前編 LOST
私は目を覚ます。
最初に目に入ったのは、白。無垢、というよりも、白々しいと感じる色彩は、そこに壁があるのかどうかも曖昧にさせる。
いや、自分が今寝転がっているのだとしたら、視界内のそれは天井だろうか。寝起きのぼんやりとした頭で考え、漫然と視線を廻らせて――見つけたものに驚いて、飛びのいて。
……ベッドから落ちた。
結構痛い。などという程度の話ではなく、硬い床に打ち付けた半身を抱えて悶絶する。声を殺すのは、眠る彼を起こさないように、だ。
彼。そう、すぐ隣、同じベッドに寝かされていた、私の想い人だ。
――考えてもみてほしい。ある日ある時目覚めると、好きなひとの寝顔が吐息がかかるほどの距離にある衝撃を。ただしふたりは恋人関係には無いものとする。
そりゃあベッドから転げ落ちるくらいはする。私だってする。
のそのそと身を起こせば、そこには穏やかな寝息を立てる彼の姿が。相変わらずの美人(男)だが、眠っているとあどけなさがより強く出て、まるで天使のようだった。
最初は美人過ぎて苦手だった彼の顔が、恋心を自覚した今ではいくら眺めていても見飽きる気がしないというのだから、我ながら現金なものである。
――念のために、一応言っておくが、私が攫ったわけでは断じてない。先程の私の無様な驚きぶりを証拠として提出しよう。
「さて、と。いつまでも見とれているわけにもいかないですね」
名残惜しいが、彼の寝顔から視線を切って、思考を切り替える。
――彼が起きるまでに、状況把握くらいは済ませておこう。
………………まぁ、状況把握、などと言ってみても、大したものは無かったのだけれど。有るのは私と彼が寝かされていた……
深く考えるとまた赤面しそうになって、慌ててぶんぶんと頭を振って邪念を追い散らす。とにかく、その……寝台以外にはテーブルがひとつと椅子が一対、そしてテーブルの上には小瓶が10と紙片がひとつ。それだけだ。
此処は……白い部屋、と言って良いのだろうか。なんとなく密閉空間な気がするだけで、窓も無く、扉も、それとわかるものは存在しない。
まともな情報源は紙片だけなのだが……
『此処からは通常の手段では脱出できません。
帰還の代償は貴方がたの記憶。
相手の記憶を破棄することが条件です。
この薬を1本飲むごとに、10分の1の記憶が消えます。
どちらを残し、どちらを捨てるのか。どうぞ、後悔の無いご決断を』
そこに書かれていたのは、そんな胡乱な文面だった。
「ふむ。」
他には何も無さそうだ。よし、とひとつ頷いた私は、彼の寝顔の鑑賞に戻るのだった。
彼は結構すぐ起きた。残念。
「おはようございます」
私がそう声をかけると、彼からもどこかぼんやりとした「おはようございます」が返る。存外朝は弱いのだろうか。いやそもそも今が朝なのかどうかも不明だが。
「あれ?」
彼がきょとんと私の名を愛称で呼び、小首を傾げる。
この呼び名を勝ち取るのにも、随分苦労したものだ。彼はずっと頑なに、誰も愛称で呼ぼうとはしなかった。ただひとり、彼の親友を除いては。
わりと真面目に彼の親友の彼が私の最大の恋敵だと思っていたりした。もう何言ってるのかわからないけれど、そうなのだ。
「えっと……どういう状況なんでしょう?」問う彼に、
「こういう状況みたいですよ?」件の紙片を見せて私は答えた。
「……これはなんとも、キツイ対価ですねぇ」
紙片を読み終えた彼は、笑顔でそんなことを言う。
彼を良く知らない頃なら、これが本心からの言葉とは思えなかったかもしれない。彼はいつでも、どんな時でも穏やかに微笑みを浮かべている。
この綺麗な微笑を、作り笑いと断じることができたのはひとりだけだ。
――それはそれとして。
「え? そんなにキツイですか?」
私は軽いものだと思っていたので意外だった。
「――え?」
彼がぱちぱちと目を瞬くが、何を驚くことがあるのだろう。
「貴方が全部飲めば解決、じゃありません?」
