人気のある屋敷
都会の一等地に立つ大きな屋敷を、エヌ氏は満足げに眺めた。
「さすがでございます。この屋敷、数百年の歴史と言えど、あなたほど似合う方は他におりません。」
不動産屋のあからさまな営業トークを、エヌ氏は素直に受け取っておくことにした。
「うむ、だろうな。きっとこの屋敷も俺が来るのを待ちわびてきただろう。」
エヌ氏のほうはというと、この屋敷を自分のものにするのを、もう何年も待ちわびていた。
「この屋敷は素晴らしいです。立地、大きさ、庭、格式……。どれを取っても私どもが自信を持ってお勧めできる歴史ある邸宅です。」
「その通りだろう。なにせ、俺が五十年前から目をつけていた屋敷だからな。」
この屋敷は成功の象徴だった。エヌ氏は、この屋敷をずっと外から眺めて育った。小学校から高校まで、毎日この屋敷の前を通って勉学に励んだ。就職してからも、苦しいことがあるとこの屋敷の前までやってきて、自らの目標を思い出した。
「しかしですね、1つだけ難点がありまして……。」
「なんだ、言ってみろ。」
エヌ氏は、まるで自分自身に難点があると言われたかのように感じた。彼にとって、この屋敷は彼の人生すべてであり、ほとんど彼自身と言っても過言ではなかったのだ。
「この屋敷には、夜な夜な霊が出るという言い伝えがありまして……。」
「ほう、どんな話だ、聞かせてみろ。」
「はい。なんでも、屋敷で主が楽しそうにしていると、鏡や水面、食器の盆などに、その場にいないはずの者の顔が見えるのだそうです。」
「ほう、それは興味深い。ただいないはずの顔が映るだけなら、訪れるお客さんを喜ばせる、新しい見世物にできるかもしれないな。」
半世紀も厳しい競争社会を生き抜いてきたエヌ氏なのだ。心霊話を聞いたくらいでひるむような男ではなかった。
「いえいえ、そんな楽しげなものではありません、その顔はとても憎しみと嫉妬に満ちた恐ろしい顔をしているそうです。なんでも、その顔を……」
「その顔を、三回見たものは死ぬのだろう?」
エヌ氏の言葉に不動産屋は目を丸くした。
「……驚きました。ご存知でしたか。」
「もちろんだ。銀食器、水面、鏡に映る『いない者』の顔を三回見ると死ぬ、という迷信だ。」
幼いころからこの屋敷のことばかりを考えて育ったエヌ氏にとって、その迷信は常識を通り越して、DNAに刻まれた、本能に近い当然の知識だった。この話だけではない。他にも「この屋敷で寝る者はみな、ベッドで死ぬ」というものもあった。子供の頃は素直に信じていたが、大きくなってからよく考えると、金持ちはたいてい自宅で療養して死ぬから、みな同じようにベッドで死ぬのだ。おおかた、「お泊りに行って枕投げでもして高価な家具を壊したらおおごとだ」とでも考えた親たちが考え出したのだろう。
「俺は自分の目で見たものしか信じない。もし本当にそんな霊がいるのなら、ぜひ見てみたいものだな。」
自分で見るまでは信じない――それは、エヌ氏が現代社会を戦い続けてきたことから得た教訓だった。「工場が燃えてもうどうしようもない、八方ふさがりだ」という部下からの話を聞いた時も、実際に自分の目で見に行って考えてみれば、何とか解決できるものだった。
「さて、そんなくだらない話は終わりだ。いつから入居できるのだ。」
エヌ氏は仕事をするときのように鋭い目つきでそう言った。つとめて不機嫌さは見せないようにしつつも、「これ以上その話をするな」という強い意思を感じられる、成功者らしい芯のある目つきだった。哀れな不動産屋は従うしかなかった。しかし同時に、彼は少しほっとしていた。これで、「太い客を逃した」と、上司に怒られる心配もない。
