名前で呼んで
小学校を卒業する頃には、既に視力が0.2でした。
その後も回復の気配はなくて、むしろ少しずつ低下していきました。
今では強度近視レベルになっています。
朝、起きて一番最初にすることはメガネを装着することです。
コンタクトはその異物感に耐えられないのと、アレルギーがあるのとで無理なようです。
二十年近く、だから私はメガネと付き合ってきました。
そう、メガネは身体の一部分なのです。
分厚いレンズ越しに相対することに慣れてしまったので、メガネなしで人前に出るのは恥ずかしく思います。
裸を見られるのと同じくらい、とは申しませんけれど。
けれど、メガネがあってこそ自分の顔なのです。
外してしまえば相手の表情が見えなくて、怖いというのもあります。
だから、メガネは私の一部分。
それに意義を申し立てるつもりはありません。
「はい、総務課岡田です」
「メガネちゃん、第一会議室まで高尾課長のデスクにある青いファイルを届けてください」
社会人になってまでそういうあだ名ってどうなんでしょうか。
大体からして、一応、私はあなたの先輩なのですよ?
年齢こそはあなたの方が上でしょうが、だいぶ馴れ馴れし過ぎやしませんか。
私は今、事務機器メーカーの総務課に籍を置いています。
短大を卒業して就職し、今年で5年目になりました。
どうしてもこの会社でなくてはならない、と強い思いをもって選んだのではありません。
大学に来ていた求人の中から、条件的なところを判断材料に選ばせて頂きました。
けれどこうして月日を経た今では、この会社でよかったな、と思うことが多いのです。
私を選んでくださった人事担当の方に感謝の気持ちをお伝えしたいなぁ、と思うほどです。
会社の業績を大きく左右する営業の方々に気持ちよくお仕事して頂けるよう、サポートすることが私の主たる業務です。
他社では私の仕事は営業事務、に当たりますでしょうか。
忙しく立ち働く皆さんが少しでも円滑にお仕事頂けるように、と心配りをする毎日です。
皆さんも私たちに気遣ってくださるので、関係性は非常に良好です。
あるお一方を除いて。
この会社に、メガネ着用者はもちろん私一人ではありません。
同じ仕事をしている原さん(3つ上の先輩です)は、PC用のメガネをいつもつけていらっしゃいます。
他にも営業部の部員の中にメガネの方が何人かいらっしゃいます。
つまりこの部屋の中に、「メガネ」という呼称に適する存在は私ひとりではない訳です。
なのに、私より1年後に入社した園崎さんは、ある日から「メガネちゃん」と私を呼ばわるようになりました。
「岡田です、名前で呼んでいただけませんか?」
と申し上げても、困ったことに軽く笑って無視されてしまうのです。
私が5年目ということは、彼も社会人となって4年が経つ訳です。
売上も同期の中では一番で、後輩の指導も丁寧と評判です。
彼の管轄の書類は、いつだって必要事項がきちんと明確に示されています。
だからそう、私の呼称に関する以外は、ごくまともに仕事に当たっていらっしゃるのです。
だからこそ不思議でなりません。
なぜ、この点においてのみ学生気分が抜けないのでしょう?
私が「岡田さん」と呼ばれたのは、入社後、彼がまだ先輩について回っていた頃、他の方をさしはさんで仕事をしていた時くらいです。
一人で仕事をなさるようになってからは、もう気付けば「メガネちゃん」。
諸先輩方は、「いくら年齢が自分の方が上でも、年次は岡田君の方が上なのだから」と注意してくださいました。
けれども今日に至っても、改められる気配はありません。
飽かず「メガネちゃん」と私を呼ぶのです。
「もう、いい加減にしてください。
わたしには岡田奈緒美という名前があるのです。
職務の時間内に仕事の場において、その呼び方は適切ではありません。
きちんと名前で呼んでください」
平和主義、優柔不断、などと評される私もさすがに怒らねばなりません。
いつもはお願いの形を取って申しておりましたが、さすがに今日は許してはなりません。
園崎さんに頼まれた用件、第一会議室には取引先の方がいらしていました。
その部屋からの電話、即ち他社の方がいる前で「メガネちゃん」なんて!
会社を舐めているとしか思えません。
終業後、会社の非常階段まで来ていただきました。
今日こそはキチンとお話をして、改めていただかねばなりません。
なのに、それに対する返答が。
明らかに会社と私を舐めているとしか思えないもので。
「じゃあ、奈緒美ちゃん」
馬鹿に、されてますよね?
「苗字で呼んでくださいませんか?
なんて、本当はそんなこと、言わなくてもお分かりになるでしょう?
ここは学校じゃなくて、会社なんです!」
ああ、もうなんなのでしょうこのひと。
私の神経を逆撫でしたいとしか思えません。
「だって、岡田さんなんて他人行儀で嫌だ。
ああでもそうか、奈緒美ちゃんは仕事中の名前の呼び方にこだわってるんだよね?
仕方ないから就業時間内は岡田さんって呼んであげる。
でも仕事が終わったら奈緒美ちゃん、奈緒美って呼ぶね?」
たしかに仕事中の呼び方が問題ある、とは申し上げましたけれど。
「仕事が終わったら、名前を呼ばれる必要も理由もないと思うのですが」
首を傾げたくなります。
「……わかった、奈緒美ちゃんは一々言葉にされないとわからないタイプなんだ。
とりあえず明日の土曜、何か予定ある?
時間作ってよ、話したいことがあるから。
そうしたら仕事中はちゃんと岡田さんって呼ぶし、名前を呼ぶ必要も教えるから」
なぜ交換条件が必要なのでしょうか。
よくわからなくて、リアルに首を傾げてしまいました。
けれど、目で答えを促されているのはわかります。
答えるまで(というよりもはイエスというまで)許さないぞ!という無言の圧を感じています。
なぜでしょう。
「明日、は、午前中は家のことをやらなくてはならないんで無理です」
「昼からなら平気?」
「ええとそうですね、昼過ぎなら、えっと?」
「じゃあ13時ね。
奈緒美ちゃんの最寄り駅って中央線だったよね。
だから新宿駅ならどうかな」
「大丈夫、ですけど、あの?」
なんで明日?今じゃ駄目なんでしょうか?
明らかに疑問符を貼り付けただろう私の言葉も表情も、華麗にシカトされてしまいました。
そしてとんちんかんなことを園崎さんがおっしゃいます。
「そのうち、メガネ外したところを見せてね」
しかもなぜか頬に手を添えられて、あの、近いんですけど。
とりあえず「絶対に嫌です」と反射的に口をついてでました。
だって嫌ですし、無理ですもの。
けれどどこか傷ついた顔をなさった園崎さんの表情が不思議で、一応、一言付け加えます。
「わたし、メガネがないとなんにも見えないんです。
歩けませんし、だからお風呂と睡眠時以外まず外しません。
だからお見せすることができないんですよ?」
「その部分を共有したい、ってお願いなんだけどね。
まぁ、いいです、これからゆっくり進めるし。
まずは明日、絶対来てよ」
なんて言われて、ああもう、何がなんだか?
とりあえず、そんなに近づかなくても、声は聞こえるんですけど、あの。
いたたまれないし、ドキドキしますし、困るんですけれども。
それ以上近くにいるのがもう辛くて苦しくて、逃げ出すように帰宅しました。
……明日、どうしましょう?