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このトイレのない世界で 1  作者: 山村 草
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04.野糞のすゝめ


 私がこの世界に来てもう何年経つだろう。慌ただしさの中でろくに日記一つ付けなかった事が悔やまれる。戦士としての人生は楽しく充実したものだった。命を預け合う事の出来る戦友、惜しみなく賞賛を与えてくれる人々。それに元の世界では諦めていた結婚も出来た。帰る家を守っていてくれる女房と娘と息子はかけがえのない宝だ。家族のために剣を振るう事に私は誇りと喜びを感じていた。だが不満がないわけではない。トイレだ。トイレがない生活というのはなんとも寂しい物だった。特に私は浄化槽の検査員というトイレに関わる仕事をしていたがためにこれが無いのは辛いものであった。その仕事を始めたのはただの偶然だ。それでも勉強し資格を取ったり慣れぬ仕事を覚えたりと色々と努力はした。今そんな努力が全くの無駄となった生活をしている。人間という物は使わない知識は日々忘れゆく物である。それがなんだか無性に寂しい。日記一つ付けられない無精者ではあるがかつて得た知識をせめて紙の上に残しておこうと思う。全てを忘れてしまう前に。


「エアリィ様、お茶を煎れました。少し休憩なさって下さい」

「ああ、うん。ありがとう」

「仕事の方はいかがですか?」

「順調だよ。あと少しで終わる」

 賢者としての日々は忙しかった。それでも充実感は感じている。元の世界では得られなかった物だ。それはこの今は亡き戦士もそれは同じだったようだ。

「やっぱりこの手記はそう価値になるものではないね。少なくともこの世界で活用するには文明レベルが違いすぎる」

 この戦場に散ったという戦士が遺した手記には浄化槽と呼ばれる物に関する知識が記されていた。使われている文字から彼は日本人だったと推測出来る。もっとも日本語を使いその用法や地名がほとんど変わらない私達のいた世界とは別の世界があるのならそう断定は出来ない。なにせこのティレナイと言う世界、特にこのビフィド山を中心としたビフィド地方では日本語と殆ど変わらない言語が使われているのだからそんな世界がもう二つ三つとあっても不思議じゃ無い。それでもこの手記を遺した人物が日本人だと思えるのは日本語の使い方がここの物では無い特徴があるからである。それといくつか散見された年号から彼が生きていたのは清治のいた時代に非常に近い事も分かった。手記の冒頭の記述からこれを記した動機も明確だ。彼は過去の記憶が薄れ行く事に耐えられなかったのだ。だからこれはただ知識を書き留めていた物にすぎない。

 賢者の役割は異世界人の知識をこの地に住む人間が使えるように、謂わば翻訳するような物である。時にはこうして使い物にならない事もあるがそれでも知識の一つとして保管はされる。それが学術協会である。この手記の内容は私がまとめそこに行く事になる。原本である手記自体は形見として遺族の元に帰るだろう。

「洋子さんは戦士ってどんな人なのか知ってる?」

「ええ、その手記を遺された方の事は存じませんが戦士とは卓越した戦闘能力を有した方だと聞いております」

「洋子さんよりも強い?」

「はい。なんでもある戦士は選定の儀でカバシシを一瞬のうちに膾切りにしたそうです」

「カバシシってあのでっかいのでしょ?…それホント?」

「私も聞いただけですのでおそらく尾ひれはひれが付いたものでしょう。ですが戦士が戦場で活躍しているのは本当の事です」

 この世界に来た異世界人は戦士、賢者、魔法使い、勇者に分けられる。イーレとティレットのような魔法使いを目にしているから、なら戦士は?と思ったのだ。戦士は戦士であの二人並みにとんでもない存在なんだろう。だが、ならばこそ疑問が残る。

「じゃあさ、なんでこの人は死んじゃったの?」



 気付いたら私はこの世界にいた。石造りの神殿とか瓦すらない木で出来た家とかを見る限りとんでもない所にいるなと思った。そして歓迎会に連れて行かれ選定の儀で賢者だとか言われてこの豪邸に連れて来られて、そして洋子さんに出会ったのである。

