約束 《前篇》
「あの、これ、お願いします!」
放課後の、校舎裏。
そんなベタなシチュエーションで目の前に立つ男性は、ネクタイの色から1年上。
日に焼けた肌、意志の強そうな目と眉、引き結ばれた薄い唇。
短めの髪は恐らく運動部の証。
制服をあまり着崩さずに着ていて、いい意味で真面目と予想させる。
こんな用事で呼び出されたんじゃなけりゃ、好感だって持てたろう。
彼が差し出しているのは、薄い水色の封筒。
表に書かれているのは、もちろん私の名前ではなく初音の名前だ。
言葉足らずの彼の思考を推定するに、つまりは私に初音へのメッセンジャーを頼みたい、と。
何度も繰り返されたこのパターン、まぁ、呼び止められた時にわかっていたけれどね。
「自分で、渡した方がいいと思います」
溜息をつきながら、そう告げれば、彼が必死の目で見つめてくる。
「それが出来たらそうしたい。
でも、俺には近付くことさえできないから。
伝えるだけでも伝えたくて、ごめん、迷惑なのはわかっている。
こんなことを君に頼むなんて、申し訳ないことをやっているのは」
真面目な彼が、苦悶の表情を浮かべて必死で話し始めたから、途中で止める。
これまでなら断るところだけど、でも。
この真面目な人なら或いは。
「…わかりました、渡すだけですよ?
返事とか期待しないでくれますか?」
「っ!ありがとう、恩に着るよ!」
手紙1通分、大した重量ではないはずなのに、ズシリと重い。
なんで預かっちゃったのかなぁ。
部活に行く気力さえ、かばんの中の手紙に奪われた気分。
プールへと向けていた足の方向を転じ、ピロティの屋上へ向かう。
公式に開放されている屋上と違い、ピロティには人がこない。
半分屋根がかかっているところには、壊れた机やロッカーが置いてある。
だから皆はここを物置かゴミ捨て場だと思っているのだろう。
私はそのゴミを捨てにきた際に、ロッカーの向こうにぽかんと空いたスペースを見つけた。
私にとって、学内で唯一気を抜ける場所だ。
今日も誰もそこにいないことを確かめて、それから机の向こうへと通り抜ける。
捨てられたロッカーに入れておいた、レジャーシートを広げてそこに寝転がる。
「あーあ、面倒くさいな!」
声に出して言ってみる。
言葉は青い空に吸い込まれて、あっという間に消えていく。
なんだか少しだけ気が晴れた気がした。
何も考えず、ぼんやりとそこで過ごすうちに気づけば寝ていた。
携帯のアラームが、待ち合わせの時間を知らせるので目覚める。
レジャーシートを片付けながら「いつもの顔」を思い出して貼り付け、そして昇降口に行く。
まもなく彼らもやってくる頃合だろう。
「まどかちゃん!お待たせしてごめんね?帰ろ?」
両脇を今日もナイトに固められて、初音がやってくる。
「ん、お疲れさん。
カイも悟も、お疲れさま」
「まどか、今日部活出てなかったろ。
生徒会室から見えなかったぞ」
「水泳部覗いてたの? 悟ってば変態ね」
「違う、生徒会室からプールはよく見えるんだ」
「だから覗いてたんでしょ?やっだぁ」
からかいながら、不審気な顔をした悟を誤魔化す。
「早く帰ろう、暗くなっちゃうよ」
話はここで終わりよ、悟。
初音とわたしはいとこ同士だ。
割と近所に住んでいて、年が同じで仲が良かった。
カイは私の幼馴染で、幼稚園から一緒。
小学校の時、入学式で私が紹介した初音に一目惚れしたらしくて、以来ずっとナイト役を買って出ている。
悟は中学からこの私立で一緒になった。
初音に近付く男を片っ端から遠ざけるカイが、なぜ悟を例外にしたのかわからない。
わからないが、悟もまた、カイと一緒になって初音のナイト役を務めている。
高校に入ってからは、彼女のファンクラブが出来た。
彼女を守るためのソレは、彼女を害するものも利そうとするものも排除する。
彼女が来るより早く学校に来て、彼女の机や下駄箱に余計なものがないかを確認する。
彼女が廊下を歩くときには、遠巻きに見守り周囲を牽制する。
対象は自分達にも及び、だから相変わらず初音の周りには私たちしかいない。
他人の好意にも悪意にも鈍感な初音は、彼らの存在に気づくことはない。
