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断片集  作者: みやこ
8/15

お見合い恋愛

「初めての恋なんだ」

申し訳ない、と目の前で土下座する男を、呆然と見やる。


……じゃあ、わたしとの時間はなんだったのだろう?




叔母の紹介、という要するにお見合いの席で出会った。

2つ年上の彼は、叔母の友人である彼の親戚に連れられてやってきた。

ホテルのラウンジで、さざめきのような人の声と静かな音楽が流れている。

いかにもお見合いの席で、互いに場は理解しつつも納得していない。

端から見ればそんな表情を浮かべていたと思う。


この子はいーっつもぼんやりしていてのんびりもので、もう心配で。

あら、この子だって職場では知りませんけどね、もういい年してのんびりものなの。

あらうちの子なんて、いつまでたっても女っ気がなくて心配で。

この子だって、週末でも家にいてばっかりで。

放っておいたら、きっといつまでも一人でいるのよ、ぼんやりと。

二人の女性は、心配という枕詞で互いの縁者をひたすらにけなしあう。

悪気がないのはわかるけれど、やっぱり傷つくの。


ぼんやりしているけれど、何も考えてない訳じゃないよ?

ペースはゆっくりだけれど、色々頑張っている。

仕事だって、私にできることをきちんと頑張っているし、そこは認めてももらえているの。

恋愛はそうね、確かに最近していない。

でも大丈夫、別に人が嫌いなわけじゃないの。

だから、ねえ、そんなに心配しなくても大丈夫だよ?おばさま。


そろり、と一緒になって酷評されている相手方の男性を見やれば、眉を下げて困り顔。

お互い大変ですね、という表情で笑ってくれるから、笑い返す。


「あら、仲良くなれそうね?」

「じゃああとは若い二人で」


突然放り出されて、「困りましたね」、そんな風に言葉を交し合って。

そんな風にして、二人の関係は始まった。



燃え上がるような恋愛じゃない。

むしろそこにあったのは同士のような感情だったと思う。

気が合い、趣味が合い、条件が合った。

叔母たちの見立てが正しかったと認めるのは、あの場で交わされた言葉を認めるようで非常に癪ではあったけれど。


ゆっくりと、確かめるように、歩くような速度で二人で少しずつ関係を築きあげていった。

二人でいるのはとても自然なことに思えた。

半年ほど経ったところで、「君といるのは居心地がいいから」と、彼から結婚を申し込まれた。

私は彼をとても好ましい人だと思っていて、だからずっとこれからも側にいたいと考えていた。

すぐに「私も、あなたの隣はとても居心地がいいです」と答えていた。

これからも一緒に過ごせたら嬉しい、と。

二人でゆっくりと歩いて行こう、と言われたのが嬉しかった。



結婚式というのは、準備に思ったよりも時間がかかる。

両家への挨拶を交わしたのが今年の1月。

それから式場を決めるためにいくつかのブライダルフェアなどに顔を出した。

ようやく決めた式場で、予約ができたのは秋も半ば過ぎの日付。

式場を決め本格的に動きだしたあれこれに、週末は埋めつくされた。

二人でのんびりと過ごしていた日々が嘘のように、決めねばならないことが降ってわく。


疲れたな、と感じることはままあった。

けれど、同じようなのんびり気質である彼が頑張ってくれている。

一緒に頑張ろう、一緒に歩こうと言ってくれた彼だから。

フェアでドレスを試着し、目を細めて「似合う」と言ってくれたのが嬉しかった。

この人と家族となることを、何一つ疑うことはなかった。




おかしいな、と感じたのは梅雨の走りの頃だったと思う。

毎年その季節は仕事が忙しくなる、とは事前に聞いていた。

だからこそ式の準備はなるべく春の内に進めよう、そう聞いていた。


そうだとしても、でも。

二人でいるのに気もそぞろになるほど、忙しいの?

先週のうちに決めていたはずのカタログを引っ張りだし、「どれにする?」とまるで初めて決めるかのような問いかけをするほど?

