柳に雪折れなし
王都に…いや、王宮に通う限り避けては通れない道だとしても出来るだけ先延ばしにしたかった事の一つが,この男との邂逅だった。
自分に気が付いて向ってくる青年の姿に、心の中で小さく息を吐いて、ミリアは通路の隅により頭を下げる。
王都、いや国内でも筆頭に上げられるであろう美丈夫は彼女の前で立ち止まると優雅に一礼した。それは一国の宰相という地位に居る男が一介の薬師にする『ソレ』ではなかった。
ここが王宮の、しかも極限られた者しか入れない区画でなければ彼女は近くに居る衛兵に捕われただろう。
それを承知の上で、そういった態度に出る相手の性格に微かに眉間に皺を寄せる。
「ご無沙汰しております。お元気そうで何よりです」
静かで柔らかなトーンの声は確かに外交面において大きな効力を発揮する。しかし、彼の普段の声音は『氷河の上を渡る北風』と、まで言われるほど冷たい。…極めて稀なごく一部の相手を除いて。
その極一部に、ミリアも含まれている。
「閣下もご健勝で喜ばしい限りでございます」
深々と腰を折りミリアは応える。にっこり微笑んでいてもその瞳に欠片ほどの笑いは無い。
けれど、ふとその瞳に映った相手の表情を見て「おや?」と首を傾げる。以前の彼とは違うその光は、幼い頃自分に向けられていた『それ』に近い。……いや、それよりも……。
しかし、彼女が『それ』に気付くよりも先に、視線の隅に映った人影が彼女を現実に戻した。
限られた一部しか入れない区画、というのは返せばほぼ顔見知り、事情通の人物のみがいるということで、この時運悪くここを通ったのは他ならないこの国の王であった。
この二人に気づいて回れ右をしようとした男に、ミリアの目が細められる。
「陛下」
ぎくり、という擬音が当てはまる動きでシュヴァルツは振り返る。
静かに腰を折った薬師は国王に向けた打って変わった笑顔を、国王の後ろに控えていた男へと向けた。
「ごきげんよう、ディギオンさま。兄がいつもお世話になっております」
この場合の『兄』は誰のことをさすのか、とふと頭の中をよぎりはしたが、そんな事はおくびにも出さず、近衛の副隊長は胸に手を置き軽く会釈を返した。
「あ~后の様子はどうかな?」
この場を取り繕うように言う国王にミリアは優雅に微笑んだ。
「お変わりございません。妃殿下も、お腹にいらっしゃる御子もつつがなくおすごしです」
その言葉に、ほっとしたようにシュヴァルツは息を吐く。
彼女が王都にやってきたそもそもの理由がこれであった。
普段自分の願いや我侭を言うことが無い王妃が懐妊が分かってから願った唯一のこと。それは、女性の薬師を呼んで欲しい…せめて、出産が済むまで、傍で相談できるのが同性であってほしい、と。
そうなると自ずと人選は限られてくる、というより国王やその側近に「是」と言わせる女性の薬師など、トワの国内広しといえど唯一人。
隠された存在ではあるが、この国の王女であり、近衛の将の義妹でもある、目の前の人物。
遡る事10日前。
「いいですけどね」
迎えに来た義兄に呆れたようにミリアは言う。
「ただし、専用通路を使わせてくださいね」
それが、彼らがいるこの回廊の事であった。正門や下々の使う門ではなく、極一部の者たちだけが緊急時に使う場所。
まさか、そこでできれば会うことを避けたかった人物の二人共に同時に会うなどと、ついていないもほどがある。
一人心の中でミリアは呟く。
「それでは、失礼いたします」
最上級の相手に対して使う礼を国王と宰相にして、ふと思い出したように彼女はリュクレオンに近づくと二言三言囁く。その言葉に宰相の眉間が微かに寄ったが、すぐに何事も無かったように軽く一礼した。
「承りました…ああ、私からも一つよろしいですかな?」
「何か?」
リュクレオンはシュヴァルツ達のほうを見て、彼女に視線を移す。
「セリアルの求婚者が国内に入ってきております」
「やっぱり…」
頭を押さえて国王の方を見ると困った笑いを浮かべている。つまりは承知済み、という事だ。
「だから『彼』が来ているんですね」
近衛の副隊長も同様の表情を見せていた。
「兄が奥方を里に送っていったというのは…」
「事実半分、捜索半分、ですね」
軽く眉間をおさえると、ミリアは軽く腰を折る。
「では…」
「姫君」
去ろうとするミリアにリュクレオンが声を掛ける。
「例え何があろうとも、貴女が私にとって唯一の姫君であることに変わりはございません」