初音は、そうやって何人もが彼女のために力を注ぐにふさわしい子だ。
持病があり、外を私のように走り回ることができないが為の、白く、折れそうに細い身体。
ふわふわと柔らかく陽に透ける髪、青みすら感じる透徹なその瞳は大きく、長く濃いまつげに彩られている。
唇と頬はふっくらとピンクに愛らしい。
心根は優しく、いつでも周囲を気遣い、幸せを願う。
その背に羽が生えていないことが信じられないくらいで、そこを失わぬまま成長してきた。
けれどその彼女の愛らしさは、彼女に幸福をもたらさない。
幼い頃から怪しい趣味の大人達の標的にされること、しばしば。
クラスの女の子にはいじめられ、男の子にも別の理由でいじめられた。
好きな子ほど、という子供らしい理由だ。
長じてから、男のいじめはずっと減った。
けれど、今度は彼女を得ようとする男達が群がった。
庇護欲と同時に征服欲が彼らを駆り立てるのだろうか。
彼らは天使を聖域から引き落とそうとするかのようだ、と思った。
たとえば、告白の次の瞬間、彼女へ襲いかかるということが何度かあった。
女性達の多くは、変わらず彼女を敵視した。
せっかく友人となった人物も、ある時くるりと敵になる、そういうことが何度も繰り返された。
自分の彼氏が、好きな男が、初音を見る目に対する嫉妬が原因だ。
初音はその理由を理解できず、だから友人たちの裏切りを理解できない。
あるとき突然に捨てられたように感じるだけだ。
そうして、初音は新たな友人を作ることを諦めた。
私達は、ただ初音を守ることだけを決めていた。
小さい頃は私が一人で彼女を守っていた。
小学校からはカイが一緒に守った。
中学からは悟もともに。
私達以外に友人と呼べる存在がいないことを、彼女は自分の至らなさのせいだと考えている。
私達は長い付き合い故に、彼女を許しているだけだ、と。
違う、本当は彼女はとても魅力的な人間なのに。
多くの人が、彼女の側にいたがっているのに。
誰が彼女を害する人なのか、判断することは困難だ。
傷ついてから、では遅過ぎる。
だから、誰もを一律的に排除しているだけ。
そのことを初音以外の誰もが知っていて、だから今日のようなお願いを受けるのだけれど。
「わたしが、ひとりでちゃんとできないことばかりだから。
みんなに迷惑をかけて、ごめんなさい」
そうやって本当に申し訳なさそうに謝る初音。
本当に謝るべきは私達だというのに。
そう、私達は彼女を守ることこそが喜びだった。
だから彼女をスポイルし、ひとりで立てないようにした。
そんな私達の罪は大きいというのに、彼女に謝らせる。
悟とカイがどのように考えているのか、これまで話したことはない。
暗黙の了解のこれは、幼い頃を最後に口に出すことはなかった。
けれど彼女の謝罪の言葉を聞く際(それはしょっちゅう聞かされる)、釘を飲み込むような表情をするのを見れば、きっと彼らも大なり小なり、同じような想いを抱えているのだと思う。
それでも彼女に何も告げないでいるのは、同罪だ。
二人にとっても、だから初音の特別であれることが、喜びなのだろう。
「彼女のため」のフリをしながら、利己的な想いを果たそうとしている。
なんて滑稽で、酷い話。
けれど、少しずつ私たちも初音も変化している。
だから私は、高校生活も2年目を迎えた今年の春から、少しずつ「初音」離れをはじめた。
我が校の生徒会選挙は、前任者の推挙により選出され、信任選挙が行われる。
(もちろん、不信任という選択肢もあり、別候補者が立つこともある)
学業優秀で部活でも活躍していたカイと悟は、部の先輩であった前任者により推挙された。
その際、ついでのように私と初音の名前も挙げられた。
私は、けれど部活を理由に辞退した。
水泳部の、選手として有望だった訳でもなく、泳ぐことを楽しむだけの私だから、以前なら初音のいる場を優先しただろう。
でも私は初音離れを決めたのだ。
少しずつ、距離をとることに決めたのだ。
高校という囲いを出てしまえば、彼女はどうしても一人にならざるを得ない。
カイや悟は、或いは志望の学科を曲げるくらいのことはするかもしれない。
でも、卒業したら?
