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断片集  作者: みやこ
10/15

こいねがう

渋谷の雑踏の中にひっそりと立つ、ごく普通の雑居ビル。

飲食店が多数入ったそのビルの最上階に、一軒の喫茶店がある。

「attic room」と店名だけが記された小さな看板に、通りを歩く酔客たちは目にも留めない。

そんなひっそりとした小さな店。

呼ばれたかのように足を止める客を、毎夜待っている。



コーヒーを落とすコポコポという音と、静かに流れる古い映画の音楽とが混ざり響きあう。

寄せ集めたようにひとつずつ違うテーブルとソファや椅子は、どれも長く使われてきた風合い。

壁の一面は画集から研究書まで、およそ雑多な本が納められた大きな書棚が埋め尽くしている。

ガレのランプやアップライトのピアノ、レコードプレーヤー、空の鳥かごに陶器の人形。

脈絡のないその装飾も、古色蒼然とした、という点において一致し、不思議な雰囲気を醸し出している。

斜めになった天井の半分は大きな窓で覆われていて蔦が這う。

その蔦越しに反射するネオンの明かりだけが、ここが現代の、渋谷の街中であることを思いだすよすが。


真夜中、2時を過ぎた店内。

平日のそんな時間にも関わらず、客席はおよそ埋まっている。

書棚の書籍を手に取るもの。

ぼんやりと窓の外を眺めるもの。

PCをカタカタと打ち続けるもの。

カップの水面を見つめるもの。

誰もが静かに、この空間を楽しんでいる。


ここにはいつだって外とは違う時間が流れている。

だからこの店に入る時、私は携帯の電源を切る。

1時間、あるいは2時間、ここにいる間だけは心の自由が手に入る。




忙しいとは心をなくすと書く、とは良く聞く言葉だけれど、確かに毎日時間に追われていた私は、本当に感情を失っていた。

日々笑って、怒っていた。

けれどその感情は表面的なものでしかなかった。

心の奥底まで動かされるような、そんな気持ちが沸いてこない。

そしてそんなことにも気づけないようになっていた。


薄っぺらな紙の様な私のその顔を見ていた先輩が、ある日2時間の休憩を私に押し付けた。

無理でもなんでも休みなさい、と。

けれどその休憩時間は、未来の私を苦しめるだけでしかないと思った。

だからこっそりどこかのファミレスででも仕事を続けようとしていた私を見透かすかのように、先輩は小さなショップカードを手に握らせた。

"coffee shop attic room"

