01.トイレのない世界で
地面に穴を掘るというのは結構大変な物である。土は思った以上に固く最初こそ鍬を使っていたがあまりにも掘り進められないので途中からツルハシに持ち替えた。ツルハシで土を砕いて鍬やスコップで掻き出したほうが遥かに早かった。
「セイジ。何か手伝える事はないか?」
地面と格闘する僕に声を掛けて来た少女の名はイーレという。
「いや、特にないな」
「そうか。何かあったら遠慮なく言ってくれよ。協力は惜しまないからな」
イーレはその短い銀髪を揺らしながら笑顔で答える。と、その後ろに人影が近付いている。イーレは気付いていない。
「…イーレちゃん見っけ!」
「なっ⁉」
「んふふふふっ」
イーレは背後から現れた少女に抱きしめられる。
「おい!離せ黒魔術師!また昼間から酔っ払っているな!」
「えへへへへ」
イーレに抱きついている酔っ払った金髪の少女はティレットという。
「イーレちゃん、しゅきぃ!」
語尾にハートマークでも付いてそうな事を言いながらティレットはイーレに頬ずりをしている。
「おい、バカ止めろ気色悪い!」
「えええ、いーじゃん」
まるで飼い主が溺愛する愛犬をわしゃわしゃするような様子でティレットはイーレを抱きしめている。とてもつい数日前に世界を滅ぼしかねない程の殺し合いをした二人には見えない。
「相変わらず賑やかだねぇ」
「あまり騒がしくなさいませんように。エアリィ様の仕事に差し支えが出ます。」
メイドを伴って現れた黒髪でメガネを掛け胸元には男ならつい目が行ってしまう程の立派な物を携えた少女の名はエアリィと言う。
「なら、この馬鹿をなんとかしてくれ!」
酔ったティレットはまだイーレに頬ずりをしている。余程抱き心地が良いのかティレットは実に幸せそうである。
「洋子さん、お願い」
「かしこまりました。」
メイドの名は洋子と言う。エアリィが付けたそうだ。
「ティレットさん。そこまでですよ」
ティレットは結構な力でイーレに抱きついていたはずだが洋子さんは簡単にイーレからティレットを引き剥がす。ティレットはきょとんとした顔をしている。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
受難が去りイーレは安堵しその場にへたり込んでいる。
「んふふふふふっ」
イーレから無理矢理引き剥がされて泣き出しでもするかと思ったら笑い出すティレット。女心と酔っ払いの心理は分からない。
「清治、作業の方はどうだい?」
エアリィは僕の掘っている穴を覗き込みながら訊ねてくる。
「まだまだ先は長いな」
穴は縦五メートル、幅は三メートルの楕円形で掘る場所の目安となるよう掘り起こしておいたが深さはまだ三十センチメートル程しか掘れていない。目標の深さは四メートルだ。
「まぁ始めたばかりだしね。諦めずに頑張ってくれたまえ、川谷清治君!君は私達の希望なんだから」
「ああ、任せとけ」
エアリィの期待を胸に僕は再びツルハシを握る手に力を込める。時刻は午後三時。夕暮れまでにはもう少し掘り進めておきたい。僕はツルハシを振りかぶり地面に打ち付けた。
唐突な話だが僕は今異世界にいる。この世界の名前はティレナイ。どんな世界かを簡単に言うならばここはトイレのない世界である。
最初はトイレと言う名称を使っていないだけだと思った。なぜだか分からないが日本語が通じるからといって世界が違うのだからトイレの事をトイレと呼ばなくても不思議はない。日本に限ってもトイレを表す言葉はたくさんある。便所、トイレット、化粧室、厠(僕の名字、川谷はカワタニと読む。決してカワヤと読むのではない)、手水場、お手洗い、御不浄所。だがそれらを思いつく限り口に出してみても一つとして通じなかった。仕方なく排便する所だと説明して帰ってきたのは
「その辺の茂みですりゃあいい」
との素っ気ない答えだった。
だがこれだけならこの世界にトイレがないとは言い切れない。
僕がこの世界で最初に出会った町の名はビフィドというのだが、この町は見るからにど田舎でだからこそここにトイレが整備されていないだけ、またはトイレ文化と言うものがここに伝わっていないだけという可能性は残っていた。だがビフィドから牛馬という牛なのか馬なのかよくわからない動物の引く馬車のような乗り物で一時間程かかる街ビフィスに着いて僕の期待は裏切られたのである。
ビフィスは大きく長い街道の中継地として栄えていてビフィドとは比べ物にならない程の都会であった。流石に僕の暮らしていた現代日本の首都、東京には劣るがそれでも人の多さは東京の雑踏を連想させた。だがここにもトイレはなかった。無愛想な宿屋のおじさんに聞いてみてもトイレに類するものはなく、そんなものは聞いたこともないという。ならどこで用を足すのかと尋ねれば無言で窓の外の茂みを指さしたのである。
ビフィスは街道を行き交う商人たちが多く訪れる街でもあるので様々な人にトイレはないかと聞いてみたが、結局トイレらしきものはこの世界のどこにもないようであった。その辺の茂みこそがトイレというわけである。
