風邪をひいたりしなかったかい?
第十話です。
「あははははっ! もうだめ、我慢できない」
イキナリ雰囲気の変わった女―――高柳の様子を。
ケンイチは唖然と、ソフィアはおびえながら。
そしてガッカリスと執事の川上は、苦々(にがにが)しい表情で見ていた。
高柳は笑いながらシャツのボタンをひとつ外し、前をはだける。
思った以上に豊かな双丘が、ぷるんと半分ほど顔を出す。
ケンイチは真っ赤になって目をそらした。
「やるじゃない、ケンイチ君。軟弱な男の子かと思ってたけど、川上をやり込めるなんてなかなか大したもんよ」
高柳は楽しそうな笑みを浮かべたまま、艶っぽい眼差しでケンイチを見る。
「お詫びに、素で話してあげる。川上も猫かぶるのやめたみたいだし」
急に蓮っ葉な雰囲気になったが、しかし、高柳という女にはよく似合っていた。
「それにしても、あんたたち、本当におせっかいね? 黙ってソフィアを返していれば、めんどくさい話にならなくて済んだのに」
「ボクも本当はそうしたかったんですけどね」
「ノウ! 情けないことを言うな、ケンイチ!」
ガッカリスはそう言いながら、優しくソフィアの頭をなでる。
すっかりなついているソフィアは、執事と女に恐怖と敵意の混じった視線を向けながら、彼の軍用パンツにしがみついて黙って唇をかんでいた。
妖精はその状態で、女に向かってにやりと片頬をあげてみせる。
「猫をかぶってたってお見通しだ。ユーたちの心は見づらい。それは心をコントロールできることを意味するが、そのコントロールっぷりが普通の範囲じゃない。特殊な訓練でも受けない限り、ここまで自由に心をコントロールできるもんじゃないからな」
「残念でした。そんな特殊部隊みたいな怪しいものじゃないよ。さっき言った通り私はレイナス様の秘書だし、川上は荒事も担当するけど基本的には執事。妖精さん、あなたがどう思ってたって構わないけど、これは本当のこと」
ガッカリスはフンと鼻を鳴らして薄く笑うと、わざと大きな声で話し出した。
「とにかくまぁ、これでソフィアガールがおびえてる理由がわかってきたようだ」
「そう?」
「こんな物騒な連中の飼い主だ。ロクなもんじゃない。間違いなく頭のおかしい変態……」
びゅっ!
「ちょっと川上っ!」
高柳が叫んだときにはすでに、川上の投げた二本目のナイフが、ガッカリスの首筋を襲っている。
その切っ先を事もなげにかわしたガッカリスは、向かい合ったシートの背、高柳の座っているすぐ横を力任せに蹴飛ばす。
ボコっと鈍い音がして、川上はシートの背ごと蹴り飛ばされていた。
転がった川上は瞬時に体勢を立て直し、攻撃態勢に入る。
高柳は腰を浮かせてシートと運命を共にするのを避けていた。
そして運転手はバックミラーでその様子を見ながらも、無表情で淡々とクルマを走らせた。
この状況に眉一つ動かさないのだから、この運転手も尋常ではない。
「危ないから、こんな狭いところで暴れないの! ほら、お屋敷よ」
状況からすればありえないほど呑気な声で、高柳がふたりをたしなめる。
その言葉にケンイチが前を見ると、クルマはちょうど巨大な門をくぐり抜けるところだった。
門の両側には3メータはある高い壁がずーっと続いている。
(こりゃ、入っちゃまずいだろう)
ケンイチはガッカリスをつついた。
「おい、ガッカリス!」
「大丈夫だよ、ケンイチ。この物騒なバトラーは、しかるべき時が来れば俺がぶっ飛ばす。それに、ここで逃げ出すんじゃ、何のためにこんなところまで来たんだか判らないじゃないか」
言ってることは確かにもっともなのだが、もはやケンイチにはこれが現実のこととは思えない。
ほんの三十分前まで、父とサッパリスを失った悲しみ暮れながら、土手を歩いていた。
なのに、気づけば黒塗りの高級車で、どう見てもまともじゃない大きな屋敷へ連れ込まれている。
しかも道案内は、怪しげな女と物騒な初老の男だ。