貴方が決めたのよ、これに。

そう言うのは簡単で、けれどなんとなく躊躇った。


忙しくても疲れていても、のんびりとした笑顔を浮かべていた彼。

けれど最近、ふとした瞬間に違う表情を浮かべている。

時折、何かを言いたげにこちらを見つめていることに気づく。

なのに、目が合えば逸らされることに気づく。

もうずっと彼と見つめ合うことがないことに気づく。

時折、どこか遠くをぼんやりと見つめていることに気づく。

気付いていて、けれど見ぬふりをする。

嫌な予感がして、問い質せばそれが本当になると予感がしていたから。



今日は招待状の準備についての打合せと、新居に関する相談の日。

そろそろ友人たちに期日について知らせて、予定を確認しないとならない。

彼が一人暮らしをする家は二人で住むには手狭で、だから引越しの段取りもしなくてはならない。

これを決めれば後戻りは困難、そんなタイミングで彼に告げられた「ごめん」だった。


ああ、とうとう溢れてしまったんだ、彼の中の何かが。

覚悟はとうにできていて、だからそっと彼の次の言葉を待つ。

「ごめんなさい、好きな人が出来ました。

 ……あなた以外に。

 たぶんこれが初恋、なんです」

だから結婚はできない。

そう、彼は土下座をしながら、告げてきた。



相手は派遣で今年になってやってきた、会社の女性だという。

押し出しが強く自己主張の激しい彼女が、最初は嫌で仕方がなかった、と。

けれど強いはずの彼女が、本当は弱い面を持っていると知ってしまった。

そうと気付けばあっという間だった。

彼女を、好きになってしまったのだ、と。


とはいえ彼女とは何もないのだ、そう彼は言い募る。

ただ自分の中で、「好き」という気持ちを育ててしまったのだ、と。

今後も彼女に伝えるつもりなどないし、貴方以外の誰にも告げるつもりはない。

けれど、貴方に嘘をついたまま、結婚をするわけにはいかない。

そんな失礼なことはしたくなかったのだ、と。

だから申し訳ない、この話をなかったことにしてほしい。


罵ればいいのだろうか。

嫌だとすがればいいのだろうか。


どちらもその時の気分にふさわしくなくて、だからわかりました、とだけ答えた。

幸いにして、結婚のことはごく身近な友人と家族しか知らないことだった。

結婚式の話し合いを進めるうち、色々なすれ違いに気づいてしまったとでも告げましょう。

結婚してしまう前に気づけて良かった、と。

既に知る人に余計な勘繰りをされぬためにも、もうしばらくの間だけ、あなたの思いは抑えてください。

けれど、時が過ぎたら、その人にその気持ちを告げてください。

幸せに、なって。


彼に贈られた婚約指輪を外し、通いなれた彼の家を後にした。


寂しいのか、悲しいのか、正直よくわからなかった。

ただポカリと胸のどこかに穴が開いたような気がしただけだった。



帰宅後、彼に話したように家族へと報告した。

母に怒られて、けれどそれ以上は何も言われなかった。

のんびりものと言われる私は同じくらい頑固者、とも言われる。

だから一度こうと決めたら意見を変えないことは知られていた。

それが理由かもしれない。


それ以外にも、何か察するものがあったのだと思う。

つい先日まで実に楽しそうに準備に励んでいた私だから。

別れ話をしてきた今日でさえ、実に楽しそうに出かけていったから。

だからこそ、深く理由を聞き質されることはなかったのだとも思う。


叔母たちはそれでもなんとかできないかと動いたらしい。

けれど彼の方もこの決定を覆さなかった。

そうして時間の経過とともに、この一年はなかったもののように扱われることになった。




のんびりものは自分の気持ちすらままならないのか、最近実感する。

去年の今頃、彼と手を繋いでこの道を歩いた。

この場所で「君のそばは居心地がいい」と言われたんだった。

私も、あの人の隣ではいつだって自然に笑えていた。

そんなことを思い出して、今頃になって涙を流すことが増えた。


ずいぶんと傷ついていたんだなぁ、私。

あの人に愛されなかったことが、辛くて悲しかったんだ。

燃え上がるような恋ではなかった。