要するにトイレに行きたかったら野糞をしろという事である。当然困った。僕は野糞なんてしたこともない。それどころか和式トイレにすら抵抗があるくらい洋式に慣れさせられているのだ。
まずしゃがむのが辛い。足が疲れてしまってゆっくり用を足すななんて出来ない。それにズボンを脱ぐのが面倒くさい。玄人ともなれば膝までズボンとパンツを下ろしそのまま屈むだけで用を足せるらしいがこれが出来ない。そんな事をしようものなら大のついでに出た小でズボンとパンツが汚れてしまうではないか。だからズボンは脱ぎドアに付いている引っ掛けに吊るし(この引っ掛けはこのためにあると思っている)パンツは片足だけ脱ぎ片方に寄せておく。この際にいちいち靴を脱ぎ履き直さなければならない。これを足元に絶対に落ちたくない穴のあるなかでやるのは中々大変だと思う。ちょっとバランスを崩して穴に足を突っ込んでしまったらと思うと恐ろしい。と、ここまでは和式トイレ、しかも水洗での話である。この世界では野糞であり足元にはそこかしこに人々の営みの痕跡が残っているのである。誰も人の物を踏みたいなどとは思わないだろう。それに何より臭い。いくらこの世界の生物、特に微生物がこの環境に適応し排泄物の分解が早いとは言っても多くの人が用を足す以上限界はある。いつ行ったって糞は残っているのだ。正直最初は逃げ出したいくらい嫌だった。元の世界に帰りたいと切望した。
ツルハシを振り下ろし土を起こす。起こしたら再び振りかぶり地面に振り下ろす。単純作業の繰り返しだが自分でも思った以上にこういう事は向いているらしい。この世界での生活に慣れて気付いた事だ。それは例え野糞といえど三ヶ月もしたら慣れるようである。人は生きる以上物を食べなければならず食べる以上当然糞は出る。多少の我慢は出来るかも知れないが出さない訳にはいかないのだ。だから慣れるしかなかったのである。だがこれは何も僕の適応能力だけの結果ではなくこの世界にある二つの習慣が助けとなった。一つは排便の際ズボンを頭上の木に吊るしておく習慣だ。これまた当たり前ではあるが用を足す時は一人で静かに行う物である。人は間違っても
「やあポール!今日も元気そうだね」
「マイクもね。そう言えばこの前言ってた釣り竿だけど」
「ついに貸してくれる気になったかい?」
「ああ。ただし条件がある」
「無理な注文はしないでくれよ」
「君なら簡単に出来るさ」
「その条件ってのはなんだい?」
「池の主を釣り上げる事さ」
「はっはっは!そんなの朝飯前さ!」
なんていう会話をうんこしながらする気にはならない物である。それはこの世界の人々も同じなようで先客のいる所には近づかなくても良いように頭上にズボンを吊るしておくのである。ズボンがぶら下がっていたら人がいる、という事でその場所を避けて別の場所に陣取る事になる。ちなみにこの世界では女性はほぼ全員スカートを履いている。たまにはズボンや女性物のハーフパンツを履いている人もいる。ズボンの上にスカートを履いている人もいる。当然女性と言えど野糞をすることに変わりはなく彼女達もまた排便時には男と同じ様に履いているものを吊るすのである。
さて、人間に限らず動物というものは排便中には当然無防備な状態になるものだ。もし排便しているのが女性ならこれは暴漢からすれば絶好のチャンスとなる。だがそんな事をするような輩は極悪非道な外道とみなされ街やコミュニティから徹底的な排除を受ける。土地によっては袋叩きの上、海に放り込まれるとか。そんな卑怯な事をするやつに人権も生存権もないのである。だからこそ女性は女性が用を足している事をスカートや女性用の履物でアピールし男性に近寄らないよう警告する。男性側としては疑惑すらかけられるのを恐れそのような場所には近付かないよう気を付けるのである。
この習慣によって和式ではズボンを全部脱ぐ派の僕としては市民権を得たような気分になり堂々とすることが出来たのである。
さて、僕を野糞に慣れさせてくれたもう一つの習慣がこの大葉ミントである。名前の通りミントのような清涼感を持った大きな葉である。この葉っぱでどうするのかというと用を足した後に尻を拭うのに使うのである。拭いた後には爽やかな清涼感が肛門に残り実に清々しい。そよ風でも吹こうものなら得も言われぬ快感が…いや別に変な趣味に目覚めたわけではない。それに普通のトイレットペーパーに比べて丈夫である。ちょっとやそっとで破れそうにはない。そのくせ実に柔らかく肛門を拭くのにこれ以上に相応しいものはないだろう。しかもこの大葉ミントはその辺の茂みにたくさん生えている。つまり微生物によって分解された糞が栄養源となっているのだ。まったく素晴らしい循環である。この大葉ミントによって温水洗浄機付き便座で用を足せなかった後の尻穴の不快感を大きく減らすことが出来たのである。仮に元の世界に帰れるのならこの葉と種を持って帰りたいくらいだ。僕はそれくらいこの大葉ミントを気に入っている。こうしてこの世界でのトイレ習慣に対する抵抗感を減らすことが出来たので僕はそんなに困らずに済んだのである。
