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「病弱な幼馴染を置いていけない」と言った婚約者に、最後の処方箋を置いてきました——彼女の病気は、3年前に治っています

作者: 歩人
掲載日:2026/04/26

 封書を置いた。


 ルカス・フォン・アルトハイムの書庫の奥。医学書の棚の一番端、背の高い書物の間に立てかけて。気づかなければほこりに紛れてしまうような場所。


 すぐには見つからないだろう。けれど、ルカスがこの棚に手を伸ばす日が来るなら——エリーゼと薬草の話をした日々を思い出すことがあるなら——その時に。


 宮廷薬学士の紋章入り封蝋ふうろう。赤い蝋に押された薬杵やっきねと天秤の紋は、この封書が私的な手紙ではなく公的な所見書であることを示している。


 エリーゼ・フォン・ヴェルナーは、一度だけ振り返った。


 午後の陽光が差し込む執務室。ここに通された回数を、もう数えることもないだろう。窓辺に飾られた白い花——リディアが好む花に替えられたのは、いつ頃からだっただろうか。以前は薬草の鉢植えを置いてくれていた。エリーゼが「この品種は王都では珍しいですわ」と言った翌週には、ルカスが園丁に命じて取り寄せてくれたものだった。


 あの鉢植えは、今どこにあるのだろう。


 エリーゼはそれ以上何も見ず、音を立てないよう扉を閉めた。


「処方箋は嘘をつきません」


 誰に言うでもなく、廊下に呟きが落ちた。




 三日前のことだった。


「エリーゼ。僕たちの婚約を、解消してほしい」


 アルトハイム伯爵邸の庭園。薔薇のアーチの下で、ルカスは穏やかな声でそう告げた。穏やかすぎる声で。まるで天気の話でもするかのように。


「リディアのことは知っているだろう。幼い頃から身体が弱くて、薬が手放せない。最近は特にひどくなっている。僕がそばにいなければ、あの子は……」


 ルカスの視線は、エリーゼではなく庭園の奥を見ていた。東屋あずまやの椅子に腰かけた少女——リディア・フォン・ヴァイスが、レースのハンカチを口元に当て、小さく咳き込んでいる。


 咳き込んでいるように見える、が正しい。


 処方記録で、とうに疑念を抱いていた。だからこそ今日、自分の目で確かめに来たのだ。


 エリーゼの目がリディアの指先を捉えた。ハンカチを握る手に力が入りすぎている。三年間、処方監査の職務で数え切れない患者の容態記録に向き合ってきた。本当に咳き込む患者は、あのように手を握り締めたりしない。苦しさに身を任せて、ただ胸を押さえるだけだ。


 リディアの咳は、タイミングも音の高さも完璧すぎた。本物の咳には、もっと不規則ながある。


 そしてもう一つ。リディアの頬は白粉おしろいで青白く見せてあるが、手首の血色が隠しきれていない。健康な肌の色だ。処方記録と照らし合わせれば、不自然だった。


 だがそれを指摘する必要は、もうない。


 エリーゼの指先が、一瞬だけ冷たくなった。三年間という時間が胸の奥で軋む。だがそれは、薬の配合を間違えた時と同じ——即座に修正すべき動揺にすぎない。


「——承知いたしました。父上に報告し、正式な手続きを取らせていただきます」


 ルカスが目をみはった。反論を予想していたのだろう。あるいは涙か、せめて動揺か。エリーゼの冷静さが、彼には冷たさに映ったようだった。


「エリーゼ、君なら理解してくれると思っていた。でも……こんなに、あっさり……」


「ルカス様がお決めになったことです。わたくしがお引き止めする道理はございません」


 ルカスの表情が複雑に歪んだ。罪悪感と、しかしどこかで安堵する色。それをエリーゼは見逃さなかった。


 この人は、わたくしの同意が欲しかったのだ。自分が正しいことをしていると、許しを得たかったのだ。


 東屋のリディアがまた咳き込んだ。今度はルカスのほうをうかがうように視線を向けてから。


「リディア……!」


 ルカスが駆けていく背中を、エリーゼは静かに見送った。


 東屋に駆け寄ったルカスが、リディアの肩を支えている。リディアは弱々しくルカスにもたれかかり、か細い声で「ごめんなさい……わたしのせいで……」と囁いた。その声は、ルカスにだけ聞こえる大きさに、正確に調整されていた。


