを他意無く言ってしまえるくらいに気安い存在は、私の発言を鼻で笑った。このひとと私は異性の友人でしかない。
私と、このひとと、『彼』と。仮に三角形を描いたとしても、矢印が集中するのは私ではなく『彼』だと思う。
このひともたいがい大好きだからなー、『彼』のこと。
「計算式が成り立つ時点で、そりゃお前の欲しいもんじゃねーだろーがよ」
「おぉ。珍しく頭良さそうなセリフ。」
「お前オレをなんだと……てか、お前の受け売りだからな、今の。」
軽口をたたいたつもりが自画自賛だったらしい。ちょっと恥ずかしい。
「んで、どした? いきなり『ちょっと風に当たってきます』なんて言ってふらふら出てくから、アイツも心配してたぞ」
「だってぇ!」ばん、と机を叩く「チャームポイントだと思ってたものがまさか減点対象だったなんて、そりゃあ自分を見つめ直したくもなりますよ!」
ばんばんばん、と机に連撃を加えながらほえる。イメージは仔犬だ。脳内私はきゃんきゃん鳴いていた。
ことの発端は関係の修復……いや、どちらかと言えば再構築か、それのために3人で『彼』のところに集まっていた時のことだ。
存外面倒見の良い我らがヒーローの提案で、私たちが記憶の一部を失くして帰って来て以降、3人で集まることが増えており、今日も同様だった。
そして……えぇと、動揺のあまり前後の流れはあまり覚えていないのだが、『彼』はこんなことを言ったのだ。
「可愛らし過ぎて、正直私は苦手です」
……と、私の声を評して。
自分の表情が固まる音が聞こえた気がした。
「チョット、カゼニ アタッテ キマス」
かろうじて覚えているのは、そう呟いたこと。
気が付くと私は自室の机で溶けていた。
「あうぅぅぅ。あのひとが可愛いって言ってくれたから、頑張って声のトーン上げてたのにぃ……」
逆効果とか。ウケる。いやウケない。泣ける。
「あぁ。それで最近若干キモかったのか」容赦の無い死体蹴りが炸裂。
「キっ……!」
あまりの暴言に、言い返そうとした言葉が詰まって猿の鳴き声みたいになった。犬だったり猿だったり忙しいな、私。
ひとり犬猿の仲。あながち間違っていない気がした。それくらい、最近の私の内面は不安定だ。自分の中の自分といつもケンカしているような。
……違うか。争っているのは、『彼』の中の『私』とだ。
「恋する乙女になんてこと言うんですか……」
あれこれ考えていたら、苦情はしおれてしまっていた。
だって。『彼』もそんなふうに思っていたのかも、なんて考えてしまうと、もう……あ、ヤバイ、ホントに泣きそう。
「アイツはそこまで気にしてねぇと思うぞ」
変なところで察しの良い赤毛が言う。
「それはそれで微妙です」
私なんて眼中にないみたいで。
「お前はどうしてほしいんだ」
愛して欲しい。もちろん、『彼』に。
考えて、『彼』ほど『愛』という言葉が不似合いな人物もいないな、と思う。誰にでも優しい『彼』は、誰に対してもそういう強い感情は抱かない。誰にも彼にも拘らない。
その唯一の例外が、親友の彼だけだとずっと誤解していた。
私も例外の中に含まれている、と気づけたのは、何もかもが手遅れになってからだった。『彼』の中に――心の中心にほど近い部分を占有して居る『私』は、この私とは別のナニカだ。
「自分自身が恋敵なんて、笑えない冗談です」
しかも記憶のほとんどが失われたせいで、とんでもない補正がかかっている。もう本当に、それなんて女神様、とでも訊きたくなるくらいに。下手をすれば親友の彼を躱して大事なひとのトップに躍り出ているんじゃあないだろうか。
「冗談じゃなくて現実だからな」だから容赦ぷりーづ。
「……あんなに想われていたなんて知りませんでした」
「ま、それに関しちゃわかりにくいアイツが悪い」
「気づけなかった私のせいですよー……」
返す言葉にも覇気がない。
「いや、人間関係で一方的にどっちかのせい、ってこたねーだろ」
「……ですね。だから『彼』がわかりにくいのだけが悪いわけじゃないです」
真理を告げると、何故か呆れた顔をされた。
「お前、どんだけアイツのこと好きなんだよ?」
言われみて思う。そう言えば、どれだけ、というのは考えたことが無かった。
「――そうですね、『彼』と『彼以外の総て』の二択を迫られて、迷わず……は、さすがに無理ですが、迷った末に『彼』の方を選ぶんだろうな、と思う程度には」
「それを『程度』とか言ってんじゃねぇ。重いわ。」
苦笑されたが、私はワリと本気だった。
「だって。『彼』はその二択で一切の躊躇なく『自分以外の総て』の方を択ぶひとでしょう? なら、私ひとりくらいは『彼』の方を選んであげないと。可哀想じゃないですか」
「……いや、ひとり、ってお前…………」
「貴方は両方とか言い出すひとじゃないですか、前提条件完全無視で。三者三様で、良いバランスですよね、私たちって」
上体を起こして、私は笑う。『彼』の綺麗な微笑みをお手本にした表情で。
赤毛の男の子は、ため息をひとつ。それと同時に力も抜けた様子で言った。
「かもな。んで、お前が一番強いわ」
――私は貴方こそが強いと思うけれど。
本心は心の内にだけ留めて、私はどうだ、とばかりに発展途上の胸を張った。
「まぁ、恋する乙女は最強ですからね」
ははっ、と彼は笑い、冗談めかして言う。
「それで? 最強の恋する乙女はここで諦めやしないんだろ?」
「まぁ、それは当然なんですが」
「当然なんだ。いや、知ってたけど」
「問題は補正マシマシの過去の『私』にどう勝利するか、なんですよねぇ」
正直勝ち筋が見当たらないんですが。
「ま、なんとかなるんじゃね?」
考えないひとは気楽にそんなことを言ってくれる。
「またなんの根拠も無くそんなことを……」
「――え? あるけど。」
「……はい? 何が?」
「根拠。」
「…………えっと、おうかがいしても?」
「なんで敬語。いや、お前らいろいろ忘れたって話だけどさ」
えぇ、はい。そりゃあもう、いろんなことを忘れましたとも。
「ぶっちゃけ前とあんま変わんねーぞ、どっちも。」
「………………はいぃ!?」
盛大に声が裏返った。
「うん。アイツが悩んでることも、お前がアイツのこと好き過ぎて暴走することも、どっちも見慣れた光景すぎて、お前らいったい何忘れたんだ、って感じなんだが。マジで忘れたの?」
「……えぇー」
出て来たのは、そんな音だけだった。
いや、でもそれでどうしろと。
結局。何をどうすれば良いのかはわからないままだ。
シリアスブレーカーふたりとか強すぎじゃね?
ラストは『彼』に飾ってもらいましょう。