二人のどちらかが嫁にもらえばいい、そういう話なのだろうか。
彼女と同性で、そして親戚である私には、それはとても危険に見えた。
ちゃんと彼女が自分を知り、そして一人で立てるようにするべきだ。
私達以外の人間と繋がるためのチャンスを、私達が消してはならない。
先ほど手紙を預かった彼が、それにふさわしい人物かはわからないけれど。
もうひとつ、実に利己的な理由は心の中で握りつぶす。
初音が私の手をとり、歩く。
「まどかちゃん、明日って忙しいかな?
一緒にお買い物に行かない?」
「いいよ、何が買いたいの?」
「んー、特に決めてないんだけど、お洋服とか見たいなぁ」
「じゃあアウトレットまで行く?
初音の好きなブランドも入ってたよね、確か」
「うん!嬉しい、まどかちゃんとデートだ」
「俺達は何で誘ってくれないわけ?
悟、暇なんだろ、おまえも」
「まどか、今週末は約束したろ?」
「あー、あれ、明後日でも、なんなら来週でもいいでしょう?
急ぐ用事?」
「…じゃあ、日曜でいいよ」
「そ?昼ごろでもいい?」
「あれ?悟と何か約束あったのね?
私、別の日でもいいんだよ?ごめんなさい」
「いいよ、話だけみたいだし、後で十分でしょ」
「ふうん?いいの、悟は」
「まぁいいよ、大丈夫」
悟から週末の時間を求められたのは今朝の話。
きっと、私の最近の「初音離れ」についてだろう。
男性の彼らには目が行き届かないところや場所は多く、私が離れると不都合なのだ。
もちろん、私も女性特有のいじめみたいなことが起きないよう、そこには離れた今だって目を光らせている。
でも悟から見れば、きっと不十分に見えるのだろう。
約束を忘れていた訳じゃない。
でも、出来たら先延ばしにしたいなぁ、と思っていたのが真実だ。
一方的に「週末、話があるから空けておいて」といわれただけで、そもそもそれって約束なのかな。
いろいろ理由をつけて、少しでも後回しにしたかったんだけどな。
まぁ、逃げたところで話すまでは悟のことだ、毎週言われるだろうし、仕方ない。
電車は、いつもと変わらず3駅先の私たちの暮らす街まで連れて行ってくれる。
車窓の風景も何も変わらない。
そこに乗る私たちの気持ちは、少しずつ変化しているのに。
改札を出て、まず悟と別れの挨拶を交わす。
それから私が別れる。
私と繋いでいた手を、最近ではこうやって別れた後、カイと繋いでいるのを悟は知っているのかな。
背中を見送りながら、そんなことを考える。
ついでに手紙を渡しそびれたことを思い出す。
明日どこかで時間を作ればいいのだけれど、それまでずっと持っていることが憂鬱。
10時5分前、初音の家へと足を向ける。
昨日彼女と別れた場所あたりで、ちょうど彼女がやってくる。
「ぴったりだね、おはよう」
「本当に!おはよ、まどかちゃん!」
相変わらずキラキラとした笑顔で、胸が痛い。
当たり前のように手をつないで、歩き出す。
「カイが、意地でもついてくるかと思った」
「ふふ、着いてきたがってたけど。
今日はまどかちゃんと二人がいいから、駄目!って言ったの」
「ふうん?」
キラキラとまぶしい笑顔から、不自然に見えないようにそっと目を外した。
駅へとたどりつき、学校があるのとは逆方向の電車に乗る。
いつもと違うということは、なんとなく気持ちが落ち着かない。
時間と曜日が違うから、乗っている人さえ全然違って、とても不思議。
4駅分の時間を利用して、カバンの中から気鬱の元を取り出す。
「あのさ、ひとつ預かり物があるんだよね」
「ん?なあに?」
「初音に渡して欲しいって、手紙預かったの、コレ」