 エリーゼは踵を返した。




 リディアの処方箋は、三年前から変わっている。


 エリーゼは宮廷薬学士として、王城の処方記録に閲覧権を持っていた。担当医が出す薬の処方内容を確認し、薬効と安全性を監査するのが職務の一つだ。


 リディア・フォン・ヴァイスの処方は、三年前を境に別のものに切り替わっていた。発熱を抑える解熱剤から、軽度の栄養補助剤へ。鎮咳薬ちんがいやくは消え、ただの芳香蒸留水が処方されていた。


 つまり。


 担当医はとうに知っていたのだ。リディアの身体がもう治っていることを。しかし患者が「まだ具合が悪い」と訴え続ける限り、形だけの処方を出さざるを得ない。医師にもまた、貴族の令嬢を相手に「嘘ですね」とは言えない事情がある。


 治っている人間に出す薬は、薬ではない。ただの水だ。




 婚約破棄を告げられた夜、エリーゼは宮廷薬学院の調合室にいた。


 夜更けの室内に、乳鉢にゅうばちが石板を擦る音だけが響いている。


 白石薬研はくせきやげんの上に乾燥させたセイヨウカンゾウを載せ、一定のリズムで粉砕していく。粗い繊維が細かい粉末に変わっていく感触が、指先から伝わる。力加減を誤れば薬効成分が飛ぶ。強すぎず弱すぎず——三年の修行で身につけた手の感覚が、頭で考えるより先に正しい圧を見つけ出す。


 セイヨウカンゾウの粉末を量りに移し、精密に秤量する。次にシナモンバークの粉末を少量。配合比を間違えれば、薬は毒になる。


 隣の棚には、明日の患者のための処方箋が十二枚、整然と並んでいた。一枚ごとに患者名、症状、処方内容、調合日、薬学士の署名。エリーゼの筆跡は、どの処方箋でも同じ角度、同じ太さで揃っている。


 文字に感情は要らない。記録とは、事実だけを留めるものだ。


 配合が終わると、次はピオニーの根を刻む作業に移った。薬研で砕くのではなく、銅の薬刀やくとうで薄く削いでいく。ピオニーは繊維の方向に沿って刻まなければ、煎じた時に有効成分が十分に溶出しない。


 刃先が根を滑る音。微かに甘い香り。


 エリーゼはこの作業が好きだった。宮廷の社交も、婚約者との散歩も、すべてが決まりきった形式の反復だったが、調合だけは違う。同じ薬草でも、採取した季節、乾燥の度合い、保管状態で性質が変わる。それを指先と鼻と舌で見極め、配合を微調整する。


 この手は、嘘をつかない。


 調合を終え、処方記録帳に今日の作業を記入した後、エリーゼは棚の奥からリディア・フォン・ヴァイスの処方記録の綴じ込みを取り出した。


 最後の監査確認は半年前。その時すでに、芳香蒸留水しか処方されていないことは知っていた。


 知っていて、何も言わなかった。患者が治っているかどうかは、担当医と患者の問題だ。宮廷薬学士の職務は処方の安全性を監査すること。芳香蒸留水に害はない。監査上の問題は、ない。


 だが——ルカスは知らない。


 エリーゼは綴じ込みの最初の頁を開き、三年分の処方記録を一覧にまとめ始めた。


 薬の名前、成分、投与量。数字と事実だけを、淡々と。


 記録の整理が終わったのは、明け方だった。窓の外が白んでいる。調合室に残るピオニーの香りの中で、エリーゼは最終所見の最後の一行を書き終えた。


 「患者リディア・フォン・ヴァイス。現在の健康状態——良好。治療の必要性——なし。三年前より治癒と判断される」


 署名し、宮廷薬学士の紋章で封蝋を押した。赤い蝋がゆっくりと固まるのを、エリーゼは黙って見つめた。


 この封書を置いたら、もう王都に未練はない。


 翌日、辞表を提出した。父に宛てた手紙も出した。婚約破棄の経緯と、宮廷薬学士を辞すること。行き先は書かなかった。落ち着いたら改めて報告する、とだけ。父は激怒するだろう。母は泣くだろう。だが今は、それに応える余裕がなかった。