「初めましてエアリィ様」

 そう言って深々とお辞儀をするいかにもといった姿のメイドに私は面食らった。

「あ、その、初めまして」

 妙な気分だった。だいたい私は一般庶民だ。メイドさんに様付けされるような身分じゃない。

「私がエアリィ様の身の回りのお世話をさせて頂きますメイドでございます。どうぞ何なりとご命令下さい」

 私は一つ疑問に思った事を口にする。

「それじゃあ、貴女の名前を教えて下さい」

 まさかメイドがメイドという名前という事はないだろうと。そこまで自己紹介しておきながら名乗らないのは妙だった。

「申し訳ございません。私に名前はございません」

「え?なんで?」

 名字を使わなくなるとかそんなレベルの話じゃない。名前がなくてどうして生きていられるんだ。

「私には名を付けてくれる人が居ませんでしたので」

 能面のようだった彼女の顔が少し悲しげになった。

「じゃあなんて呼べば良いんですか?」

「エアリィ様のお好きなようにお呼び下さい。それから私には敬語など使わなくても結構です」

 好きに呼べ、か。私は名前にコンプレックスを抱いている。空利依(これでエアリィと読む)なんて私が産まれた当時ですら古臭かった。だから今流行りの名前でなくてもせめて普通の名前が良かった。

「なら私が貴女の名前を付けま、いや、付けよう?ちょっと待ってね」

 今流行りの名前は亀とか鶴とか縁起の良いのと子や美の組み合わせだ。でも一位とか二位はなんとなく悔しい。だから五位以下十位以内で。

「そう、洋子。洋子ってのはどう?」

 彼女は面食らっている。そりゃそうだ。

「ヨウコとはどんな字を書くのでしょうか」

「こう」

 私は側にあった紙と万年筆のようなペンに苦戦しながら、洋子、と書いた。この世界でも漢字が使われているのは知っていた。彼方此方で見かけてたからだ。

「確認させてください。この洋の字にはどんな意味があるんですか?」

「う〜ん、太平洋の洋、大西洋の洋だと海とか、広いとか大きいとか。子の方は女の子の子だね。あ、子じゃ失礼か」

「いえ、本当にいいんでしょうか」

「いや、好きに呼んで良いんでしょ?あ、呼ぶと名付けるのは違うのか。貴女はこの名前じゃ嫌かな」

「そんな事は、ございません。とても、とても嬉しゅうございます」

「じゃあ、貴女の名前は洋子さん!これからよろしくね、洋子さん!」

「はい、エアリィ様。生涯お側を離れません」

 何か妙な事を言われたような気がしたが洋子さんはとても晴々とした笑顔を見せてくれてそれがなんだか嬉しかった。

 洋子さんのお陰で突如として始まった異世界ライフに何ら戸惑う事はなかった。仕事も順調。衣食住、食だけは洋子さんが料理苦手だったのでどこかで買ってきた物だったが不自由する事はなかった。だがただ一つだけ困った事がある。そう、トイレが無かったのだ。


「本当によろしいのですか?」

「何が?」

「見ず知らずの方にそんな事を相談なさるなんて」

「そうは言っても洋子さんには分からないでしょ?この悩みは」

「それはそうですが」

 この世界に来て私は便秘がちになった。元の世界では搾便器という非常に便利で快適なトイレライフを提供してくれる素晴らしい物があったので私は便秘になんてなった事はなかった。なにせ便意をコントロールしてくれるのだ。出したい時に出せる。これは使っている人なら誰でもだ。だから便秘と言うのは即病院レベルの重篤な疾患を指す物だった。

「だから同じ異世界人ならさトイレがなくて困ってると思うんだよ。それをどう解決したか参考になるかも知れないじゃん」

 そんなわけで私はそういう制度があると聞いていたので異世界人限定で一つの依頼を出した。依頼の内容は大葉ミントを二十枚採ってくるという物だ。

「それはそうですが」

 洋子さんが言いかけると鐘が鳴る。誰かが門に来たのである。

「少し見て参ります」

 洋子さんはそう言うと瞬く間に部屋からいなくなる。

「そう、忍者だ」

 私はその光景を表す上手い例えが見つからなかったのだがここでようやく思い出した。何かの映画で見た忍者があんな動きをしていた気がする。

「エアリィ様、お客様です」

「お、異世界人?」

「ええ、おそらくは」

「何か歯切れが悪いね」

「いえ、それが男性なのですが」

 洋子さんが何かを気にしているのは分かった。

「ふむ。まず会ってみよう。あとはそれから考える」

 その客と言うのが清治だった。


 清治が私のいた時代から三百年ほど前の日本人だと知って驚いた。異世界人というのはてっきり別々の世界から来るのだと思っていたのだ。だから妙な親近感を覚えてしまい割と相手が異性だろうと躊躇いなく便秘に悩んでいる事を口にした。

