17 レッドキドニー
夏陽の照り返すエアベースで軍用車両に乗り換えたことは憶えているだろうか?君はほとんどの道程を眠っていた。街道が平坦な畑から谷沿いの登坂にさしかかると、日本製のハリケーンジープは船舶に似た低いエンジン音を轟かせた。
トーマス将校のキャビンに着くと、私はビールを背負いまだ眠そうな君の手を引き、ゆっくりと谷への踏跡を降りた。
君は大岩に座って冷たい流れに足を浸すと、うっとりとしていた。
「ダディ、ここには夢の中で来たことがある」
「夢ではない」
この場所はまだ歩き始めたばかりの君と遊んだストリームだ。
小さな君はディーマおじさんから貰った植物図鑑をいつも持ち歩いていた。君は同じ大岩に座って、タンポポの咲き乱れた草原のページに、フーッと息を吹きかけた。
綿毛が風に群れあがっていった。
私達はいつまでもそれを追っていた。
君との確かな想い出の一瞬だった。
ヒグラシが鳴き止み、振り返ると、トーマス将校がフライロッドを手にしていた。彼はロールキャストでフライを流心に乗せてからロッドを君に預けた。
フライを追尾してきたコバルトブルーの背が銀白に反転して首を振った。魚体のくねる重みに君がロッドを立てて応えると張りつめたラインが震えて糸鳴りがした。トーマス将校の指示に従って、君は後ずさりしながら鱒を引きずりあげた。
駆け引きの一部始終を反芻していた君の脳裏にツッと瑠璃が光った。それは映画フィルムのキズのようであった。
トーマス将校は暴れる鱒の頭を石に撃ち付けてから、ナイフを開くと痙攣した鱒の尻びれにブレードをさし込んだ。顎まで真直ぐに切り裂くと白い腹から血が滴り落ちて鱒は目を剥いた。エラに指を掛けて引っ張ると艶々した内臓が一連なりに外れた。
君の驚きは私にも解っていた。
「それは、何?」
「ギル、ハート、キドニー、ストマック、ガット。」トーマス将校が答えた。
「レッドキドニーなの?」
「レッドキドニーは赤い豆の名前だよ」
「フレッシュは肉の色なの?」
「フレッシュはピンク色のことだよ」
トーマス将校は答えると臓物を投げ棄てた。君は草叢に点々と付いた赤い染みを目でたどりながら、言葉が生き物の内臓や解体とも深く関わっている事を看破していた。血や暴力、まだ知らぬ摂理を悟って嫌悪したようだった。
だが、君は渓流を裸足で溯行したり、塩焼きにした鱒の硬い頭にかぶりついたりしたレクリエーションの非現実には気付いてはいなかった。
君の記憶は全くこの通りであるはずだ。
何故ならば、君の記憶は事前に創られて、後から埋め込まれたものだからだ。君がいつの日にか覚醒したときに、不条理が君を苦しめても、それは不確かなまぼろしなのだ。