百回の嘘
幼なじみの翔ちゃんは、とにかくモテる。
背が高い、賢い、美形、ではないけれど精悍で清潔感のある顔(私は武将っぽいと思う)、優しい、頼まれると断れない性格で生徒会長なんてやっている、サッカー部では不動のレギュラー。
…まぁ、モテるよね。
翔ちゃんの友達で、同じくサッカー部のエースな槇村先輩は、わかりやすい美形。
少しチャラい印象だけれど、サッカーの時の真剣な眼差しがそれを裏切る。
一緒にいることが多い二人は、セットでもてまくっている。
二人のファンクラブ、なんてものまである。
ところがもったいないことに、翔ちゃんは女嫌いだ。
違うな、苦手が適切な言葉だな。
対大勢だったり、何か役目を背負っている時は大丈夫。
でも1対1の距離感は、逃げ出したいほど苦手らしい。
苦手ポイントは、女性的な感情の起伏。
泣くんじゃないか、怒っているんじゃないか、と思えば冷や汗が全身から噴き出す、という。
だからうるうる目でジッと見つめる、なんて即アウト。
難儀なものだ。
そんな翔ちゃんが平気で一緒に過ごせるのは、私たち姉妹くらいだそうだ。
小さい頃からご近所で、泣くのもわめくのも怒るのも、嫌になるほど見てきたから慣れているし、その理由もわかりやすいと翔ちゃんは言う。
否定はしないが、失礼な話だ。
でも。
翔ちゃんは、確かに私には緊張しない。
けれど美奈ちゃん相手だと、少し緊張していることに。
他の子たちにする緊張とは違うみたいだけど。
翔ちゃんが、女の子を苦手になったその時を覚えている。
3年前、私が中学1年で翔ちゃんが2年、美奈ちゃんが3年だった頃の話だ。
クラスメイトで同じ学級委員の子に告白されたという翔ちゃん。
正直、私には「好き」とか「付き合う」とかよくわからない。
けれどその頃、美奈ちゃんには彼氏がいて、なんだか楽しそうだった。
翔ちゃんも、わざわざ私に相談してくるくらいだから、憎からず思っていたのだろう。
(彼女以外にも翔ちゃんに告白した人が複数いることを、私は知っている)
だから、私は背中を押した。
「付き合っちゃいなよ、せっかくだし」
という、別に何の力もない言葉でしかなかったけれど。
私がけしかけたからという訳じゃないけど、二人は付き合い始めた。
けれど、たったの3ヵ月であっけなく終わったという。
やたらと疲れた顔をした翔ちゃんから状況を聞き出したところ、別れは彼女から。
翔ちゃんは、かなり人格否定されたっぽい。
簡単にまとめれば
「翔が、何考えてるのかわからない。
私が怒っていることにも気づいてくれない。
あなたには人間の心ってものがないからわからないんだわ。
いいかげんうんざりよ!」
ということだそうです、むーん。
そんなことを言われたら、「わかった」としかいえなかったよ、と翔ちゃん。
けれど彼女はその返事を聞いて、今度は号泣したんだそうだ。
「やっぱり、何にもわかってない!
なんてひどい人なの、酷すぎる」だって。
「何がなんだか、まったくわからない。
美知なら、怒るのも泣くのもわかるけどさぁ」
ものすごく憂鬱そうな顔で、そう呟いていた。
以来、女の子に感情をぶつけられるのが苦手になったと言う。
ずっと笑っていた彼女が、怒っていたことなんて気づかなかった。
別れたいというから了解したのに、怒りながら泣かれた。
笑顔で何を考えているのか、わからない。
わからないことは恐怖だ、と。
怖そうなおじさんを相手にする方がよっぽど良い、とまで言うくらいだから相当だ。
(でも翔ちゃんは、怖そうなおじさんと仲良くなれるひとだからなぁ)
翔ちゃんは、けれどモテる人だ。
彼女と別れてから、告白の回数はずっと増えたという。
断って泣かれるのはしんどいのだ、と、ある日、私の部屋でブルーな顔をした翔ちゃんが呟いた。
付き合うとか無理だし、だからといって断れば泣かれる。
泣かれるまでいかなくても、何か感情を秘めてそうな顔をしていて。
それが怖くて仕方ない、と本当に疲れた顔で。
どうやって断ったらいいのかも、もうわからないのだ、と。
顔色が悪いを通り越していて、表情が死んでいる。
こんな顔で断れば、そりゃ泣かれもするだろうよ。
そして泣かれるたびに、もっとずっと顔色が悪くなるんだよねぇ。
だから私は思い付きを口にした。
私と付き合っていることにしたらいいんじゃない?と。
彼女がいるとなれば、告白は多少減るだろう。
それでも告白された時にも、彼女がいるから、と方便が立つ。
向こうも最初から難しいと思ってくるだろうから、泣かれる率は減るだろう。
それでもし私や翔ちゃんに好きな人が出来たら、別れたことにすればいいじゃない?と。