これを聞いたのが、貴族の…いや、一般女性であれば、頬を染めて喜んであろう言葉。そのままの素直な意味に――貴女は私にとって唯一の『女性』です――なっただろうが、この場合言われた者と、周囲にいる者は違う意味で捉えるしかない言葉だった。
『女性』ではなく『姫君』この言葉が持つ意味合いの違いを言った本人が気付いているかどうか。
一瞬何か言いかけて口を閉ざしたミリアは大きく息を吐いた。
「お好きになさいませ」
これには、周りに居た男性陣、言われた当のリュクレオンさえも驚きの表情を見せる。
「ただし、わたくしが認める守護者も唯一人、ということを覚えておいてください」
再び優雅に腰を折ると、ミリアは去っていった。
「…驚いたな」
その場に暫く動けずに立っていた国王は息を吐く。
「アレにしては最大限の譲歩だぞ?」
「確かに、今までのミリア殿では考えられないお言葉でしたな」
リュクレオンをみると、彼は小さく唇を上げ彼女の去った方角を見ている。その眼差しに、懐かしいものを覚えシュヴァルツも目を細める。
国王の視線に気が付いて、苦虫を噛み潰した様な顔を見せた宰相であったが、彼もまた深く頭を下げる。
「どうした?余に用があったのではなかったのか?」
王の顔となり、リュクレオンに声を掛けると、彼の唇が先ほどとは違う上がり方をする。それは、国王と傍仕えの者がよく知る顔でもあった。
「我が姫がネズミ退治をお命じになりましたので、先にそちらを済ませてまいります」
シュヴァルツとディギオンの気配が変わった。ソレを見て、宰相は身を翻す。
「…しかし、全く」
執務室に戻った国王はディギオンに苦笑いを見せた。
「お前の上司の妹はどこから情報を仕入れてくるのやら」
「…あのお方は王宮の深層部に携わっておいででしたから、そちらからかと」
王室付きの薬師は、表向きの奇麗事ばかりに携わっているだけではないのだ。普通なら暇乞いなど許される立場では無い彼女にそれが許されたのは、国の重鎮が彼女の出生を知るからこそ。
「出来うることなら、これ以上厄介ごとが増えて欲しくは無いな」
そういうと、国王は自らの執務をこなすべく目の前の書類を取り上げ、近衛の副隊長は扉近くの定位置へと向った。
「厄介事、ね」
小さく笑うその姿に、アルフォードは息を吐く。
「誰だよ、それを呼び込んだのは」
心外だなぁ、と彼は笑う。
「呼び込んだつもりはないよ?」
「他の次元から拉致してきた奴が何を言う」
目の前の青年は、その空間から立ち上がるとアルフォードの目の前にやって来ていたずらっぽい笑いをを浮かべた。
「それにしても、君の姫君は勘が良い。もてるはずだ」
「どうするつもりだ?」
青年はやれやれと肩をすくめると、何も無い空間を指差す。そこに映ったのは、アルフォードが目にした事のない世界だった。
「本当に偶然だったんだよ?彼女をひっかけちゃったのは。だから、すぐに元の世界に返すつもりだったんだけどね」
見ちゃったんだ。と彼は言う。
「何を?」
「彼女の運命の一つが、この世界と交錯するのを…そして…」
目の前の青年にしては珍しく真剣な表情を見せる。
「この世界でしか、彼女は生きられない」
この言葉の意味を分からぬほど、アルフォードは無知ではなかった。
「どの『未来』でもか?」
「それを『天寿』とよぶなら、ね。彼女は25まで生きることはできない…そして」
もう一つ写した映像は、最近知った青年の姿。
「彼女がいなければ、彼は『血』を残すことはできない…あいつの子孫が途絶えるなんて、ボク的には許されないことなんだよ?」
わかるだろう?と言う相手にアルフォードは大きく息を吐いた。
「25、までなんだろう?ならば、せめて彼女に時間をやれ。向こうには何も言わず別れてきた家族も友人もいるんだ」
「…うん、そうだね」
そう言って、青年は笑う。
「でも、変わったね。以前の君はそんな風に他人のために動くなんて事なかったのに」
緩やかに目の前の妖魔の気配が変わる。静かに燃える青銀の炎に青年は笑みを深くした。
「いや~アルフォードってば惚れてるねぇ」
彼の妖魔としての名前を呼ばず、この名を呼ぶ辺りが青年の性格を現していた。
「了解。でも、もう少し時間が欲しいな。あ、時間軸なら大丈夫、ちゃんと調節するから」
「…じゃあな」
え~アルってばもういっちゃうの~という叫びを無視して、男は姿を消す。
「全く、ほんっとラブラブなんだからね。お姫様もあんな台詞言っちゃうし。あれって、アルのことだよね」
その二人の間に恋愛感情など彼らも無いことを承知の上で青年は笑って言葉を紡ぐ。
「でも、まず危機を一つ乗り越えてもらわなきゃね」
そういうと、静かに姿を消した。




