02.トイレと精霊と魔法使い
「で、あれから勇者の彼とはどうなったの?」
「うむ。イーレは説明の義務を果たすべきだ」
この大陸の東西を横断する大きな街道。その中継地として栄えるビフィス。この街道には多くの商人や旅人が行き交う。当然その荷を強奪しようと企む不届き者も存在する。過去に強盗の被害にあった人もたくさんいる。と言う訳で街道を警備する人間が必要で、街道沿いにある街は共同で警備隊を組織し、私はその仕事を手伝っている。
「な、何もないぞ」
「え~怪しいなぁ」
「うむ。誤魔化しはためにならぬぞ」
ビフィス周辺を担当する警備隊に入った私は二人の同年代の友人を得た。ラベールと桂花だ。私はその二人とチームを組んで仕事をしているのである。
「誤魔化してなんかないぞ」
「でも一緒に住んでるんでしょ?」
ラベールは言う。
「それを人は同棲と言うのではなかろうか」
桂花は言う。
「いや、色々な事情があって一緒に住むことになっただけだ」
「ほう、事情とな?」
「詳細を希望する」
ラベールと桂花の二人に尋問を受ける私。
「お前たち今は仕事中だろう!」
「あ、誤魔化した」
「うむ。誤魔化しているな」
私達は今仕事で隊の他のチームと共に街道を歩いている。行き先はビフィドの森の東端のさらに東に広がる草原である。この辺りで盗賊団らしき集団を見かけたと通報があり私達はそこに向かっているのである。
「大体、着くまでは歩く以外する事ないでしょうに」
ラベールの言うことももっともだ。こんな暇な時間に私達はいっぱいお喋りをして仲良くなったのである。
「この機を逃してはならない。してその事情とは?」
桂花は普段もっと無口である。だがある特定の事柄だけにはとても興味津々とした様子で話に入ってくる。
「お前たちが期待するような事は何もないぞ。大体セイジ以外にも三人住んでるんだし」
「女?」
「男?」
「三人とも女だぞ」
「聞きましたか桂花さん」
「うむ。益々けしからん」
二人にからかわれて辟易する。クソバーがないからそれを作っていてそのために一緒に住んでるだけなのだが、クソバーがないからその重要性が伝わらないのである。にも関わらず二人はどうも色恋沙汰という事にしたいらしい。
そう、そもそもクソバーがないのが問題なのだ。
セイジと出会ったのは三ヶ月程前の事だ。その日の夜、宿屋の外で用を足していると私はモスにゃんに襲われた。モスにゃんとは背中に蛾のようなモフモフした羽を生やした小さな猫である。私のいた世界やセイジの世界にいた猫よりも随分と小さい。手のひらサイズだ。特に害になるような生き物でもないのだが、どういうわけか私達異世界人を好み異常に懐く。そして彼らの生息場所はその辺の茂み、つまり人の糞の側である。これには理由がある。この茂みでは糞が普通よりも早く分解される。その分解者たる小さな虫はより大きな虫の食料になりその大きな虫はさらに大きな虫やトカゲ、カエル、野鳥などの餌となる。そしてこの小動物こそモスにゃんの食料となりこれを知ってか知らずかモスにゃんは人の糞のある所食料有りとしてここを住処としているのである。それでこのモスにゃんの住処で用を足すとなればモスにゃんは嬉々として寄って来てスリスリ攻撃を始めるのだ。普段ならまだいい。モスにゃんは可愛いのだ。撫でて遊びたくなるのだ。だが用を足している時は止めて欲しい。用を足すのに集中させて欲しい。その日も私が用を足しているとモスにゃんは私が困る様を楽しむように何匹も、何匹も集ってきたのである。
そんな私を救ってくれたのがセイジだった。彼は私が困っているのを察したのか風上でモスにゃんの大好物であるまたたびじゃらしと言う草を揺らしモスにゃんを惹き付けてくれたのである。用を足し終え手洗い場に行くと一人の青年がモスにゃんと戯れていた。それがセイジだったのである。
セイジが私と同じ異世界人であり私と同じようにクソバー(彼の世界ではクソバーの事をトイレというらしい)がなくて困っていると知りようやくこの苦しみを共感できる人に出会ったと思った私は翌日ラベールと桂花にそれを嬉々として打ち明けた。
「デートに誘おう!」