少しだけ怖い顔になって(考え事をすると怖い顔になるんだ、翔ちゃんは)、それから「本当にいいのか?」と翔ちゃんが言う。
「もちろんだよ、翔ちゃんのためになるならね」
彼の女嫌いのきっかけには、ある意味で私にも責任がある。
翔ちゃんが相手をちゃんと好きで付き合うなら、きっとあんな事態にならなかった。
大事な幼馴染のために、だから少しでも手助けがしたかった。
付き合う、と言っても私も翔ちゃんもよくわからなかった。
「別れた彼女とは、どうしていたの?」
と念のためたずねてみた。
「うーん、特には」
言葉を濁されてしまい、結局よくわからなくて。
「美知はどうしたい?どこまで大丈夫?」と聞かれて、美奈ちゃんを参考にした。
今まで通り、家を行き来して話をする。
休日にたまに映画や買物に行くのも、前からしていたこと。
変えたのは、登下校を一緒にすることと、手を繋ぐことくらい。
一緒に登下校するのは元々近所だから良くあったことで、それをちゃんと約束にしただけ。
手を繋ぐことは、数年前まで当たり前にしていたこと。
そうやって、新しく何かを始めるのではなく、何年前かに戻ったみたいにして、私たちは恋人同士を演じた。
嘘の恋人同士だったけれど、周囲は信じてくれたみたい。
翔ちゃんへの告白の数もずっと減ったという。
相変わらず表情はちょっと怖いけど、うん、元々のことだしね。
「もし美知に好きな奴が出来たら、すぐに言ってくれ」
なんて何度も聞かれたけど、大丈夫。
翔ちゃんも、そうなったら言ってね。
中学を先に卒業し、美奈ちゃんがいる高校へと翔ちゃんは進学した。
私達の家から自転車で通える距離で、当たり前だけれど登下校は別々になった。
毎日手を繋ぐ相手がいなくなって、私は急に寂しくなった。
朝、部活があるからと翔ちゃんは早く出かけてしまう。
家の前を通る時に合わせて、窓越しに「いってらっしゃい」と挨拶をするだけ。
夜も私より帰りが遅い。
だから家に遊びに来ることも行くことも、ずっと減った。
週末も練習試合だなんだと言って、全然時間作ってくれないし。
相変わらず学校ではモテているみたいだ。
でも私を理由に断れて、ありがたいと言っていた。
「だからもし美知がこの関係を止めたいなら、面倒でも他の学校を選べよ」
そう、翔ちゃんは言う。
「なんで?私、一緒のところ行かない方がいい?」
近いし、翔ちゃんがいるところが良いのだけれど。
翔ちゃんは困った顔をして、それから「美知がいいなら、構わない」と返事をくれた。
困った顔は、忘れることにした。
中学3年は、早く過ぎることだけを願っていた。
早く翔ちゃんのいる高校に行きたかった。
また前みたいに、二人で一緒に学校に行きたかった。
そうしたらたくさん話ができるのになぁ。
聞いて欲しいこと、聞きたいことがたくさんあった。
私立の併願を受けろという担任の言葉を無視し、翔ちゃんのいる高校一本しか受験しないことに決めた。
成績的には大丈夫だったけど、翔ちゃんが一応、休みの日は勉強を見てくれた。
そのことが嬉しくて、私は勉強を頑張った。
もう二段階上の高校を薦められるほどに成績は伸び、目標どおり翔ちゃんの高校へ無事合格を果たした。
春から同じ学校に通うことに成功した。
朝練のある翔ちゃんと同じ時間に起きて、窓から見送る。
それからお弁当をお母さんに手伝ってもらいながら、作る。
自分の分と、美奈ちゃんの分と、そして翔ちゃんの分。
翔ちゃんのお母さんが作るお弁当は、朝練の終わりと同時に胃袋に消えちゃうんだそうだ。
毎日一緒にお昼を過ごしているのだけれど、毎回私のおかずが狙われる。
だから、諦めて3つ。
(美奈ちゃんは朝弱いから、弁当作りには参加しないのだ)
自転車で学校に行くと、ちょうど翔ちゃんの部活が終わりの時間。
1年生の自転車置き場からサッカー部の部室は近くて、だから一言二言話せたりする。
お昼は一緒に、空き教室か屋上で食べる。
たまに槇村先輩や美奈ちゃんたちも一緒。
二人は私達の関係が嘘っこだって知っているから、だから色々と気にせず一緒にいられる。
夕方、私は図書委員の仕事を終え、それから翔ちゃんと一緒に帰る。
自転車だと、手を繋げないのが寂しい。
翔ちゃんはあれから3年も経ったのに、相変わらず女の子が苦手だという。
女の子にモーションかけられるたびに顔色を悪くしている。
大変だなぁ、モテる人は。
「美知、馬場先輩ってばモテモテで、大変だね」
クラスの子が、そう同情してくれるほどだ。
「そうだねぇ、大変そうだね、翔ちゃんってば」
だからそう答えた。
「違う!」と突っ込まれたけど、何が違うんだろう?