黒地に銀の文字で、シンプルにその店名と住所だけが記されていた。

「騙されたと思って、この店に行っておいで。

 1時間でいいからさ、PCも携帯も持たずに」


妙な迫力に気おされてしまった私は、言うとおり財布だけをもってその店へと向かった。

スタジオのほど近く、毎日のように通っているその道に店はあった。

今まで気づかなかった小さな看板。

真夜中3時、"coffee shop"には似合わぬこの時間。

けれど看板を照らす明かりが、営業中であることを示している。


恐る恐るエレベーターに乗り、最上階のボタンを押す。

静かなフロアに降り立てば、誰もいないかのような錯覚に陥る。

ギャラリースペースを抜けて奥に向かうと、色温度の低い空間に驚くほどたくさんの客がいるのが見える。

「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」

そう、声をかけられるまで私は多分呆然としていたと思う。

そのくらい、外とこの場所とでは流れる時間も色合いも違っていた。


促されるまま、奥の席へと進み座る。

深く沈みこむその椅子に、何日も続く緊張に蝕まれた身体を預ける。

思わず長い息が漏れた。

ああ、私、もう限界近くまで疲れていたんだ。

そんな当たり前なことに気づけぬほどに。


先ほど案内をしてくれた店員が、暖かいおしぼりとメニューを渡してくれる。

「お酒がメインではないんですね?」

この時間にやっている店だから、大半をアルコールが占めているだろうと予想しながら開いたメニューには、コーヒーや紅茶ばかりが並んでいる。

「そうですね、こちらは喫茶店ですので。

 でもアルコールも多少はご用意ありますよ。

 後ろの方を見ていただければ」

「いえ、あの、少し意外だったもので」

笑う気配があって、その発信源へと目をやる。

細く三日月のようになった目に、ドキリとした。

「僕としては、最初はコーヒーを楽しんで頂けたら嬉しいです。

 もしお好みのお味などあればご案内しますので、お声がけくださいね」

丁寧な所作で一礼をし、去っていく綺麗な後姿を見送った。


コーヒーの香りに包まれて、ふわりと夢見心地で2時間が過ぎた。

ポーン、ポーンと鳴る時計の音で、その時間の経過を知った。

突然のように現実に戻され、けれどそのことがなぜか不快ではない。

深く深く眠った後のような心地よさで立ち上がることができた。

「また、お越しください」

エレベーターホールまで見送ってくれた彼の、三日月のような目が印象に残った。


職場に戻ると、先輩が私の眉間をグリと押し、それから笑顔をくれた。

「よし、いい顔になった。

 なんか疲れたな、と思ったらまた行ってみるといい」

「ありがとうございました。

 モヤモヤしたものが取れた気がします!」

「なら良かった、早速だけどコレ頼む」

「ハイ!」



それから、なんとなく気持ちが内向きになった時にはattic roomへと通った。

先輩も通っているはずだろうに、不思議と店で会うことはなかった。

忙しくて心をなくしそうなそんな日に、少しの時間を過ごす。

それだけで何かを取り戻せる気がする。


何度か通ううちに、少しずつ店のこともわかってきた。

この店は、日が沈んでから日が出るまでの時間だけやっていること。

土日祝はお休みだということ。

ビルの下に看板が出ている間は営業中だということ。

通っているのは男性も女性もいるけれど、多くが一人でやってきて静かに過ごしていること。

そうではない人も、決して店に流れる時間を邪魔するような騒ぎ方はしないこと。


店の人たちのことも少しずつわかってきた。

三日月のような目で笑う彼は、この店のオーナーの朝日奈 (はじめ)さん。

いつも白いパリッとしたシャツに、黒のパンツ、黒いギャルソンエプロン。

骨ばった、真っ白で綺麗な手で接客を一手に引き受けている。

奥を取り仕切るのは女性で真紀子さん。

朔さんのようにやはり白い手で、美味しいお茶を丁寧に入れてくれる。

基本はこの二人で切り盛りをしているようだ。


週に1、2度と通った。

私はこの店の人たちと少しずつ親しくなっていった。

ひとりでぼんやりするより、カウンターに腰掛けて朔さんや真紀子さんと少しだけお話するのが楽しかった。

ひなたさん、と呼ばれるようになった。


真紀子さんは透明感のある物静かなその外観と違って、勝気。

朔さんをからかってばかりいる。

一方の朔さんは、そんな真紀子さんを「やれやれ」という風に見つめている。

その目が優しくて、二人の間に流れてきた時間を思う。

薬指に輝くものはなかったけれど、でもきっとそういう関係。

ツキンと胸が痛むのは、きっと気のせい。


仕事場で毎日嫌というほどコーヒーを飲んでいる私は、ここではお茶を頂く。

マシュマロミルクティーをお願いすれば、今日も朔さんが少し拗ねたような表情になる。

朔さんが目の前で手ずから入れてくれるコーヒーもいいなと思うのだけれど。

