まだ、恋じゃない
ずっと近くにいるから、わかる。
今彼の目が、誰を追いかけているのかを。
その目が、私に向けられる日がこないことすら。
「舞が電話に出てくれない!」
時間がある時にでも電話をくれ、相談がある。
そう書かれたメールを見た瞬間から嫌な予感はしていた。
ああ、いつものアレだろうな、と。
正直アレに付き合うだけの精神的な余裕はなかった。
だから忙しいことを理由に、無視することも考えた。
ただそうするには私はたぶん、お人よし過ぎるのだろう。
そしてほのかな期待なんてものも、してしまったのかもしれない。
「まずはさ、挨拶からはじめようよ」
「うん、もしもし、奥田です。
で、舞が電話に出てくれないんだよ、どう思う?」
誰か、コイツに電話の出方を教えてやってくれ。
奥田寛とは同じビルに勤務している。
私は小さな貿易関係の会社で事務兼営業の仕事をしていて、奥田は別のフロアにある会計事務所に勤めている。
会社も年齢も(奥田は私の3つ上だ)違う私たち。
知り合ったきっかけは、奥田の会社で受付をしている優実ちゃんを介してだ。
優実ちゃんとは、これまたビル内にあるカフェで出会った。
ふんわりとした巻き髪、白い肌にピンクの頬。
小さくて可愛くて、「THE 受付嬢」という風情で気になって仕方なかった。
私が送り続けた熱い眼差しの成果か、気づけば会釈を交わせるようになって。
その後、相席をしたことをきっかけに親しくなった。
実は同じ年齢で同じ大学を卒業していること。
そして可愛らしい見た目に反して、サッパリキッパリした性格(たまに毒舌)。
そのギャップにメロメロで、積極的にアプローチし、無事仲良くなれた。
会社帰りにごはんを食べたり、買い物に出かけたり、カラオケに行ったりと、学生時代の友人よりも、ずっと一緒に過ごす相手になった。
春ももう終わる頃、優実ちゃんと私の同僚とで合コンへと出かけた。
同僚に「営業先の人にどうしてもって言われちゃって。お願い!」と拝み倒されたからなのだが、それがもう、空前絶後の不毛っぷりだった。
全員が既婚者で、その上携帯写真で子ども自慢をしてくるのは、いい。
セッティングした人間以外、私たちの10は上の年齢なのも、まだいい。
話題のことごとくが下ネタなのも、笑えない親父ギャグを連発するのも許そう。
けれど、浮気相手を探していると抜け抜けと言い、太ももや胸に触ろうとするのにはいい加減堪忍袋の緒が切れた。
すっかり食欲をなくした私たちの3倍は飲み食いしておいて、「割り勘でいいよね」と頭割りにした金額を告げられた瞬間、本当に萎えた。
二軒目を誘われたけど、笑顔でお断り申し上げた。
「なんだよ、ヤれないじゃんかよ」
「全然話も乗ってこないしさぁ」
「愛想もないしさ、もっといい子用意しろよ」
とセッティングした男を小突きながら去っていく彼らを見たときは、本当に蹴り倒してやろうかと思った。
「タダでキャバクラ気分味わおうとしてんじゃねーよ、バーカ!」
その後姿に小声で呼びかけた優実ちゃん、気持ちはわかるが営業先なんだ。
すまんな、と引っ張りその場を立ち去った。
会社のビルの近くに、私たちがよく使う居酒屋がある。
こじんまりとしたその店はごはんが美味しくて、のんびりとした雰囲気が優しい。
彼らと別れた途端に空腹を自覚し、気分直しがてらそこへ向かうことを決めた。
「あんな男たちと結婚する女がいるのにビックリだよね!」
ビールの入ったジョッキをダンッ!と音がするほど勢いよくテーブルに置きながら、優実ちゃんが毒づく。
「あああ、本当にごめんね!ここは私が出すよ…」
同僚は悲愴な表情で呟く。
「いいよ、村川さんが悪いんじゃないんだから。
悪いのは徹頭徹尾あのオッサン2人なんだからぁ!」
大して飲んだわけでもないのに、酔ったような口調で優実ちゃんが話をしていて、相当はらわたが煮えくり返っているんだろうなぁ、と知れる。
怒った顔してても、可愛いんだけどね。
と、怒りも忘れてその顔をニヤニヤと鑑賞していた私も、我ながらどうかと思うけど。
テーブルに突っ伏して唸っていた優実ちゃんが、突然起き上がり
「わかった!これは別ので仕切りなおしだ」
と一言呟き、携帯を操作し始めた。
「仕切りなおし?別の?」
「うん、絶対茉莉ちゃんに合うヤツいるから、呼び出す。
村川さんにもたぶんずっといいと思うしー、
あ、もしもし?まだ事務所いますか?」
「いやいやいや2戦目とか無理っス」
「だよね、もう知らない人に気を遣うパワー、さっきの店に全部置いてきちゃった」
「近澤さんの目が本気なんですけど」
「あああ、どうしたらいいんだろ、あのモードは止めらんない」
こそこそ話す私たちをまるで無視して、電話を切った優実ちゃん。