今日も告白されたらしくて、待ち合わせの場に少し疲れた顔でやってきた翔ちゃん。
珍しく美奈ちゃんが一緒に帰ると言っていて、だから3人で自転車を走らせる。
翔ちゃんは、私たち姉妹には緊張をしない、と言っていた。
でも嘘だ。
美奈ちゃんが何かを言う度に、背中に緊張が走っているのがわかる。
美奈ちゃんを怒らせないように、泣かせないように、気を遣っているのがわかる。
ねぇ、翔ちゃん。
好きな人はいない、って言ってたけどさ。
本当は美奈ちゃんのことが好きなんじゃないかなぁ。
美奈ちゃんを好きになる気持ちはわかる。
妹の私が言うのもなんだけど、美奈ちゃんは素敵だ。
十分に手入れされた長い髪、整えられた白い肌。
はっきりとした顔立ちを強調するように、適度に加えられたメイク。
女らしい、そのしゃべり方に表情。
同じ血なのに、なんであんなに体の凹凸が違うんだろう?
似ている、と言われる私だけれど、でも私は美奈ちゃんの劣化版だ。
くせがあるから、髪はいつでも結わえていないとだめ。
メイクなんて上手くできないから、いつもすっぴん。
胸なんて、育つ気があるんだかもわからない。
中学のときにやっていたバドミントンのせいで、足はししゃもだし。
性格だってガサツだって言われる。
だから私は「美奈ちゃんの妹」として扱われるのに慣れていた。
「あの」美奈ちゃんの妹。
綺麗な、カッコいい、ステキな、可愛い。
私も美奈ちゃんが好きだから、そんな風に皆が言うのはよくわかる。
先生だって、「三上の妹」って私を呼ぶ。
親戚だって、私を美奈ちゃんの妹として見る。
「美奈を見習えよ」「美奈みたいになれるといいね」
何度そういい聞かされたことか。
でもみんながそう思うのはわかるんだ。
美奈ちゃんは特別。
私だって、美奈ちゃんみたいになりたい。
でも美奈ちゃんはならなくていいって言う。
私が私のまんまでいた方が、ずっと良いって。
私の良いところを探して、教えてくれる。
翔ちゃんもそうだ。
両親と、翔ちゃんの両親もそう。
私は美奈ちゃんの妹じゃなくて、三上美知。
美奈ちゃんは大好きだけど、それでもたまに泣きたくなる。
そんな気持ちを多分わかってくれている人たち。
家族以外では翔ちゃんたちが初めてだから、私は翔ちゃんが大好きだ。
翔ちゃんのためになることをしてあげたいんだ。
何ができるだろう、って考えて「彼女のフリ」を言い出したけれど。
翔ちゃんが好きな人ができたなら、それを協力したい。
でも。
美奈ちゃんには彼氏がいるから、翔ちゃんは動けない。
私だって、どうこうすることはできない。
私、翔ちゃんのために出来ることってないのかな。
私の前を走る二人の後姿を眺めながら、そんなことを考えた。
高校生になって2ヶ月が過ぎた。
私は初めての中間テストを終えて、少しだけ息をついた。
翔ちゃんの肩書きは、生徒会の書記から会長へと変わった。
そして、美奈ちゃんが彼氏と別れた。
3年も付き合っていた彼と別れた理由は進路、と美奈ちゃんは言う。
彼が地方の大学に行きたいと言い出し、そこから上手く行かなくなったのだ、と。
あんなに仲良しだったのに、呆気ない。
実際に遠くに行くまでまだまだ時間があるのにな。
できることはまだありそうなのにな。
美奈ちゃんは笑って話していたけれど、なんだか私は泣きたくなった。
「だからさ、美知。
もし美知に問題がないんなら、私が翔と付き合っていることにしたいんだけど」
そう美奈ちゃんに言われて、驚く。
「私は和馬以外の誰かと付き合う気には、きっと当分なれない。
でも、もし別れたと知れれば、多分少し面倒くさいことになりそうなの。
翔と付き合っているフリをするのは、むしろありがたいのよね」
「美奈先輩ならわかるけど、なんで妹の方なの?」
翔ちゃんのファンだという女の子に、そういわれたことがある。
美奈ちゃんなら、という人たちの気持ちは私にだって理解できちゃうのだ。
私と翔ちゃんとじゃ、釣り合って見えないんだ。
美奈ちゃんと付き合っていると思われたら、告白だってもっと減るだろう。
それに、美奈ちゃんの「面倒くさいこと」は、きっと翔ちゃんと一緒なのだ。
だからこそ二人が一緒にいるのは、どちらにとっても都合がいい。
何より、美奈ちゃんの事情には驚いたけれど、翔ちゃんのためにもその方がいい。
彼は、美奈ちゃんが好きなのだから。
和馬さん以外とは付き合う気がない、と今は言っている。
でも翔ちゃんが毎日そばにいれば、気持ちが変わるかもしれない。
だから、ちゃんと美奈ちゃんの顔を見て、「賛成」と答えた。
「私は美奈ちゃんみたいにモテないから、別に困らないし。
それに美奈ちゃんとの方が、自然に見えるんだろうしねぇ」
本気の気持ちで、そう言った。
それなのに、美奈ちゃんが困った顔をしている。
首を傾げたら、言いづらそうに美奈ちゃんが話し出す。
「ねぇ、美知。
私は美知を泣かせたくなんてないのよ?
