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このトイレのない世界で 1  作者: 山村 草
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00.プロローグ


 トイレの話をしよう。


 ある日の図書館での事、目的の本を探して本棚を眺めていると不意に便意が訪れる。大の方だ。図書館といい本屋といい本の山というのは人に大便を促すものらしい。そして訪れる便意はいつもクライマックスだ。直腸の便は直ちに我々を解放しろ、さもなくば貴様に大恥を掛かせてやるぞとまるで脅迫をしているようである。本探しを中断し足早にトイレへ向かう。幸いにしてトイレのある場所は心得ている。その場所も遠くない。気がかりなのは図書館の中の静けさである。排便の音が館内に響き渡ってしまうんじゃないかと不安がよぎる。だが直腸の便はそんな躊躇いを許すわけがない。事は一刻を争う。入ったトイレはこれまた幸いに先客は一人としていなかった。迷うことなく個室に入り鍵を掛ける。トイレットペーパーは切れてはいない。便座の蓋を開けると便座にも便器の中もなんの汚れも見当たらない。大便はまだかまだかと肛門をノックしている。閉ざされた門は押し破られる寸前だ。だが慌てて解放すれば便器に溜まった水の跳ね返りが尻を直撃する。だからなんとか堪えつつペーパーを一纏め取り便器の水溜りに浮かべる。これで全ての準備は整った。さあズボンを脱ごう。パンツを脱ごう。そして、ついに、肛門を押し破ろうとする暴徒達は解放された。

 また別の日。比較的人の少ない電車の中。ヤツはやって来た。目的地まであと十分もない。周囲には人がいる。こんな所で溢れさせる訳にはいかない。焦りは便意を促進する。なんとか堪える。気を紛らわそうと手にしたスマホで時間を確認する。あと六分だ。電車に限らず乗り物の振動というのは消化器系に多大な影響を与える。それは腸とて例外ではない。適度な振動は直腸を刺激し便意を促す。時間を見る。あと四分。アインシュタインが相対性理論を解説した一言を思い出す。好きな人との時間はあっと言う前に過ぎてしまうが嫌なことをしている時は時間は無限にも感じる、と。まぁ大体そんなような事を言っていた気がする。この便意を堪える時間も相対性理論によって長く、永く引き伸ばされている。一体どこまで堪えればいいのか。目的地まではあと三分。スマホを操作する親指が震える。まだか。駅はまだか。窓の外を見る。見慣れた風景が過ぎ去って行く。スマホを見る。あと二分。日本の電車は世界一正確な運行をするという。こんな時くらいちょっと急いでもいいじゃないか。スマホを見る。あと一分。車内にアナウンスが流れる。間もなく到着すると知らせてくれる。その間もなくがながい。早く着け。そして漸く電車は駅に到着する。停止するまでの緩慢な動きがもどかしい。いや、急に停止しても困るが。やっと開いたドアを潜り雑踏の中を足早に歩く。走りたいが走れない。走れる状況ではないしそんな激しい運動には肛門が保ちそうにない。そして駅のトイレに辿り着いた瞬間絶望に襲われる。個室は全て使用中だ。何ということだ。小便器なら空いている。かくなる上は膀胱内の小便を出し腹の内圧を減らそうかと一瞬考える、が、そんなことで便意が収まってくれる訳がない。仕方がないのでそのトイレを諦め別のトイレに向かう。心当たりはあった。駅前のコンビニだ。最近のコンビニではトイレが使えない所もあるという話だがこのコンビニはちゃんと貸してくれるのだ。コンビニに入り店員さんに「トイレ貸してください」と言うとバイトらしき彼は「はいどうぞー」と答えてくれる。「どうも」と短く返してトイレに向かう。まさかここも使用中かと一瞬不安になったがそんな事はなく先客はいなかった。急いでトイレに入り用を足す。間に合った。安堵感が全身を支配する。用を足し終えスッキリとした気分で手を洗い店内に戻る。この店には感謝しかない。だからその気持ちを表すために今日の夕食はここで調達することにする。弁当と幾つかの飲み物と朝食用のパン。あとスナック菓子と特に買う必要のなかった文房具を手にレジに向かう。会計は二千円を超えた。だが後悔はない。窮地を救ってくれた礼としては細やかに過ぎるというものだ。支払いを終えると「ありがとうございましたー」とマニュアル通りの礼を店員が言う。お礼を言いたいのはむしろこちらの方だった。

 また別の日、その日もいつものように目覚め、ぼーっとした頭をブラックコーヒーで無理矢理起動させ、そしていつものように便意が訪れる。祖母の実家に引っ越した父と母と別れ一人暮らしを始めて気が付いた事がある。一人暮らしではトイレを独占出来るのだ。いついかなる時でもトイレは空いている。急に催して来てトイレに行ったら父が中でのんびりと新聞を読んでいたなんて事はない。それにいくら肉親とは言え、それがいくら親と言えどもウンコは臭い。直後に入ったらたまったもんじゃないのである。消臭スプレーなんて気休めにしかならない。そんな事を考えなくていい開放感、真の自由がある生活、ああ素晴らしきかな一人暮らし。居室のすぐ隣にトイレがあると言うのもまた素晴らしい。かつて住んでいた一軒家ではこうはいかない。二階の自室から廊下に出て階段を降りまた廊下を歩きトイレを目指す。その頃はなんとも思ってはいなかったがこの気軽さに気付いてしまうともう戻れない。もっともその家はすでに取り壊され更地になり人の手に渡ってしまったのでそんな苦労とは無縁となったのであるが。誰にも邪魔されない空間で一人静かに用を足す。この部屋のあるアパートは不動産業を営んでいる親戚の持ち物である(幸運な事に家賃を格安にしてくれたので苦大学生の身としては非常に助かっている)のだがとても気の利いた人でトイレには温水洗浄機付き便座が初めから備えられていた。一人暮らしを始めるにあたり気がかりなのはこれだった。これなしに生活していくなんて考えられなかった。だから大学進学を目前に控えた日曜日、電気屋を巡り温水洗浄機付き便座の相場はいくらか、安い便座はないかと足を棒にして探し回ったのである。結果それは徒労に終わったのだが僕はそれほどまでにこの温水洗浄機付き便座を気に入っているのである。最近はなにやら日本人の素晴らしさを再確認するような番組だったり動画だったりを目にすることも多いが温水洗浄機付き便座こそ日本人の素晴らしき魂の結晶であると僕は思っている。そんな素晴らしい発明と共にある生活はなんて素晴らしいものなのだろう。



 トイレとは我々の生活になくてはならない物である。そしてだからこそ僕らの生活のあらゆる所に存在する。それは当たり前の事であり僕はその事について気付くことすらなくその恩恵にただ甘えていただけだった。

 そう、つい三ヶ月ほど前までは。


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