「?、開けていいのかな?」
「初音のものだから初音に任せるよ。
離れていた方がよければそうする」
「いい、ここにいて」
そのまま電車に揺られながら、彼女は手紙を読み出す。
最後まで読み終えて、もう一度封筒に手紙を戻して、それから小さく嘆息する。
下を向いたままいた彼女が、何かを決意したようにこちらを見て。
「あのね、まどかちゃんに話したいことがあるの。
それで今日、お出かけしたかったんだけど。
…わたし、カイくんと付き合う、ことを考えていて。
どう、思う?」
そう、彼女は衝撃的な言葉を告げた。
「ずっと4人でいるのが当たり前で。
でも最近、まどかちゃんと一緒にいられる時間が減って。
私に友達が少ないのは私のせいだから、仕方ないのはわかってる。
なのにね、まどかちゃんがクラスや部活の子と仲良くしているのを見て。
…うん、さびしかったの、私。
勝手なのはわかってるんだけど」
私が、初音のためと決めてやっていたこと。
どんな影響を及ぼすかなんて、予想はできていた。
それでもやらなくちゃならない、そう一人決めてやっていた。
彼女がどんな風に悲しむかなんて、わかっていた。
今の彼女じゃなくて、将来の彼女のために必要なんだ、ってそのことから目をそらしていた。
わかっていたけれど、そのことを彼女の口から聴かされて、苦しい。
ごめんなさい、初音。
唇をかんで、初音から目をそらす。
初音は話の続きをしようとせず、少しの間黙る。
そうして目的の駅に着いたから、無言のまま手をつないで降りる。
駅の前に広がるアウトレットの、入り口近くにあるベンチに座る。
話はまだ終わっていないから。
お店を回る前に、大事なことを済ませてしまおうよ。
言葉にせずとも、私たちだから理解し合っていた。
「まどかちゃんが、小さいころからずっといつもそばにいてくれて。
私、それが本当にうれしかった。
おねえちゃん、でもないし、うん、なんだろう。
双子って、片割れってこんな感じなのかな、そう思ってた。
まどかちゃんのことを大好きで、本当に大好きだったから。
だから、私が独占できなくなっちゃって、さびしかったんだ。
…ごめんね、そんな駄目な子で」
首を振るしかできなくて、初音の目を見れなくて。
ずっと下を向いて、ひざの上でゆるく結ばれた初音の手を見ながら、ただその言葉を聴く。
「さびしくて、さびしくて仕方がなくて。
そんな時、まどかちゃんの分も側にいてくれたのがカイくんだったの。
私がさびしいの、わかってくれてたみたいで、ただずっと側にいてくれた。
まどかちゃんの代わりに、私と手を繋いで歩いてくれた。
…カイくんが、でも、先週、クラスの子に告白されているの見て」
彼女の手が、ギュッと握られる。
真っ白になったその手をなんとかしたくて、手を伸ばす。
そっと撫でると、少しだけ力が緩んで。
もう一度話し出す。
「あの、ね。
カイくんまでいなくなっちゃったら、どうしよう、そう思ったら頭が真っ白になって。
まどかちゃんの代わりに繋いでくれた手まで失うのか、って寂しくなって。
…だからその日の帰り道、カイくんに、告白の返事をどうしたの?って聞いたのね。
そしたら、カイくんが怒って。
わたしのことが好きだから、断るに決まってる、って。
それを聞いたら嬉しくて、で、その、でも。
どう言ったらいいのかわからなくて、何も言わずに帰っちゃった。
で、それから色々考えて、考えて。
私はカイくんが好きなんだ、って答えが出た気がして。
カイくんが私が思うように好きでいてくれているなら、その。
…付き合ってください、って、お願いしようかと、思って」