 便秘の原因は三つある。まずは搾便器による便意コントロールが無い事。二つ目はそもそもしゃがんでする事が難しい事。これは清治も同じで安心した。三つ目は妙な視線を感じる事だった。だいたいトイレがないので基本野糞なのだ。屋外に仕切りはないのだ。誰かが見ていても不思議はない。だがこの屋敷は周囲を塀で囲まれているので誰かが立ち入らない限りそんな事はあり得ないはずだった。もし不審者が入り込もう物なら洋子さんがすぐに捕まえてくれる。私の知らない間に捕まえていたなんて事も二度や三度ではない。まぁ元々賢者の屋敷という事で狙われやすくはあるのだが、にしたって視線がなくならないのは異常だった。

 便秘を解消する手立てはないかと清治に相談してしばらく経ったその日彼は私をどこかへ連れて行ってくれるという事になった。

「お待たせ」

 この世界にも様々な服がある。中には異世界人が関わっているんじゃないかって物もある。今着ている服がそうだ。昔の女学生の制服を再現した物らしくブラウンの生地がなんだか可愛く見えたのでつい買ってしまった。ちなみに賢者なので金には一切困る事はない。

「女子高生か」

 清治は私を見て開口一声にそう言った。

「そんな卑猥な目で見ないで欲しいんだけど」

 清治の時代ではどうか知らないがそれは私にとって非常に猥雑な言葉なのである。清治は妙な顔をしている。

「で、どこに連れてってくれるの?」

「森だ」

「森?」

「ビフィドの森だ。あー、ここから二時間くらい歩く事になるんだが」

「ご心配には及びません」

 洋子さんは小さな荷車を引いて現れた。大昔に人力車と言う物があったらしいがそんな感じだ。私は元の世界でもこの世界でも体を動かさない仕事をしていてさらにあまり運動をしない(ちょくちょく健康によくないと洋子さんに注意される。なのでたまには歩く程度の事はしている)ので長距離の移動は無理だ。おそらく過去にいた賢者もそうだったのだろう。この屋敷は元々賢者用の物件なのだが物置にこの荷車が置いてあったのである。私はそれを利用させて貰っている。

「エアリィ様は私がお連れ致します」

「そ、そうかそれじゃ頼みます」

 という訳で私達は森へと出発したのである。


「ブレインストレージって言って分かるかな」

 道中、私は清治に未来の日本について話していた。

「ブレインは脳で、ストレージってハードディスクとかパソコンに入ってる奴だろ?」

「パソコン?」

「ないの?」

「なにそれ」

「家庭用コンピューター」

「ああ、オムデバの事ね」

 正式名称はオムニバスネットワーク・マルチ・パーソナルデバイスという。オムニバスネットワークとは全世界の国や地域を超えて張り巡らされた通信網である。

「オムそば?」

「美味しいよね、アレ」

 私がしていた仕事の話をしているのだがどうにも話が噛み合わない。却って全く違う世界の方が理解しやすいのかも知れない。

「簡単に言うと普段脳ってその全部を使ってる訳じゃないんだけど、その使ってない部分をネットワーク上の記憶媒体として使ってるわけ。」

「そんな事出来るの?」

「出来るよ。ちょっと待って、うーん」

 私はその記憶領域にアクセスする。普段使ってる脳とその領域を結びつけるイメージだ。少々コツが居る。

「清治達の時代には、まだないか」

 脳をストレージとして使用するという発明は清治の時代から五十年程先の出来事だった。

「今のってその脳の中にあるデータを読み出したとか?」

「そう。良く分かったね」

「そんな事が出来るんなら勉強とかしなくて良いわけか。便利になるもんなんだな。」

「いや、勉強自体はいるよ。例えば、うーん」

 上手い例えを思い付こうと頭を捻る。

「例えばここにフランス語のテキストがあるとするじゃない?清治はフランス語読める?」

「読めない」

「じゃあ文法の解説書と辞書があれば読める?」

「うーん、まぁ時間は掛かるけど読み解く事は出来るかな」

「じゃあその内容は理解できる?」

「物による」

「つまりそういう事。アクセス出来てもそれが理解できなければ使い物にならないわけ。ちなみにどんなデータを入れるかで報酬は変わるの。例えば日本語で書かれた料理のレシピは日本語を理解出来る日本人なら普段から使えるじゃない?だからメリットがあるという事で安めなの」