 最小限の荷物と薬箱だけを持って宮廷を出た。宮廷薬学院——宮廷薬局を統括する研究教育機関で、エリーゼが三年間所属した場所だ。同僚は驚いた顔をして引き留めようとしたが、エリーゼは丁重に断った。宮廷薬学士は三人いる。見習いが控えており補充の目処もある。一人減っても、回る。


 行き先は、以前から論文の取材で訪ねたことのあった辺境の町。薬草が豊富で、薬師が不在の土地。エリーゼの腕が、最も必要とされる場所だ。




 辺境の町ミュールヴァルトに着いたのは、王都を発ってから馬車で六日目の朝だった。


 石造りの小さな町。城壁の代わりに薬草畑が町を囲んでいる。空気が違った。王都の花壇は見栄えのために手入れされているが、ここの緑は生きるために育てられている。


 馬車を降りた瞬間、エリーゼの鼻がいくつもの香りを拾った。道端に自生するヨモギ。垣根に絡まる忍冬すいかずら。どこかの家の軒先で乾燥させているらしいミントの清涼な匂い。どれも王都の薬局では乾燥品でしか見たことのない薬草が、ここでは生きたまま風に揺れている。


 エリーゼが借り受けた空き家は、かつて薬種問屋だった建物で、裏手に荒れた薬草園がついていた。雑草に埋もれたうねの間に、カモミールとラベンダーの株がまだ生きている。


 最初の一ヶ月は、薬草園の復旧と土地の薬草調査に費やした。地元の農夫に手伝ってもらいながら雑草を抜き、土を耕し、持参した薬草の種を蒔く。崩れかけた薬草棚を修理し、乾燥用の縄を張った。前の住人が残した薬壺やくつぼを洗い、かまどの灰を掻き出して火を入れた。煎じ薬を作るには、まず釜の湯が要る。


 手は土で汚れた。爪の間に黒い土が入り込む。宮廷にいた頃は考えられなかったことだが、不快ではなかった。むしろ、素手で土に触れるたびに、指先に染みついた薬研の硬い感触とは違う、柔らかな温もりを感じた。


 しかし、高地産の品種のいくつかはこの低地の気候では発芽すらしなかった。王都から持ち出せた乾燥薬草は半月分にも足りない。


 仕方なく、町の周辺を歩いて自生する薬草を調べることにした。王都の学術院で「辺境の薬草など実用性に欠ける」と一蹴された、あの辺境産薬草の知識が、ここでは命綱になる。自分が書いた論文——『辺境産薬草の代替処方に関する体系的研究』の内容を、今度は自分自身で実践することになるとは。


 夜、寝台に横たわると、一日の疲れとともに静けさが押し寄せてきた。


 王都とは違う静けさだった。宮廷の夜は人の気配と噂話で満ちていたが、ここには風の音と薬草の香りしかない。誰もエリーゼの名を呼ばない。誰もエリーゼを待っていない。


 天井のはりを見つめながら、不安が胸をかすめた。


 本当にこれでよかったのだろうか。侯爵家の令嬢が辺境で薬師を開業する——世間はそれを零落と呼ぶだろう。父には婚約破棄と辞職を手紙で伝えたが、辺境に来たことはまだ知らせていない。知れば卒倒するに違いない。そしてルカスは今頃、エリーゼの不在を——。


 いや。ルカスのことを考えるのはやめよう。あの人の隣にわたくしの場所は、もうない。


 エリーゼは寝返りを打ち、窓の外の夜空を見つめた。月明かりが薬草園の輪郭を淡く照らしている。あの畝に蒔いた種が芽吹く頃には、わたくしもここに根を張れているだろうか。