そもそも、この組み合わせ自体がミスキャストと言わざるを得ない。彼と私は恋人同士などではなく、単なる私の一方的で一方通行な片想い。
彼としては相手役が親友の少年であった方がよほどキツイものだったはずで、私が選ばれる理由なんて、性別が異なっていたから、くらいしか思いつかない。
異性の中では一番マシな相手だったのだろう。
だから。択ぶのは、彼に一度全部忘れてもらう、だ。その程度で変わる攻略難易度ではないだろう。
「だって、私の方がずっと貴方のことを好きですから」
胸を張り、どうだ、とばかりに笑ってみせる。
想いの重さを比べれば、この選択は必然だ。それに何より、
「例えば、ですよ。貴方は自分の記憶と、親友の彼の言葉だったら、どちらを信じますか?」
「彼の言葉ですね」
軽くヒクくらいの即答だった。いや、いーんですけどね。慣れてるし。
「だったらそれで問題解決じゃないですか? 彼のことは忘れないんですし」
私のことを忘れたとしても、親友の証言で確信が得られるのだから。
「んー……」
なのに何故か、彼は考え込んだ。
「何か良い方法でも思いつきましたか?」
との私の問いに、彼は「いえ」と首を横に振る。
「ひとつだけは、貴女にお願いしても良いですか?」
「え。意外なお願いですね」
正直な私の感想に、彼は苦みが隠し味程度にしか感じられない苦笑を返す。
「どうしても、忘れたくないことがあるので。それに、貴女の1割くらいなら、私も貴女のことが好きだと思うので」
好きだと言われて――私の1割だとしても相当だ――舞い上がりそうになるのをどうにか堪え、冷静に会話を続ける。
「いや、まぁ、私も無理を言っている自覚はあるので、それくらいなら構いませんけど……でも、そう都合良く、忘れたくないことだけ残りますかね?」
そう、それが最も大きな問題である。この悪辣な仕組みの中で、そうそう望んだ結果が得られるものかと。
けれど彼は自信ありげだった。
「可能性は低くないと思いますよ? 強い想いであれば、そうそう簡単には消せないでしょうし。ん……じゃあ、こうしましょう。まず私が9本飲んで、忘れたくないことが残っていたら、最後のひとつはお願いします」
「……まぁ、落としどころとしてはそのあたりですか。あ、もしもそれが毒だったりしら、貴方の唇に残ったそれを舐め取って、私も一緒に死んであげますね?」
有名な戯曲の結末を引用すれば、彼は苦みの足りない苦笑でぼやいた。
「縁起でもない……」
そして彼は、迷いの無い態度でひとつ目をあおった。
……ほら、やっぱり私の記憶なんて、軽いものだ。
「――どうです? 何を忘れました?」
私を1割忘れたはずの彼に問えば、彼は笑って答えた。
「いや、忘れたんですから、それが何か、なんてわかりませんよ。冷静さを欠いているみたいですね。いつもの貴女なら、言われずとも気づいたでしょうに」
そりゃあ、好きなひとに忘れられていくのに、冷静でいられるわけがない。けれど今のひとことで、彼が『いつもの私』を認識できる程度には覚えていることがわかった。
――1割なんだから当然か。やっぱり冷静じゃないですね、私。
それでも、彼が薬を一本飲むごとに、様子を尋ねずにはいられない。
「あ。今忘れたものはわかりました」
彼が目を瞬いてそう言ったのは、3本目を飲んだ後だった。
何を。どうして。どちらを問うべきか迷っている間に、彼が続きを口にする。
「――声。貴女の声が、記憶の中の貴女と結びつきません。こんなに可愛らしい声でしたっけ、貴女って」
可愛いと言われて舞い上がってしまった私は、愚かにも気づくことができなかった。今、彼が言った内容の危険性に。
だからそのまま、彼は薬を飲み続ける。
飲んだ薬が5本を数えた時に、私の呼び名が愛称から『さん』付けのフルネームに戻る。小首を傾げ、どうして一緒にいるんだろう、とでも思っている様子だ。
結構きついな。あぁ、私も彼の呼び名を友達だけに許された特別なものから、皆が呼ぶそれに戻さないと……などと、呑気にも考える。