けれど大事にしたい愛になっていた。

私は彼が好きで、もうずっと好きだったみたいだ。


そんなことを秋の気配を感じる頃、友人すら何も言わなくなったころにようやく気付いた。

のんびりを超え、鈍いにもほどがある。

自分の感情すらわからないなんて、酷い話だ。

ポカリと開いたままの穴からは、ジクジクと血がしみだしていた。



叔母たちの手配がなければ出会うことのなかったあの人とは、普段の生活に接点はない。

お気に入りの場所を紹介しあったが、そこに足を向けなければ会うこともない。

だからいつか自然に忘れられるだろう、時間はかかるかもしれないけれど。


仕方がない、のんびりものだから。

傷が癒えるのも、時間がかかるの。

あの人のことを忘れるのにも、時間がかかるの。




秋晴れの日、本当ならば今日、私は彼との生活を始めるはずだった。

彼との別れを機に手帳も捨て、カレンダーも捨てた。

真っ新な何も記されていないこの日付を、けれど私は忘れられていなかった。


目的も理由もなく、どこへとも言わずに家を出る。

家族も何も聞かずに「いってらっしゃい」と送り出してくれた。

そうしてボンヤリと気の向くままに歩き、電車に乗って移動した。

気づけば、というか結局、というか。

式を挙げるはずだったホテルがすぐ目の前に見えた。


この一年と少しの間が、まるで全部嘘だったみたい。

あの人と出会ったことも、一緒に過ごしたことも全部。

嘘だったみたいなのに、まだ胸が痛い。

お別れがこんな風にいつまでも胸に痛いのは初めてのことで、戸惑う。


もしかしたら私こそ、初恋だったのかもしれない。

人を好きだと思う気持ちは、いつだってボンヤリと不明瞭で。

こんな風に誰かを思って泣き続けることは、これまでになかったから。



ホテルの中には足を踏み入れがたくて、チャペルが借景にしている公園へと足を向ける。

紅葉が青空に映えていて、絶好の結婚式日和だなぁ。

キャンセルのタイミングと日付の良さからして、今日はきっと誰かが幸せになっているだろう。

おめでとう、貴女が幸せでありますように。


感傷的な気分になるのは嫌だった。

できるなら今日で一区切りをつけたいと思っていた。

俯けば涙が出てしまいそうで、だからベンチに腰かけてひたすら空を眺めた。

バサバサ、と音を立てて白い鳩が飛び立ち、追うようにカラフルな風船が飛んでいくのが目に映る。


結局涙がこぼれてきた。

今日、あそこにいたのは私だったのかもしれないのに。

あの人の隣に立って、きっと幸せそうな笑顔を浮かべて。

その先の未来の幸せを、ひとつも疑うことのない笑顔で。


ガサリ、と落ち葉を踏む音が聞こえて慌てて涙を拭う。

こんな幸せの近くにいて、涙を流すところを誰かになんて見られたくない。

花婿の元恋人なんて誤解でもされたら、困ってしまう。

なんでもない顔になれそうになくて、足音の方から目を逸らす。

けれど足音はどんどんと近づいてきて戸惑う。

そちらに顔を向けないのも不自然なほどに近づいていて、だからそっとそちらを見やる。

彼が、そこに立っていた。


「貴方の前に顔を出せる立場じゃないのはわかっている。

 けれど万が一にも再会できたら。

 そうしたらひとつだけ伝えさせて欲しいと願うことがあるんです。

 聞いてはもらえないだろうか?」

久しぶり、のあいさつもなしにそう声をかけられて戸惑う。

戸惑って、少し迷ってから頷いた。


「聞いてほしいなんて、僕のわがままでしかない。

 貴方には、不愉快な話でしかないと思う。

 貴方にとってはきっと僕はもう嫌な過去でしかないと思う。

 忘れているだろうし、そうでなければ憎んでいるだろうと思う。

 けれど、もし今日会えたら。

 そんな偶然があるならば、どうしても伝えたかった」


私の近くに立った彼は、以前より痩せたようだ。

頬がこけて、目の周りが落ち窪んでいる。

元々細い人だったのに、仕事が忙しいのだろうか。

ちゃんと眠れているのだろうか。

そんな心配をする立場にもうないのに、そんなことばかりが思い浮かぶ。


「あの、とりあえず座りませんか?