でもそのちょっと拗ねた表情が、楽しみだったりするのだ。

「ホラね、ひなたさんはうちのお茶系がお好きなの。

 言ったでしょ?」

高く澄んだ声で、やわらかな笑顔を浮かべた真紀子さんが奥から顔を出す。

「お茶でもコーヒーでも、美味しく飲んでいただければそれでいいんですよ、僕は」

「その割には不服そうな顔をしている」

からかう口調の真紀子さんも、きっと朔さんのこの顔が見たくてわざわざ出てくるのだろうな。

私はそれを、少し身を引いて見つめた。




冬を感じさせる冷たく重い雨が降った日の深夜、attic roomへ向かった。

雨は上がっていて、けれど金曜だというのに珍しく渋谷の街は静か。

いつもと違う人の流れが不思議だった。

濡れた路面から冷えた空気が立ち上るのが、水の中を泳いでいるようで心地よい。


まだ2時を回ったばかりの時間なのに、ビルの下で看板を片付けている朔さんの姿があった。

「こんばんは、今夜はもう店じまいですか?」

帰ろうかと考え、でも一応声をかけてみる。

三日月の目でこちらを振り向き、

「お疲れさまです、ひなたさん。

 先ほどまでのお天気のせいか、お客様がいらっしゃらないのでいっそ、と。

 真紀子さんも帰してしまったので、お飲み物しか出せません。

 それでもよろしければ、ぜひ一服なさってください」

そう言って看板を持たぬ方の白い手を差し伸べてくる。

思わず、その手に自分の手を重ねてしまった。


最上階へと昇るエレベーター。

繋がれたままの手をそっとみつめる。

想像していた通りの骨を感じる手、冷たくて、水仕事のせいかカサついている。

けれどどこか温かい。

いつまでもエレベーターが着かないような錯覚を覚える。

着かなければいいのに、なんて夢のようなことを考える。


扉を押さえて私を先に出してくれて、朔さんがエレベーターを施錠する。

そのために離された手が寂しかった。

けれどそれ以上に、この場所にもう誰もこないのだと感じさせる行為に胸がざわついた。

ただお茶を頂くだけなのに、それ以上の理由も意味もないのに。

わかっているのに、勝手にざわつく。


朔さんに促され、初めて誰もいない店内へと足を踏み入れる。

いつもは静かでも、それでも人の気配が賑やかにあった。

人気がなく、音楽も流れていない今の静けさとはまったく違うものだと知った。

「なんだか、ここだけ時間に取り残されたみたいな静かさですね」

そう言葉で表現してみた。

「僕が一人の時は、いつもこんな感じなんですよ」

いつもは「お好きな席へ」と案内されるのだけれど、今日は最初からカウンター席の椅子を引かれて示される。

それに応じて座れば、いつもより近い場所でニコリと笑顔で返された。


慣れたはずの場所がいつもと違う空気を見せている。

店も、朔さんも。

それに少しだけ心を浮き立たせて、けれど見慣れた笑顔は安心を呼ぶ。

ああここに来るだけで、心がほどけていく。


温かなおしぼりを手渡しながら、「今夜は何を飲まれますか?」と朔さんが尋ねてくれる。

「では、今夜は朔さんのオススメのコーヒーをお願いできますか?」

目を見開き、それからいつもの三日月目でいつもよりも柔らかな笑顔をくれる。

「わかりました、お待ちください」

ああ、こんな笑顔をくれるのならば。

もっと早くにコーヒーをお願いすればよかった。


コポ、コポとコーヒーの落ちる音。

カウンターの席からその作業をする朔さんをじっと見つめる。

「そんなに見つめられると、照れちゃいますね」

ふんわりと笑顔を浮かべながら言われれば、私の方が照れてしまう。

慌てて窓の向こうのネオンライトに目をやれば、空気が揺れるのがわかる。

たぶん肩を揺らして笑っているんだろうな。

「お待たせいたしました、特製ブレンドです」

そう声がけられるまで、ずっと水滴に跳ねる光を見つめていた。


「美味しい、です」

最初に訪れた日以来、そういえばストレートのコーヒーを頂いたことってなかったな。

香りを嗅いだ途端にあの日を思い出す。

この場所、この空気、この香り、この味。

忙しさに追いやっていた気持ちを取り戻した、その時間を。

「良かった、いい顔をされています」

私の前に立ったまま、そう朔さんは答えてくれた。


フロアをいつも一人で切り盛りする朔さんと、そういえばこんなにも長い時間差し向かいになったことがない。

そのことに気づいてしまえば、再び落ち着かない気分になる。

この店で、こんな気分になったのは初めてかもしれない。

「すみません、私が来てしまったせいでお店を閉められなくて。

 これ、頂いたらすぐお暇しますから」

「そんなことを言わず、ゆっくりくつろがれてください。

 お客さまがいらっしゃるのであれば、いつものように店を開けたかったのですから。

 今日はこの後、お仕事に戻られるのですか?」

そう気遣われてしまった。

「いえ、明日はお休みなのでこのまま帰宅します」