美知のことを泣かせるやつも許せないわ。
翔であっても、私であっても、許さない。
だからごめんなさい、冗談でも言っちゃいけないことだった」
そんな顔、ってどんな顔をしているのかなぁ。
美奈ちゃんが私に手を伸ばして、頬をそっと拭う。
あれ、私、泣いているのか。
泣くようなことなんて、何もないのに。
「美知は、翔が好きなんでしょう?
嘘をついちゃだめだよ、そういうところで」
「好きだよ、それに美奈ちゃんのことも大好き。
嘘なんてついてないよ、本当に二人のことが好きだよ」
本当のことを言っているのに、なんで涙が出たりするんだろう。
「私のことを好きって気持ちと、翔への気持ちは違う種類でしょ?
だから泣いちゃうんだよ。
美知はさ、ちゃんと翔への気持ちを考えてみなよ。
それから翔と一度、話をしてごらんよ。
翔だって、美知が話をするのを待ってると思うよ」
そう言って、頭を撫でてくれる。
その手が優しくて、またポロポロと涙がこぼれてきた。
なんで泣いているのかなぁ、私。
その夜は一晩、ずっと寝ないで考えた。
考えて、考えて。
なんで泣いたのかな、とか。
好きって何なのかな、とか。
色々考えて、美奈ちゃんたちのことも考えて。
随分早くなった夜明けのかけらが見えてきた頃に、答えが見えた気がした。
私は、翔ちゃんのことを、好きだ。
幼馴染とか、私のことを認めてくれる人だとか、理由はたくさんある。
その沢山の理由と好きに、もうひとつ、恋愛って言葉を付け加える。
彼を好きな他の女の子たちと同じように、私も翔ちゃんが好きなんだ。
寝てもいないのに、習慣でセットしていた目覚ましが鳴る。
頭がボンヤリとするけれど、顔を洗って身支度を始める。
15分ほど経ったところで窓の外に自転車のブレーキの音。
カーテンを開けて顔を出せば、いつものように翔ちゃんがいる。
「おはよう、美知」
「おはよ、翔ちゃん」
「顔色悪いけど、風邪でもひいたか?」
「ううん、ちょっと寝不足だけど、大丈夫。
気をつけてね、今日も朝練がんばって」
振り返りつつ去っていく翔ちゃんを、大きく手を振って送り出す。
うん、私はあの人が好きだ。
気づいてしまえば、色んなことがストンと収まる。
お弁当を作るために階下に行けば、珍しく美奈ちゃんが起きていた。
「ええっ!美奈ちゃん、どうしたの?大丈夫?おはよう」
「失礼な、たまには私だって早起きするわよぅ、おはよ」
「どうしたの?傘持っていったほうが良い?」
「今日は久しぶりにちゃんと晴れるみたいだけど、持っていきたかったらそうすれば?」
「レインコートの方がいいのかなぁ、どうしよう」
「何気に失礼よね、美知ってば」
「だって毎朝何度も何度も何度も起こしたって、起きやしないのに」
「……妹のことが気になったからよ。
悩ませちゃったかぁ、ごめん」
頭を抱き寄せて、こそっと言われる。
「大丈夫、ありがとう。
なんかモヤモヤしていたものが、晴れた気分」
だからそう答えた。
「そっか。じゃあちゃんと一度話をするんだよ」
「うん、わかったよ」
そのまま結局リビングのソファーに寝てたら、早起きの意味ないよ、美奈ちゃん。
違う、美奈ちゃんは私が心配で起きちゃったんだ。
あまりにも優しくて、改めて泣きそうになる。
ああ、美奈ちゃんに私が勝てる訳なんてない。
学校に着いて自転車を止めていたら、サッカー部の部室から翔ちゃんが走ってきた。
「美知、体調は大丈夫か?」
心配してくれていたんだ、嬉しい。
「大丈夫だよ、ちょっと本読んでたら時間が過ぎちゃって」
そういえば、目を細めて頭をグリグリと撫でてくれる。