(冷静に考えて、今すぐこの場から逃げ出すべきなんだろうなぁ)
ケンイチのそんな思いをよそに。
クルマは門をくぐって、悠然と屋敷の中に入っていった。
ステンドグラスのはまった、巨大な玄関の扉を開いたとたん。
「やぁ、いらっしゃい」
目の前には少年が立っていた。
その少年が微笑みながら挨拶する姿を見て。
ケンイチは、おもわず固まってしまう。
多めに見積もっても自分より10センチは背の低い、少年にか見えない眼前の人物に、しかし、ケンイチは気圧されていた。
十代半ばにしか見えない幼さの残る顔立ちと、凄みを感じさせる瞳が、恐ろしくバランスを欠いている。
たっぷり5秒ほどたってからようやく。
「こ、こんにちは」
ケンイチは、しどろもどろで挨拶した。
ガッカリスは仁王立ちで腕を組んでいる。
その後ろに隠れたソフィアに向かって。
少年―――レイナスは声をかけた。
「ソフィア、川に入ったそうじゃないか。風邪をひいたりしなかったかい?」
つやのある優しい声だったにもかかわらず、そして、美しい顔には穏やかな微笑が湛えられていたにもかかわらず。
ソフィアは身を硬くし、ガッカリスにしがみつく。
それに気分を害した風もなく、レイナスは視線を部下へ移した。
高柳と名乗った女は、最初のキリっとしたイメージを完全に捨てて、面白がっているような表情でレイナスを見返している。
執事の川上は、ガッカリスに食って掛かったのがまるで嘘のように表情を消して、主人の前に控えている。
従僕二人を均等に見てから、レイナスは口を開いた。
「それで、コレはいったいどういうことなのか説明してくれるかな?」
姿だけ見れば、生意気な中学生にしか見えない。
だが執事の川上は、まるで歳とった主に接するかのように、緊張と尊敬の表情で少年に相対している。
高柳はもう少し砕けた感じだったが、それでも子供を見る目つきではなく、理解のある上司に対するような物腰だ。
「どういうことも何も『こんなに怯えているのに返すわけにはいかない。どうでも事情を聞かない限りは、ソフィアを返さない』って言うんですもの」
「ふむ」
「力ずくで取り返すにはこの妖精さん、ちょっと厄介そうだったし、騒ぎを起こすのもアレでしょう? で、メンドウだからあなたに判断してもらおうとして、つれて帰ってきたの」
高柳がニヤニヤしたまま答えると、川上は一瞬むっとした顔をしたが、主人の前をはばかったのか、何も言わずに黙っていた。
レイナスはふうとため息を吐いて肩をすくめると、ケンイチ、ガッカリス、ソフィアの三人を見た。
そのしぐさだけ見れば、まるで思春期の少年のようだ。
それから、困ったような表情で、ケンイチに話しかける。
「それで、どうしたら納得してもらえるのかな、えぇと、ケンイチ君」
「納得? 何の冗談だ? 俺が納得したのは、ソフィアをここにおいては置けないってことだけだぞ、クレイジーキッド。俺たち三人をここからおとなしく解放するなら、騒がずに黙って、お前らには二度と関わらないでいてやるよ、シルバーヘッド」
代わりに答えたガッカリスのあまりの言いように、ケンイチは思わず息を呑んだ。
当然、川上はその瞬間にガッカリスへ向かって襲い掛かろうとしたが、彼の腕が妖精に触れる前に、レイナスの澄んだ声が川上の動きを制止する。
「川上、やめなさい」
驚いたことに、執事は一瞬で殺気を消し、今までと同じく静かに立つ。
「さすがに、飼い犬のしつけはカンペキだな」
ガッカリスが皮肉な笑いを浮かべると、銀髪の美少年は優しい微笑のまま、まるで中世の貴族のように大仰な仕草で頭を下げて見せた。
また、そんな仕草がぴたりとハマっている。
それから頭を上げてもう一度、暴言を吐いた妖精をしっかり見つめたレイナスは、ふと、小首をかしげた。
怪訝な表情で、そのまま長いことガッカリスを見つめている。
が、やがて何かに気付いたような顔をし。
ニヤリと嫌らしく笑った。