ラベールは楽しげにそう言った。
「機は熟した!」
桂花も楽しそうだ。
「デートとはなんだ?」
「デートとは逢引きの事である」
「はぁ、逢引き…」
「男女がどこかに出掛けてイチャイチャすることよ」
「イチャイチャ…って、ええ⁉」
「さて、どうやって誘うか」
「ここはやはりオーソドックスに文を出せば良いだろう」
「うん、それが良いね。そのセイジさん、だっけ?泊まってる宿は分かるんでしょ?」
「ああ。中央広場から大通りを南に行ってすぐの宿屋だ。って、待ってくれ!」
「それなら問題はなかろう。文面はどうする?」
「いやいや、まずは紙でしょ。可愛いのを探してだね」
「二人とも待ってくれ。どうしてそんな話になるんだ⁉」
「え~、だってイーレはその人のこと気に入ったんでしょ?」
「気にい、ったとかないとかじゃなくてだな」
「こういう事は早い方が良いって。鉄は熱いほうが伸びるってね」
「早すぎるだろ!昨日の今日だぞ!」
「人生においてチャンスとはいつも突然訪れる物なり。そして二度訪れる物にあらず」
「…ふむ、至言だな。ってどうしてそうなる!」
「な~に?じゃあイーレはそのセイジさんと仲良くなりたくないの?」
「…それは、その、なりたい」
「ならば即刻動くべきである。」
「でも、その早すぎる」
「え~い、やかましい!とにかくデートするのアタックするのハートキャッチしてこい!」
「わけのわからない事言うな!」
「可愛い紙と言うならこれではどうだろうか」
「お、桂花にしちゃあいい趣味してんじゃん」
「文面はどうする?」
「あ、私ビフィド文字わかんない」
「では私が書こう。そのセイジ氏は読めるのだろうか」
「それは心配ない。この世界の文字が読めて驚いてたぞ。ほぼ彼の世界の文字と同じらしい」
「ほう?」
「ふむ」
「…ってそうじゃない!」
「大丈夫、大丈夫!ちゃんと届くようにはしてあげるから」
「よし、では拝啓、…セイジってどういう字を書くんだ?」
「だからぁ…」
結局、桂花によって書かれた手紙は書かれた途端にラベールが持って走り去ってしまった。俊敏さにおいてラベールの右に出る者は警備隊の人間にはいなかった。
その日、あれから仕事を終えて三日後、ビフィスの街の中央広場で私はセイジを待っていた。時刻は九時。時計とは実に素晴らしい物だ。季節に関わらず正確に時を報せてくれる。
「あの二人め」
先ほどから妙な視線を感じている。一つは周囲の視線だ。目の前を通り掛かる人がちらちらとこちらを見て行く。この服を選んだのはラベールと桂花だ。きっと二人の見立てがおかしかったのだろう。二つ目の視線はこの二人だ。朝から私の跡をつけていたのは知っている。こちらは見失ったが今もどこかに隠れて見ているのだろう。朝宿所を出てからの視線は変わっていない。そして三つ目の視線は精霊様だ。今日私がセイジとデートと言う物に行くと知ってから妙に楽しそうなのだ。今も周りをくるくると楽しそうに回っている。特に水の精霊様だ。凄い上機嫌なのである。
「やあ、イーレ。その、待たせたかな」
声の主に振り向くとそこにはセイジがいた。
「や、やあ。セイジ、おはよう」
「お、おはよう…」
初めてセイジに会ったのは夕暮れ後だったので陽の光の下でしっかりとその顔を見るのは初めてである。私には小綺麗な服装をしている彼がなんだか格好良く見えていた。
「どうかしたのか?」
「いや、別に。あ、そうだ手紙」
「何かおかしな事が書いてあったのか⁉」
「うん、まあ。なんか古風だなって。あと決闘でも申し込まれたのかと」
「…すまない。実は」
私は正直に事情を打ち明けた。仕事の友人が書いたこと。書いた桂花は妙な言葉遣いを好んで使うのだと。
「その、デート、なんだよな?」
セイジは言う。
「あ、ああ、で、デートだ。セイジの世界ではデートってどういう意味なんだ?」
「デートは、うーん、逢引き?かな」
「イチャイチャは?」
「イチャイチャ⁉いや、まて、それは早すぎる…」
「そうだな!早いよな、まだ!」
言って私は気付く。これではいずれはイチャイチャしたいって言ってるようなもんじゃないか!