「はい、家具や食器なども今までの主から脈々と受け継がれたものがそのまま保管されておりますし、我々が定期的に隅々まで掃除も行っておりますますので、今夜からでもご入居いただけます。」
「それはいい。さっそく鍵をもらおうか。」
「承知いたしました。」
重く大きな両開きの扉を開くと、そこにはエヌ氏が子供のころから想像し続けた豪華なホールが広がっていた。広いホールと、両脇に広がる大階段があり、まるで欧州の貴族の城のような豪華さだった。エヌ氏は思わず息をのんだ。
「すばらしい。やはり、今夜からここに泊まろう。」
「では、ささやかではありますが、今夜は私どもからお引っ越し祝いのディナーを用意させていただきます。」
不動産屋が用意したディナーは、この屋敷の初夜にふさわしい豪華さだった。屋敷の主が代々受け継いできた銀の食器に盛り付けられた東西のあらゆる食事は、エヌ氏を満足させた。もう、屋敷を外から眺めるだけのエヌ氏ではなかった。この屋敷の26代目の主として、後世にまで語り継がれる存在となったのだ。
満腹になり、ゴブレットでワインを揺らしていると、ふと黒い影が見えた気がした。酒を飲みすぎたのだろう、気のせいだと思い、エヌ氏は風呂に入って休むことにした。
エヌ氏は湯船で目を閉じ、自分の人生の成功について考えていた。思えば遠くまで来たものだ。友人たちが原付を乗りまわし、大人が博打にうつつを抜かしている間、エヌ氏は寝る間を惜しんで勉学に励んだ。就職してからもそれは変わらなかった。
五十年。それが彼がこの屋敷にたどり着くのにかかった時間だ。様々な困難を乗り越えてエヌ氏はこの屋敷にたどり着いた。どんなに周りの人間に「人間の心がない」だの「つまらん男だ」などと後ろ指を指されようとも、エヌ氏はただ、この屋敷を手に入れるためにどんな仕事でもした。
目を開くと、水面に見知らぬ顔が映っていた。
その眼には憎しみをたたえ、真っ直ぐにエヌ氏を見つめていた。
「ああああああ!!!」
エヌ氏は大声を上げた。全身に力が入った。しかし、憎しみに満ちた顔はまだそこにある。離れようと足を動かすが、水中では思うように逃げられない。エヌ氏は思いつくがままに両腕で水面を叩いた。
すると、水面に映っていた顔は消えた。エヌ氏はバスルーム中を見渡したが、先ほどの顔はどこにもなかった。冷静さを取り戻すと、流石のエヌ氏も急いでバスルームを出た。つい先刻までエヌ氏を満たしていた幸福感はもうどこにもなかった。
急いで洗面台の蛇口をひねり、頭を水流に突っ込んだ。霊なんているはずはない。きっと、今日まで五十年間頑張ってきた疲れが出て、幻覚を見ただけだ。大丈夫。首筋に水が流れるのを感じながら、エヌ氏は、勢いよく顔を上げた。
洗面台の鏡に映るエヌ氏の背後に、水面に映っていた顔があった。
「ああァアあァあアア!!!」
声にならない叫びをあげて、エヌ氏は鏡を叩き割った。右こぶしは血だらけになったが、エヌ氏は気にせず寝室へと走った。
どういうことだ。子供時代の噂は本当だったのか?水面と、食器と、鏡に映る顔を、もう俺はすべて見てしまった……。いや、そんな、ただの心霊話が本当であるはずがない。浮かれて酒を飲みすぎたからこんな幻覚を見るのだ。こんな日はさっさと寝てしまうのに限る……。
その夜、エヌ氏は死んだ。
天蓋つきのキングベッドで倒れる自分を眼下に眺め、エヌ氏は誰にも聞こえない声で呟いた。
「俺が人生のすべてをかけてようやく手に入れた家なのに、住み始めてたった一日で死なねばならぬとは。これだけ人気のある屋敷なのだ。きっと、どこの馬の骨とも知れぬ者がすぐにやってきて我が家のように住むのだろう。私がこれから楽しむはずだったこの家を、赤の他人が土足で蹂躙するのだ。そんなことが許せるだろうか。いや、許せるはずがない。この家に住もむそいつも殺さねば、俺は成仏できぬ。」