黙った彼女の顔を、ようやく見上げる。
顔を真っ赤にしながら、私が見ていない間も私を見ていてくれた彼女。
弱い、と思ったのは間違いだ。
彼女は、ちゃんと自分の気持ちを伝える勇気を持っている。
私なんかよりもずっとずっと、強い。
今、彼女ははじめてのことに戸惑っている。
私に助けを求めていて、背中を押されたがっている。
でも、たとえ私がそうしなかったとしても、彼女はきっと近いうちに勇気を持ってカイに告げられる。
そんな強さが、私には見える気がした。
「カイはずっと初音のことが好きだったよ」
だから、私は彼女に本当のことを伝える。
私が彼女のためにしてあげられることは、これからきっとどんどん減って行く。
今はまだ、私に出来ることがあるから。
「ずっと、ずっと。
小さい頃から、初音のことだけが好きなんだよ」
「本当に?そうなの、かな」
初音に愛情が生まれたきっかけは、刷り込みかもしれない。
けれどカイのことを本当に好きなんだと思える目をしていた。
きっかけなんてなんだっていいんだよ、きっと。
好きだって気持ちで繋がれるのなら。
「うん、本当。
だから大丈夫だよ、初音。
カイは初音を幸せにしてくれるし、初音といれたら幸せなんだよ」
そう、背中を押した。
悟は、どうするんだろう?
もしかして、そのことを知って、何か相談したくて私を誘ったのかな。
彼の気持ちを思えば、胸が苦しくなった。
私に話したことで、初音の心は決まったみたいだった。
さっきまでの不安そうな表情が嘘のように、心からの笑みを浮かべていた。
「ありがとう、まどかちゃん」
ごめんね、悟。
晴れやかな顔をした初音と、店を見て回った。
お昼を食べ、一通り見て、それから互いに服を見立てた。
白いシャツワンピは、確かに私の好んで着そうな洋服だった。
私は初音に、小花柄のシフォンワンピを選んだ。
「まどかちゃんの選んでくれた服、わたし、すごい好きだなぁ!」
本心の笑顔が、嬉しくて悲しかった。
「カイとの初デートにでも、着ていったらいいんじゃない?
これきた初音、すっごいかわいかったよ」
少しからかってみたら、顔を真っ赤にして頷かれて。
ああ、天使が人間になるのも近いのかな、なんてことを考えて、でもどこか他人事だった。
悟が、あんまり傷つかなければいい。
私はそんなことばかりを考えていた。
夕方になり、夕食を家族と約束していた私たちは家へと向かった。
電車の中の初音は、いつもより少し饒舌だった。
見たい映画の話、新しく出来た観光スポット、来週の予定。
これまでは私がその相手を務めていた。
そこにカイと悟が入ることはあったけれど。
きっとこれからは、カイがただ一人の相手になるんだろうな。
朝、出かけたときにこんな気持ちで帰るなんて、予想もしなかった。
寂しい、よりも気持ちが重たかった。
手を振り去っていく彼女を見送りながら、気づかれないように溜息をついた。
上の空で夕飯を食べて、それから母に今日買った服を見せた。
「まどかにこれ、買ってきたのよ」
そうやって渡されたのは少しだけ華奢なデザインのサンダル。
「このワンピースに似合うわよ、きっと。
明日も出かけるんなら、着ていけば?」
明日、の言葉が重たかった。
お風呂を済ませ、それから部屋に戻る。
携帯には初音やクラスの友達のメールに混ざって、悟からの連絡。
「明日、13時に駅で」
そんなそっけない一文に、「わかった」とだけ返す。
他のメールに返事をする気力もなくなって、電話の電源を切り、そのまま眠った。
いつもより気持ち早めに眠ってしまったせいで、いつもより早く目が覚める。
私の気分とは裏腹の、真っ青に晴れた空。