「という事は日常生活で使い物にならない情報は報酬が高いと?」

「そう。過去百年分の特許の一覧とか、日本海溝の詳細な地形図とか」

「なるほど」

「今のは極端だけど日本人なのに何カ国分の辞書データとかも高いよ」

 私はそれを受け持っている。

「なんでせっかく入ってるんなら使おうかと勉強したわけ」

 英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、スペイン語、ポルトガル語は理解できるようにはしてあるが実際そう使うものでもないので役に立たなかった。やはり計画性は大事である。

「あとは歴史データとか。だからさっきそれを読み出したわけ」

「自分で読み出せるのは分かったけど外部からはどうやってアクセスするんだ?」

「これ」

 私は掛けている眼鏡の弦を触って言う。

「この中に小さなチップが入っててそこから電波でピピっと。今は勿論使えないけどね。目が悪い訳じゃないよ」

 一応過度の光から目を守るレンズではある。外すとなんとなく気持ち悪いから掛けている程度だ。

「なら元の世界ではそのデータにアクセス出来なくて困ってるのか?」

「そうはなってないと思うよ」

 同じデータを世界中で何十人、何百人で共有しているのだから私がいなくなっても問題はない。もっとも私以外の全員が殺されでもしたら別だろうけども、元のデータはブレインストレージ以外にもあるのでまた新たな担当を探すだけの話で終わるだろう。

「元の世界かー」

「帰りたいか?」

「まぁ、ね。やっぱり色々と快適ではあったかな」

 搾便器のあの感触は忘れられる物ではない。

「でもね、今の方がいいかな」

「そうなんだ」

「うん。ほら、この仕事って何もしなくて良いじゃない?」

 私は自分の頭を指して言う。

「たまに担当のコーディネーターと会うだけでさ。ただ食べて寝て起きてまた食べて寝て、ってしてても良い訳だしね」

 欲望のままに美味いものを貪り食いたいと思ってもそんな事をしていたらすぐに太ってしまうので出来ないでいる。自由に見えて制約だらけで不自由なのである。

「それでもさ、色々歩き回ったりしてさ、刺激受けるようにしてさ、頑張ってたのよ」

 散歩、ウォーキングは何かのついでに出来るとしてランニングやサイクリングは三日で終わった。

「仕事って言っても何かやりたい事とか無かったし。肉体労働とか無理だし。事務系もねー」

「でも金が稼げるんならいいじゃないか働かなくても」

「そう、そうなんよねー。でもなー。って思ってたらこの世界に来てたの」

「あ、やっぱりそんな感じなんだ」

「清治も?」

「うん。気付いたらこの世界にいた」

「そうそう、そんな感じ。なんでここにいるんだろうね。私ら」

「まぁ、そのうち分かるだろう」

「結構気楽なんだ清治って」

「別に困ってはいないしな。生きていけるわけだし。じゃあ、結局のところエアリィは楽しいわけだ、この世界」

「そうだね。色んな人に出会えるし、洋子さんも居てくれるしね」

「そう言っていただけると本当に嬉しいです」

 私の前で私を乗せた荷車を引いている洋子さんは口を開いた。話には入ってこないが一応聞いてはいたらしい。

「感謝してるよ洋子さん。これからもヨロシクね」

「はい。お任せください」

 そう言う洋子さん。さっきよりも気持ち荷車の速度が上がった気がした。


「そう言えばさ」

「うん?」

「公衆トイレはどんな感じなんだ?」

「どんなって言われても」

 唐突に何を言い出すんだろう、清治は。

「ほら携帯用搾便器を取り付けて使うんだろ?」

「うん」

「やっぱり個室?」

「そりゃね」

「仕切りは木製?」

「あー、詳細なディテールの話ね」

「そうそう」

「ちょっと待ってね」

 知りたかったのは三百年前の一般的なトイレの画像だ。日本の風俗の項目にあった。

「うん、公衆トイレの造り自体は清治達の時代と変わらないかな」

「ふむ」

「違うのは素材かな。清治達の頃はドアとか仕切りは木製だったんだよね?」

「多分」

「まず個室のドアが違うかな。あー、なんて言ったら良いんだろう。開いてる時はなんにもなくて閉める時に引き出すというか」

「カーテンみたいなもんか?」

「そうそう。で閉めると通電して硬くなって板みたいになるの。あと透明じゃなくなる」

「それは一般的なのか?」

「うん。大抵この方式だね」

「個室の壁は?」

「そっちは無通電硬化パネルだね。ドアとは逆に通電すると脆くなるの」

「ふむ。木やプラスチックじゃ駄目だったのか?」

「そういうのは環境負荷がすごく高いでしょ?うーん、清治達の時代よりも、百年くらい先か、その頃にその辺りの意識がすごく変わったの。歴史の教科書には第三次産業革命なんて載ってたかな。」