だから長い時間、ここで切り替える必要はないのだという思いを込めて伝える。

朔さんは私がここにリセットをしに来ていることを知っている。

大丈夫、今日の私は磨耗していないから、大丈夫。

一週間の終わりに、ご褒美としてこの空気に触れたかっただけなの。

「ならばぜひ、ゆっくりされてください。

 僕も一人で夜を過ごすのは、退屈なんです。

 それに僕も明日はお休みなんですよ?」

だからどうぞ、とそんな優しくも甘い言葉をくれる。


結局、お言葉に甘えて長い時間を過ごした。

二杯目にカフェオレをお願いし、立ったままの朔さんに隣の席に座ってくれるようにお願いした。

いろいろな話をした。

私のどうでもいいような話にも、朔さんは飽きずに付き合ってくれた。


朔さんのことも改めて色々と知ることができた。

年齢は私より7つ上。

一人暮らし。

この店を始めて、6年が過ぎたこと。

真紀子さんとは昔馴染みであること。

昨年朔さんの紹介で、朔さんのご兄弟と結婚されたこと。

旦那様と大層幸せであること。

「でも、指輪をされていませんよね?」

「飲食物を取り扱うのには向かないと、仕事中は外しているんですよ」

何気なさを装いながら、ホッとする。

ふうん、そうなんだ。

朔さんは一人暮らしなんだ。

真紀子さんは他の誰かのものなんだ。

ふうん。



「なぜ、この店をやろうと思ったんですか?」

そう尋ねたのは単なる好奇心だ。

真夜中に開いている喫茶店。

私のように、生活時間が世間とズレた人ばかりが訪れてくる。

アルコールメインの店の独特の雰囲気とも、ファミレスの攻撃的な明るさとも違う。

そんなこの店を私は愛していたから、だから知りたかった。

「ああ、僕は昼間が苦手なんです。

 だから夜に居心地の良い場所を作ってみました」

「吸血鬼みたいですね」

思いついたまま告げれば、少し困ったような笑顔になる。

「そうですね、太陽はちょっと不得手なんです」


そう静かに返され、思い出す。

太陽に当たることができない病と闘う人たちのことを。

なんてバカみたいなことを言ってしまったのだろう、と思わず俯く。

いつだって私は、考えなしに言葉を発している。

「…すみません、気軽に聞いてしまって」

「いえ、気になさらないで下さい。

 僕は紫外線に弱いだけなんですよ?

 ちゃんと防備すれば昼間だって大丈夫なんです。

 ただそれが面倒で、日のない時間だけ仕事すればいいようにしたかったんです。

 それにね、空は、太陽は好きなんです、本当は。

 少しでも近付きたくてこんな場所に暮らしているくらいで」

笑んでいるようなその声に、恐る恐る目を上げれば、いつもの三日月笑顔。


少しだけ、肩の力を抜いた。

私の失言がなかったことになるわけじゃない。

でも気にしなくていい、そういう風に言ってくれているのに。

傷つけた、と私が勝手に傷つくのはナシだ。

だから私も笑顔をかき集めて、そうして話を続ける。


「暮らしている?

 ここに、お住まいなんですか?」

「ええ、ここ、と言っても、実際にはこのひとつ上の階ですね。

 実は最上階を住居にしているんですよ。

 狭いですが、僕が一人で暮らす分には十分です。

 ……この天気なら、そう、良かったら一緒にいらっしゃいませんか?

 少しだけ珍しいものを、お見せできるので」

三日月の目に吸い込まれるように、頷いていた。



店の奥、「private」と記されたドアの向こうに細い階段が続いていた。

「本当に、プライベートなスペースだったんですね」

「そうなんです。

 店を通らないと入れないのは不便ですが、中々に面白い空間ですよ」

店との境のドアを閉めれば、真っ暗になるその場所。

店内では感じなかった寒さと暗さに急に不安に襲われ、体が縮こまる。

「ああ、すみません。

 僕ひとりだと慣れているもので、階段に明かりをつけていないんです」

そう隣から声が聞こえ、そっと肩から肘、腕へと何かが触れる気配。

そのまま手へと降りてきて、優しく握られる。

「足元、気をつけて。

 ゆっくり付いてきてくださいね」

優しく手を引かれ、夢見心地でその階段を登った。


コツリ、コツリと足音だけが響く。

ここは本当に渋谷の街の中なのだろうか、と疑うほどの静けさ。

階段の先はどこか異空間へと通じているかのような空気すら感じる。

手を引いてくれる朔さんだけが、確かな存在に感じられる。

「間もなくです」

そう声をかけられ、足を確かめつつ登る。

このまま、階段が続くのもいいかもしれない。

或いは、知らないどこかに行くのもいいかもしれない。

そんな埒も明かないことを考える。


「お疲れさまでした」

朔さんの声とともに、階段の先のドアが開かれる。

開かれたドアの向こう、周囲から届くネオンの明かりが、薄い布のようなものから漏れ見える。

「温室?」

「簡単なテントみたいなものです。

 部屋まで一度屋根が途切れるんですが、傘を差すのが面倒でしょう?