朝ごはんを食べ、掃除や洗濯を手伝ううちに、あっという間に昼時間。
12時半を過ぎて、のろのろと出かける準備をする。
悟が話したいことは、なんだろう。
カイのことは、初音のことは知っているんだろうか。
ただただ、憂鬱な気持ちが頭から離れていかない。
駅前、約束の時間の10分前に着く。
毎朝悟と会う辺りを目指して歩けば、私より先にきていた悟の姿が目に入る。
周囲より頭ひとつ分高い背。
学校のある日は眼鏡をかけているけれど、今日は素のままで。
ガラスを通さないその目には、何かを見透かされそうで怖くなる。
「お待たせ、悟」
「待ってないよ、それにまだ約束した時間前だ。
おはよう、まどか」
「うん、話って?」
「ここじゃなんだし、定期持ってきてる?」
「一応持ってる、けど?」
「じゃあ行こう」
どこに、となんとなくきけないまま、あいまいに頷く。
手を差し出されて、首をかしげる。
「私は、初音じゃないよ?」
「そんなの当たり前だろ」
強引に手を拾われて、歩き出す悟の背を追った。
改札を抜ける時にだけ、繋いだ手が離される。
それからまた当たり前のように手を取られ、毎日乗っている電車へ。
悟は何も言わなくて、私も何も言えない。
ただ繋がれた手の辺りだけを見つめていた。
降りた駅は学校のある駅。
「学校に行くの?」
「部活で開放されてるから、入れるよ」
「用事?」
「いや、落ち着いて話ができるでしょ」
よくわからない答えを返され、また言葉が途切れる。
私服だけれど、誰にとがめられることも知り合いに会うこともなく、校舎へと入る。
校庭ではサッカー部が練習試合をやっているようで、時折歓声が聞こえる。
本校舎へと向かう道筋には人気がなくて、いつもと違うその様子が不思議だ。
「とりあえず生徒会室行こう、あそこなら人もいないし」
下駄箱などで離れるたびに解かれ、けれど当たり前のように再び繋がれる手に、私は「どうして」って聞くこともできなかった。
導かれるまま、見慣れた学校の見慣れぬ場所へと入る。
「お茶とコーヒー、どっちがいい?」
「えっと、お茶?」
「じゃあそこに座って待っていて」
生徒会室の中、整頓されたテーブルを示され、居心地悪く座る。
ここは私の場所じゃない。
私が来ないことを選んだ場所だ。
手持ち無沙汰で、ミニキッチンに立つ悟の背中をそっと見つめる。
太陽に透けた髪が綺麗。
背中が広くて、背が高い。
背筋が伸びていて、首がすっとしている。
ぼんやりとその姿を見つめる。
「お待たせ、どうぞ」
急に振り返られて、心臓がつかまれたようにドキリとしたけれど、それに気づかれないように笑顔を作って、「ありがとう」と応える。
渡されたのは、初音用なのか、ピンクの可愛らしいカップ。
お揃いで色違いのカップを持つ悟を見て、急に昨日の初音の言葉を思い出す。
あの二人が付き合い始めたら、悟はどうするんだろう。
そのことを、悟はもう聞いているんだろうか。
考えたくなくて、だから話をふる。
「そういえば、何か話があったんでしょう?」
「うん」
頷いた悟は、けれどそこからしばらく黙り込む。
どう話したらよいのか困っている風だったから、私から聞いてみる。
「初音のことでしょ?」
「…ある意味、そうだな」
「私が、初音から離れた理由?」
「それもある意味で、うん」
「ある意味で、って、じゃあ、カイのこと?」
「ある意味では、そうだね」
「…全然わからないんだけど、用件は何だろう?」
また、沈黙が支配する。
そんなに話したくないことなのかな。
それとも話すのも辛いことなのかな。
「まどか。
まどかは、好きなヤツがいるでしょう?」