「イーレ、今日の晩ごはんはなんだい?」
「そうだな。肉屋にあるものでと考えてたんだが、エアリィは何か食べたいものあるか?」
「いや、イーレの作る物だったらなんだって良いよ。ホント一緒に住んでくれて助かるよ」
「私も感謝しております。貴女のおかげでエアリィ様に満足な食事をしていただける。」
「そう畏まって言われると照れくさいな。趣味でやってるようなものなのに」
「照れない照れない。実際美味しいし」
僕がツルハシを振り下ろしている横で少女達は他愛もない話をしている。
「ティレットは何か食べたいものある?」
「んーーー、イーレたん!」
「こら抱きつくな黒魔術師!私は食べ物じゃない!」
「あーあ、また始まっちゃった。」
「まったく仕方ない人ですね。ほらティレットさん、お気を確かに」
「んんん、えへへへへ」
だが彼女たちは僕とは違っていた。イーレもエアリィもティレットもこの世界の住人ではなく僕と同じようにこことは別の世界から来た異世界人である。そしてこの世界にトイレがない事に慣れることはなくトイレがない事に困っていたのだ。
もう何度目になるか分からないが再びツルハシを振り下ろす。日暮れまで後二時間。穴は大して掘れていない。完成までまだまだ先は長そうである。
「順調そうだな、セイジ」
一昨日、昨日と夢中で掘り進めた結果穴の深さは一メートルくらいになった。外から見るとまさに穴という感じで中々の達成感を味わっているとイーレが声を掛けてきた。身なりは腰までの長さで丈夫そうなコート、その下はスカートにも見える動きやすそうなハーフパンツ。背中には大きなリュックを背負っている。イーレの仕事着だ。
「もう出掛けるのか?」
「ああ、十時出発だからな」
今の時刻は九時ちょっと過ぎ。イーレ達の集合場所である北門まではここから歩いて二十分ほど。丁度いいタイミングだろう。
「気をつけてくれよな」
「心配しなくてもいい。私はいざという時のサポート役だからな」
イーレはこの世界で魔法使いとなり街道警備の仕事を手伝っている。一見平和そうに見えるこの世界だがならず者や盗賊、強盗などは存在する(ちなみに異世界らしく魔王とか魔族なんかもいるらしい)。そういった輩が街道を行き交う商人や旅人を襲わないように警備が必要でその仕事にイーレの魔法が活躍するのである。
「それに精霊様が付いているなら怖いものなしだ。」
この世界での魔法は精霊の力を借りて行う物だそうだ。火、水、土、風それぞれに精霊がいてその精霊の力を使って様々な現象を引き起こす。それが魔法。本来は一人一属性が基本で例えば火の精霊の力を使う魔法使いには他の属性の魔法は使えない。一生を掛けて魔法を極めた達人がようやく二つ目をなんとなく扱える程度にしかならないそうだが、イーレはこの四つ全ての魔法を使うことが出来る。なんでもイーレは精霊たちにとても気に入られているらしく全ての精霊が気前よく力を貸してくれるのだそうだ。この世界の魔法使いからは「さすが異世界人!」とか「イーレさんマジ半端ねぇ!」とか思われているらしい。
「それよりも心配なのはセイジ達の夕食だ。一応今日明日の分は作っておいたがその後は自分たちで用意出来るのか?」
イーレはこの世界よりももっと原始的な生活をしていた。狩猟や採集で食べ物を得てそれを元に食事を作るのはイーレ達女性の仕事だった。
「大丈夫だよ。大体ここで暮らす前はそれぞれ生きてきたんだから二日三日くらい粗末な食事でも生きていけるさ」
今回のイーレの出張は三日はかかるそうで確かにイーレの作る美味しい食事がなくなるのは辛い。
「でも早く帰ってきてくれると嬉しい。」
イーレはこの世界での食材の豊富さに感激したそうだ。特に香辛料は類は彼女にとって衝撃的な物だった。今までよりも様々な料理を生み出せる事は料理を生きる為の義務から楽しみへと変化させた。僕らは彼女が嬉々として作る料理の恩恵に与っているのである。
「ああ、なるべく早く帰ってくるから待っていてくれ」
僕が頷こうとした瞬間もの凄い速さで飛んできた何かがイーレに抱き付いた。
「イーレちゃん!行っちゃやだあああ!」
ティレットだ。イーレは自分よりも背が高くナイスバディなティレットに抱き付かれ身動きが取れなくなりいつもの酔っ払いの奇行にうんざりした顔をしている。
「おい、ティレット。また朝から酔ってんのか?」
この世界来た異世界人の魔法使いは酒が飲み放題である。ティレットも魔法使いでその特権をこうして正当な形で行使しているがイーレはその酒を料理に使ったり香辛料を買うために金に替えたりしている。
「黒魔術師よ、流石に今日だけは勘弁してくれ。仕事に行く前に疲れてしまう」
「やだやだやだ」
と繰り返すティレット。
「ちょっと洋子さん呼んでくる」
「ああ、頼む」
諦め顔で酔っ払いの為すがままのイーレを助けるために僕はツルハシから手を離し洋子さんの元に向かった。