 答えの出ない問いを抱えたまま、エリーゼは目を閉じた。指先に残る土の感触だけが、確かなものだった。




 町の領主代官への届出は、到着の翌日に済ませた。宮廷薬学士の資格証を見せると、長年の薬師不在に困っていた代官は目を輝かせ、二つ返事で開業を許可した。辺境では、薬師の到来は何よりの朗報なのだ。


 到着から二週間目の朝、最初の患者が来た。


 町の鍛冶屋の息子——十になるかならないかの少年が、右腕に包帯を巻いて立っていた。包帯の下から赤黒い火傷の跡がのぞいている。


「父ちゃんの仕事場で腕やっちまって。町の薬屋はもうないし、どうしたらいいかわかんなくて」


 エリーゼは包帯を外して傷を確認した。水疱が潰れ、皮膚が赤く腫れている。放置すれば化膿する。


「少し沁みますが、我慢してくださいね」


 井戸水で丁寧に傷口を洗い、金盞花きんせんかの軟膏を調合した。乾燥させた花弁を蜜蝋みつろうと豚脂で練り、ほんの僅かに樟脳しょうのうを加える。抗炎症と鎮痛を兼ねた処方だ。


 軟膏を傷口に塗り、清潔な布で包み直す。少年は最初こそ顔をしかめたが、すぐに表情が緩んだ。


「あ……痛くない。全然痛くない」


「金盞花が炎症を抑えますの。三日後にまた見せにきてください。包帯の交換と、経過を確認しますから」


 少年は何度も頭を下げて帰っていった。


 噂は早かった。翌日には鍛冶屋の妻が膝の痛みを相談に来て、二週間後には町外れの農家から産後の若妻の往診を頼まれた。一ヶ月が過ぎる頃には、週に三、四人の患者が訪ねてくるようになった。風邪引きの子供、腰を痛めた農夫、慢性の頭痛に悩む老婆。どれも王都の宮廷では診ることのなかった、生活に根ざした病だった。


 宮廷では、処方箋を書く相手は貴族ばかりだった。薬の効能を語る相手は学術院の同僚だった。だがここでは、「飲んだら楽になった」「痛みが引いた」という言葉が、直接返ってくる。


 それは、王都では一度も経験したことのない感覚だった。


 そうして二ヶ月ほどが経った頃、軍医が訪ねてきた。




「——ヴェルナー先生、ですか」


 薬草園で株分け作業をしていたエリーゼは、声のほうを振り向いた。背の高い青年が門扉に手をかけて立っている。日に焼けた肌、軍服の上着を腕まくりした無造作な姿。


「セオドア・フォン・グラーフ。この地域の駐屯地で軍医をやっている」


「……存じ上げませんわ。申し訳ございません」


「知らなくて当然だ。こっちが一方的に知っているだけだから」


 セオドアは照れるでもなく、率直にそう言った。


「あんたの論文、何度読み返したかわからない。『辺境産薬草の代替処方に関する体系的研究』——あれがなかったら、俺はここで何人も見殺しにしていた」


 エリーゼは目を瞬かせた。あの論文は宮廷薬学士として提出した研究報告で、学術院では「実用性に欠ける」と冷ややかに扱われたものだった。


「お役に立てたのでしたら、光栄ですわ」


「役に立ったなんてもんじゃない。去年の冬、解熱剤が底をついた時にあんたの処方で代用薬を作った。おかげで兵士が三人助かった」


 セオドアの目に嘘はなかった。世辞を言う種類の人間ではないことは、一目でわかる。


「ここにはあんたの腕が必要だ。俺は外科はできるが、薬の調合は素人に毛が生えた程度でね。正直、助けてほしい」


 飾らない言葉だった。


 ルカスの「君なら理解してくれるだろう」とは、似ても似つかない。あの言葉は相手への甘えだった。だがセオドアの「助けてほしい」は、対等な専門家への依頼だった。


「……わたくしでよろしければ」


 エリーゼは土のついた手を差し出しかけて、止めた。


「——失礼、手が」


「構わない」


 セオドアはそのまま握り返した。薬草と土の匂いがする手を、躊躇なく。




 セオドアとの協力が始まり、辺境での日々は慌ただしさを増した。彼が診察し、エリーゼが処方を組む。冬に備えた薬の備蓄も急務だった。辺境は冬が厳しく、雪が積もれば王都からの供給が途絶える。