 お話なら伺いますから」

沈黙した彼に、隣をすすめた。

今にも倒れそうな風情の彼を立たせたまま、話すのは嫌だったから。


私に不愉快な話。

それは彼女と付き合いたい、とかそんなことなんじゃないかと推測する。

もう私の許可を取る必要なんかないのに。

けれどそんな生真面目さが彼らしくて、好ましかった。

悩んでいるのならば、背中くらい押してあげよう。

彼が幸せになれるように。

彼に幸せであって欲しいと思えるくらいには、やっぱり彼のことが好きだったから。


迷うようなそぶりを見せ、それから私の隣に座る。

しばらくの沈黙の後、小さな声で話し出す言葉に耳を傾ける。


「僕は。

 仕事以外の面ではからきしダメな人間なんです。

 面白みなんてないし、気の利いた言葉ひとつ言えない。

 貴方が結婚を承知してくれたことすら不思議で、自信なんてなくて。

 …貴方は僕に愚痴を言わないし、弱いところも見せない。

 ただいつも微笑んでいてくれる。

 だから僕なんて、本当は必要ないんだろうな、そう感じていました」


前置きのように話し始めた言葉に、驚く。

一つずつ否定の言葉を告げたい。

あなたがどれだけ、素敵な人だったか。

話す言葉に私がどんな風に笑みを浮かべ、信の置ける言葉がどれだけ染みたか。

あなたに結婚を申し込まれて、私がどれだけ嬉しかったのか。

愚痴なんていう必要もないほど、私があなたとあれて幸せだったのか。

思わずいつだって微笑んでいられるほど、楽しいと思っていたのか。

一つずつ、返したかった。


けれど、私が口を開こうとするのをとどめるように首を振るから、黙る。

彼は自分の言葉を届けたいだけで、私に否定してほしい訳じゃないようだったから。


「貴方に別れを申し出た時。

 ごめんなさい、実はひとつ、言わずにいたことがありました。

 あの頃、……件の彼女から好意を告げられていたんです。

 僕が好きで、僕だけが頼りなのだ、と。

 想いを返すつもりなんて、少しもありませんでした。

 けれど、そうやって頼られたことが嬉しかった。

 こんな僕でも、誰かの支えになれるのだ、と有頂天になって。

 強いはずの彼女の弱みを見せてくれる場になれるのだ、と。

 思い返せば、そんな風に思われることだけが嬉しかっただけなのに。

 彼女にそう思われることが、嬉しかった訳ではなかったのに」


それでも僕は本当の恋だと思い込んでしまったんです。

そう、呟くような音量で紡がれる彼の言葉に、嘘は感じられなかった。

今話していることは、身勝手に聞こえても、身勝手だからこそ真実なのだ、と思ってしまった。


「けれど、あなたに別れを申し入れて。

 それをすんなりと受け入れられてしまって。

 あんなに好きだと、初恋だと思ったはずの彼女のことを少しも考えられなくなったんです。

 あの日、別れをただ受け入れてくれた貴方の、何もかもが忘れられない。

 どうしても貴方のことばかりを考えてしまう。

 貴方の人生に僕は必要ない、それを思い知らされた別れだったのに。

 それなのに、それでも忘れられなかった。

 必要としてくれる人がそばに居たいと涙を流すのを見て、でも少しも嬉しくなかった。

 貴方と訪れた場所に足を向けて、けれど隣に貴方がいないことが辛かった」


どこまでも身勝手で、取り繕うことのない言葉。

それなのに嬉しいと思ってしまうのは、なぜなんだろう。


「そうして思えば、ただもうずっと前から貴方が好きだったんだな、と。

 そんなことに気づかされたんです。

 どうしても、それを伝えたくて。

 ……だから賭けをしました。

 貴方と、万が一にも今日この日に出会えたのなら。

 今でも好きだと、愛しているのだと伝えたい、と」


初めて告げられた彼の好き、という言葉に嬉しくて震える。

空洞のまま血を流していたその血が、一気に花へと咲き変わるように思いが溢れる。

どれだけ心がこの人を求めていたのか、思い知らされる。

恋しくて、愛しくて、そばにいたかったのはこの人ひとり。


私の横で震えるこぶしを見つめながら、だからその気持ちを伝える。

「あなたのことは、ずっと好きでした。

 ……今だって、まだ好きなままで。

 忘れられなくて、今日ここにきてしまうくらいに」


こぶしが弛緩して、そして慌てたように私の手を取るのをただ見つめる。

震えるその手は、秋だからという以上に冷たくて、けれど汗ばんでいた。

彼の緊張を伝えるその手を、腕を、胸を、そして顔を見つめる。


こんな風にまっすぐに私を見てくれたのはいつぶりなのだろう。

お別れをする前から、もう彼の目を見つめ返すことはなかったから。

「ならば、もう一度だけ僕と一緒に」

そう真剣な眼差しで告げかける彼に向って、けれど私は首を振る。

「好きだから、だから無理です」


好きだと、気づかなければよかった。

ただ居心地が良い相手だと思っていたなら、やり直すこともできただろう。

けれど、今はもう無理。

あなたの心まで、全部全部欲しくなってしまったから。

だから無理。

つかまれた手を、そっと外す。


「今だって、彼女はあなたの近くにいる。

 私とのことは、別れがあったから気になっているだけかもしれません。