クソバーとはイーレの世界の共同便所である。作りは単純。地面に大きな穴を掘りその周囲にいくつか小屋を作る。小屋の床に開けられた穴から外の大穴まで滑り台のような板を設置しこの上で用を足せば排泄物は大穴の底へと滑っていくという仕組みだ。大穴が一杯になったら種を蒔き土を被せる。小屋は解体しまた別の所に穴を掘りそこに設置してクソバーを作る。クソバーだった所には草が生い茂り自然に還るというわけだ。またこの穴には食料になった動物の骨や貝の殻、果物の種などのゴミを捨てる場所でもあった。古代の貝塚を連想させるがイーレ達の生活もまた縄文時代とか弥生時代のようなものだったらしい。狩りや採集で食料を得、物によっては栽培も行っていたとのこと。狩りこそ男性の仕事だったが採集や貝拾いなんかは女性も行っていた。そして集めた食材を村に持ち帰り調理して食べる。その繰り返し。たまには祭りやそれこそクソバーの移設などのイベントはあったようだが実に平和的で長閑な生活である。
さて、ここで一つの疑問がある。イーレが野山や川に出掛けた時にトイレはどうしていたのだろう。当然山や川にトイレはない。となれば野糞するしかない。まさか朝クソバーで用を足し帰ってくるまでどんなに漏れそうになっても我慢する、というわけにもいかない。つまるところイーレは野糞なんて平気なんじゃないかという事だ。気になったので当人に直接聞いてみたらやはり野糞自体にはさほど抵抗は無いという。ならばなぜトイレが、彼女にとってはクソバーだが、それがなくて困っていたのだろうか。答えは彼女達のトイレ観にあった。
現代日本人にとってトイレとは排泄を行う場所である。時に排泄物以外を出したり中にはその小さなプライベートな空間そのものに価値を見出す人もいるが基本的には用を足す場所である。それだけである。だがイーレ達は違う。クソバーとは儀式の場なのである。そもそも排泄行為の意味からして違う。人間にとって排泄行為は糞や小便という体内の老廃物、食べた物の成れの果てを体外に排出する行為である。イーレ達もここまでは同じだがその後が大きく異なる。排泄物は自然界で分解され土となり大地に還る。その土を元に新たに植物が育ち、動物はその植物を糧とし、その動物は人間の糧になる。イーレ達は自分たちが自然の循環の中にある事をよく知っているのである。自然の恵みのおかげで自分たちが生きていける。だから排泄行為とは自然と一体となり感謝を捧げる行為であり、それを行う場所がすなわちクソバーなのである。
また彼女達はこの自然に神や精霊を見出した。原始的な宗教、精霊信仰である。だからクソバーとは精霊に対し祈りを捧げる場所なのである。つまりそれがないからイーレは困っていたのである。無宗教である日本人、特に僕なぞまるで神社に行ったりはしないので分かり辛いが毎日欠かさず神社に御参りするような人がそれが出来なくなるようなものだろうか。だがイーレにとってそれは僕らが思う以上に深刻な問題だったのだ。
「やあ、清治。頑張ってるね」
何も考えずツルハシを穴の形をしてきた地面に打ち付けているとエアリィが現れた。後ろには洋子さんもいる。
「まあな。そっちはどうだ?」
エアリィはこの世界で賢者として活躍している。
「あー、とっても、タイヘンだーねー」
エアリィは心底疲れた顔で言う。徹夜でもしたのだろうか。
賢者の仕事は異世界から来た人間の残した文書の解読である。異世界人は様々な文化や知識をこの世界にもたらした。例えば時計である。この世界の文明レベルはそんなに高くはない。車はもちろん電気なんかもない。だからテレビ、パソコン、冷蔵庫、洗濯機、エアコンも当然ない。だが時計はあった。何を動力にしてどんな仕組みで動いているのか分からないがここにある時計は正確に時を報せてくれる。これは異世界人のもたらした技術だという。そして時に異世界人は文書の形でその知識を残すことがある。その知識を活かすためにはそれを正確に理解することが必要でエアリィは賢者としてそれを仕事としているのである。つい二ヶ月ほど前にも異世界から来て戦士となった人物の残した書物が発見されたとかでエアリィの元に来た。その内容は解読するまでもないらしいがこの書物についての報告書を書くのが面倒らしくこうして毎日格闘しているのだという。
「そうか、よくわからんがお疲れ」
そんなわけで異世界人とこの世界の住人をつなぐ賢者の仕事は非常に重要とされそれに相応しい待遇を以って報いられる。それがこの豪邸だ。最初に訪れた時は自身への待遇との違いに激しく憤りを感じたがエアリィの仕事を見ていると万が一にも賢者に間違われなくて良かったとホッとしたのである。
「はいどーも」
「で、どうかしたのか?気分転換か?」
ずっと室内に籠もっていると気が滅入ってくる事もあるだろう。適度な休憩は必要だ。
「いや、ちょっとね」
「ん?」
「いやほら、察して察して。こんな事女の子に言わすなよ」
僕は少し考えてエアリィが外に出てきた理由に思い至る。トイレである。小の方こそ室内で済まされるが(エアリィは普段手頃な大きさの酒瓶を尿瓶代わりに使っている。これを片付けるのは洋子さんだ)大の方となるとそうもいかない。おまるじゃ駄目なのかと聞いてみたらそれは抵抗があるらしい。