 自生する薬草を片端から調べ、代替処方の組み合わせを考える。解熱にはヤナギの樹皮とリンデンの花。鎮咳にはタチアオイの根。傷薬にはオオバコとゲンノショウコ。エリーゼは処方録に、一つひとつの代替処方を書き留めていった。いつか誰かの役に立つかもしれない。あの論文が、見知らぬ軍医の手で兵士を救ったように。


 そしてもう一つ、夜ごとに続けていた作業がある。


 在職中に処方監査の一環としてまとめていた、リディア・フォン・ヴァイスの過去五年分の処方記録の写しが手元にあった。宮廷薬学士は担当案件の監査記録を保管する権限がある。退職時の引き継ぎ手続きで、自身が作成した監査資料の写しを正式に受領していたのだ。


 記録を時系列に並べ、成分の変遷を一覧表にまとめた。


 最初の二年間——本物の投薬。解熱剤、鎮咳剤、強心薬。リディアの病は確かに実在していた。


 三年目の春——処方が変わる。解熱剤が消え、芳香蒸留水に切り替わる。鎮咳剤が減量され、やがて栄養補助剤だけになる。


 担当医の判断は正しい。回復した患者に不要な薬を出し続けるほうが、むしろ有害だ。


 しかしリディアは「治った」と言わなかった。周囲にも「まだ具合が悪い」と訴え続けた。ルカスにも。


 エリーゼは最終所見を書き上げた。


 宮廷薬学士としての署名と紋章入りの公式文書。個人の感情は一文字も入っていない。ただ事実だけが、時系列順に並んでいる。


 わたくしの目は、症状ではなく成分を見ますの。


 これが封書の中身だった。




 封書が開かれたのは、エリーゼが辺境に発って三ヶ月後のことだった。


 その顛末を運んだのは、駐屯地に補給物資を届けに来た王都の行商人だった。


 エリーゼが薬草園で株分けをしていた昼下がり、セオドアが珍しく声を弾ませて駆け込んできた。


「おい、ヴェルナー先生。王都から面白い話が流れてきた」


「……面白い話?」


「アルトハイム伯爵家の若様が婚約しようとした相手が、実は三年間病気を偽っていたんだと。しかも元婚約者の薬学士が残した公的記録で発覚したらしい」


 エリーゼは手を止めなかった。土を掘る指先の動きだけが、ほんの一瞬乱れたのをセオドアは気づいただろうか。


「詳しく、教えてくださる?」


 セオドアは行商人から聞いた話をそのまま語った。


 ルカスがリディアとの婚約を正式に申し入れようとした日のことだ。婚約に必要な家系図を探して書庫を訪れた——エリーゼが去ってから三ヶ月、ルカスはこの部屋を避けていたという。薬草の鉢植えを置いてくれたのもこの部屋、二人で医学書を読んだのもこの部屋だった。入るたびにエリーゼの面影がちらつく場所に、足を踏み入れられなかったのだろう。

 家系図を探して医学書の棚に手を伸ばした時、背の高い書物の間から封書が滑り落ちた。宮廷薬学士の紋章入りの封蝋が、三ヶ月分の埃をまとっていた。


 中を開いたルカスは、しばらく意味がわからなかったという。処方記録の一覧。薬の成分名と投与量の変遷。そして最後の一頁に、宮廷薬学士エリーゼ・フォン・ヴェルナーの最終所見。


「患者リディア・フォン・ヴァイス。現在の健康状態——良好。治療の必要性——なし。三年前より治癒と判断される」


 セオドアは腕を組んで続けた。


「それで若様がその令嬢に問い質したらしいんだが——まあ、最初は泣いて否定したそうだ。『わたしを陥れようとしている』と」


「そうでしょうね」


「だが処方記録は公式文書だ。感情では覆せない。若様が宮廷薬学院に正式調査を依頼して、担当医が証言した。『三年前に回復しているが、患者が症状を訴え続けるため害のない処方で対応していた』と」