そんな私達の様子を水の精霊様がすっごいニヤニヤしながら見ている。そして私達の周りをくるくる回る。
周囲には人が多くなってくる。その日はキャラバン隊が街に到着して二日目。初日こそそこまでではなかったが二日目ともなれば商人達が開く露店目当ての買い物客で本格的に込み始めるのである。私達のデートの場所はこの露店街だった。
そんなわけでセイジと二人露店街を見て回る。聞いていた通り街は人でごった返していた。どこを向いてもどこに行っても買い物客や商人でいっぱいだ。それでも私はそれが楽しかった。元の世界ではこんなに人の多い所に行ったことはなく見たこともない光景に新鮮味を感じていたのである。
それに私は買い物そのものが好きだ。元の世界にもお金はあったがそれは村長が管理していて村では作れないような必要物資を買うための物でしかなかった。この世界に来て私はお金という物を初めて手にした。これと引き換えに自分の欲しい物が手に入る。私にとってそれはとても面白いと感じる物だった。
まずは服屋に行った。ラベールと桂花の選んだ服はどうにも人目を引いてしまうようなので別の服に着替えようと思ったのである。小一時間ほど悩んで服を手に入れた後私達は香辛料の店に行った。その店から漂う匂いに惹かれたのである。私は料理が好きだ。と言うよりこの世界に来て好きになったと言う方が正しい。元の世界では料理とは女の仕事でありそれをすることはただ義務であるというだけだった。そこに好きも嫌いもない。それがこの世界で見たこともない様々な食材と香辛料と出会い作る事の出来る料理の幅が広がった。となればこれとこれでどんな料理が作れるのだろうと好奇心が湧いてくる。そして気付いたら立派な料理好きになっていたという訳だ。だからその店で見たこともない香辛料を見ているのはワクワクした。その次に小腹の空いた私達は肉屋に寄ってカバシシの腸詰めを食べた。少々脂っこいものの非常に美味しく頂いた。
さて、こんな風にセイジと二人街を歩いて楽しく過ごしていたのだが奇妙な事がちょくちょく起きていた。まずセイジの様子がおかしい。服を着て見せればなんだかぼ~っとしているし腸詰めを食べている時だって暑くもないのに汗をかいて落ち着きがない。私自身香辛料を見ている時にセイジを見て妙なドキドキを感じたりしてセイジに妙な顔をされたりしている。ラベールや桂花は色恋沙汰と結びつけたがるがセイジと出会ったのはついその数日前の事である。一目惚れという訳でもない。ではこのおかしな現象はなんなのか。それは路地裏にある奇妙な店に立ち寄って判明したのである。
「あの店なんだろう」
セイジが見ている方を見ると薄暗い路地裏に一つの店があった。店主らしき人はローブを被っていてなんだかとっても怪しげである。
「行ってみるか?」
「まあ見るだけなら大丈夫だろう」
私達はその店に近付いて商品を見る。店主は低く小さな声で「いらっしゃい」と呟く。
「なんでこんなものが…」
セイジが見ている物を見ると棒と玉が紐で繋がった物が置いてある。
「これがどうかしたのか?」
私はそれを手にしてみる。
「イーレ、それは…」
なんの変哲もない緑色の玉と棒、棒というにはあまりにも短いが。木で出来ているのだろうか。
「その棒の方を握ってごらん」
店主はそう呟くので言われた通り試してみる。
「おお!」
私が棒を握ると玉が浮く。
「って、え?」
セイジは何やら驚いている。
「ん?」
「それは蜂球って言ってね、西に住む魔女の作った子供のおもちゃさ」
「ほう、中々面白いなこれ。セイジもやってみるか?」
「あ、ああ」
セイジに棒を渡すとやはり玉は浮いた。セイジは呆気に取られている。
「こんなのもあるよ」
店主がそう言って差し出したのはちょうどその前に食べた腸詰めほどの太い棒だった。その先には玉が二つ付いている。根本は茸の開いていない傘のような形をしている。ここで漸くこの店主が老婆なのだと気付いた。
「いや、それはストレート過ぎるだろ」
「それも棒の所を持ってごらん」
言われた通りに持って見ると二つの玉は光を放ち始める。
「は?」
またもセイジは呆気に取られている。
「セイジはこれが何か分かるのか?」
光る玉は棒にぶら下がっていてゆらゆらと揺らす事が出来た。
「そいつは精霊灯と言ってね、明かりに丁度いいだろう?まぁ別のことにも丁度いいけどねぇ」
老婆は笑いながら言う。
「セイジこれ便利だな。買おうか」