「なるほど」

「床もこのパネルだね」

「それは丈夫なのか?」

「象が踏んでも壊れない。ちなみに宇宙でも使われてます」

「やっぱり宇宙進出もしてるんだ」

「十人に一人は宇宙で生活してるね」

「世界人口が七十億として七億人は宇宙暮らしか。未来すげーな」

「実際はもう少し少ないのかな。詳しくは知らないけど」

「ちょっと待って、三百年後も世界の人口は七十億なの?」

「うん。まぁ大体それくらい」

「人口って天井知らずで増えていくんじゃないのか?」

「うん?あー、ちょい待ち」

 ふと危機感を覚える。

「うん。これは言わない方が良いかな」

 もしもそう遠くない未来、大事件が起こると知ったなら人はどうするだろう。しかもそれが多くの人命が失われるようなことだったら。

「そんな事言われると余計に気になるだろ」

「いや、清治が知ったとして、もし元の世界に帰れたら面倒かなって?」

「タイム・パラドックスってやつか?」

「そこまで大袈裟な話じゃないけどさー。うん、やっぱり聞かない方が良いよ。聞いたところで一人の人間に何が出来るわけでもないし」

「気ーにーなーるー!」

「まぁ、色々と大変なことが起こるとだけ言っておこう」

 私はなんとか誤魔化す。実際に目を覆いたくなるような事態になるのだ。決して清治にブラフかまして遊んでいるんじゃあない。清治はやはりもやもやするのか奇妙な顔をしている。

「それはそうとそのドア?は天井から床まであるの?」

「あるよ。当たり前じゃん」

「いや、僕の時代だと日本はそうだが国によって違う」

「そういうことね。そこは同じだよ。個室は完全な個室になります」

「じゃあ見られたりとかは無いわけだ」

「あるわけないよ」

「当然見られたりすることにも慣れていないわけだ」

「用を足してるとこを見られたいって趣味は持ってないかな」

「じゃあ最中に視線を感じるのはこの世界で初めての経験だったと?」

「そういう事になるね」

「分かった」

 清治は一体何を聞いているのだろう。


「結局のところその見られてる感覚がして落ち着かなくて便秘になったという事でいいか?」

「そうだね。それは大きい」

「後は搾便器か」

「便利なんだよあれ。したい時に出したいだけ出るしさ」

 そう、便利なんだよ搾便器。

「小便は瓶にするんだろ?おまるじゃ駄目なのか?」

「いやおまるは流石に抵抗が」

「小便は良いんだ」

「それだって仕方なくだよ。我慢してたら膀胱炎になっちゃうし、大と違って回数も多いし」

 一応、その視線が気になって仕方なくなのである。面倒くさいとかそういった理由ではない。

「で、その片付けは自分でするのか?」

「しない。というかいつの間にか綺麗になってるの。そうだ、あれ洋子さんがやってくれてるんだよね?」

 尿瓶代わりに使っている瓶は二つある。だが両方溜まったことは一度もなかった。

「はい。その、ご迷惑でしたか?」

「いやいや、むしろごめんなさいって感じ。そんな事してくれなくてもいいのに」

「滅相もございません。エアリィ様の身の回りのお世話は私の責務でございます。それがお小水のお世話であっても同じです」

「洋子さんはその瓶に小便が入ってるって知ってたんです?」

「はい。匂いで分かります」

「やっぱり臭うかな」

 特に気にしてなかったが慣れて気にならないだけだったら怖い。気にならないのは自分だけで他人からしてみればとんでもない異臭の中にいるとか。

「私は人よりも嗅覚が優れております。だから分かっただけです。決してエアリィ様のお小水の匂いが強いというわけではありませんのでご安心を」

「そう、良かった」

 ホッと胸を撫で下ろす。

 そうして話をしているうちに気付いたら目的地であるビフィドの森はすぐ目前に迫っていた。


 森の中は静かだった。聞こえるのは虫や鳥の鳴く声と近くを流れる小川の音、それから風に揺れる木が葉を擦れ合わせる音くらいだった。人の声に溢れるビフィスの街ともかつて暮らしていた新宿の街の静けさとも違っていた。実に落ち着ける空間がそこにはあった。

