104:誰何(すいか)
「どちらさまって……」
その女は、絶句してのけぞっている。
「いや、俺が忘れてるだけなら申し訳ないんだけれど。」
顔も姿かたちも、全く思い出せない。
「ああ、そっか、分かんないか……。私がカーマインよ。残念だった?」
そりゃ、あっちでの姿とは違うかもしれないけどさ。
少し落ち込んだ雰囲気で、つぶやいている。
カーマイン。
あっち。
はて。
口調からすると、堅苦しい関係でもないのか?
悪いけど、思い出せないな……。
困った顔を隠せずに、俺が呆けていると。
「な、なによ。失礼ね。
明るい場所で見たら残念だったみたいな……。
大体、聞いてた部屋に行ったのに誰もいないし、どこ行ったのかと思ってたらテレビやらネットにさらされてるし。」
俺が、ニュースに映ってたってことか。
「ねえ、ちょっと。」
脇にいた、別な若い女が口を挟んでくる。
「なんだ?」
俺がそちらに目を向けると、顔を赤くしながら勇気を振り絞ったていでカーマインとやらの前に立ちふさがる。
「事情はよく知らないけどさ、もう忘れたって言ってんだから、付きまとうのは、なんていうの、そう、ルール違反じゃないの、ねぇ。」
「え、付きまとう……?
いや、私は、この人に用事が合って会いに来てるだけで……」
「だからさ、この人はもうアンタに用はないって言ってんだからさ、ちゃんと察しなよ。
いっときだけでもさ、一緒に居られて良かったじゃん。
名前覚えて貰おうなんて、欲張り過ぎじゃん?」
待てよ、なんなんだこの展開は。
「よく分からんのだけど、君は誰だっけ……?」
十代かもしれんくらいのギャルだ。
一応、訊ねてみる。
「あたしならさ、名前も覚えてもらわなくたって大丈夫だよ……?」
潤んだ上目遣いでコッチの腕をつかんでくる。
俺を呼び出した女はドン引きした態度を示しつつ、対抗しようとはしない。
「いやもう、こんなとこじゃゆっくり話もできないし。
部屋の前で待ってるから、とりあえず帰ってきてよ。」
あれ、誰だっけ。
なんだ?
名前が、記憶できない。
「うわ、きっも。ヤッバ。何あれ。」
罵る女からも腕を引き剥がして、俺は店へと戻っていった。
パートのきょうこさんが、興奮して話しかけてくる。
「ね、ね、やっぱり修羅場!?
日常茶飯事みたいな?
スゴイわねー、やるわねー、ドラマみたいねぇ、はぁー。」
「いやいや。名前も知らない人らてすし。
ストーカーと構ってちゃんが出会い頭って感じで訳わかんないですよ……」
「カーマインちゃんだっけ?
日本人なの?」
「カーマイン……?
誰でしたっけ?」
「いやぁね、さっき、呼びに来た消防の人が言ってたじゃない。」
なんだろうな、特別難しい言葉でもないのに、なぜだか覚えていられない。
「ああ、俺は人の名前覚えるの、苦手なんすよ。」
「えー。じゃあ、私の名前は?」
「きょうこさんですか?」
「きゃー! 覚えてるじゃない。」
溜息をつく。
頭も痛くなってきた気がして、レジの方へ声をかける。
「てんちょー。」
「え、店長じゃないですけど。」
女は、ようやく各所への連絡を終えて、どんよりとパイプ椅子で灰になっている。
「じゃあ、店長代理って呼べばいいですか?」
「きょうちゃんは名前で呼んでるんですよね……
私も、くるみって呼んでもらってもいいんですよ……?」
おかしなことを言っているのでスルーする。
「じゃ、大野さん。
いや、そういえば自分、腹が減ってちょっと買い出しにきただけだったんですよ。
それに、着の身着のままで出てきちゃってるんで、一度家に戻って、支度してから出直してもいいですか。」
部屋着にパーカーを羽織っただけの姿だ。
無人の深夜ならともかく、大勢の人間の前でこのまま働いていたらおかしいだろう。
「ああ、気付かなくてすみません。
制服、サイズ測らなくっちゃ。」
素早くメジャーを取り出した大野さん。
けっこうです、小一時間で出直します、とまくしたてて俺は店の裏口から出て行った。
店長代理……くるみさんも、結構な妄想キャラの気配があるよな。
瞳に奇妙な光を浮かべる大野さんの笑顔を思い浮かべつつ、インベントリから、隠蔽の効果があるコートを取り出してまとう。
なー。
この装備も、なんなんだろうな。
裏通りを、走り出す。
あっという間に加速する。
さっきの、顔も名前も覚えていられないあの人。
あの人が、何かを知っている気がする。
そう、思い出せないけれど、夢の中で会っていたような。
またよく分からない感覚に、いら立ちを感じる。
くそ、俺は一体、何者なんだ。
ふと何かの問いかけがあって、いつものように、Yes、と応えた。
つい反射的に応じてしまったが、いま何に答えたんだ?
眉をひそめていると、道端の生け垣の間から、猫がひょいと姿を現した。
「何をやっているのニャ!」
え、猫がしゃべった……?
いや、しゃべったというか、念話的な……?
猫が、上空を見ている。
ざわ、と背中が粟だち、つられて自分も見上げてしまう。
渦を巻いた暗い雲の中から、空飛ぶ絨毯に乗って人狼……いや、狼獣人が現れる。
おいおい、何の特撮ファンタジー。
猫の声が、再び頭に響く。
「あいつと戦えるのは、あなたしかいないですニャ。
どうか、僕と契約してくださいニャ!」