乱暴だけど優しいその手つきに、うっかりまた泣きそうになる。
「調子悪いときは言えよ」
「うん、ありがと」
「じゃあ、また昼に」
「うん、お昼、今日は屋上でもいい?久しぶりにお天気だし」
「わかった、じゃあ後でな」
最後にもう一度ポンと頭を撫でられ、それから翔ちゃんは部室へと走り去る。
美奈ちゃんも翔ちゃんも優しい人たちだ。
あの人たちには幸せになってほしいんだ。
翔ちゃんが幸せになるための手伝い、できるのかな。
ちゃんと選べるかな、私に。
授業を受けていても、頭の上のあの感触を思い出す。
美奈ちゃんが和馬さんともう一度仲良くなってほしい、という気持ち。
翔ちゃんのためには、でも上手く行かなきゃいいのに、っていう思い。
色々ごちゃごちゃして、結局今日の授業に身が入らない。
板書をつい癖で書き写していたけれど、意味がわからないや。
いいや、翔ちゃんに教えてもらえば。
お昼休みが来て、変わらず晴れたままなのを確認して屋上へ行く。
手には2つ分のお弁当。
寝てないからかなんとなく体が重たくて、階段を登るのがしんどいなぁ。
「美知、本当に大丈夫か?」
後ろから来ていた翔ちゃんが、私の手のお弁当を持ってくれる。
「だいじょぶだよー、ちょっと眠くなってきただけ」
「保健室で寝てくるか?」
お弁当を持っていない手を差し伸べられて、そっと握る。
「ううん、ごはん食べよう?」
翔ちゃんの手は、いつも温かい。
屋上の、給水棟の横にあるスペースが私たちのランチの場所。
少し影になっているから、あまり人が来ない。
翔ちゃんが運んできてくれたシートとお茶、私の作ったお弁当を広げて食べ始める。
「翔ちゃんはさ、よく食べるよねぇ」
「美知は全然食べないよな」
「一般女子高生並には食べてるよ。
運動部男子高校生と比べちゃだめだよ」
「そうか?これ、旨いな」
「よかったー、結構自信作なんだ」
褒められると嬉しい。
翔ちゃんはいっつも、こうやって褒めてくれる。
だから毎日作るのだって、全然面倒なんかじゃないんだ。
私の1.5倍の量を詰めたお弁当箱を、私の半分くらいの時間で食べちゃう。
いつ見ても気持ちがいい。
「翔ちゃん、こっちも食べて」
私のお弁当箱を渡す。
「全然食べてないじゃないか」
翔ちゃんが困惑した顔をしているけど。
でもなぁ、なんか今日は調子が悪い。
「寝不足だから、あんまり食欲わかなくて。
今日図書委員当番じゃないから、どっかで寝てるよ。
そうしたらもう大丈夫になると思うんだ」
全部を寝不足のせいにして、押し付けた。
翔ちゃんは急いで弁当箱を空にして、それから急いで片付け始めた。
「今日、何か用事あるの?」
「いやない。ホラ、美知、ここに横になって」
弁当を片付けたスペースに、翔ちゃんが着ていたニットベストを脱いで置く。
「へ?」
「いいから少し寝とけ、本当に顔色悪いから」
「や、でも、あと15分で午後の授業始まっちゃうし」
「いいから」
ムスッとした顔でそういわれたら、強く反論なんて出来ない。
だから仕方なく、広げられたそこに体を横にする。
「頭はこっち」
翔ちゃんの腿の上に乗せられる。
「…膝まくら?あれ、これってここでよく見るのは男女逆じゃない?」
「美知がやってくれるのも、いいけど。
でも今日はいいから寝ろ」
目の上に大きな手を乗せられてしまえば、瞑るしかなく。
瞑ってしまえば、あっという間に眠りに引き込まれた。
ふ、と意識が浮上する。
目を開けると、真上の、すぐ近くに翔ちゃんの顔。
「へ?あれ?」
「調子はどうだ?」
ああそうだ、昼休みに屋上で少し寝させてもらって、って、あれ?