「良いところだね」

「こういう場所は平気か?」

「うん?平気だよ」

「いや、都会慣れしてるんなら却って落ち着かないんじゃと思ったんだが」

「そんな事はないよ。こういう物は本能的に落ち着くじゃないかな、人間ならさ」

「そうか。ならそこは安心だな。洋子さん、周りをちょっと見てきてもらえませんか。ならず者が逃げ込んでいないとも限らない」

「はい。では少し見て参ります」

「お願いします」

 清治は洋子さんに妙な事を頼んでいる。確かに洋子さんはメイドとしてのスキルだけでなく格闘技や武術にも精通しているようで賢者である私の警備もしている程である。だがここで安全確認をする必要性を感じなかった。

「さて、じゃあ少し歩こうか」

「お、良いね。こういうとこ一度来てみたかったんだよね」

 清治が何を企んでいるのかは分からなかったが森の中を散策するという提案はとても魅力的に思えた。

「エアリィ、腹の具合はどうだ?」

 小一時間程自然を堪能してから清治はそう聞いてきた。

「お腹?減ってないけど」

「そっちじゃない」

 便意を催して来てないか、という意味だと気付いたのは答えてすぐだった。

「そう言えばなんか出そうな気がする」

 便秘自体の根本的な要因は運動不足である。もともと運動はしない方だし仕事も動かずに出来る物なのである。だから動けばちゃんと便意は訪れる。もっとも妙な視線を感じていれば出るものも出ないのであるが。

「そうだ、これ」

「大葉ミント?」

 清治の手には尻を拭うために使われる葉っぱがあった。だがいつも使っている物よりも大きいように見える。 

「いや、大葉ロイヤルミントだ。普通のより刺激が強いからな。よく揉んでから使ってくれ。多分いきなり使うとびっくりする。」

 ちなみにミントと言ってもメントールではなくまた別の成分らしい。清涼感だけでなく痔の治療や予防にも有効である。ひょっとしたらこれも異世界人の生み出した物かもしれない。

「で、結局ここで何をすれば良いの?」

「ちょっと待ってな、今穴を掘るから」

「穴ってなんで?」

「なんでって、ここでうんこするんだよ」

 清治はなんでもない事のようにそう言った。


 清治は洋子さんを連れて森の外に出ていった。この森には私一人だ。周りに誰もいないのは洋子さんがちゃんと確認してくれた。人の出入りした痕跡は一週間は前の物が一つあるだけなのだという。

 さて、私はここでうんこする事になったらしい。

 そりゃ人の目が気になるとは言ったよ?だからってこんな森の中で取り残されて気持ちよく出来るわけがない。却って緊張するわ。穴の前の木には虫が歩いてるし。

 取り敢えずスカートを脱ぎ頭の前辺りにある枝に掛ける。この世界の風習である。

 パンツも脱いだ。ちなみにパンツは清治のいた時代から私のいた時代まで特に変わったことはない。この世界のパンツも似たような物だったのでそれで気付いた事実である、が今はどうでもいい話だ。

 そして取り敢えずしゃがんでみる。このしゃがむという姿勢は非常に辛い。本来このような格好の方が排便に適しているという話だがそれは足腰が丈夫な人の場合である。私は足腰が鍛えられていないのだ。だから当然のように辛い。今だって数分どころか一分と保たない。でもこれでも練習はしたのだ。練習の成果が今試されているのだ。

 それでも誰かに見られているような落ち着かない感覚はなかった。人がいないのだから当たり前である。それどころか自然の奏でるサウンドが妙に心地よく感じられて私はいつの間にかリラックスしていた。そしてようやくさざなみの様に穏やかな便意が訪れる。


 学校を卒業し、十六歳になり、私は家を出ようを思った。両親は反対はしなかった。むしろ子供の自立を喜んでいたように見えた。それは子育てから解放された安堵感だったのかも知れない。それとも子育てが終わった達成感だったのかも知れない。両親はそれについて深く語ることはなかった。私は深く尋ねることが出来なかった。

 今どき十六歳での自立なんて珍しくもない。それでも親元に残る人間だって大勢いる。私にはそのどちらも選ぶことが出来た。でも私は自立を選んだ。

 別に両親との生活に不満があったわけではない。ただ違う世界に飛び出してみたかったのだ。

 ただ一つ反対された事がある。それは新宿に住むことだった。そんなど田舎に引き篭もってどうするのか、とそれが両親の反対した理由だった。友人にも物好きだと呆れられた。新宿を選んだのは単に家賃が安いからだ。収入の大半を家賃に費やすよりももっと有意義に使おうと思っただけだ。本当にそれだけだ。

