角隠し
※以前書きかけていたものに差し替え、別話をアップしました。
書きかけのものは後日、公開しなおします。
長きに渡り、半端なものを晒してしまい、すみませんでした。
「疲れてないか?」
心配を声音に滲ませて、彼が私に尋ねてくれる。
今日を迎えるためにこの1ヶ月、ほぼ休みなく働いていた貴方の方がよほど疲れているだろうに。
それでも私を気遣ってくれる、やさしいひと。
やさしくて、そしてとても残酷なひと。
その自分の残酷さに気づけない、とてもとても弱い人。
「大丈夫、ありがとう。
にいさんこそお疲れでしょう、大丈夫かしら」
唇を笑みの形に変えて、彼に尋ねる。
すると、どこか面白げな表情に変わる。
「相変わらずにいさん、なんだなぁ」
問いには、答えてくれないまま。
「……だって、慣れないんだもの、貴臣さん、なんて」
毒々しいまでに赤く色づけられた唇を、そっと尖らす。
彼の手が私の頭に伸ばされ、それから方向を変えて私の頬へそっと触れる。
いつものように、無意識のうちに頭を撫でてくれようとして。
それから触れる直前に、私の格好に思い至ったのだと思う。
優しく添えただけのその手に、首を傾けて寄せる。
「貴臣さん、私、しあわせよ」
応える声はないだろうとわかっていて、それでも告げる。
見上げれば、少し悲しげな笑顔で私を見るにいさんがそこにいた。
予想通りのその表情に、きっと本人は気づいていない。
「お時間です、ご案内させて頂きます」
静かにかけられた声に、つ、とにいさんの動きが止まる。
悲しみ、迷い、恐れ、本当にこれしかなかったのだろうか。
そんな風に、きっと自問自答を重ねてる。
扉の向こうにいるたくさんの人たちに、私に、自分に嘘をついてよいのか、と。
そうしてしまうことで、もう二度と選べなくなるものへの未練。
欲しいと願ったものへの、まだ燻ったままだろう思い。
たくさんの色んなものが、にいさんの中からあふれ出しているがための、沈黙。
きっと、そう。
私はそれに気付いていながら、手元や裾に注意を払うフリをして、俯いて知らんぷりをする。
私が気付いていることを知ってしまえば、にいさんの後悔は加速する。
この土壇場で、今更ぶちまけるようなことなどできる人ではない。
違う道を選ぶならば、もっとずっと手前にたくさんの分岐点はあったはず。
そもそもこの日を迎える前に、もっとずっと。
この日を迎えた時点で、にいさんはちゃんと覚悟を決めているはず。
それでも、私が気付いていることを知ってしまえば、きっと言わずにいられなくなる。
言ってしまえば、「申し訳ない」などと戯言を口にして、私の前に姿を見せぬようにするだろう。
だから、知らんぷりをする。
「行こう」
静かに決意をにじませ、にいさんが私に短く声をかける。
初めて気づいたかのように、私は視線をにいさんへと向ける。
ひとはけの緊張をにじませて、私は頷いた。
広間に集まる人々は、およそモノトーンに染まっている。
お義父さまが病に倒れられてから、久しくこの家に大勢の人が集まることはなかったと聞く。
だからこんなにも隅々まで人の気配があるのは、とても久しぶりのことで嬉しい、とお義母さまは笑う。
そのお義父さまも、今日はお元気な姿を見せられていてホッとする。
女蝶役のいとこが着た赤い振袖が、まるで本当の蝶のように白黒の景色の中を飛び回る。
それを、他人事のように私は眺めていた。
実際、ここにあるすべての事柄が、私にはとても無関係に思える。
ここにいる誰もが、にいさんと私を祝うために集まっているというのに。
見知った顔がたくさんあって、それなのになんだか他人事。
結婚式の主役は花嫁にあるという。
その主役であるはずの私だけれど、相応しい気持を持たぬままに、私はここにいる。
ただ隣の彼にだけ神経を研ぎ澄ましながら。
少し俯けた角度の顔に、現実を捕らえたくないというにいさんの意志を見出しながら。
主役であるはずの二人が、揃って心ここにあらず。
多忙な中、集まってくれた皆さまには申し訳なく思う。
けれどきっと、傍目には私たちが緊張しているだけにしか見えないだろう。
にいさんと初めて出会った日のことは覚えていない。
なぜなら、それは、私が生まれて数日後のこと。
目だってろくに開いていなかっただろう。
そして、その時から私たちは許嫁とされていた。
にいさんと私に、直接の血縁関係はない。
同じ土地にある旧家で、分家筋には縁を結んだ家もある。
それでも別々に家を守ることを選び、本家筋が婚姻関係を結ぶことはなかったようだ。
私たちの代でそれを変えることになった理由は知らない。
ただ、そういうものだと私たちは言われて育った。
そして私は、そういうものだと当たり前のように考え、育ってきた。
私は彼を「にいさん」と呼びながら、いつか夫になる人だと思い定めて生きてきた。
疑ったことなど、一度としてなかった。
この日を迎えられたことを喜べる、それだけの感情を育ててきた。
一方で、残念ながらにいさんはそうではなかったようだ。
愛し合っているのに、一緒になれない二人――
なんて、時代錯誤な話。
不倫、血縁関係、性別、年齢。
そういう倫理に反することや、法律が許さないことを除けば、現代の私たちはとても自由なはずだ。
けれどここに、どうあっても一緒になれない二人がいる。
現代にはどこかそぐわない、それが、にいさんにまつわる話だ。
にいさんには愛している女性がいた。
その女性も、にいさんを愛していた。
相思相愛、普通に考えたならばなんの障害もなく明るい未来を話し合ったろう。
にいさんの生まれた家と、それに付随する私という約束さえなかったならば。
小中高と、箱庭のような私立の一貫校に私もにいさんも通ってきた。
4つの年の差があったから、小学校以外では同じ校舎にすら通っていない。
それでも、この町で、この学校で、私たちのことを知らぬ人などいなかった。
にいさんがどこの誰で、私がどこの誰で、二人の間に交わされた約束がどんなものか。
私たちが周知するまでもなく、誰もが知っている事実だった。
この土地で暮らす人ならば、多少なりと私たちの家のいずれかと関わりを持っているものだから。
にいさんの周りには常にたくさんの人がいて、けれど本当に親しかった人はできたのだろうか?