 それに日中に移動するのに、日よけが欲しかったのでね。

 鉢植えなどがあるので、足元には気をつけてください。

 こちらへ」

繋いだままの手が、なぜか少し汗ばんでいるのが恥ずかしい。

招かれるまま、その背についていきながら、段々と緊張で喉が渇いてくるのを感じる。

ついさっき、コーヒーを頂いたばかりなのに。


「お疲れさまでした、ようこそ我が家へ」

テントの先にあるドアを開けて、おどけた口調で招き入れられる。

室内、のはずなのにそこに広がるのは不思議な光景だった。

6畳ほどの空間には店と同じように歴史を感じる木製家具が並んでいて。

それなのに天井や壁がはまるで冬の青空のような色合いで。

窓一つない空間なのに、部屋全体が宙に浮かんでいるみたいで。


「太陽が、青空が、ひなたが好きだったんですけどね。

 最近は思うままに楽しめないので、こんな部屋にしてみました」

まるで自分のことを好きだといわれたような気がして、ドキリとする。

でも相変わらず笑んでいる風な空気から、からかわれているんだとわかる。

人のことで遊ぶの、止めてほしい。


つい拗ねた顔になったのがわかったのか、もう一度笑われる。

「さて、お見せしたいのはこちらです」

招かれた先は、居住空間に続く部屋。

縁側のようなサンルームのような場所。

隣室に窓がひとつもなかった代わりとでもいうように、天井から側面までが大きな窓。

そして窓の向こうには、渋谷という場所には似つかわしくないほどの星空があった。


「星が、見えるんですね?」

「そうなんですよ。

 この辺りは坂の上なのと、店舗と違ってこちら側は公園なので。

 渋谷とは思えないくらいに空が近くて辺りが暗いんです。

 それにちょうどこの時間、街が一番暗くなるのもあって、地上にいるより見えるんですよ」

部屋の隅から取り上げたブランケットを私の肩にかけてくれながら、そう朔さんが返事をくれる。


知らなかった。

毎日この街に通っていて、夜空を見上げたのはいつぶりだろう?

オリオン座や北斗七星を見つけるのがやっとで、故郷のように人工衛星までも見えることなんてありえないのが当たり前で。

だからいつの間にか下を向いて歩いていたことを思い出す。

こんなにも星が広がっていることなんて、気付きもしなかった。


「意外と見えるものでしょう?