「分かったら作業に集中してくれたまえ。あと出来るだけ大きな音を立ててね」
「はいはい」
言われなくても女の子の排泄する音に聞き耳を立てる趣味はない。
僕はちらりと洋子さんを見る。洋子さんもこちらの視線に気付く。彼女は何も言わない。僕も何も言わない。
僕はエアリィと僕らの住む豪邸の脇にある茂みに向かう二人を余所に穴掘りを再開した。
搾便器とは未来の日本のトイレである。
日本のトイレは太平洋戦争後飛躍的に進化した。和式のボットン便所だったものが今や洋式水洗で温水洗浄便座が当たり前になった程である。立派な物になると便座の蓋は自動で開いたり洗浄によって濡れた肛門を乾燥させたりもする。ここまでたかたが七十年だ。進化の速度は異常な程に速い。そして僕らの時代から三百年後、日本のトイレは搾便器へと至ったのである。搾便器とはそもそも介護用に作られたものらしい。股間に装着した装置の中では出された汚物を吸引し陰部や肛門の洗浄まで完全自動で行う。この搾便器により介護する側の負担は大きく減った。そして人間はこれを介護向けだけでなく一般向けの物も作り出したのである。
搾便器の形状は伸縮式の筒型で大体大きめのペットボトルのようなサイズだそうだ。これをトイレ内に設置された便器にセットして使う。搾便器そのものは毎回綺麗に洗浄されるがそれでも人と兼用するのは気分の良いものではない。だから搾便器は各個人専用の物を使う。さらに家庭用と携帯用まである。携帯用を持ち運ぶ際には専用ポーチに入れて持ち運ぶ事になるのたがこのポーチは一種のお洒落ポイントとして個性をアピールする手段となった。まるでスマホとスマホケースのような物である。
さて、これらはすべてエアリィから聞いた話だ。つまりエアリィは僕のいた時代から三百年後の未来の日本から来た日本人である。三百年の間に僕の住んでいた日本の首都東京は大きく様変わりした。都庁は新宿ではなく多摩地方に移転し都市の都市らしい所は全て多摩の方に移ってしまったという。僕は八王子からちょっと離れた所に住んでいたがその辺りはもう若者にとっての憧れの場所、あらゆる文化の先端として発展しているそうだ。逆に新宿辺りは僕らの時代からさほど遠くない未来に地盤沈下や海面上昇によって一度壊滅してしまった(この辺りは歴史の教科書に載っていたそうだ)。さらに後に復興するものの一度災害に見舞われた地として敢えて住もうとする者は少なく、そのおかげで賃料が安いからとエアリィはその辺りで暮らしていたそうだ。ちなみにエアリィという名前だがエアリィは生粋の日本人である。漢字で書くと空利依。今で言うところのキラキラネームだ。名前については流行り廃りを繰り返しているようでエアリィが名付けられた頃にはもう何度目か分からないキラキラネームの流行期だったそうな。そしてエアリィの暮らしていた時代には鶴子とか亀代といった名前が流行っている。世の中変われば変わるものである。ちなみに名字は普段は使用されなくなっているそうだ。名字を名乗るのは政治家くらいで結婚する時に初めて自分の名字を知るなんて事は珍しくもないらしい。今から考えるとちょっと信じられない話である。
話が逸れたがそんな日本で使われている搾便器の最大の長所は便意をコントロール出来る事にある。搾便器から出る低周波は肛門と直腸を刺激し装着から一分以内に排便が行われる。また搾便器は直腸内の便の量を測定しそれらが直ちに排泄されるように自動で低周波を調節する。排便後にあるなんとなくまだ腹に残っているような残糞感とは無縁になったのだ。こうして三百年後の日本人は突発的な便意に悩まされる事はなくなったのである。
こんなトイレ習慣だったエアリィがこの世界に来て排便困難になるのは至極当たり前の話である。もし手元に浣腸があるならそのパッケージを見てほしい。浣腸の箱には常用するなと注意書きがあるのだ。常用することでそれなしでは便意が訪れなくなり。自然な排便が困難になるためだ。搾便器だって同じ事である。
問題は搾便器が無いことだけではない。野糞をしなければならない事だ。清潔なトイレで用を足していた人間にとって、周りに仕切りもない、腰を掛ける場所もない、さらに周りには臭気が漂う環境での野糞に抵抗がないはずがない。さらにエアリィは妙な視線を感じていたのである。なにせ周りには背の高い草が生い茂っているだけなのだから排便中を覗かれる可能性はないとは言えない。僕なんかは男の排便を覗いて何が楽しいのかと思って気にもしてなかったがエアリィは年頃の女の子なのである。結果エアリィは便秘に悩まされる事になる。そしてエアリィは同じ異世界人なら同じように悩んでいるだろうと大葉ミントを取ってこいという依頼を異世界人限定で出した。役場からの仕事の依頼、ゲームによくあるクエストみたいなものを受けて生計を立てていた僕はその依頼を受けエアリィの便秘の解消に協力することにしたのである。