 両親の反対を押し切って新居を決め、結局私は引き篭もりとなった。外に出る理由がなくなってしまったからだ。外に出ても特に面白い物はないし外に出なくても生きていけた。それが良くなかった。外に出るのが億劫になりますます外に出ようとはしなくなった。そしてどんどん外に出るのが体力的にも精神的にも辛くなる。悪循環だ。こうして一人の引き篭もり女が完成した。

 この世界に来て良かったかと言われれば良かったと答えるだろう。以前のように外に出る事は億劫ではなくなった。人と出会うことも楽しかった。何よりも屋内にトイレがないのだ。生きていくためには食べなければならない。食べれば当然トイレに行きたくなる。だがこの世界にトイレはない。用を足すのはその辺の茂みだ。それは外にしかなかった。もう私は以前のように部屋に引き篭もっているわけにはいかなくなった。そして気付けば自然と外に出るようになっていた。


 私は一つ深呼吸をする。波はもう収まっていた。驚くほど自然に今まで出来なかった事が果たされた。一体どういうカラクリなんだろう。

 ただ一つ分かるのは私は今自然に近い状態にあるという事だ。排便という行為は生物の持つ当然の営みである。本来動物という物はこうして自然の中で自由に排便するものなのだ。人は知恵を持ち便を不浄であると知ったおかげで排便する空間を規定し生物本来の営みを制限した。その結果排便に対し苦労が伴うようになった。その苦労を解消しようと知恵を使った結果搾便器などという発明をするに至ったのである。もし人間に知恵がなかったら排便に苦労する事もなかったのかも知れない。

「はぁ、何考えてんだ私は」

 無事用も済んだことだし尻を拭って身なりを整えよう、そう考えて私は清治から貰った大葉ミントを思い出した。その名にロイヤルが付くという事は等級が高いという事なのだろうか。