とセイジの方を向こうとしたら私の隣で私の手にあるその精霊灯と言う物を覗き込む人影が目に入る。水の精霊様だった。精霊様は興味津々といった様子で精霊灯を見ている。
「もっと別なのないの?もっと健全なやつ」
私がいつの間にか隣にいた精霊様に驚いている横でセイジはそう言った。
「それはそれで便利なんだけどねぇ。こんなのはどうだい?」
老婆は長めの棒の先に紐でつながった玉が一つぶら下がった物を取り出す。それも棒を持つと光った。
「そうそう、こういうので良いんだ。イーレもこれなら良いだろ?」
「そうだな棒も長いし細くて持ちやすいし」
私がそう言うと精霊様は不満げな顔をする
「そうかい。お嬢ちゃんは細い方が好みかい。良かったねぇお兄さん」
「ここまで細くないですから!それよりこれ幾らです?」
「細い方は五百イェン、太い方は八百イェンだよ」
「安いな、その細い方を買うぞ」
「太いのもオススメだよ。特に女の子にはねぇ」
「健全な少女に変なもん勧めないで下さい!」
笑いながら言う老婆と声を荒げるセイジ。そして精霊様はどこか不機嫌そうにしていた。
「セイジ」
私はセイジを呼び止めると彼は足を止める。
「どうした?」
「私の事どう思う?」
「どう、って言われても」
私達はまた中央広場に戻って来ていた。広場の真ん中にある噴水はビフィド山から流れる地下水を使っていてその水は実に綺麗だ。そしてその噴水の周りには仲の良さそうな男女が何組も寛いでいる。
「私の事はどう見える?」
そう言うとセイジは落ち着きなく目を反らす。
「か、かわいいと思うぞ」
私は横を見る精霊様がニヤニヤしている。水の精霊様だけじゃない。風の精霊様に土の精霊様も、火の精霊様は少し離れて噴水の縁に腰掛けてみんなニヤニヤしている。さっきまでは買い物に夢中で気が付かなかったがこうして気付いてしまうともう気にならずにはいられなかった。
私は一つため息をつく。
「セイジ、手を出してくれ」
「手を出す⁉」
「変な意味じゃないぞ!」
私は差し出された手を握る。実は男性の手を握るなんて子供の頃以来なのだがその時は気付いていなかった。
「周りを見てくれ」
「周り?…なにこの人達」
「精霊様だ」
精霊様は基本的に私にしか見えない。この世界の魔法使いは精霊様の力を借りて魔法を使っているのだがそれでもその姿までは見ることが出来ない。見る手段はこうして私に触れる事くらいだ。
「セイジ、すまない」
セイジと目があった精霊様は気まずそうにしている。
「どういうことなんだ?」
「セイジは私の事変に見えたことはなかったか?例えばこの服を着てみた時とか」
「ん?あ、ああ言われてみれば。なんか漫画みたいにキラキラしてた」
漫画という物はよく分からなかったがやはり私の読みが当たっていたようだ。
「じゃあ妙に暑くなったりとか涼しくなったりとかは?」
「あった」
「それ、多分精霊様の悪戯だ」
水の精霊様は申し訳なさそうにしている。
「ああ、そういう事か」
「朝から妙に上機嫌でな。私の友人みたいに」
朝から尾行をしながら覗いてるのは分かるのでそちらを向く。慌てて隠れる人影が二つ。私はまたため息をつく。
「変な気分にさせてすまなかった」
「イーレ、手」
言われて私はさっきからずっとセイジの手を握っている事に気付いて慌てて離す。
「す、すまない!」
「そうか。イーレに触ってると僕にも精霊が見えるんだな」
セイジはなるほどねと言って頭を掻く。
「まあイーレが謝ることでもないよ。それと服」
服と言われてどこか変なのだろうかと見る。
「似合ってるし可愛いのはホントだから」
言われて私は自分の顔が紅潮するのが分かった。もう何も言うことが出来なくなっていた。
その後私達はお互いの元いた世界の話をしつつ街をぶらついた。精霊様はこちらに企みを見抜かれている事を悟ったのか妙な事はしなくなった。それでもセイジと話しているととても楽しく彼に対してもっと興味を抱くようになっていた。そして気付くと昼時を知らせる鐘が鳴った。そして私はふとクソバーに行きたくなった。
「お、早かったな」
「あ、いや、その」
用を足しに茂みを覗いてみたら沢山のズボンやスカートがぶら下がっていた。それこそ洗濯物でも干しているのかと思うくらい。つまり用を足せそうな場所はなかったのである。
「なら別の場所に行こうか」
セイジにその事を伝えるとどこか空いている所を探しに行くことになった。
「…は?」