「なんか、部活やってる音が聴こえるよ?」
「そうだな、いま放課後だから」
「え?あれ、午後の授業は?」
「サボったよ、っていうかあの顔色で午後出る気だったのが驚き」
「そんなに顔色悪かった?」
「うん、酷かった」
起きようと腹筋に力を入れたら、再度目の上に手を乗せられる。
「翔ちゃん、部活行かないと」
「いいよ、今日は」
「ダメだよ!何言ってるのもう」
「たまにはいいだろ、こんなのも」
「私はいいけど、翔ちゃんはだめだよ」
「ダメじゃない、もう少し」
足、しびれないのかな。
さっきの顔の近さを思い出して、なんだか心臓がドキドキと痛い。
あああ、やだな、よだれとか垂れてないかな。
口開けて寝てたらどうしよう、白目むいてたら。
そんなことを考え始めたら、もう全身がポッポと熱くなる。
「あの、起きる」
「だめ」
「寝言言ってなかった?よだれたらしてなかった?」
「残念ながら」
「してたの?!」
「してなかったよ、静かーに寝てた」
「あああもう!翔ちゃんのバカ!」
いつもみたいにからかわれて、しみじみと思う。
ああ、本当に翔ちゃんが好きだなぁ、って。
この手を失いたくはないけれど、でも。
それ以上に翔ちゃんに幸せで居てほしいから、先延ばしにしちゃいけない。
もう少しこの手の側にいたかったけど、今日、ちゃんと話をしよう。
「ねぇ、翔ちゃん」
「ん?」
「あのね、わたし、好きな人できた」
「……そっか」
「だからね、その」
「ごめん、ずっと付き合せて。
俺はもう大丈夫だから、なんとかできるから。
美知のおかげだよ、ありがとう」
勝手なことを言っているのは私なのに、目の上の手が優しくて泣きたくなる。
自分で決めたことなのになぁ。
でも、翔ちゃんの前では泣かない。
翔ちゃんを困らせたりしたくない。
私のことまで、嫌になんてなって欲しくない。
泣かないで、それからもうひとつの大事なことを伝えないといけない。
「あのね、美奈ちゃんが和馬さんと別れたんだ」
「へぇ」
「翔ちゃん、美奈ちゃんと付き合ったら良いんじゃないかな」
「いいよ、美知の代わりはいらない」
「代わりじゃないでしょ、本物になればいいんだよ。
美奈ちゃん、まだしばらく和馬さん以外と付き合う気になれないって言ってたけど。
翔ちゃんなら、きっと別だよ」
きっと、別。
翔ちゃんは優しいし、美奈ちゃんのことが好きだ。
美奈ちゃんだって、きっと翔ちゃんの優しさがあれば、和馬さんとの別れだって乗り越えられる。
今朝、平気そうな顔をしていたけれど、目が赤かった。
早起きしただけの理由じゃ、ないと思うんだ。
そうすれば、翔ちゃんも美奈ちゃんも、幸せになれる。
私の好きな人たちが、みんな幸せになれるんだよ。
でも、翔ちゃんは「うん」って言ってくれない。
「なんでぇ?」
さようならを言った時よりも、ずっと泣きたくなってきた。
幸せにしたいのに、私の大好きな人だから。
「なんでも。
もう虫除けはいらないし、美奈はたぶん和馬さんと元通りになるよ」
「じゃあ翔ちゃんはどうするの?
美奈ちゃんがまた和馬さんと付き合っちゃったら、どうするの?」
「どうもしないよ。
美知は、なんで美奈の話にこだわる?」
目の上の手を外されて、顔を覗き込まれる。
「なんで、ってなんでも」
「なんでもない、って感じじゃないぞ。
何を考えているんだ?
あと、……美知の好きなヤツって、誰?」
翔ちゃんを納得させられる答えが思いつかなくて、慌てる。
どうしよう、どうしよう。
困って慌てていたら、衝撃的な言葉を告げられる。
「あのさ、俺も好きな人がいるんだ」
「美奈ちゃん、でしょ?」
「違う、ああ、それで美奈ってさっきから言ってるのか。
違うよ、美奈じゃない」
どうして嘘つくのかなぁ?
ああ、でも私の知らないほかの人のことを、美奈ちゃんよりもっと好きなのかな。
そしたら別れることしかできないのか、私。
上からじっと見つめられて、目をそらせなくて困る。
翔ちゃんの強い目が、私にそっぽ向くことを許してくれない。
そうしてどちらも何も言わないまま、時間が過ぎていく。
「美知の好きなヤツは、この学校の人?」
「うん、そう」
「同じ学年?」
「違うよ」
「…槇村?」
「へ?槇村先輩?違う」
「じゃあ誰」
誰って言われても、言う訳にいかない。
言ったら、きっと他の子たちみたいに困らせる。
「言えない」
翔ちゃんの目がスッと細くなり、怒ったような顔になる。
「フリを解消するの、やっぱりナシ」
「え、でも」
怒った顔のまま、翔ちゃんが私の背に手を添えて起こそうとする。
とりあえず従おうと腹筋に力を入れたところで、唇に何かが触れる。
何かが、というか翔ちゃんの顔が目の前で。
目の前っていうか、焦点合わないレベルで。
あれ、あの?