穴の深さが一メートルを超えた辺りからちょっとした梯子を使って出入りしなければならなくなったのだが、その梯子も深さが丁度イーレやエアリィの背丈ほどになると出入りがし難くなる。そんなわけで僕は梯子をより大きな物と取り替えるため穴を掘る手を止め豪邸の裏にある物置きへと向かうことにした。豪邸の一階、丁度この穴が見える所には庭を眺めお茶でも飲むに適したような一角がある。この豪邸の今の持ち主はエアリィだが作られたのは何十年も前だという。ここを作った人はあそこで庭を眺めながらティータイムを楽しもうとしたのであろう。今そこではティレットが呆けている。ぶどう酒の入った酒瓶を抱き胡座をかき、どこを見るのでもなくぼーっとしている。一応断っておくが、酒を飲んでいない時のティレットはあんな感じではない。もっとツンケンとした感じで出る所は出て引っ込む所は引っ込んでいるスタイルにちょっと高めの身長とその美貌も相まってすごく格好のいい美人に見える。だが飲むとあの様におかしな感じになる。それでもティレットの境遇を考えればそれも致し方ないと特に酒を止めようとかは思っていない。それでも朝から飲んでいるのはどうかとは思うが。
ティレットのいた世界は滅びに瀕していたという。世界は再生するという事を知らず、何もしないでいればどんどん壊れていくのだと。空間が壊れるとかそれを人の手で作り直すとか聞いても僕にはよくわからなかった。ただ核爆発で都市が滅びるとか隕石の衝突で地上が焼き尽くされるとかそんなレベルではない。そんな事が起こってもせいぜい人の命や人の生存圏がなくなるだけで世界そのものは多少変化したに過ぎないらしい。彼女の世界は文字通り世界がそのものが壊れていくのだという。
そんな中でティレット達その世界の住人はその世界を延命させる為にあらゆる事を最適化した。食事は生きて活動するためだけの栄養をただ補給するための行為、睡眠時間もきっかり決められ自発的な眠気ではなく休眠ベッドの機能による強制睡眠、仕事も当然職業選択の自由などなくただ世界を保つための仕事を充てがわれるだけ。完全にコントロールされた管理社会。それでも一応の娯楽はあった。酒自体もあったがティレットは興味がなくこの世界に来て初めて素晴らしさを知ったらしい。
この世界に来てティレットは自由を知った。食事は美味しく酒も美味い。イーレやエアリィという友人も出来た。そして何よりこの世界は滅びとは無縁であった。滅ばないよう働きかける事をしなくてもいいという究極の平和。
呆けているようにしか見えないがティレットはこの世界の穏やかな日々をああして全身で味わっていると思えばそっとしておいてやろうなどと思うのである。
が、そんな僕の気遣いも虚しく嵐はやって来た。
「ティレットさん!ティレットさんはいるか!」
どやどやと屈強そうに見える男たちが数人豪邸の門を抜け入って来る。
「おい、こっちにいるぞ!」
「車もってこい!」
中の一人が呆けているティレットを見つけると仲間の男たちに声を掛ける。すると大八車のような荷車を引いた男が門から入ってくる。この世界には車もトラックもない。大きな物や沢山の荷物を運ぼうと思ったらこのような荷車を使うのが当たり前なのである。
「ティレットさん!ちょっと来てくれ!」
そして一人の男がティレットに話しかけるが酔っぱらいの反応は鈍く首を傾げ「へ?」なんて返事をするのみ。
「駄目だ出来上がってる。おいどうする」
「いいから連れてくぞ。後で水でもぶっ掛けりゃ正気に戻るだろ」
「ああ、ティレットさん失礼しやすよ」
なんて言いながら二人くらいがティレットの体を持ち上げる。ティレットは「へ?え?」とか戸惑いながらも特に抵抗することなくあっさりと荷車に乗せられる。
「それじゃティレットさんお借りしてきますんで」
男たちの一人が僕に声を掛けてくる。彼とは数回会ったことがあり面識があったので
「はい、ご苦労さまです」
と言って僕は頭を下げる。
「目標確保!全員撤収!」
一人が大声で言うと男たちはあっと言う間に豪邸から姿を消した。当然ティレットは連れて行かれた。
今のは何かと言うとティレットが仕事に駆り出されたのである。ティレットはこの世界に来て魔法使いとなった。イーレと同じ魔法使いではあるが魔法自体は全然別物なんだそうでイーレ曰く「あれは世界を滅びに導く力だ。まさしく黒魔術だ」だそうな。ティレットの使う魔法は精霊の力を借りた物ではないがただただ強力だ。本気を出したらビフィスの街なんて簡単に消し炭になるだろう。その力は今街の防衛に使われている。ビフィスは栄えた街であるので盗賊のような連中からすれば格好の標的である。そのためビフィスでは自警団が組織され街を守っている。先程来た男たちはその自警団の人たちだ。彼らにとってティレットの魔法は盗賊達に対する抑止力、あるいは直接的な攻撃手段となる。
あれから三十分ほど経った。長い梯子を穴に下ろし穴の中で掘り起こした土を外に出していると物凄い轟音が聞こえた。南東の方角だ。なんだ?と思っていると再びドォン!と音がする。もう一度音がして今のはティレットがやったんだなと思い至る。僕自身間近で何度か見た事があるので特に驚きはなかった。無事自警団の人たちの目的は果たされたようだ。僕は街が守られた事とティレットが勤めを終えた事に安心して自らの作業に戻ることにした。