結論から言うとどこにも空いている所なんてなかった。この茂み自体はどこにだってある。家や宿屋のそばとか役場などの公共施設、つまり人のいる所に必ずある。だがどこも空いてはいなかった。
キャラバン隊が到着した後のビフィスの街は人で溢れ返っている。どこを向いても人、人、人。そして丁度時刻は昼過ぎ。昼食を食べ終えてトイレに行きたくなる人も多いだろう。それにしたってどこの茂みもいっぱいとは思いもしなかった。
「イーレ、大丈夫?」
「ん?ああ、まだ大丈夫だ」
便意はそこまで差し迫ってはいない。なんとなくしたい感じがあって手遅れになる前に行っておこうかというくらいである。
「そうか。それにしても困ったな」
「いずれ空くだろうから我慢するよ」
私がそう言ったその時どこからか悲鳴のような物が聞こえた。
「なんだ?」
セイジはその悲鳴のした方向を見て言う。
「西の宿屋の茂みか?」
私もセイジの見ている方向を見るとそこには立派な造りをした建物が見えた。そこはセイジの泊まっている宿屋とは別の、もっと高級な宿だった。やはりその側にある茂みから悲鳴とともに声も聞こえてきた。
「畜生!何だ今の突風は!ズボンが!」
「ああ!スカートが!なんて事!」
用を足している合図として吊るしているズボンやスカートだが当然強風なんかが吹けば落ちてしまうだろう。そして落ちた先には排泄物があるのである。
「なんか悲惨な事になってるな」
「ああ、クソバーがあればあんな事にはならないのにな」
一応空いている所を探しつつ私達は街をぶらついているとまた叫び声がする。
「雨だ!」
「なんでここだけ!」
「せっかく気持ちよく出してるのに!」
その騒ぎの元は茂みだった。役場の側である。そしてなぜか役場の周りだけ雨が降っている。空を見上げれば気持ちのいい晴天である。セイジはこれを狐の嫁入りと言っていた。
「この世界でもこんな事もあるんだなぁ」
「そうだな。雲がないのに雨が降るなんてな」
「こんなに澄みきった青空なのにな」
「それでなんで狐が嫁に行くんだ?」
「さあな。そういう言い伝えがあったんだ」
「その狐は人間と結婚するのか?」
「いや、狐同士の結婚じゃなかったかな」
「良かった。セイジ達は動物と結婚するような人達じゃないんだな」
「分からないぞ。狐や狸は人に化けて人を騙すって言うし」
「セイジは実は狐や狸なのか?」
「婆ちゃんの婆ちゃんの爺ちゃんくらいなら狐に騙されたりはしてたかもな」
なんて馬鹿な事を話していると雨は止んだようで茂みの騒ぎは収まっていた。雨の後の茂みなんて地面が凄いことになってるだろうにそれでも人は残っていた。
「お。」
「おお。」
またぶらついていると不意に揺れを感じた。地震である。茂みのすぐそばだった。
「セイジはなんか平気そうだな」
「ん?ああ、まあ、慣れてるっちゃ慣れてる。イーレもあんまり驚いてないね」
「うん。これくらいの揺れなら年に何回かあった」
揺れ自体は大したことはない。しかも局所的。だがこの世界の人にはこのくらいの揺れでも大騒ぎするようで茂みからは悲鳴が聞こえる。
「おお!ビフィドの神よ!お許しください!」
「この世の終わりだ!」
揺れているのは側の茂みだけではなかった。
「ああ、商品が倒れる!おい!そこ押さえろ!」
どういうわけか近くにあった露店だけが揺れている。一度地震が起きれば辺り一帯が揺れるのにその局所的な揺れ方は随分奇妙に見えた。
「ん?どうした?セイジ」
「あ、いや。この世界の建築物の耐震性は大丈夫かなと思ってね」
「タイシンセイ?」
耐震性とは建物の揺れに対する強さであるとセイジは教えてくれた。周囲の建物はレンガ造りだったり木製だったりするがそこは揺れてはおらず倒れたり崩れたりと言うことはない。
「あの辺りは揺れてないな。なんだこれ?」
その地震の奇妙さにはセイジも首を傾げている。セイジのいた世界では地震が多かったらしく建物が倒壊した事もあるのだと言う。この世界の建物はセイジ達の世界からすると古い造りをしているので地震なんて起こればもっと酷いことになるんじゃないかと不安になったそうだ。
「まぁ昔ながらの建築物が壊れなかったりするからな。この世界の建物はああ見えて結構丈夫なのかも知れない」
気付くとあちらこちらで地震が起きている。それもやはり局所的にだ。
そんな地震騒ぎもやがて収まった。茂みから慌てて飛び出てきたような人もいたが下半身が裸なのに気付いて今度は慌てて茂みに戻っていく。街の人々は次第に平静を取り戻しそして最初から地震なんてなかったかのようにいつもの喧騒に戻っていく。