だって、呼び名以外はほとんど態度が変わらなかったから。だから、私は、彼にとっての自分がその程度のものなのだと、思い込んでしまった。
8本目を飲んだ後で訊いてみる。
「忘れたくないこと、覚えていますか?」
「――はい。はっきりと。」
微笑む彼の表情は、いつものそれとはどこか違っているように見えて。
そして。9本目が、飲み干される。
「……忘れたくないこと、覚えていますか?」
それは、言葉だけは8本目の時と同じ問い。それに、彼は。
「……大切なひとが、いたんです。絶対に、忘れたくないひとが。私が私を諦めようとした時に、私の代わりに怒ってくれたひと……なのに、そのひとのことが何も思い出せません。
どんな声をしていたのか、どんな顔だったのか、年上か、年下か、そもそも男性だったのか女性だったのかすら、何も……」
いつのように微笑んで、言った。
自分のバカさ加減に眩暈がするようだった。
私が思うよりもずっと、そして彼自身が考えていたよりもずっと、彼は私のことを想っていてくれたらしいと、そのことに、まさにその想いが失われてしまってから気づくなんて、度し難い大バカだ。
泣くな。私は私にそう命じる。
哀しいのは彼で、私じゃない。そもそも彼をこうしてしまった私に、涙を流す権利などがあるものか。
意識が内に向いていたためか、それとも彼の所作があまりに自然だったからか、危うく彼が手に取るところだった最後の1本を、ひったくるように奪い取る。
「何を考えているんですか!?」
思わず、叱りつけるような声が出た。
「いや、これかなりキツイですから。見ず知らずのひとに押し付けるのはいかがなものかと思いまして」
見ず知らずのひと、という部分にショックを受けている余裕などは無かった。「そのキツイものの9割を押し付けたのは私ですよ!?」と、悲鳴のような声を上げる。
すると彼は、少し考えた後にこう言った。
「――貴女があのひと、ですか?」
あまりの衝撃に、私は口をぱくぱく開閉するだけで、声も出ない。
「いえ、それなら貴女と私がここで一緒にいる理由も、私が薬を9本飲んだ理由も説明がつくな、と。
でもごめんなさい。記憶に残るあのひとと、貴女の印象がどうしても一致しなくて……なんというか、まるで実感がわかないです」
――本当に、バカだ、私は。声の時に、この可能性に気づくべきだった。気づいて、2本を私が受け持っていれば、こんなことには……
今、私の手には最後の1本となる『彼のことを忘れる薬』が握られている。
正直に言う。私は、これを飲むのが怖い。
彼が言うように、大事なことが残るのならば良い。けれど、全て同じに見える薬の1本1本に対応する記憶が決まっているとすればどうか。『コレ』だけを飲まなかった彼の中には、私ではない『私』だけが遺された。
……では、『コレ』を飲んだ私は? 彼への『想い』それだけを忘れないと言い切れるだろうか。『コレ』を飲んだ後でも彼を好きでいられるだろうか。
怖い。けれど、彼にここまでさせておいて、逃げるなんて論外だ。
と、そこで、薬を持っていない方の手が取られた。
私は驚き、彼の顔と、私の手を握る彼の手との間を、何度も視線で往復させる。
「不安そうだったので」
そう言って微笑む彼に、安堵する。こわばっていた全身から力が抜けた。
私が好きになったのは、こういうひとだ。
優しくて、でも自分のことには無頓着で、傷を負うことに躊躇の無いその在り様が痛くて、けれどどこまでも愛おしい。
最後の1本まで自分で飲もうとした上に、9本を飲ませた見知らぬ私のことを気遣うのだから、どうしようもないバカだ。頭は良いクセに。ばーか。
大丈夫。たとえ忘れたとしても、何度だって好きになる。
目を閉じて、この状況を用意した何者かに向けて告げる。
『覚悟しろ。恋する乙女は最強だ。絶対に、幸せな結末を手繰り寄せてみせる』
そして、私は。迷いを振り切るように、小瓶の中身を一気に飲み干した。彼の手を、ぎゅっと握ったそのままで。
全3話、ないし2話を予定しております。
次は帰還後の話。