アウメを説明するためにはまずA(仮)について語らねばならない。まず表記だが日の真ん中の棒線が離れて曰になるようにAの真ん中の棒線が離れている。曰とは逆に左側だ。もちろんそんな字はないのでA(仮)としておこう。発音はアーにエーが四分の一弱混ざったもので僕も何度か口にしてみたがティレットには全然違うと言われてしまった。これはエーの割合が四分の一でも五分の一強でも駄目らしくそれでは全然違った意味になってしまうらしい。それでこのA(仮)は全ての物事の始まりの一なのだと言う。そしてA(仮)に還元する力をA(仮)の力という。ティレットの世界、名前をオーメルと言うのだがその世界の住人はこの力を使って世界を維持しているのである。
さて、アウメとはこのA(仮)の力を使って排泄物を変化させた物である。元はうんこだというのにアウメはとても美しい。臭いもない。そうとは知らず舐めてしまった事もあるが無味であった。大きさはバスケットボールの直径ほど、形はおはじきや鏡餅の一段目のような円盤型だ。そして透明で宝石のような輝きを持つ。色はその日によって変わる。おそらくティレットが食べた物やアウメを作った時の気分、または体調の変化によって青、赤、黄、緑など様々な色が付くのだろうとは思う。色々と試してみたのだが狙った色のアウメを作るのはある程度の法則らしき物こそ見つかったが非常に困難である。こうして色が着くことでこのアウメは見た目には大きな宝石のようである。だがこの色が着くと言うのは本来有り得ない事でティレットはその事に劣等感を抱いていた。
ティレットは僕やイーレ、エアリィとは違い今までと同じようにトイレ出来なくて困っていたわけではない。彼女の世界ではアウメルというおまるに似た容器に用を足す。そして出したものをアウメに変えるのである。アウメルは大きめの鍋で代用が可能であったし排泄物はアウメに変化させてしまうので用を足す場所にも困らなかった。アウメル代わりの鍋さえあればどこだってトイレになってしまうのだ。臭いも残らない。だがそのアウメこそがティレットが困る原因となった。彼女の世界ではアウメは世界を構成する物質として利用されていたのだがこの世界ではアウメに使い道がなかったのである。ティレットはこの世界に来て一年になるらしいがトイレを一日一回としても単純計算で三百六十五個のバスケットボール大のアウメが出来上がる事になる。実際にはそれ以上だったが当然そのアウメは日々溜まり処分しなければならなかった。
だがティレットはどう処分していいのか分からず困っていたのである。
本当は穴掘りを進めたかったのだが僕は僕で生活費を稼がねばならない。なので今日は穴掘りを中断しクラゲ捕りの仕事に来た。日雇いのバイトみたいな物である。
「よお!セージ!」
「おはようございます。プーさん」
クラゲ捕りと言っても海に行く訳ではない。目的地はビフィスとビフィドの南に広がる森との間にある平野だ。
「どうだ新生活は?豪邸で可愛い子と同棲生活なんていい身分だなぁ、勇者さまは」
「んな良いもんじゃないっすよ」
同棲と言うより共同生活と言うべきだ。あと勇者呼びはマジで止めてほしい。
「贅沢言いやがって、この!」
プーさんは片腕を僕の首に回して締め上げる。プーさんは定職にも付かずフラフラしている割にその体付きは妙に逞しい。もう三十歳を超えているのに無職だからプーさん、と言うわけでもなくプから始まるやたらと長ったらしい名前なのでプーさん。本人がそう呼べという。
「プーさん、苦しい。苦しいって」
プー太郎に似つかわしくない豪腕で締め上げられるとマジで苦しい。
「おうおう、朝から元気だなお前ら」
「ああ、大将。おはようさん!」
「お、おはようございます…」
僕は締め上げられながら水筒屋さんに挨拶をする。
「そんだけ元気なら沢山捕ってきてくれよな!また大稼ぎせにゃならんからな」
水筒屋さんは文字通り水筒を作っている。定期的にキャラバンが訪れるこの街で商人や街に来た様々な物を買いに来た客に売るのである。ペットボトルのミネラルウォーターに近い感覚の物だ。
「おう、任せといてよ。報酬は弾んでくれよな」
「分かってるよ。いつものキャラバンボーナスは付けるからな」
水筒は普段から作っているがキャラバンが来た時はいつもより増えた人に売るため若干の値上げをする。それでも飛ぶように売れるのでこうして僕らにも恩恵があるのである。プーさんなんてこのボーナスのある時しか参加しない程である。
「よし!じゃあ出発だ!」
ようやく解放された僕はその場にへたり込む。もう少し加減をだな…。
「おいおい、大丈夫か?勇者」
「…はい。それじゃあ行ってきます」
僕は水筒屋さんにまで勇者と言われうんざりしながらも僕はクラゲを乗せる荷車を引いて既に歩き出しているプーさんの後を追って歩き出す事にした。
唐突だが僕は勇者である。いや、勇者という事にされたのである。