「この世界の人達も結構平気みたいだな」
「ああ、マイペースというか商魂逞しいと言うか」
セイジは近くの露店を見ている。倒れないように抱きとめた大きな瓶をそのまま客に売り込む商人がいた。その隣では地面に落ちた鞄に特価品と書いて売る商人がいる。私とセイジはしばらく商人たちの図太さを眺めていた。
「あ。」
「どうした?イーレ」
「いや、別に。なんでも」
波が来た。我慢だ、我慢。この波さえ乗り切れば落ち着くはずだ。
「にしてもどっかにないもんなのかねぇ」
「あ、ああ。そうだな」
便意の波は引き私の下腹部は平穏を取り戻す。
「あ、そうだ」
私は突然そこに思い至る。
「宿所なら空いてるはずだ」
「宿所?」
「そうだ。街道警備隊の宿所だ。私もここに住み始めたばかりでな。すっかり忘れていた」
「イーレの家って事か。じゃあ行ってみるか」
荷物を置いてくるついでにもなるので私達は早速宿所に向かう。だが
「あー、今いっぱいだわ」
宿所に着くなりデートはどんな感じだと聞いてくるラベールと桂花を軽く流してクソバーに行きたくなったがどこも人でいっぱいだと事情を説明するとそう答えが返ってきた。
「なんでだ⁉」
宿所に残っているのは私達のような非番の人間が数人と管理人がいるだけのはずだった。
「丁度キャラバン隊に同行してた人が泊まりに来てるんだよ。ほら、ここそのための部屋もあるじゃない?」
「ここは我々街道警備隊員にとって宿り木のような物である」
期待はしてたので少々がっかりした。
「そうだ。自警団のとこはどう?あの辺なら人もいないしさ」
ラベールの閃きと案内によってそこに行くことにした。だがそこもいっぱいだったのである。
「ちょっとどういう事よ」
自警団の詰所の中、押し入るように入ったラベールは詰所の中にいるおじさんに詰め寄る。彼はラベールと桂花とは顔見知りであり、でもそんなに仲良くはないらしい。
「ああん?当たり前じゃねえか。何言ってやがる。良いか?俺たちの仕事はなんだ?街と人々を守ることが仕事だろう。キャラバンのおかげでただでさえ盗賊の的になってんだから警備体制だって強化するさ」
「にしたって多すぎでしょ」
ラベールは茂みを指差す。
「どうぞご自由にって書いてあるだろ?そう言うこった。糞が出来なくてここに来る人間が減っちゃあ俺たちは失業だ。それはお前らも同じだろう」
「ぐぬぬ」
「お前ら街警がしっかりしてないせいでこうして俺らが気張らにゃならんのに」
「あー!男のくせに女々しいわね!あんた達に仕事させてやってんのよ!大体こないだのやつは何よ!」
街道警備隊と自警団はそもそも仲が悪い。自警団は街で盗賊が出れば街道警備隊の不手際を指摘し、街道警備隊からすれば長い街道のその全てを少ない人数でフォロー出来るわけでもなく自警団の事をただ同じ所に留まって楽している連中としか思っていない。それでもラベールが躊躇いなくここを訪れる事にしたのは自警団にただ文句を言いに来たかっただけらしい。
ラベールとおじさんの口論はたまたま自警団の詰所を訪れた警備隊の人間まで加わり大騒動となり始めていた。私とセイジは騒ぎに巻き込まれ詰所を追い出されてしまったのでまた別の場所を探すことにした。
「なんだこれ…」
再び街の中央広場に辿り着くとそこも大騒ぎになっていた。ある人は大雨でびしょ濡れになっている。ある人はまるで竜巻にでも巻き込まれたかのように髪をボサボサにしている。商人は倒れた商品を陳列し直している。そんな人がゴロゴロしていた。一人や二人の話ではなかった。
「おっと」
また地震である。
「あああ!もう揺れるんじゃねえ!商品が!」
不意に突風が吹き側を歩いていた女性のスカートが捲れ上がる。
「さっきから何なのよ!」
ふと雨の匂いを感じて振り向くとそこは大雨だった。
「なんで晴れてんのに雨が降るんだ!」
私とセイジはその奇妙な光景に唖然としていた。
「これは一体…」
すぐそばで異常が起きているのに私達だけは全く無事だった。
ふと胸騒ぎがして私は空を見上げる。そこには水の精霊様が空を飛んでいた。
水の精霊様は空を駆けある場所でくるりと回る。その直後その下は土砂降りの雨になった。
風の精霊様も同じように優雅に舞う。すると風が巻き起こり強風が人々を煽る。
土の精霊様は仁王立ちしたまま足を踏み鳴らす。そして大地は揺れる。
「そんな、精霊様が」
