一話
ワウッ、ワウッと大きな黒い犬が小さな少女に走り寄ってくる。
美しい衣装を身に着けた少女は、犬へ手を差し出した。
そばに控える女官達は冷や冷やしながら見守っていた。
大きな犬は簡単に少女を噛み殺すことができるほどの凶暴性を持っていることを知っているからである。
しかし、その黒犬は王の愛犬であり、手出しするわけにはいかない。しかも王にしか懐かないと思われていたその黒犬は、王宮へ来たばかりの少女に服従しているようなのだ。
そうだとしても、大きな黒犬がそばにいる様子に安心はできず、女官達だけでなく警護の者達もどこか落ち着かない様子だった。
黒犬は少女にワウワウと何かを伝えているようだ。
それを聴き終えた少女は頷き、黒犬の頭を撫でた。
「ケロケロ、よく知らせてくれたわ」
ケロケロとは、ランケロスという黒犬に少女が付けた呼び名だ。
少女は少しセンスがおかしい。
ケロケロと呼ばれる黒犬の顔も微妙に見える。凛々しい顔が仕方ないとでも言いたげな風に。
少女は振り向き、女官を見上げた。
「ルンルンのところへ行ってくる」
ルンルンとは、国王陛下ユェイルンの愛称だ。もちろん、そんな呼び方が許されるのはこの少女だけ。他の者が口にしようものなら、不敬罪で即座に牢へ送られる。軽口だったなどと言い訳すれば、命はない。
それほど王はその愛称を厭っているのだが、少女には諭すだけである。
王は少女に何度も別の呼び方をするようにと告げているが、その効果は薄い。
五回に一回くらいは陛下と言いなおすぐらいだ。
少女は可愛らしい容姿であるものの絶世の美貌というほどではない。
しかし、王から絶対的な愛着を勝ち取っており、誰も少女には逆らえない状況だった。
王の愛犬ですらも。
少女は黒犬に跨がった。
大きな犬とはいえ、それはかなり厳しい状況だった。少女は子供だが、黒犬とさほど違わない大きさなのだ。
黒犬ランケロスは、少女を背に駆け出した。その速度はもちろん速くはない、だが、懸命だった。黒犬は自分の使命を理解し、困難な状況を打破し使命を達成することこそを至高としていたので。実は、黒犬は、無茶な要求をする少女が大好きだった。犬の言葉は理解されないので、周囲の誰にも理解されていない。そして今日も少女を背に乗せ、恍惚とひた走るのだった。
王宮の接見の間において、王は地方からの使者などとの面会を行っていた。
その場に、突然、黒犬を従えて少女が現れた。
使者など訪問者達がどよめく。
しかし、警護している騎士達は動かない。
その場にいる重臣達も表情を曇らせはしたが、少女を咎めはしない。
少女は黒犬とともにスタスタと王のもとへと歩み寄った。黒犬は王の椅子の足元にしゃがみ込み、少女は王の膝に腰掛けた。
呆然とそれを見ていた使者に、重臣の一人が声をかけた。
「陛下へ贈るものは何か?」
その声に呪縛から解放されたかのように使者達は動きを再開した。
ははっ、と後列にいた男が金で装飾された底の浅い木箱を捧げ持ち、王の前に進み出る。そして男は腰を落として木箱の蓋を取り、高座の王にも見えるようにと、斜めに傾けた。
中には美しい赤い宝石が納められている。
その石の大きさに重臣も驚いた。
「見事な宝石だ。これを?」
「はい。我がローデルで取れました中でも選りすぐりの物。国王陛下にこそ相応しいと持ってまいりました」
「ローデルでは大粒の赤い宝石が取れるのだったな」
「はい。そのため、周囲の国から始終狙われている次第」
この近隣諸国では、赤い石を手に入れれば永遠の命と最強の力を得ることが出来ると言われていた。
その石は手に乗るほどの大きさで美しい赤なのだと。
そんな話は作り話だと笑いすてる王は、この国の王だけらしく、他国の王はローデルを手に入れようとしてきた。
ローデルは複数の国と隣接する位置にあり、今日はどの国に所属していることになるのかというほど簡単に所属する国が変わっていた。
そのローデルの領主は、大きな赤い石を掘り出す技術を漏らさず秘守することで生き抜いていた。領地がどの国に所属することになろうと、領民を生き残らせることに重きを置いていたのだ。
秘術は一人ではなく何人もが揃わなければ実現できない、そして、それは一人でも欠ければ失われる。それは非常に危険な方法でもあった。
他国に渡すくらいなら秘術を失わさせようとする者もいたからだ。
が、彼の地を狙うのが複数国であるため、ローデルはいつでもどこの国へも翻ることができた。
そのためローデルは裏切りの街でもあった。
そんなローデルの領主が、かの地と隣接しながら興味を示さないこの国に使者を差し向けてきていた。
「我が国に何を望んでいるのか?」
「ローデルを接収していただきたいのです」
「わざわざ近隣諸国を苛立たせてまでローデルに手を出す利はない」
「わかっております。しかし、陛下は国境が平穏であることを望んでおられるのではございませんか? 陛下のこの数年の戦歴から、諸国はこの国に戦いを仕掛けることをためらうでしょう。ローデルは平和な暮らしを望んでいるだけなのでございます。決して他意を持ってはおりません」
「確かに国境の平和は望ましい。ローデルがあろうが無かろうが戦争は起こるものだ。だが、まあ、検討はしてみよう」
「はっ、ありがとうございます」
話が終わったかに見えた接見の間に、少女の高い声が響き渡った。
「二列目の左端の人が胸に隠しているものが気になるわ」
その一人の男に視線が集まる。男は歪んだ笑みを浮かべ顔をあげたが、自分に向けられた視線は一様に険しかった。王の膝に座った少女の言葉を否定したり咎めたりする者はない。王の接見に口を挟めば、重臣ですら咎められよう場面だ。
王の少女に対する寵愛の深さを示しているにしても、この場の雰囲気は異常だった。
女子供に王だけでなく重臣が振り回されていることを、隠そうとしないなどとは。