「15分で来ますよ、フッフッフ」
怖いよ、さっきの怒った顔よりずっと怖いよ。
15分後、本当に現れたのは彼女の事務所で会計士さんをやってる2人だった。
「とりあえず独身です。
当たり前ですがセクハラはさせません。
万が一した場合には所長に速攻チクりますので、ええ大丈夫です。
対人仕事やってますんで、気は遣えます。
この店のごはんをおごってくれるくらいの甲斐性も、あります。
…ですよね?奥田さん、細島さん」
「いきなりそれかよ、今日の合コンはそんなに散々だったか。
こんばんは、細島です。
お二人に見覚えがあるんですけど、同じビルの方?」
「そうです、7階です。
こんばんは、風野です。
彼女は同僚の村川です」
「ああ、7階、貿易関係でしたよね?
うちもお世話になっているんですよ。
こっちの、奥田が担当しているんです」
「奥田です、お疲れさまでした。
近澤のさっきの電話の感じといい、さっきの紹介といい、よっぽど面白い会だったみたいですね?」
「ええ、そりゃもう!」
聞き上手な奥田さんに上手いこと聞き出され、さっきの合コンについて一通り話し終わった頃には、なんだかずいぶん面白い場だったような気さえしてきた。
村川さんも細島さん相手にやっぱり同じように話していて。
…さっきの親父たちとは大違いだわ。
優実ちゃんは私と一緒に奥田さんと話をしながら、ずっとニヤニヤしている。
「どうした近澤、顔にしまりがないぞ」
「しまりがないって、奥田さんに言われたかないですよ。
かなりニヤけた顔してますよ、茉莉ちゃんが美人だからですね、やだなー」
「ああ、美人さんだよなぁ、酒も美味しくいただけるというものです」
「それでいて中身はサッパリさんなんですよー、エヘヘ」
「近澤、最近ずっと風野さんの話してたもんなぁ。
評判以上じゃないか、よく捕まえたな」
あああ適当なことを言っている、いたたまれない。
「誉めるとこうなるんですよー、あー、可愛い」
帰ってもいいかなぁ、なんだよこの二人。
対人スキルを間違った方向に磨くなよ、他人をからかって遊ぶなよ。
優実ちゃんと奥田さんに時折からかわれながら、それでも楽しく時間は過ぎた。
そろそろ終電という村川さんの言葉をきっかけに解散を決めつつ、それが惜しいと思えるほどだった。
「ありがとう、優実ちゃんのおかげで楽しかったよ。
なんかさっきのオッサン達の会すら、楽しかった気がしたわ」
とりあえず会計を一度済ませてしまうから、と先に店を追い出された女子陣で、こそこそとお支払いの準備をしながらもそんな話をする。
「それならよかったー!村川さん、細島さんに気に入られてますね?」
「そう、なのかなぁ。
私としてはお話していて、とても楽しかったけど」
「私の知る限り、現在身奇麗です、大丈夫。
軽くみえるけど、中身は結構真面目な人です」
と背中を押してあげていた。
いいご縁になると、いいねぇ。
「で、茉莉ちゃんはどうです?奥田さん。
気は合いそうでしょ?」
「どうかな、お話は面白かったです。
二人がかりでからかわれたこと以外は、楽しかったな」
それを聞いた彼女はニヤニヤと、その可愛い顔に似合わない顔を浮かべる
「でも、たぶん友達になって終わるだろうなー」
「それはまたなんで」
「気が合いすぎる感じがするから?」
で、それは事実となった。
村川さんと細島さんは、無事にお付き合いが始まった。
私と奥田さんは、予想通り気が合いすぎて、恋愛になる前に親友になってしまった。
以来、ずっと仲良しだから、うん、それでいい。
飲み会以降、ちょくちょく優実ちゃんと一緒に、あるいは二人だけで会うようになった。
ごはんを食べに行ったり、意外に甘党な奥田さんの付き合いでケーキを食べに行ったり。
他のお友達も誘って、バーベキューや釣りに行くこともあった。
奥田さんの連れてくる人たちは男性も女性も気がいい人が多くて、楽しいばっかりだった。
優実ちゃんに彼氏が出来てからは、二人で会うことがずっと増える。
安くて美味しいお店をたくさん知っている彼と出かけるのは、いつも楽しみだった。
長くこの関係を続けたかったから、だから割勘を申し出た。
最初は「男に出させて」と言っていた彼だけれど、友達になりたいから、と言えば「じゃあこの後もう一軒、飲みに行こうよ。そこを出して」とスマートに受けいれてくれて。
そんな気の遣い方もステキだと思った。
嬉しかった。
親しさが増すにつれ、いろんな話をするようになった。
聞き上手で話し上手な彼は、私の話を引き出すのも上手い。
話せば話すほど、二人の間に男女の臭いがなくなっていった。
そして気づけば恋愛相談まで受けるようになっていた。