断じるように尋ねて来るから、ついうっかり「うん」と答えてしまう。
好きな人。
好きだと、気づいてしまった人。
私じゃない、他の女の子を好きな人を、好きになった私。
誰にも言わないし言えない、そんな気持ち。
そんな私の思いを知ってか知らずか、目を細めて悟がこちらを見てくる。
「誰かは、言わないよ」
尋ねられる気配を感じて、だからそう先回りして応える。
溜息で、応えられる。
「……カイが初音を好きだってことは、知ってる?」
「うん、それはもう小学校の頃からずっとだ」
「カイが初音に、それを告げたことは?」
「…昨日、初音に聞いたよ」
「そっか」
再び、小さく溜息がもれ聞こえる。
ああ、悟も聞いたんだ。
恐らくカイからなのだろう、二人は仲がいいから。
「二人は、付き合うようになるかもしれない」
小さな声で、悟はそう告げてくる。
肘をつき、手指を組合わせた上に顎を乗せ、目線をテーブルの上にやる悟。
背が高いから、悟のつむじって中々見ないな。
なんとなく真面目に考えるのがイヤで、そんなどうでもいいことに意識を寄せる。
「なぁ、まどか、俺に出来ることはない?」
沈黙を破っての言葉の意味がわからず、驚く。
「悟に出来ることって?」
「まどかは、その、…カイのことが、ずっと好きだったんだろう?」
「誰が」
「だからまどかが」
「…誰を?」
「カイ」
なぜ、そんな話になるのだろう。
私がカイを好き、そんなことがある訳もない。
悟だって見ていたらわかるだろうに。
けれど悟はかたくなにそう断じるような口調で告げてくる。
意味がわからない。
「絶対にちがう」
「初音に遠慮してんだろう?」
「だから違うって言ってるじゃんか、しつこいなぁ」
「じゃあ誰なんだよ」
「言わないよ、なんで悟に言わなきゃなんないの」
「言えないんだろ、カイだから」
「違うってば!しつこいよ、悟」
あ、なんか涙出そう。
でもきっともっと誤解される。
だからジッと我慢して、目に力を込めて、悟を睨みつける。
「なんでそんなこと言うわけ?
ああ、私がカイを好きだと都合がいいから?
優しいもんね、初音もカイも。
私が好きだなんて言おうもんなら、遠慮して付き合わないよね、きっと」
「都合なんて悪いに決まってるだろう?!
まどかは、初音とカイが一緒にいるのを観たくなくて、離れてるんだろう?」
「…はぁ?」
「部活に力を入れたいから、なんて言って生徒会断ったくせに。
そのくせ、全然お前部活に出てないじゃないか。
しょっちゅうサボって、ピロティの屋上で寝ててさ」
「なんで知ってるの?!」
「知ってるよ、そんなこと。
二人のことを見たくないからだろう?」
「違う!初音のために!
私たちがずっと側にいたら、初音はいつまでも他に友だちもできない。
今はそれでいいかもしれないけど、これから先は?
私は理系だし、悟だってそうでしょう?
そうしたら文系の初音とは、大学からもう別々だ。
もしかしたら、悟は文転するかもしれないけど、でも。
…ずっと一緒なんて、いられないんだよ。
いつまでもべったり一緒になんて、いられない」
悟が言った言葉には真実があった。
それを知られたくなくて、だから必死で言い募った。
全部なんてさらけ出したくない。
誰にも言いたくない。
「それじゃ、俺たちを遠ざける理由にはなんないよ、まどか。
その理屈、初音の側に俺たちがいたんじゃ、意味がない。
まどかだけが離れた理由には、足りないよ」
ああ、すぐに見抜かれてしまう。
「まどかが言いたくないなら、もう無理に聞かないよ。
代わりに一つだけ。
俺と付き合ってよ、まどか」