未だかつてこんな事はなかった。いつでも気前よく力を貸してくれる精霊様に私はすっかり甘えてしまっていた。精霊様は決して人を傷付けないと、私はそんな風に思い込んでいた事に気付いた。
「セイジ…」
私は黙ってセイジの手を握る。
「セイジにも見えるか?」
「…ああ、これは一体」
「精霊様がお怒りになられている」
私はそう言うのが精一杯だった。
「お怒り?なんで」
セイジは目の前の光景に目を丸くしながら言う。
「それは、クソバーがないせいだ」
そう、クソバーとはただ排便をする所ではない。私達が自然の一部である事、私達が生きていられるのは自然の循環の中にあるからであるという事、それを自覚し森羅万象に感謝を捧げる場なのだ。それを欠いた時人は驕り自惚れ無謀にも力を過信した挙げ句生きていられなくなるのだ。そんな人間に力を貸そうなどと精霊様が思うわけがない。
「なんでこんな時にクソバーなんだ」
「セイジだってクソバーで用を足すんだろ⁉」
「クソバーじゃなくてトイレだ!」
未だにセイジの言うトイレと言う物が分からない。一体クソバーとどう違うと言うんだ。
「熱っ!」
「大丈夫?」
「ああ、平気だよ」
そばを通りがかった男女の会話が耳に入る。きっと焼き立ての腸詰めか何かのせいだろう。
「…熱い?」
セイジにも今の男女の会話が聞こえていて何かに気付いた様子だ。
「イーレ、あの青いのが水の精霊か?」
「そうだ」
「なら緑のは風の精霊で茶色いのは土の精霊か?」
「そうだ。セイジ、青いのとか茶色いのとか失礼だぞ!」
「そんな事はいい。なら火の精霊はどこにいる?」
「火の精霊様ならさっき噴水の所に…」
そこには誰もいなかった。さっき噴水の縁に腰掛けて周りを眺めていたと思ったのだが。
「火の精霊も怒っているのか?」
「いや、分からない。今どこにいるのかも」
「不味いな…」
セイジはそう呟く。
「不味いってどういう事だ?」
「水の精霊が暴れたとして今は雨を降らすぐらいだ。風の精霊は風を起こすだけ。もちろん激しくなると駄目だろうけど」
セイジは辺りを見ながら言う。相変わらず精霊様は猛り狂ったかのように街中を飛び回っている。
「土の精霊は地震だ。これは危ないけど、でもさっきみたいな揺れ程度ならまだ大丈夫だ」
「火の精霊様は?」
「火事はまずい。もし露店に火がついたとしたら」
言われて血の気が引くのが分かる。露店は通りの両端にひしめき合うように並んでいる。店と店の隙間なんて人が通れる程もない。そして布張りの屋根はとても燃えなさそうには見えなかった。その一箇所にでも火がついたら瞬く間に燃え広がってしまうだろう。
「でも水の精霊様がいれば」
「いや、風と地震が組み合わさったら多少の雨じゃどうにもならない。こんな街一つあっという間に燃え尽きてしまうぞ」
「私のせいで街が…」
まだこの街に来て日は浅い。だがこの街は好きだった。一人一人の営みが街を賑やかに活気のある場所にしている。それを私の不手際のせいで破壊してしまうかも知れないと思ったら怖かった。手が震える。
「イーレ!」
私の手の震えが握った手から伝わったのかセイジの声は私を叱咤しているように聞こえた。
「どうすれば精霊の怒りは静まる?」
「それは」
考えられるのはクソバーだった。でもクソバーはこの世界にはないのだ。
「クソバーか?」
「…ああ」
「なんでクソバーなんだ」
「クソバーは自然と人間との間を取り持つ場なんだ」
「精霊は自然の存在でクソバーがその橋渡し役という事か?」
「そうだ」
「なら、自然を感じられる場所なら良いのか?」
「ああ、でもそんな場所なんて…」
セイジは何か閃いた様子だ。
「イーレ、精霊の力でここから遠くまで移動することは出来るか?例えば空を飛んだり」
精霊様の力で空を飛ぶなんて考えた事もなかったので少し驚いた。
「たぶん出来る、と思う。だが今の私の願いを精霊様は聞き入れてくれるだろうか」
「大丈夫。やってみよう。ダメで元々だ」
セイジは私の手を離し、私は両手を組んで目を瞑り精霊様に祈りを捧げる。
不安はあった。だが次の瞬間体がふわりと軽くなる。目を開けると私は宙を浮いていた。
「イーレ!」
初めて感じる浮遊感に戸惑っていた私はセイジの伸ばした手を思わず掴む。その瞬間セイジも浮いていた。周りを見れば私達は緑色の風に包まれていた。
「セイジ、どうすればいい⁉」
「森だ!ビフィドの森に飛べ!」