「揉んでから使わないとびっくりするんだっけ?」

 普通逆じゃないか?と思わなくもないが、はてどんな物だろうと興味はある。やるなと言われればついやってしまいたくなるのは人のサガである。

 その大葉ロイヤルミントで尻を拭った瞬間、ほんの一瞬、目の前が真っ白になった。

「…こ、これは強烈過ぎる」

 未だ尻に残る強い清涼感に身悶えしそうになる。私は手にした大葉ロイヤルミントを見る。

 見る。

 じっと、見つめる。

 そして、不埒な閃きが頭を過ぎる。

「おーい、エアリィ!」

 遠くから私を呼ぶ声が私を現実に引き戻した。清治の声だった。

「清治⁉もう来たのちょっと待って!」

 私は慌てて大葉ロイヤルミントを揉み尻を拭い、パンツを履き、スカートを履いて身なりを整えた。

 そして清治と洋子さんと再会する。清治も洋子さんも特に変わった様子はなかった。洋子さんが鼻血を出しているらしく鼻に詰め物をしている事を除いては。



 清治がトイレを作ろうと掘っていた穴はついに目的の深さまで達した。土と汗で汚れた清治はその穴の縁に座り達成した喜びを噛み締めている。

「お疲れ様」

「おう、遂にやってやったぜ。」

 清治は誇らしげに言う。実に爽やかな笑顔を浮かべている

「次はどうするの?」

「そうだな、次はろ過かな」

「ろ過?」

「ああ。クソバーではやってなかったみたいだが水で流せるようにしようと思っててな」

「水洗って事?」

「いや、そこまでは出来ない。まぁ簡易式水洗ってとこかな」

 用を足した後少量の水で流そうとしているのだという。

「一応水が染み込んでいく土壌ではあるんだがやっぱり汚水をそのままってのはな。完全にろ過出来るわけでもないだろうけどちょっとは綺麗になればと思ってね」

「ふむ。エコだねぇ」

「おう、エコだ」

 私と清治が話していると縁側で飲んでいたティレットがふらふらとこっちに来る。

「どうした?ティレット」

「んー」

 今朝から飲んでいたティレットはすっかり酔っ払っている。そしてまるで何かを察知した猫か犬のようにキョロキョロしている。

「ただい…」

「イーレたんだああああああっ‼」

 ティレットは絶叫し、たった今帰ってきたイーレに飛びついた。

「あ、」

「そういう事ね」

 私と清治はティレットがふらふらしていた理由に思い至る。しかし一体どうしてイーレの帰宅を察知できたのだろうか。

「あー」

 イーレはうんざりしながらティレットに抱き竦められている。

「寂しかったよおおお」

 ティレットは言いながらイーレに頬ずりしている。

「洋子さん呼んでくるか」

 清治はどっこらせとでも言いそうな様子で立ち上がる。

「いや、しばらくそっとしておいてあげたら?今引き離すと却って大変な事になりそうだし」

「それもそうだな」

「二人とも見捨てないでくれ!」

 イーレは叫ぶ。

「しかし今回の遠征は長かったねぇ」

 厳密に言うと遠征ではなく出張と言った方が正しい。元々イーレの出張は三日間で終わるという話だった。だが今日で五日目だ。街道警備隊は実に仕事熱心である。

「あー、すまないな。長いこと空けてしまって。何か妙な事になっていてな」

「妙な事って?」

「ああ。っていい加減離れろ!黒魔術師!」

「えー」

「ったく…。で、盗賊団を目撃したって話で見回りに行ったんだがどうも違ったみたいでな」

「とーぞくだんなら私がやっつけたよー!」

 えっへん。と胸を張るティレット。

「ああ、それは聞いた。ラベールがまた揉め事起こさなきゃいいが…」

 イーレは開放され自由になった手で頭を抱えている。警備隊と自警団は仲が悪い事は私も聞いている。

「違うってどういう事?」

「ん?ああ。野営の跡は見つかったんだがどうも軍隊の物らしくてな。これはおかしいって言う事で他にも無いか見て回ってたんだ。結局空振りに終わったが」

「なんで軍隊の野営跡があったんだ?」

 清治の疑問は私も感じていた。

「それが分からなくてな。全く変な話だ。おかげで今回は疲れた」

 イーレはため息を吐く。

「変なことなら私も聞いたよー」

「へえ、どんな?」

「うーんとね、捕まえた、とーぞくが、俺ははめられたー!って言ってた」

「なんだそりゃ」

「わかんなーい」

 再びイーレを抱きしめ始めるティレット。イーレにはもう抵抗する余力はないらしい。

「軍隊と嵌められた盗賊団、か」

 私はなんとなくその二つが関係しているように思えた。


 風呂屋から帰った後、仕事から帰って来たばかりのイーレに夕食を作らせるのは酷だという事でその日の夕食は外食となった。久しぶりの外食を楽しんで帰って来て私は戦士の手記を読み返していた。何か妙な感じがしたからである。

「軍隊か」

 手記を見返してもやはり浄化槽についての知識が記されているだけだった。この戦士の死因が気になった私は洋子さんに頼んであれこれと調べて貰っていた。洋子さんは私の世話と警護だけでなく仕事周りの雑務すらやってくれる超人である。時には情報収集までやってくれる。賢者の仕事の特性上裏に政治工作だったり権力争いだったりと妙なオプションが付いてくる事もあるのだ。それではいくらなんでも気が引けるので少し彼女の仕事を整理しようと提案した事はあるのだが丁重に断られてしまった。むしろ働くことが生き甲斐なので減らされては困るのだと言う。なのでこうして遠慮なく頼むようになってしまっている。そんな彼女から得た情報でこの戦士について分かっているのは彼はもう十年はこの世界にいること、亡くなった時の年齢は四十代半ばであるという事、死ぬ直前まで現役で活躍していた事、最期は戦死であったという事くらいである。結局なんで死ぬような状況に陥ったのかは知ることが出来なかった。

「戦士、軍隊、盗賊団」

 私にはこの三つが無関係とは思えなかった。

「洋子さん、いる?」

「はい、こちらに」

 ホントに洋子さんは忍者なのではないかと思えるような迅速さで私の前に現れた。

「明日で良いんだけどさ」

「はい」

「また色々と調べてもらっていいかな」

「はい、何なりと」

「内容は朝言うよ。私もまだまとまってなくてさ。それまでに考えておく」

「畏まりました」

 洋子さんは本当に頼りになる人だった。

「じゃあよろしくね。それとさ、」

 私は一つ息を吸う。

「いつもありがとうね」

 私がそう言うと洋子さんは一つ間を置いて

「はい。こちらこそありがとうございます」

そう言って爽やかに微笑んだ。



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