 昨夜の雨で空気も綺麗になりましたしね。

 たぶん、ここで一番良く見えるタイミングです」

ぶうん、と暖房の動く音がして暖かな空気が足元へと届く。

「ここに座りませんか?」

壁に立てかけたクッションをポン、と叩いて隣を示してくれる朔さん。

その距離の近さにドキドキしながら、でも側にいることを許されたみたいでおずおずと座る。

「ここで朝に変わるのを見るのが好きなんですよ。

 もしお時間があれば、一緒に見ませんか?」

なかなか綺麗なのですよ、と誘う朔さんの三日月の目に誘われるようにうなずいた。



朔さんの隣で、空を眺めてポツリポツリと言葉を交わす。

のんびりとしたその時間は、店で過ごしているとき以上に穏やか。

朔さんの低い穏やかな声がその空気をつむぎだしている。

ああ、あの店は朔さんそのものなのだな。

静かで、ゆったりとして、優しくて。

ここに居る間は大丈夫と包んでくれるようなおおらかさで。

けれど出ていくための力を分け与えてくれる、強さもあって。

私はこの雰囲気が、朔さんが好きなんだ。


そういえばこの2日間、家にも帰れないほど忙しかったな。

ゆっくりと流れる時間が眠気をつれてくる。

「ああごめんなさい、ひなたさんはお疲れでしたよね。

 こんな時間まで付き合わせてごめんなさい、お送りしましょう」

「ん、でも、ここで朝焼けをみたいです」

「それはまたの機会でも」

「やです、今日、ここでみたいです」

眠くて頭が霞がかったようにボンヤリしていて、でもここから離れがたかった。

ようやく近づけた朔さんの隣は、きっと今日を逃せばもう許されない気がしたから。

手放したくなかった。


心の赴くままにわがままな気持ちを言葉にすれば、また笑ったような気配がする。

「わかりました、それでは朝が近づいたら起こします。

 だから少し眠られては?」

駄々をこねて困らせた、という自覚はあった。

けれどその声が優しくて、目を閉じた。




※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




彼女の寝息が深くなったのを確認して、そっと離れる。

仕事用のシャツから部屋着へと着替えて、ベッドの毛布をはがして彼女の側へと戻る。

柔らかな表情をして眠る彼女に毛布をかけて、その隣に座る。


僕の店に訪れる客の多くが、彼女のように疲れた顔をしてやってくる。

彼らは「流れる時間がゆっくりだ」と言われる僕の店で、ほんの少しの時間を過ごして去っていく。

大抵は来たときよりも少しだけやわらかな表情を浮かべている。

それを見るのが好きで、この道楽のような店を続けてきた。


通りすぎていくだけなのが当たり前の彼ら。

その一人でしかない彼女の来る日が、いつしか楽しみになっていた。

彼女の表情がほどけて、お茶を飲みながら柔らかな笑顔を浮かべるまでを見守る。

「また来ます、ありがとうございました」

そう告げる彼女の女性としては少し低い声がまた聞きたくて待っていた。


彼女が特に気になる理由はわからない。

なんとなく気になって、なんとなく見つめる。

週に1度、仕事の合間や仕事の帰りのほんの1,2時間。

何が気になるのかを確かめたくて、彼女と言葉を交わして。

また少し気になる度合いが深まっていく。

その気持ちがどんなものかなんて、とっくに気づいていた。


珍しく誰も来ない週末のこの時間、彼女が訪れてくれたことが嬉しかった。

こんな風に過ごせることは、きっと二度とないだろう。

だから疲れているだろう彼女を、この場所へ呼び込んだ。


騙まし討ちのような誘い方をした僕に警戒する様子もなく、高く積み上げたクッションに背中を預け、ぐっすりと深い寝息を立てている彼女。

マナー違反とわかっていながらそのすぐ隣で足を伸ばす。

眠る彼女の頭を、自分に寄りかからせてみる。

寝心地の良い場所を探すように少しもぞもぞと動いて、その息が首筋にかかる。

甘い花のような香りがして、抱き寄せたくなるのをじっとこらえる。

告げるつもりのない、彼女への好意がまた育っていく。


彼女に多少の好意を持ってもらえていることは感じる。

特定の男性が現在いないことも、聞いている。


だから、と考えたことはあった。

けれど、と足踏みをする。


普通の男女交際が、僕には難しい。

彼女が好きだという雪山で遊ぶことも、昼間の散歩も、この都会の穴蔵で、ひっそりと過ごすばかりの毎日を送っている僕には難しい。

彼女の名前に憧れながら、朝焼けと夕焼けをこの部屋から見上げるのが精一杯な僕には。

当たり前、が難しい僕。

彼女の隣にがむしゃらにいたいと願うには、冷静に年を重ねてしまった。

だから、告げられない。


でも。

彼女が踏み越えてきてくれたら。

彼女から僕へと手を伸ばしてきてくれるのなら。

そうしたら?


一年で一番日の短いこの季節の朝は、まだあけそうにない。

それでも少しずつ薄くなっていく空の星を見上げて、夢のようなことを願う。

隣に眠る彼女が、僕を希ってくれることを。



「ひなたさん、起きられますか?

 そろそろ日が昇ります」


目覚めないでこのまま側にいてくれたらいいのに。

朝なんて来ないで、夜の中をずっと彼女といられたらいいのに。


そんなことを考えながら、けれど僕自身の声で彼女に目覚めを促す。

朝は来るし、彼女は目覚めなくてはいけない。

この場所に留まらせてしまってよい人ではない。

名前のように、日の当たる場所を歩いて行くべき人だから。


少しむずがるような動きをして、それから残念だけれど彼女はゆっくりと目を開けた。

僕の姿を認めて、何かに恥じるように毛布を目の下まで引っ張り揚げてから「オハヨウゴザイマス」と小さな声。

その可愛らしい姿に触れたくなるのをじっとこらえて、身を起こす。

彼女のそばを離れれば、暖房の効いたこの部屋の温度が急に下がったような気になる。

それでも、朝に向かうための彼女にコーヒーを。


立ち上がろうとして、何かに身を引かれているのに気付く。

そこに彼女の手が、僕のシャツを握り締める彼女の手が。

「あ、ごめんなさい」

小さな声で謝罪が聞こえて、すぐに離されてしまったけれど。

でも。

もしかしたら、彼女も、隣の温度を心地よく思ってくれたのだろうか。

僕の隣を離れたくないと思う程度には。



もしかしたら、

或いは、

そんな願いを止めるのが難しく感じる。


「朝が、来ますね」

カフェオレを手に戻れば、白んでいく空を眺めて彼女が小さな声で言う。

彼女の隣にもう一度座って、並んで空を見つめる。

「また、来てもいいですか?」

ぽつりと落とされた声に胸が躍る。

「いつでも、毎日でもお待ちしています」

つい調子にのった言葉に、我ながら慌てて彼女を見る。

驚いた顔をした彼女が、けれど何かが解けたように笑顔になって。


もしかしたら、

伸ばされた手に、自分の手を伸ばした。

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