「美知、お前に好きな人が出来たら諦めてやろうと思ったけど、無理。
他のヤツに渡すのはイヤだ」
そのまま膝の上に引き寄せられ、ギュッと抱き寄せられて、あの。
耳元で呟かれた言葉が、けれど脳にまで届いてこない。
「え、でも、翔ちゃんには好きな人がいるんでしょう?」
「いる」
「じゃあ私と嘘っこの関係止めて、その人と付き合うようにした方が」
「嘘っこの関係を止めるのはいいよ、でも美知が付き合ってくれるなら」
「…意味無いじゃん?」
「意味はあるよ、大いに。
俺、美知のことが好きなんだ。
離してやろうと思ったけど、無理。
ねぇ、俺のこと好きになれない?」
言葉が空回りする。
「翔ちゃんは、好きな人がいるんだよね?」
「さっきも聞かれたよ、それ。
でもうん、美知が好き」
「私が、って、あの、幼馴染だからでしょ?
それと付き合うのと何の関係があるの?」
「美知のことが恋愛の意味で好きだから、付き合って欲しい。
美知が他の人を好きでも、俺を好きになって欲しいと思っている」
「えーっと、私も翔ちゃんのことは好きだけど、その」
「恋愛的な気持ちがないのはわかってるし、他のヤツを好きなのも聞いたけど。
でも、美知を諦めるのは無理だから、ちょっと考えてよ」
「その、えっと、その。
翔ちゃんのことが、恋愛的に好きなんだけど、どうしたらいいのかな?」
黙られる。
えっと、私も何て言っていいのかわからないから、黙る。
翔ちゃんが私のこと好きって言った気がする、やっぱり幻聴だったのかな。
だとしたら私の言葉って意味わからないよね、えっと。
どうしたらいいのか、よくわからないんだけど、えーっと。
「…美知の好きな人って、誰?」
「えっと、翔ちゃん?」
「……恋愛的な意味で、いいの?」
「え、うん、好きだけど、あの」
「嘘っこやめるのは、なんで?」
「翔ちゃんが美奈ちゃんを好きで、美奈ちゃんが今ならフリーだから?」
「違う」
「へ?」
「俺が美奈を好きっていうのが、根本的に決定的に違う」
「でも、好きだよね?」
「恋愛じゃない意味ならね。
大体からして、美奈も俺が美知のことを好きなのを知ってるよ」
「……ごめん、よくわかんない。
翔ちゃんが私のこと好きって言ってるみたいに聞こえて、困る」
「言ってる、さっきから何度も言ってる」
どうしよう。
なんか、よくわかんないけど、泣きそう。
「翔ちゃん、わたし、なんか泣いちゃいそうだから手を離して」
宣言したのに、背中に回された手にもっと力を込められる。
「泣いちゃうよ、翔ちゃんの前で泣いちゃったら、困るでしょ」
「困らないし、ひとりで泣かれる方がイヤ」
「やだ、翔ちゃん困らせたくないから離して」
「困らないよ」
「泣くよ、本当に泣くよ」
背中をポンポンと叩かれ、「いいよ」なんて優しい声で囁かれるから。
もう涙が止まらなかった。
「あの、ね?
わたしね、翔ちゃんが好き」
「わかった、俺も美知が好きだよ」
「翔ちゃんの側にいられるなら、一緒にいたい」
「いてよ、居なくならないでよ」
「でも、わたし、泣いちゃうし、怒っちゃうし」
溜息をつかれて、ビクッとする。
イヤだよね、やっぱり、ごめんなさい。
そう言おうと口を開こうとしたけれど、その前に翔ちゃんが
「美知だけは、泣かれても、怒られてもそばにいてほしいんだよ。
笑っていてくれたら一番嬉しいし、笑っていてもらえるようにしたいけど」
なんて言うから。
涙が止まらなくて、ずっと翔ちゃんの胸を借りてしばらく泣いた。
翔ちゃんの手は、優しく頭を撫でてくれていた。
泣き止んだところで、もう一度キスをくれて。
また泣きそうになったのを、必死でこらえた。
自転車で二人で家までの道を進む。
手を繋げないから寂しい。
横に広がれないから、話もあまりできなくて、寂しい。
さっきまであんなに一緒にいてくれて、ギュッとしてくれたのに、もう寂しい。
信号待ちで並んだ時に、だからそう告げてみる。
自転車は、だからあんまり好きじゃない。
翔ちゃんは困ったような怒ったような顔をして、
「そうだな、俺も美知にキスしたいのにできないから、好きじゃない」
思わず顔が赤くなる。
「あ、耳まで真っ赤だ」
「当たり前でしょ!なんてこというのー!!」
「え、本心を」
「おバカーっ!あ、青になった!さっさと行くよ!」