 エリーゼは黙って土を掘り続けた。


「それで決定打が面白いんだ。その令嬢、追い詰められた瞬間に咳がぴたりと止まったらしい。三年間咳き込んでいた人間が、だ。本物の病ならありえない」


 あの完璧すぎた咳。リディアの演技は最後の最後に、自分の身体に裏切られたのだ。


 エリーゼは指についた土を払い、立ち上がった。畝の間に生えてきた雑草を一本引き抜く。引き抜いた根についた土を払い落としながら、ルカスの顔を思い浮かべた。あの人は今、どんな表情をしているのだろう。


 いや——その想像は不要だ。エリーゼが置いてきたのは感情ではなく事実だ。事実を突きつけられた後のことは、ルカス自身の問題だ。


「その後、伯爵夫人が元婚約者を呼び戻そうとしたらしいが、辺境のどこにいるかまではわからず、見つけられなかったそうだ」


 この辺境のことだ。エリーゼは少しだけ唇の端を持ち上げた。


「ヴァイス男爵家は代わりの薬学士に反証を書かせようとしたらしいが、王都に三人しかいない宮廷薬学士のうち、残りの二人は『処方記録の事実に反する所見は書けない』と断った。当然だ。処方箋は——」


「嘘をつきません」


 エリーゼが静かに言い終えた。


 セオドアは少し黙ってから、低い声で訊いた。


「あんたなんだな。その元婚約者の薬学士は」


「……ええ」


「戻りたいか?」


「いいえ」


 即答だった。


「ちなみにヴァイス男爵家は社交界から姿を消して、その令嬢は以降公の場に一切現れなくなったそうだ。若様は数日間、誰とも口をきかなかったらしい」


 エリーゼは何も言わなかった。ただ、薬草園の畝に新しい種を蒔いた。この土地の気候に合う品種を、ようやく見つけたところだった。


 セオドアはそれ以上何も訊かなかった。




 さらに一ヶ月後、ルカスからの手紙が届いた。辺境の町という町に片端から送ったらしく、封筒は幾度も転送された跡で汚れていた。


「エリーゼ。戻ってきてほしい。すべて僕が間違っていた。婚約を元に戻すことも——」


 手紙は三枚に及んでいた。言い訳と謝罪と懇願が、ルカスらしい丁寧な筆跡で綴られている。最後の一行には、「君がいなければ僕は」と書きかけて消した跡があった。


 エリーゼは便箋を丁寧に折り直し、引き出しにしまった。


 返事は書かなかった。


 ルカスの手紙を読んで、怒りも悲しみも湧かなかった。ただ一つだけ感じたのは、奇妙な既視感だった。リディアの処方箋と同じだ。必要でないものを、まだ必要だと訴え続けている。


 エリーゼがルカスの隣にいなければならない理由は、もうどこにもない。


 手紙を読んだ直後、診療所からセオドアが駆け込んできた。


「急患だ。駐屯地で訓練中に兵士が倒れた。高熱で意識が朦朧もうろうとしている」


 エリーゼは迷わず薬箱を手に取った。引き出しの中のルカスの手紙は、もう頭になかった。


 診療所に着くと、若い兵士が寝台に横たわっていた。額に手を当てると、焼けるように熱い。脈は速く、呼吸は浅い。


「解熱剤の備蓄は——」


「ヤナギの樹皮とリンデンの煎剤で対応します。先月の備蓄がありますわ」


 エリーゼは手際よく薬を煎じ、兵士に飲ませた。額と首筋を冷やし、水分を補給させる。深夜まで付き添い、明け方に熱が下がり始めた時、セオドアが短く言った。


「……助かった」


 その二言に、宮廷の感謝状よりも重い何かがあった。




 秋の朝だった。


 薬草園のカモミールが最後の花をつけている。霜が降りる前に摘んでおかなければ、冬の分の在庫が足りなくなる。


「おい、こっちのラベンダーも摘むのか」


 セオドアが隣の畝から声をかけた。軍服の袖をまくり上げ、慣れない手つきで花を摘んでいる。軍医が薬草摘みをする姿はいささか滑稽だったが、本人はまったく気にしていない。