私は少なくとも、親友と呼べるような人を作ることはできなかった。
それなりに学校で親しく話す人はいたし、週末を一緒に過ごす人もいた。
でもそれだけだった。
日常を共有しなくなった途端、疎遠になった。
披露宴に招待するほどに親しかったはずの学院時代の友人と、成人式以降一度も会っていない。
胸襟を開いて語らうには、附属物が多すぎる存在、それが私。
にいさんも、きっと私とかわりがなかっただろうと思う。
条件としては変わらず、むしろ私より先に生まれ育っている分、苦労は多かったのではないだろうか。
私には、にいさんがいた。
けれどにいさんは、4つも下の私では物足りなかったのだろう
多くの人に囲まれているにいさんの孤独になんて、私以外、誰一人気づきはしなかっただろう。
学院には大学はなく、にいさんは本家の長男としての必要性からも大学へと進学した。
親の勧める近隣の大学を選ばず、遠く離れた国立の大学を選んで。
当たり前だけれど、そこににいさんを知る人はいない。
私を知る人など、もってのほか。
しがらみのないそんな環境で、にいさんは重責も約束もすべて忘れることができたのだと思う。
そうして、愛しく思う人を作ったのだ。
私ではない女性を、その相手に選んで。
にいさんは、一人暮らしする家を離れたがらなかった。
大学を卒業しても、外で修行をしたいからと実家を説得し、戻ってこなかった。
私が地元の短大を卒業し、実家の手伝いをするようになっても戻ってこなかった。
時折顔を見せには来て、けれど夜になれば彼だけの家へと帰っていった。
にいさんがその街でどんな風に暮らしているのか、にいさんの家族のみならず、私までもが知っていた。
彼は隠しおおせている、と思ったのかもしれない。
けれど、筒抜けだった。
知られていながら、黙認されていたことなど考えたこともなかっただろう。
それがにいさんという人の、良さでもあり、弱点でもある。
にいさんがある女性と愛し合うようになったこと知らされたのも、そんなにいさんの甘さが生んだものだ。
問題を抱えた彼女が、にいさんの家に転がりこんだことがきっかけ。
マンションの本来のオーナーが誰で、管理人が誰に雇われている存在なのか、忘れたのだろうか。
生まれて初めて愛する人を手に入れたことに夢中だったのかもしれない。
あるいは、愛する人を自分の手で守れることを誇りに思っていたのかもしれない。
結果、瑣事に目がいかなかったのだろう。
それが瑣事と言えるかは別として。
おままごとのような二人の秘密の生活を、わたしたちは黙って見過ごした。
にいさんが跡取りであることを捨てるなら、見過ごしはしなかった。
けれど、生まれ持った付属物を捨てることなど思いもつけない人だと、わたしたちは知っていたから。
にいさんが、彼女の存在を家に報告しないことこそが何よりの証左だ。
この家に生まれた意味を、この家の持つ意味を、自分の立場を知る人だもの。
選ばなくてはならない時期が来たならば、きちんと選ぶことができるだろう。
にいさんの幼児期は、とても賢くも従順だった。
何かに反発することより、それを強いられる理由を考えて納得するような子どもだったらしい。
その家に生まれた子としての責務を知り、「坊ちゃま」と傅かれる理由を理解する。
そんな子どもだったらしい。
本質は年齢を重ねても変わらない。
にいさんが28歳、私が24歳になった年、お義父さまが倒れられた。
幸い命に別状はなかったものの、無理の聞かない体になってしまわれた。
にいさんの、与えられた自由の時間が終わりを告げた。
そこからどんなやり取りがあったのかは知らされなかった。
彼女との間で、家族との間で。
私の両親には、あるいは知らされていたのかもしれないけれど、私は尋ねなかった。
ただ、今日この日、私の隣ににいさんがいる。
それがすべて。
何かを語りたそうなにいさんの、その意思をあえて無視してきた。
急な帰郷後も何度も通っていた前の家でのことなど、きいてあげたりしない。
何も知らない私。
何も知らないままに、にいさんを慕う私。
それでいい。
愛する人を捨てなくてはならなかった自分。
自分の愛が他に向いていることを、知らぬまま慕う私という存在。
そんないろいろに雁字搦めにからめとられて、身動きのできぬにいさんが、愛おしい。
ああ、貴方の不幸は、私にとっての幸運でもあるのだ。
他の女を愛したことを私に申し訳なく思う限り、彼は私をそれ以上裏切らない。
私のことを、彼女のようには愛していないだろう。
けれど、私は、誰よりも愛する彼女と天秤にかけ、彼が捨てられなかったものの中に含まれている。
家族や家、立場、周囲の目、そういったものの中に私は含まれているのだから。
「にいさん、」
私を愛さなかった過去ごと、私はあなたを愛する。
恋なんかよりも、ずっと深く、生涯。
「私、幸せ」
だから、にいさんは生涯後悔し続けて。