井戸
山間の町にある古びた民家に、山岡家は引っ越してきた。父・誠、母・千佳、そして小学五年生の息子・蒼太。築百年を超えるその家は格安で売りに出されており、自然に囲まれた土地に魅せられた誠が一目惚れして購入したのだった。
引っ越しの当日、近所に住む老人がふらりとやってきた。深く刻まれた皺と白髪の老人は、庭の奥を指して言った。
「……あの井戸には、決して触ってはならん」
井戸。庭の隅にぽつんとある、苔むした丸い石組みの構造物。古びた木の蓋が斜めにかけられ、何かを閉じ込めるような異様な存在感を放っていた。
「井戸ですか? 今は使ってないようですが……」
誠が尋ねると、老人はゆっくりと首を横に振った。
「使ってはいかんのだ。あれは“契り井戸”……昔、この土地では水神と契約して、井戸を通じて水をもらっていた。だが、契約を忘れれば、水神は……取り立てに来る」
その言葉に、誠は笑った。「迷信ですか」
老人は何も言わず、ただ深いため息をついて帰っていった。
それから数日後の夜。雨が降っていた。静かな水音に混じって、**「ガタッ」**という音が庭から響いた。
気づいたのは千佳だった。雨の音と混じり合って、井戸のほうから何か重たいものが動くような音がする。
翌朝、庭を見た誠が首をひねった。
「井戸の蓋、ずれてるな……」
そのとき、蒼太が言った。
「ねえお父さん、昨日の夜ね、僕、夢で見たよ。井戸の中から“白い顔の人”が出てきて、こう言ったんだ――“契りを、果たせ”って」
冗談交じりに言う息子に、千佳は顔をしかめた。
「気味悪いこと言わないの」
それからだった。家の中に水たまりが現れ始めたのは。
廊下の隅、階段の下、押し入れの中。あり得ない場所に、ぽつんと冷たい水が広がっていた。
水道は止まっていた。床は乾かしても翌朝には濡れていた。
「結露……よね……?」と千佳は不安げに言ったが、次第に蒼太の様子も変わり始めた。
ある夜、誠が目を覚ますと、廊下に濡れた足跡が続いていた。寝室を出て足跡をたどると、それは井戸のある庭へと続いていた。
雨は降っていないのに、扉の前にはびっしょりと濡れた蒼太が立っていた。
「蒼太……何してる?」
問いかけに振り返った息子の顔は、人間のものではなかった。顔は青白く、目はどろりと濁り、唇からは井戸水のような泥が垂れていた。
「――かえさないと」
低い声でそう言った蒼太は、そのまま井戸の中へと消えた。
悲鳴を上げた誠が千佳を呼び、懐中電灯を持って井戸の中を照らすが、そこには何もなかった。水面は黒く澄み、底は見えない。
翌朝、蒼太は何事もなかったように朝食を食べていた。ただ、彼の瞳だけが、まるで別人のもののように冷たく光っていた。
その日の夕方、老人が再び現れた。
「……井戸を、開けたな」
誠は蒼太の異変を訴えた。老人は静かに語り始めた。
「昔、この村には“水神様”と呼ばれる存在があった。旱魃を防ぐ代わりに、村人は年に一度、“契り子”を差し出していた。生贄ではない。“神の声を宿す器”として育てるためのものじゃ。選ばれた子供は井戸のそばで暮らし、水神に仕える家となる」
誠は絶句した。
「……そんなもの、今はもう……」
「契約は、果たされねばならん。“水”は流れを忘れぬ。井戸は道だ。水神は、取り立てに来る」
その晩、誠は夢を見た。
井戸の中、青黒い水底に沈んでいく蒼太。
彼は笑っていた。
「ぼくが、“契り子”になるよ」
そう言って、深く深く、沈んでいった。
翌朝、蒼太の姿はなかった。
家中を探し回り、最終的に庭の井戸を覗いた。すると、水面に映ったのは、蒼太の顔だった。
そして、その傍に、白くて長い腕が伸びていた。
その手は、水面から蒼太をやさしく抱きしめていた。
井戸の蓋は、元に戻されていた。
それ以降、水たまりは現れなくなった。蒼太も戻ってこなかった。
だが、夜中の三時。廊下の奥に、時おり水音が響く。
ぽた……ぽた……と、時を刻むように。
水神は、次の“契り”を待っているのだ。