58:殴打
拳か。
うるわしき令嬢がグーで殴るのはどうなんだ。
「み、ミーリア様、何を……!?」
術師が目を白黒させている。
よほど珍しい事態なのか。
ミーリアは、振り上げた拳をふるふると震わせている。
振り上げた拳っていっても、すでに一回、殴っているけどな。
「ほかの人には婚約を申し込むとか言って、でも結婚はしないし、それで支援はしてやるって、私を愛人にでもするとおっしゃるのですか!」
「……は?」
愛人って、何のことだ!?
「何が雇われ者ですか、ギルとか名乗ってなんなのですか。
私たちをからかって、遊んでいるのですか。
あなたが、あなたが、うう……。」
ミーリアは、下を向いて顔を赤くしている。
な、泣いているのか……?
「ま、待て……」
すうはあ、とミーリアが深く呼吸をしている。
ぐっと顔を上げて、赤くした目で睨みつけてくる。
「は、話をだな……」
「話、ですか。
そうでしたね、私たちは、貴方に借りがあるのでした。」
ミーリアは、目を閉じて少し天を仰いだかと思うと、美しい微笑みを浮かべ、重装マッチョと術師に向けてうなずいてみせた。
重装マッチョと術師は、唇を噛みしめるながら、うつむいて肩を丸めている。
「失礼しました。
窮したりといえども、私もキルリアの流れを汲む者。
家のためになら、この身を呈するのもいといませんとも。
ええ、その覚悟はとうにしていたはずでした。
お見苦しい姿を見せてしまい、本当に申し訳ありません。」
「いや、待て、待てよ!」
なんか俺が、金満おっさん貴族ポジになってるじゃねーか!
「手を出してしまったこと、心よりお詫び申し上げます。
わたくしの謝罪にて許されるものではありませんが、いかなるお咎めも受け入れましょう。」
ミーリアは、ひざまづいてこうべを垂れてきた。
どこからもつれをほどけばいいんだ?
ええと、なんだ、愛人?
「まず、なんだ、愛人とか何とか、そんなことは求めていないぞ。」
「では、なぜに私にこのような支度をさせてまで、王都を連れ歩こうというのです。」
「そ、それはだな……」
改めてミーリアの姿を眺めると、その髪も肌も、美しさにさらに磨きがかかっている。
ゴクリと生唾を飲み込む……ような場面だ。
俺には唾液も喉もない。
これがエステサロンの成果か。
いや、これは薬湯とかマッサージとかいうレベルではないな。
なんだ……?
何かの術が付与され、発動している。
凝った術式だが、俺の目はごまかせんぞ。
目立たないように注意深く施術されているが、木属性のステータス向上系の術式の応用で生命力の輝きを増すとともに、かすかに魅了の波動を放っている。
見たことのない術式の組み合わせだ。
俺には魅了は効かないが、食い入るように観察してしまう。
この世界には、ラノベの鑑定のような便利な分析方法はない。
他人と共有できる掲示板のようなものもない。
自身の知識と経験で解析するしかないのだ。
オーラ……いや、香りを介して魅了の効果を相手に届けるのか。
ごく至近距離で初めて効果が発動する仕掛け。
対策を困難にするためだろう。
さざ波のように静かに魔力を放つほっそりとした手を取り、魔食を介してその香りを解析していく。
なんだ。
懐かしいというか、深くなじみを感じる波動……。
これは……闇、闇属性の魔力だ……!
それでいて、闇の術にありがちな、生けとし生ける物に不快の念を起こさせるような要素を丹念に分離している……!?
正直、驚いた。
この術式の使い手は、木属性と闇属性、二つの系統を覚醒し、それなりのレベルにしていることになる。
あり得ん。
この世界のNPCで覚醒している術師は、数えるほどしか、つまりメインストーリーやイベントに関連するキャラ以外に見たことがない。
まして、二系統など。
もし俺のような移転者がいたとしても、別の意味であり得ない。
覚醒を重ねると、そのキャラのレベリングは著しく困難になるのだ。
ゲームで言えば、それぞれの属性にレベルが設定され、いずれかの属性のレベルを上げるのに必要な経験値は、両方のレベルの合計をもとに計算される。
どういうことか。
例えば、レベル二にするのに百の経験値が必要なキャラが、木属性で七レベル、闇属性で五レベルに到達しているとする。
一レベルごとに必要経験値は七割ずつ増えていく。
木属性単独で育成していれば、レベル七から八に上げるのには四千ちょっとの経験値を稼ぐだけで済む。
が、副属性を持つこのキャラの場合、闇の分が加算され、どちらかの属性のレベルを上げるには、レベル十二からレベル十三に上げるのに相当する、六万近い経験値が必要になる。
このキャラは、メインの木属性もサブの闇属性も、レベリングが非常に困難になってしまうのだ。
副属性覚醒は、レベルキャップに到達してしまったキャラの獲得経験値を無理やり消化するために導入された、いわゆるエンドコンテンツの一つ。
費用対効果など全く見合わないし、複数属性持ち用の装備も存在しなかった。
ゲームをプレイしていた人間ならば、レベルキャップなど見えないこの世界で、副属性の覚醒などという詰みの危険性が高い選択を取るとは考えられない。
いったい、何者だ。
この術を施した者を、確認せねば。
決意を胸に、思わず強く手を握りしめる。
「す、少し痛いです、ギル殿……」
ミーリアの訴えに俺は我に返り、その手に口づけをしていることに気が付いた。
ち、違う!
誤解なんだ。
ただニオイを嗅ぎたかっただけなんだから……