2
裂けそうなほど口角を吊り上げながら、男は笑った。その顔は喜色満面といったところだろうか、嬉しくてたまらないという感情が溢れ出していた。
「何を怯え、何を怖がっている一般人くん? 私は選択肢を出した、なら次は君が選び答える番だ」
急な展開すぎて、頭が追い付かない。この男はいったい何を言っているんだ? 突拍子がなさすぎてまるで理解できない。
今の僕の顔は、さながら鳩が豆鉄砲を食らったような顔なのだろう。
「あぁ、あぁぁぁ!!今日はなんと良い日なんだ、巫女やアース共に痛手を負わせてまだこんな楽しみまで!!!!」
唐突に叫びだす男、その姿はあまりにも常軌を逸していた。狂ったようにはしゃぎ喜ぶ様は、一見周りが見えてないように見える。
しかし、その鋭い視線は絶えずこちらを捉えて放さない。
視線が交わった。その瞬間、男が視界から消えた。
消えて、現れた。
目の前に。手を伸ばせば届くような、そんな距離まで一瞬で。
そして男は先程までのぎらつくような笑みを消し、無になった顔で囁いた。
「だから、あまり俺をイラつかせないでくれたまえよ一般人くん。あまり苛つくと答えを聞かずに殺してしまいそうだ」
あ、こいつさっきいた二人組の一人だ。
今、あいつの表情が消えてやっと分かった。あの鋭い目つきにナチュラルカラーのコート、どこからどう見てもあの男だ。
さっきまでの姿が、あまりにも最初の印象とかけ離れすぎていてぜんぜん気づけなかった。
だがこの男の正体に気づけたからといって、何が分かる? 何が出来る?
逃げるか? 戦うか? それとも対話を試みる?いや無理だろどれも。それにあんないきなり人のことを殺すとか言うやつに話し合いが通じる未来が見えない。
どうする、どうする。どうしたらいい?
こんな状況で、こんな有様で、この不審者にどう対応すればいい。
足元はおぼつかず、左腕は推定大けが、おまけに藤山さんは意識を失っている。
かなり絶望的だ、ほとんど選択肢が無いといっていい。
せめて藤山さんが起きてくれれば、二人で一緒に逃げれるのだが。
逃げきれるかはともかくとして。
少なくとも時間を稼げれば、それだけで助かる確率が上がる、
まずは藤山さんが起きるまで……。
「あの、すみません。もしかしてだけどひとち――――」
人違いでは、僕がそう言いかけたとき。
男は淡々と言い放った。
「十秒待ってやろう、だがそれが過ぎれば…………そうだな、後ろの女を殺す」
は?ナニイッテ
「完膚なきまでに、ぐやぐちゃに、めちゃくちゃに、この世に一片たりとも情報を残さず――――」
「我が牙と爪で、殺し尽くす」
「だから、速く答えろ。なぁ」
コイツは何を言っているんだ?なんで今会ったばかりの初対面の人に対してこんなことを言える?こんな、こんな。
悪ふざけじゃすまないぞ!! これは!!
絶対に訴えてやる、こいつ。こんなこと言って、僕らをびびらせやがって。
「十」
だいたい、なんなんだ今日は!! いきなり化け物は現れるわ、なんか爆発するし。
「九、八」
それで僕は洒落にならないくらいの怪我を負うし!!
「七、六、五」
藤山さんもあの爆発で気を失ってしまうし、怪我もしていた。
「四、三、二、一」
本当に最悪な日だ、人生最悪の日と言っても過言ではないぞ!!それに、それに、それに!!
「ぜぇ――――」
「すみません、本当にすみません。僕がなにかあなたの気に障ることをしてしまったのなら謝ります。本当にすみませんでした。だから、どうか無関係な彼女だけは見逃してあげてください」
分かっていた、この男がただの人間じゃないのかもしれないということぐらい。
あの巨人のように、人ならざる何かってことは薄々感じとっていた。だからこそ、それを信じたくなかった。
こんな不幸を、こいつの存在を。もし信じてしまったら、僕は認めなくてはいけない。
この化け物に「殺す」と言われている、この現状を。そんな絶望を、理不尽を、認めなくてはならない。
他でもない自分自身の考えで、僕がかなりの確率で殺されるであろうことを。
そんなの嫌だ、諦めたくない、まだ生きたい。
怖い、怖いよ。でも、無関係の藤山さんを巻き込むのは違うと思った。僕が殺されるのと彼女が殺されるのとでは訳が違う。
なにも僕が死にたいって思っているわけじゃない、そこは誤解しないでほしい。
ただ、どっちも殺される可能性があるなら片方は生きられるようにしたい。それだけだ、だから決して他意はない。
「………………」
「本当に勘弁してください、すみませんでした。そうだ! お金、お金はどうですか。もし、お金が欲しいなら僕が何とかして払います。今から肉体労働でもなんでもして稼ぎます。だからどうかそれで勘弁してください、このことは絶対にどこにも他言しません。ほんとです!! 本当に!! 言いません。だから、だから!! どうかこの場は僕たちを見過ごしてくれませんか」
僕は、額を地面に擦り付けるようにして謝った。視線の先にはあの男の靴があった。
言えるだけのことは言った。ほんとに言っただけだけれど、それでもいま僕が一番助かる可能性があることはやれた。
だからどうか、頼むよ。
僕の思い虚しく、その願いは果たされなかった。世界はそこまで僕に甘くは無かった。
「一つ、私を待たせた」
髪を掴まれ、殴り飛ばされた。
「二つ、自分の非を理解していない謝罪」
数メートル吹き飛ばされて蹲る僕の所へ、目にも留まらぬ速さで近づき腹を蹴り上げた。
「三つ、不愉快」
そうして倒れた僕の頭をグリグリと丹念に踏みつける。男は、僕を踏みつけながら抑揚の無い声で告げた。
「四、貴様らは最初からどちらも殺す、以上だ。まずは後ろの女から殺す」
頭蓋が軋むような痛みに叫びながら苦しむ僕をもう一度蹴り上げ、藤山さんの方へと歩き始めようとしている男。
瞼が震え、焦点がほぼ合ってない目で、なんとか見た。
あの男の顔を。
あ゛?