「ハイハイ」
先に翔ちゃんの家に寄って、自転車を置く。
それから私の自転車を押しながら、二人で歩く。
ほんの3分ほどの距離だけど、ようやく近づけたから嬉しい。
今まで毎日嘘っこでやっていたことなのに、翔ちゃんの気持ちを教えてもらったら、なんだか色々違うんだ。
マンションの駐輪場に自転車を停めて、でもまだ離れたくないから困る。
翔ちゃんがこっちを見て、なぜか同じように困った顔をしている。
「美知、もう少し一緒にいたい」
同じ気持ちでいてくれたのが嬉しい。
手を繋いで、それから近くの公園へと向かった。
日が沈んだ公園には、人の姿がまるで見えない。
もう少し遅くなるとまた違う様相なのだけれど。
奥の方のベンチに行って、それから二人で座る。
もう一度ギュッと抱きしめてくれたから、嬉しくてその背に手を回して力を込める。
だいすきだよ、そんな気持ちが伝わるといいな。
8時になり、両家ともに夕飯の時間なので仕方なく立ち上がる。
ほとんど何も話していないのに、たくさんの言葉を交わした気分。
キスとか、ハグするのって凄いなぁ。
家の前では誰に見られるかわからないから、抱きつきたい気持ちをこらえて、その分手を強く握り締める。
「また、明日な」
そう言って、繋いだままの手をやっぱり握り締められ、それから頭をぽんぽん、と撫ぜられる。
ああ、好きだなぁ、この人を。
「うん、明日ね」
交わせる約束が、嬉しい。
「お帰り、美知。
その顔だと、ちゃんと翔と話せたね?」
帰って早々、美奈ちゃんに部屋に引っ張り込まれる。
「もうごはんだから、さっさといらっしゃいよー」
そんなお母さんの声に生返事をして、そうして切り出されたのが翔ちゃんのことで。
鋭いなぁ、このひと。
「うん、お話してきた」
「ようやくかー、長かったねぇ」
「長かった?」
「翔はねぇ、大分前から美知のことが好きだからね。
でも美知は全然、そういう感じじゃなかったでしょ?
だから長かったなぁ、って」
「そうなの?私は、翔ちゃんは美奈ちゃんが好きなんだと思ってた」
「なにこのあんぽんたん。
誰がどうみても美知が好きじゃない」
「でも、美奈ちゃんと話す時はいっつも緊張してたよ?
美奈ちゃんの言葉、全部聞き逃さないようにしてたもん」
「それは、美知に何言われるかわかんないからでしょ。
わたしに先にバラされたら、美知、たぶん逃げるからね」
「逃げないよー、別に逃げるようなことしてもされてもいないもん」
「逃げるよ、その辺はわたしの方が経験値あるんだから信用しときなさい」
「…そんなもん?」
「うん、そんなもん」
意味ありげな目線とか、言葉とかの意味はわかった。
でも、それでもどうしても気になることがあるんだよ。
「わたし、美奈ちゃんみたいに色々できないよ?
皆だって、美奈ちゃんとの方がよっぽど合ってるって言ってるよ?」
「美知は、わたしと比べてどうすんのよ。
違う人間なんだから、違って当たり前だし、美知のほうがよっぽど色々できるじゃない。
そんなアホみたいな外野の言うことと、放っておきなさい。
わたしの言うこととアホの言うこと、どっちを信じるの?」
「…美奈ちゃん」
「じゃあ信じなさい。
翔はずっと美知のことが好きなんだから、それも信じてあげなさい」
「わたしだって、ずっと翔ちゃんのことが好きだよ?」
「そうね、でも貴方に恋愛の自覚がなかったからね」
「そっか」
頭を翔ちゃんみたいにグリグリと撫でられて、それからもう一度背中を押される。
「いいじゃない、好きな相手と好きあっているんだから。
不幸なことを想像するより、幸せになることを想像すればいいの。
あーあ、わたしもやっぱり和馬と話そうかな」
そんなことを最後に小声で呟くから、全力で飛びつく。
「絶対美奈ちゃんは和馬くんと復縁したほうがいいよ!」
生意気言って、って言われたけど。
でも、ちょっとだけわかれるようになった気がするから。
「今度、一緒に4人で出かけようね」
「うん!楽しみ」
嘘が本当になって、変わった事は少しだけ。
たまに抱きしめられたり、キスされたり。
あとはこれまでと一緒。
けど、頭にポンと置かれる手が、頬を撫ぜる手が、色んな言葉を伝えてくれる。
わたしは手では伝えられる気がしないから、言葉で伝えるよ。
大好きだよ、って。