話はこの世界に来てすぐの頃に遡る。何だかよく分からない神殿のような所で目を覚ました僕は異世界人を歓迎する催しの主役になりここにトイレが無いことを知りその辺の茂みで小さい方を出してすっきりした後で始まったのが選定の儀だ。
この世界に来た異世界人はだいたい戦士、魔法使い、賢者、そして勇者に分けられる。適性に合わせ最適な職を与える事で効率よくこの世界のために働かせようというのである。異世界に夢を見てはいけない。
まずは賢者であるかの試験。僕は何やら不思議な多角形の立方体を渡され
「これをどう使うのか分かりますか?」
と問われた。見れば各面には文字らしきものが書いてある。だが使い方なんか分からない。それでも正方形ではないサイコロを使ったボードゲームを思い出しなんとなく転がして見ると
「はい、賢者ではありませんでした」
と黒いローブを来た神官と呼ばれた老人に言われてしまった。なんだか頭が悪いと言われたような気がしないでもない。後からエアリィに聞いた話ではこれは翻訳機だそうで結構便利な代物だそうだ。
「次はこれを」
と渡されたのは水晶玉のような透き通った球体だった。太陽の光にかざしてみても一点の曇りも気泡もない綺麗な球体だった。
「はい、魔法使いでもありませんでした」
と神官の老人が言うと周囲からため息らしきものが聞こえた。賢者ではないと言われた時も聞こえた気がする。ちなみにイーレがこの玉を手にした瞬間玉は激しい光を放った。そしてイーレは生まれて初めて精霊の姿を目にしたんだそうな。感激したイーレが涙しながら感謝を表すと周囲は色取りの光に包まれその光景を目にした人々は何か奇跡を目の当たりにしたような気になったそうだ。だがティレットが手にした時は水晶玉に黒い影が映ったという。その直後晴れていた筈の空は黒い雲に覆われその隙間からドラゴンが現れたという。確かにこの世界にドラゴンがいることはみんな知っていたが誰一人として見た事はなくその場の誰もが恐怖し震え上がった。ティレットを除いて。ティレットはドラゴンを前に怯みもせずA(仮)の力で作り出した火球をドラゴンに投げつけた。火球は一瞬でドラゴンの元に飛んで行きその鱗と翼の一部を焦がしドラゴンはこれに恐怖しその場を立ち去った。ドラゴンを追い返した火球を生み出したティレットを人々は敬意を以ってとんでもない魔法使いとして迎えたのである。
さて、賢者でも魔法使いでもないという事で次に一振りの剣を渡された僕はビフィドの森へと連れて行かれた。そしてそこで僕は一匹の巨大な豚のような生き物を倒せと言われたのである。この巨大な豚はカバシシという大変大人しい動物でその名の通りカバのようなイノシシだ。毛の生えてない革は様々な物に利用されその肉は人々の食料としてポピュラーな物である。ちなみに子供でも倒せるくらい弱いのだが僕は苦戦したまたま側に落ちていた大きな石で気絶させてようやく倒すことが出来たのである。というわけでこれが戦士の試験だったのだが当然戦士としての資質はなかった。
賢者でも魔法使いでも戦士でもないという事で僕は勇者となった。どこの世界に消去法で勇者になる奴がいるのか。
陸クラゲとは陸生のクラゲである。大気中や土の中の水分をそのゼラチン質の身に溜めながら生きている。そしてなぜか浮いている。この溜め込んだ水分は水筒の材料となるのだがこの身から出る水は結構美味い。今まで飲んだどんなミネラルウォーターよりも遥かにだ。だから水筒はよく売れるのである。これをタモのような物で捕まえて網を張った荷車にどんどん詰め込んでいく。数時間後には結構な大きさの荷車が一杯になった。最初こそ手間取ったが今ではもう慣れたものである。こうして一日働いてボーナス込みで一万八千イェン貰える。イェンとはこの世界の通貨の一つだ。他にもあるらしいが少なくともこのビフィド地方ではイェン以外の物はまず見ない。ちなみに僕の泊まっていた風呂なしトイレなし朝食付きの元は物置として使われていたような狭い角部屋一泊の料金は八千イェンである。この料金は少々高い気もするがイェンはおおよそ円と同じ様な貨幣価値である。
戦士でも魔法使いでも賢者でもない僕はこうして生計を立てている。この仕事は役場で紹介して貰ったのだが他にも色々な仕事を役場で紹介して貰っている。カバシシ獲りを手伝ったり、大ガエルという脚だけが異様に発達したぬめり気のヒドいのを獲ったりとか。水筒の材料となる竹を取りに行ったりもした。
日雇い仕事とはいえなんだかんだで生活はしていけた。だが特に使命などもなくなんとなく生きていただけだった。そんな時トイレがなくて困っている三人と出会った。
帰宅すると日が暮れるまで時間があったので僕は再び穴掘りを進める事にした。深さは未だ底に立てば肩から上が出る程しかない。目標の四メートルには程遠い。気が遠くなりそうだがそれでもやると決めたのだ。底にツルハシを打ち付ける。砕ける土塊。再びツルハシを打ち付ける。もう何度も繰り返した作業だ。
僕がなぜ穴を掘っているのか。
そう、僕はこの世界にトイレを作ろうとしているのである。