舞さんは、彼が一目惚れしたという7つ年上の彼女だ。
これまでずっと受身だったという彼が、あの女性とお付き合いをしたい、と言い出したのだ。
少し引っかかる想いがどこかにあったのは、きっと優実ちゃんとのように今まで通りの時間の過ごし方ができなくなることを予感して、だ。
それは私のわがままでしかない。
だから彼が幸せになれるよう、考えて考えて、アドバイスして、サポートして、そうやって彼らが付き合い始められるようにと背中を押してみた。
「ありがとう、風野のおかげだよ。
彼女が付き合ってくれるって返事をくれたよ」
一番に奥田は、私に報告をしてくれたんだ。
それからも何度か相談を受けることになった。
彼女の誕生日プレゼントに何を贈ったらいいんだろう?とか
記念日を忘れたと怒られたのだけれど、どうやって機嫌直してもらおう、とか。
真面目に話す彼の言葉を私なりに解釈して、友人としてアドバイスを続けた。
時折痛む胸は、彼との話題がこうやって彼の恋愛に関することが中心になってしまっていることへの寂しさだと思う。
それがきっと違うんだ、と気づいたのはずいぶん後になってからだ。
奥田さんは、仕事面などではきちんとしている一面で、どこかだらしないところがある人だ。
そういったところが、彼女の逆鱗に触れることがあるという。
洗濯ものを溜め込む。
(下着が足りなくてしょっちゅう新しいのを買っていると聞いた時には呆れた)
出張でどこかに出かけては、お土産を買ってくるけれど賞味期限が切れるまで冷蔵庫に入れっぱなし。
(それでも旅先で彼女のためのお土産を選ぶって、結構重要なことだと思う。
ついでのように私にもくれるけれど)
ゴミの日に出し忘れたゴミがベランダに置いてある。
彼女が毎朝くれるメールに、あまり返信をしなくて怒られる。
奥田さんにとってはささいなくだらないこと。
「ああ、ごめん!」
と済ませてしまえるようなこと。
それが彼女にとってはそうではなくて、しょっちゅう苛立たせているようだ。
その話を聞いたとき、
「私だったら、呆れて放置するなぁ。
汚部屋に住んで困るのも苦しむのも奥田さんだもんなぁ。
きっと私が行かなくなるだけで、それが嫌なら片付けるでしょ」
そう言葉にしてから、ちょっと自分で驚いた。
いつもは、彼女の言葉や年齢、状況を考えて、こうして欲しいんだよ、って考えていた。
いつから私は、「私なら」って思うようになっていたのだろう。
その言葉の先にあるのは、「私ならそんな風に彼に文句を言ったりなんてしない」だとか。
「彼女より私の方が、ずっと」なんて想いなんだと気づいてしまった。
もしかしたら、私は、彼を。
その先の思いを、けれど形にせずに封じ込める。
大丈夫、まだ違う。
まだ、恋なんかじゃないから、大丈夫。
彼女を思って切なく細められる目が、私に向けられることはない。
もし私がこの思いを形にして、告げてしまえば、この居心地の良い関係すら消えうせる。
大丈夫、大丈夫。
一度気づいてしまったそんな奥底の思いは、これまで隠れていたのが嘘のように簡単に表層へと浮かび上がる。
飲みながら、軽く頭を小突かれたその瞬間。
電話越し、親しげな調子で名前を呼ばれる瞬間。
当たり前のように私の好きなものをオーダーしてくれた瞬間。
そんなごく些細な出来事すら、私の心を揺らしてくれる。
だから、私に出来ることは少しでも彼との距離をとることだけだった。
忙しさを理由に、前ほど一緒にいることを避けて通った。
きっとこの動揺は、彼に彼女が出来てしまって寂しいから起きているもの。
距離を置いて、少しずつ寂しさに慣れたら、きっと大丈夫になる。
そんな私の気持ちなんて知らない彼は、私を気遣いながらも変わらずにいてくれた。
それで十分だと思っていた。
そんなある日、届いたメール。
かけた電話で持ちかけられた相談。
舞さんから持ち出された、別れ話について。
ある日、突然彼女からの定期便メールが届かなくなったそうだ。
彼女がへそを曲げることはこれまでにもあったことだから、気にもしていなかったという。
その前の日曜、部屋のことでまた叱られたから、それが原因なんだろう。
数日経てばいつものようにきっとメールが来る。
そうしたら「ごめんね、片付けたよ」と返そう、そう思っていたという。
けれど彼女からのメールは一週間が過ぎても来なかった。
「今日、うちに来ない?ちゃんと片付けたしさ」
そう送ったメールへの返信が、「もう会わない」というものだったのだという。
「舞さんさ、『自分ばっかり』って言ってたよね」
「っ!言ってた。
手ごたえがない、歩み寄って欲しいって」
「奥田さんは謝りはするけど、本当に直そうとは思ってないでしょう?