 私が側に戻ったら、あなたはまた彼女を見つめるかもしれません。

 ……あなたの近くにあれる彼女が、私には羨ましくて妬ましくてなりません。

 これまで何もなかったとしても、彼女の存在を知ってしまったから」


「仕事は、転職します。

 幸いに僕の仕事は専門的なもので、条件の良いところを探すことができます。

 彼女がいない場所に行くことを」


そういいかけてくれる彼の言葉を、止める。

「彼女じゃなかったとしても。

 新しい場所にいったとしても。

 またいつかあなたの心を揺らす存在が、出てくるのが怖い。

 あなたの近くにいられたなら、きっと今以上にあなたを好きになってしまう。

 その後に訪れる別れの痛みには、もう耐えられないんです」


今でもこんなにも苦しくて痛いのに。

それ以上の喪失感を想像するだけで恐ろしい。

好きだから、もう一度失うことに耐えられそうにない。

好きだから、二度とその手に触れたくない、触れられない。

今のようにぽっかりと喪失感を抱えたまま暮らすのは、苦しい。

もう誰も好きになんてなりたくない。

あなたの夢を見て泣くのも、もうイヤなんです。

好きだったからこそ、あなたのことはもう、イヤなんです。

あなたの側にはいたくないんです。


気持ちを言い募ると、みるみると彼の表情が絶望の色へと染まっていく。

それを辛くて苦しくて悲しい、そう感じた。

何かをしてあげたい、私に出来ることならなんだって、そんなことも思った。

けれど、今以上にあなたを好きになりたくなかった。

好きでいるのが苦しいから、私は逃げる。


「だから、さようなら」


晴れた空の下、彼に背を向けて歩き出す。

彼は追ってこなかった。




年が明け、届けられた年賀状の中に彼からの便りがあった。

昨年の正月に彼と出かけた先で見た富士山を望む風景に似た、その写真。

彼の趣味は写真だったから、もしかしたら彼が撮ったものかもしれないと思う。

表面には癖があるけれど丁寧に書かれた文字で、私の体調を気遣う言葉と、2月から職場を移ることが書かれていた。


それから。

毎週末に彼からの手紙が届いた。

私を気遣う一言と彼の近況が綴られた短い手紙。

それに添えられたのは彼が撮ったと思しき1枚の写真。

道端を歩く子どもの影、彼の家の窓辺に置かれていたガラス瓶。

二人で出かけたカフェのコーヒーカップ、どこかの綺麗な海辺の景色。

日向で丸くなる猫、アスファルトに残された猫の足跡。

彼の日常や目線を切り取ったその写真が届くのが、気付けば待ち遠しかった。


香りまで想像のできる蝋梅の透き通った花弁。

白く咲き誇る梅の花と青い空。

途切れることなく続く桜並木と一面広がる菜の花畑。

青い空に泳ぐこいのぼりと新緑の景色。

一面に広がる水の張った水田に降る優しい雨。

季節を感じさせるそれは、離れていても彼と時間を共有できているかのような心持がした。


彼のことを忘れたいのならば、届く手紙を開けなければいい。

そんなことはわかっていた。

だからこそ、彼は封書で送っているのだろう、と。

母にでも頼めば、届いたことすら気付かずにいられる。


けれど私はそれを選ばなかった。

彼が私を忘れずにいてくれていることが、ただうれしかった。

うれしくて、うれしくて。


けれど、私からの返事は一通も出せなかった。

なんと書いていいのかわからなかったから。

ただただ、それを受け取っていた。

便りが途切れないことを、願いながら。


春が終わり、夏が過ぎ、秋が来る。

正月からずっと途切れることなく届いた手紙に、紅葉の始まった公園の風景が添えられていた。

最後に彼と話したあの場所の景色が。


カレンダーを確かめると、今年もその日は休日だった。

……私は、あの人に会いたいのだろうか。

保留したままのその答えは、本当は今でも出ていない。


でも、きっと。

今年のこの日を逃したら、二度と手紙は届かないだろう。

そんな予感がする。

もしかしたら連絡先すらも、変えるのではという予感さえしていた。


この一年間、直裁的な言葉はないけれど、彼の愛情を感じ続けた。

押し付けるものではなく、ただ私への配慮にあふれ寄り添うようなそれを。

傲慢な思い込みの可能性はある。

逃げられたから追いかけているだけかもしれないとも思う。

もし彼の手をもう一度取ったなら、すぐに終わるのかもしれない、とも。

考えて、考えて、その日がくる。




サクリ、と音を立てる足元を確かめるように、ゆっくりと歩く。

去年私が腰掛けていたベンチに向かって歩く。

「私、あなたのことが忘れられそうにありません」

彼に習って、久しぶりの挨拶もなく声をかける。

まぶしそうに細められた彼の目が、笑んだ形になるのを見て。

私も、泣きながら笑顔を浮かべる。


一緒に過ごした時間より、ずっと長く離れて過ごした。

だから離れていた時間より長い時間を、もう一度彼と過ごそうと思う。

それだけの時間を経て、それでも側にいてくれたなら。

この気持ちがもし嘘でなかったならば。

今度こそ、一緒に。



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