あいつは、あの男は、今から人を殺すというのに!!!! ひどくつまらなそうに、侮蔑したような顔でいやがる!!
ふざけている、僕らの命はあんな軽く扱われていいものじゃない。少なくともあんなふざけた奴に、あんな顔をされながら殺されていいような重さじゃない!!
あの男は人の命をなんだと思っている!!
命は、大事なものだ。簡単に踏みにじってはいけないものなんだ。
絶対に奪い取らせてなるものか。
「【爪】か【牙】……いや、面倒だ。【顎】でさっさと――」
あいつが何を言っているか、これっぽっちも理解できない。だが、それが良くないもので藤山さんに関わっていることくらい僕の足りない頭でも分かった。
なら行かなくちゃ、彼女のところへと。たとえ何も出来ぬ身だとしても。
行っても何も変えれないとしても。じゃないと、僕は死ぬとしても死にきれないと思う、ただそれだけ。それ以外に他意はない。
なのに、足が震えていて上手く立ち上がれない、顔や体の至る所から痛みが訴えてくる。
視界は殴られたせいなのか、よく見えない。恐らく内出血か何かで腫れているのだろう。
産まれたての小鹿のような足取りであの男と藤山さんのところまで進む。僕と藤山さんたちとの距離は数メートルしか離れてないない。
それなのに、今の僕には遥か遠くのように見えた。
そうしてる間にも、あちらでは事が進んでいる。あの男はもう、藤山さんの前に立っている。
後ろ姿で分かる、今のあいつは苛立っている。このままだとほんとに殺すのだろう、僕も藤山さんも。
男の周りで何かが渦巻く、どす黒いなにか。見ているだけで畏怖するような、そんな恐ろしものだった。
「閼?°縺呵??hよ貪ってしまえ【顎】」
走った、無我夢中で。
男の周りに渦巻いていた黒いなにかが一気に膨張した。それは大きくざわめくと藤山さんへと一直線に跳びかかった。
藤山さんに死を宣告する黒い凶器、それが彼女の柔肌を突き破る。その何かは勢いを落とさず後ろの壁を突き破り、民家さえも破壊した。
あとに残ったのは、大きく穴が開いた壁と半壊した民家、それに伴って発生した濃い砂埃のみ。
藤山未海は無残にも殺された。
「っふふ、やはりおもしろいな」
◇◇◇◇◆◆◆
そんな悲劇は起こらなかった。なぜなら彼女は生きている、今もなお僕の目の前で。
もちろんただ無事だったわけじゃない。怪我もした、その端麗な顔には傷こそないものの、度重なる不幸で滲むような嫌な汗が浮かんでいる。
だが、あの凄まじい程の破壊力を持った何か、それを喰らいそうになってこれ程の被害と思えば幸運といっても良いのではないだろうか。
本当にラッキーだったんだ。
あの男が放った破壊の塊のような黒い何か、あれは大きさこそ大きかったが、それに比べて速度はそこまで速くはなかった。
それこそ負傷した僕でも追いつけるくらいには遅かった、いっそわざとなのかと疑うほどに。
あの男が何かを発している時、僕はその後方から走り出していた。
そして黒い塊が膨張しきり、藤山さんへと飛び出そうとした瞬間、僕も目一杯に地を蹴り跳んだ。
それは賭けだった。ぼろぼろな僕が彼女を救うために、なけなしの生命を賭けた分の悪い賭け。
負ければ僕も彼女もあの黒い塊に呑み込まれて死ぬ。そう直感していた。
だが僕は、賭けに勝った。
あの黒い何かが、藤山さんに当たるまであと少しといった時、飛び出した僕の右手は届いた。まさに間一髪、あとほんの少しでも遅れていたら間に合わなかっただろう。
そうして藤山さんを突き飛ばした僕だったが、結局のところその黒い何かの攻撃を完全に避けきれた訳では無かった。
直撃こそ免れた僕たち、いや藤山さんだったが、その余波の衝撃波までは防ぎきれなかった。
僕たちはその余波に巻き込まれるような形で、またもや吹き飛ばされた。
そう、またもやだ。今日何度目か、もはや数えたくない程、僕は吹き飛ばされている。もちろん藤山さんもだ。
やはり今日は厄日、最悪な一日だ。いったいあと何回吹き飛ばされればいいんだ、そう思ってしまうぐらい今日は吹き飛ばされている。
「ははっ、なーんも分かんないや」
爆発により発生した濃い砂埃の中、僕は一人呟く。
それは弱音で、本音だった。
今日だけで目まぐるしく起きた事件の様々、それら一つ取っても情報量が多く、何も分からないままだ。
自分の身に降りかかる不幸について何も知らない、分からないのは怖い。
無知は恐怖なのだ。
そんな風に暗い考えに物耽っていたとき、僕の横でモゾモゾと、物音がした。