それはきっと伝わってしまっているんだよ。
舞さん、もっと奥田さんからのアクションが欲しいんだよ。
メールだって、彼女からのものを待ってないでさっさと送れば良かったのに」
「いや、悪いと思ってるし直そうとも思ってる」
「それが原因で、何度も何度も叱られてるじゃない。
彼女が文句を言いながらも片付けてくれちゃうから、どこか本気で染みてないんだよ。
自分にとって大事なことじゃないと思ってるからさ。
『ハイハイ、悪かった』って態度なんだよ、きっと」
「そんなことない、って言いたいところだけど。
風野が言うんなら、きっとそうなんだろうな。
俺なんかより、ずっと俺のことわかってるもんな」
「……もし、奥田さんがどうしても彼女を手放したくないと思うならさ、
もうちょっと真剣に受け止めて、そう伝えてみなよ。
本気の思いは、きっと伝わるよ。
自分のために、少し努力して欲しいんだよ、きっと。
自分のために、少しで良いから変わって欲しいんだよ」
電話の向こうから、笑んだような空気が伝わる。
「ああ、やっぱり風野に話すといろんなこと考えられるよ。
正直こんなに理由もいわずにキレられて、もういいや、と思ったけど。
面倒だなぁ、と思ったけど。
お前がいるから、もう少しがんばろうかな」
「まぁ、責任は取らないけどね」
「いいよ、ありがとう。
俺、おまえと付き合えばよかったな。
きっとずっと楽で幸せだった気がするよ」
「ないね、それはない」
「……ないな、ハハッ」
「…楽じゃなくても、彼女がいいんなら頑張れば?」
「ありがとう、今度お礼にメシおごるよ」
「せいぜい良いもん期待してるわ、おやすみ」
「おやすみ」
電話を両手で握り締め、痛む胸に言い聞かせる。
まだ、恋じゃない。
恋には、しない。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「それはない、か」
風野はいつだって俺の相談に真剣に乗ってくれる。
だから、今になってもどこか期待してしまっているんだ。
彼女の気持ちが友情なのはわかっている。
冗談交じりの告白は、ずっと流され続けた。
年齢を経るにつれ、心は強くなるどころか傷が癒えるのが遅くなる。
だからなるべく傷つかないように避けて通ることを覚える。
全力で当たって砕けるなんてギャンブルはできない。
転ばなくても良いように、加減する癖を覚えた。
だから当たって失っても、さほど痛くない舞を選んだ自分がいた。
一目惚れしたと風野には告げたけれど、本当はそこまでの想いではなかった。
風野がどんな反応をするのか、知りたかった。
もしかしたら俺のことを少しは、なんて。
でも試した結果は、自分でも笑えるほどに大惨敗。
一所懸命舞との関係を成就させる案を練ってくれる、なんてオチだった。
舞のことは好きだと思う。
年上だけれど可愛らしくて、女性らしくて。
俺からの告白で始まった関係だけれど、彼女からの愛が今ではずっと深いとさえ思える。
…それでも、もしあの時、風野が。
楽じゃなくても、風野とならば。
風野のためになら変わることも厭わないだろうに。
自分は傷つかないで、決定的なことを避けたままでそうあろうとするズルさが、自分でもムカつくんだけどね。
さあ、どうしようか。
…とりあえず、どちらにしても部屋を片付けるかな。