セイジの意図は汲み取れなかったが私はとにかく夢中で祈った。
「ここは?」
セイジの指示で飛んだ先はビフィドの森だった。
「ここなら丁度いいだろ?」
「ここで何をすれば」
「何言ってんだ?トイレだよトイレ。いや、イーレの場合はクソバーか」
そこでようやくセイジの意図が分かった。そして不意に訪れる便意を私は堪えられそうになかった。
「すまない、ちょっと行ってくる」
「ああ行っといで」
森の中はマナに満ち溢れていた。木々の葉が擦れ合う音、おそらく川の源流の一つであろう湧き水とそこから流れるせせらぎの音、鳥のさえずり。ここは静かだが音の一つ一つが自然の鼓動、生きている証左に感じられる。元いた世界では当たり前に感じていた光景だ。私にとってここはとても落ち着く場所だった。精霊様の姿はどこを見ても見えなかった。だがこの場所に漂う優しい存在感は精霊様そのものだった。そうか、見えなかっただけで精霊様はいつも側にいたんだなと私はそんな事に気が付いた。
これは後から聞いた話だが私達が街から飛んで行くのをラベールと桂花は見ていたらしい。彼女達は警備隊の人間と一緒になって自警団と乱闘騒ぎになっていたところ街中での騒動の通報を聞いて駆けつけたそうだ。そして街中に付いた瞬間私達が飛んで行くのを見たという。
「まるでおとぎ話のお姫様みたいだった!」
ラベールはそう興奮気味に言った。
街中での騒ぎは私達が飛んで行ったあとパタリと止んだそうだ。セイジは
「精霊はイーレが用を足せるように茂みから人を追い出そうとしてたんじゃないかな」
と言っていた。だから火の精霊様は火をつけて暴れるような事はしなかったし、水の精霊様も、風の精霊様も、そして土の精霊様も人の身に危害を加えるような事はしなかったのではないかと。つまり私達の危惧は杞憂に終わったという事だ。
この話にはまだ続きがある。
「あれは精霊様がやったのかい?」
そう尋ねてきたのは露店組合の長をしているという太った老人だった。私がそうだと言うと
「またやってくんないかな⁉実は単に露店を出すだけじゃつまらないと思っていたんだよ!こないだのあれ!お客さんからも受けが良くってね!雨に濡れたおかげで思い切って服を買ったとか、風に吹かれたおかげでいい髪留めを見つけられたとか、地震で落ちた商品がお値打ちになって良い買い物が出来たとかね!」
なんて興奮気味に言われて私は開いた口が塞がらなかった。
「マンネリ化した露店街に刺激的なサプライズだったよ!はっはっは!」
とにもかくにも誰も不幸なことになってなくて良かったと私はホッと胸を撫で下ろしたのだった。
「ふーむ。」
「うむ。」
「どうしたんだ?二人して」
ビフィスを発って二日後、私達は盗賊団らしきものを見かけたという辺りで野営の跡を見つけた。焚き火をしたであろうかまどの跡、テントを張った時の杭の跡、食べ物の残り滓、それらを見るに確かにここで野営をしていた人間がいたというのは明らかだった。
「なんか変じゃね?」
「奇妙だな」
「何が?」
二人は私を見る。
「コレは盗賊団の仕業なの?」
ラベールは言った。
「整然とし過ぎている。」
桂花はそう呟く。
「野営跡ならこんなものじゃないのか?」
「イーレは軍隊にいたんだっけ?」
「ああ。一ヶ月ちょっとだけどな」
「その時も野営とかはあったんだよね?」
「もちろん」
「こんな感じ?」
「当然だ」
立つ鳥跡を濁さずと言いながら片付けていた男がいて感心したものだ。
「野営の経験ってあとは警備隊に入ってから?」
「そうだ」
「私達もこんな感じにしてくよね」
ラベールは辺りを見ながら言う。
「確か盗賊団らしきものを見かけたという話だったな」
桂花は言う。
「盗賊ってさ、もっと適当なんよ。ゴミとかそのまんまだし酒瓶なんかも放置だし」
「テントの張り方も雑然としているしかまどを作ったりなんかもしない。作ってもそのまま放置だ。とにかく傍若無人を絵に描いたような光景になる」
「盗賊なんてアホだからね基本」
「ならこれは誰が?街道警備隊の誰かとか」
「そのような話は聞いておらぬ」
「自警団の連中ならともかく私らはちゃんと連携とれてますから」
当然自警団でもないのだという。
「じゃあ誰が?」
私はかまどの跡で炭のかけらを見つけて拾う。もう何日も経ったのだろう。炭はしっとりと湿っていた。
「これは、でもそんなはずは」
「だがそれしかあるまい」
ラベールと桂花は杭の跡を見ながら言った。
「これは」
「東方遠征軍だ」