「ええ。ラベンダーは乾燥させて鎮静剤に使いますから」


「了解。こう……茎のどの辺りで切ればいい?」


「花の下、二節目のところでお願いしますわ」


 セオドアは頷いて、教えられた通りに丁寧に切った。大雑把に見えて、刃物の扱いは正確だった。軍医の手だ、とエリーゼは思った。


 四ヶ月。セオドアと組んで働くうちに、急患の夜を何度も共にした。患者が眠った後の静けさの中で、ぽつりぽつりと言葉を交わすようになっていた。エリーゼの過去を、セオドアは訊かない。ただ「あんたの腕は確かだ」とだけ言う。その距離感が、エリーゼには心地よかった。


「——さっきの手紙。読んだのか」


「ええ」


「で?」


「返事は書きませんでした」


 セオドアは少し黙ってから、「そうか」とだけ言った。


 理由を問わないところが、この人らしかった。


 風が吹いた。薬草の香りが運ばれてくる。カモミールの甘さとラベンダーの清涼感が混ざり合って、呼吸が深くなる。


 エリーゼは籠に花を入れながら、ふと口を開いた。


「わたくし、薬学士になったのは、病を治したかったからですの。嘘を暴きたかったわけではありませんわ」


「だが結果として暴いた」


「処方箋が暴いたのです。わたくしは記録をまとめただけ」


 セオドアは立ち上がり、籠を抱えてエリーゼのほうを見た。


「あんたは自分の仕事を正確にやった。それだけのことだ」


 その言葉に、エリーゼの胸の奥で何かが緩んだ。ほんの僅かに。


 王都では、エリーゼの正確さは「冷たさ」と呼ばれた。ルカスにもそう映っていたのだろう。だがセオドアは、その正確さをただ正確さとして認めた。


「ヴェルナー先生」


「はい?」


 セオドアは一瞬だけ迷うような間を置いて、首を振った。


「いや……エリーゼ、でいいか」


 不器用な申し出だった。


 エリーゼは小さく笑った。王都を出てから、初めて自然に浮かんだ笑みだった。


「ええ。構いませんわ、セオドア先生」


 薬草の香りが満ちる秋の庭で、エリーゼは次の花に手を伸ばした。


 ここには治すべき病がある。自分の腕を必要としてくれる人がいる。嘘のない処方箋を書ける場所がある。


 もう、治せない病はありませんの。


 そう心の中で呟いて、エリーゼは穏やかに微笑んだ。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 「病弱な幼馴染に婚約者を奪われる」——なろうではよく見るこの構図に、一つだけ仕掛けを入れたいと思いました。処方箋という「証拠」です。ヒロインが「あいつは嘘つきよ!」と叫ぶのではなく、公的な記録が淡々と事実を語る。薬師という職業だからこそ、手元にある処方記録がそのまま武器になる。この構造を思いついた時、「これは書ける」と確信しました。


 書いていて一番楽しかったのは、リディアの「完璧すぎる咳」の描写です。本物の咳のほうが不格好で不規則——実は医学的にもそうなのですが、「演技が上手すぎるからこそ見抜ける」という逆転がエリーゼらしいなと。処方箋は嘘をつかない、でもそれは「正確に見る目」があってこそ意味を持つんですよね。


 それともう一つ、書きたかったのはエリーゼの「手」の描写です。薬研を擦る手、土を掘る手、軟膏を塗る手、処方箋を書く手。彼女の人生はいつも手を動かすことで前に進んでいく。ルカスの手を引き留めるのではなく、自分の手で薬草を育て、患者を治し、新しい場所に根を張っていく——そういうヒロインを書きたかったのです。


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― 新着の感想 ―
ラベンダーは秋に咲く花ではない。AI小説っぽさが感じられます。
監査は、患者に薬が渡る前にされなければ、意味がありません。個人的な処方記録を公式に持ち出すことが認められ、それを家族でもなんでもない人に暴露できる世界観に、戦慄しました。怖すぎるよ。
ヤブ医者「処方箋は嘘つきではないのです…ただ間違えるだけなのです…」 買収医者「処方箋に記載した薬?もちろん適切な処方です。仮病?何という事だ、見抜けなかった!このリハクの眼を以てしても!」 ルカス…
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