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脳内ハッキング

作者: 結城 刹那


 1


「ねえ、健人。私たち別れない?」


 目の前にいる彼女の言葉に、俺は頭の中が真っ白になった。

 彼女の長い髪も、光る紫の瞳も、漂う柑橘系の香りも、全ての情報がシャットダウンされ、真っ白で暗黒な世界へと拐われる。


「どう……して?」


 足の腿を強く引っ張り、刺激を与えることで自我を保つ。噛み締めた唇をゆっくり動かし静かな声で理由を聞いた。目尻に力が入り、今にも泣き出しそうになる。彼女は俺の様子に全く同情することなく、感情のこもらない表情を見せていた。


 一体俺が何をしたというんだろうか?


 目の前にいるカノジョ、飯塚いいづか 沙織さおりが変わってしまったのは一週間前のこと。今までは朗らかな様子で毎日楽しく話していた彼女が、まるで人格が変わってしまったかのように突然冷たくなった。


 決して俺たちの間に何かが起こったわけではない。

 沙織に対して悪口を言ったり、冷たく当たったりとかもない。他の女子と遊ぶことだってなかった。なのに沙織は何に対して、俺に怒り、冷たくなっているのか。


 皆目見当もつかない。


「理由ならたくさんあるわ。一緒に登下校したり、お昼食べたり、休みの日はどこかに出かけたりといつも付き纏われて気持ちが悪かったの。そのくせ、身体の関係は一切求めてこないのだから気味が悪い」


「いや、それは沙織が大切だから」


「そうやって『大切、大切』って言って、私を束縛してきて嫌気がさしたの。毎日会わなければならないなんてこれほど苦痛なものはないわ。まだまだ言いたいことはたくさんあるけど、言ったらキリがないからやめておくわ。あなたとは早く距離を取りたいの。じゃあ、さようなら」


 沙織は言うだけ言うと、一人でに歩き始める。俺は「待って」と彼女の腕を掴む。すると彼女は後ろを振り返り、俺の腹に正拳突きを食らわせた。


 お腹に大ダメージを食らった俺は沙織から手をはなし、両手でお腹を抱え、地面に倒れ込む。沙織は痛がる俺を無視して足早に距離をとっていった。


 俺は身体的にも精神的にもダメージを負い、倒れたまましばらく動くことができなかった。人生初めての『失恋』はとてつもないほど苦しいものだった。


 ****


「沙織っ〜〜」

「俺は恭司だ! やめろ! 男が抱きついてくるな!」

 

 沙織に別れを切り出されてから一週間が過ぎた。

 あれ以降、沙織とは一切会話をしていない。俺から話しかけても無視される一方だ。登校、教室、下校と何回か話をかけたが、どれも反応してくれなかった。


 クラスのみんなは恋仲に何かあったと気づき始め、俺を見ると励ましてくれる。特に目の前にいる桐島きりしま 恭司きょうじは沙織の代わりに一緒に飯を食べてくれるほど俺に優しくしてくれた。


「はー、俺の何がダメだったんだろう?」


 ため息をつきながら、弁当に入った唐揚げを一口食べる。別れてからの二、三日はろくに食事を取ることができなかったが、一週間経った今は無事に食べ物が喉を通るようになった。


 俺たち二人はテニスコートと運動場の間の階段で食事をとっていた。休み時間にテニスやサッカーをしている生徒はちらほら見えるが、階段で屯しているのは俺たちだけだ。だから心置きなく話すことができる。


「理由は聞いたんだろ? なんて言ってたんだっけ?」

「いつも付き纏ってくるのが鬱陶しい。それなのに身体の関係を持とうとしないのが気味悪いだって。俺が大切にしているからって言ったら、大切大切って言って束縛してくるのに嫌気がさしただってさ」

「話を聞く限り、お前に冷めてしまったみたいだな。なんかきっかけとかはあったりしたのか?」


「あれば、こんなにも悩んでいないよ。全く自覚がないから困っているんだ」

「これぽっちも心当たりはないのか?」

「これぽっちも心当たりない。沙織としては察して欲しいと思うんだけど、難易度が高すぎるよ」


「……なあ、健人。心当たりが全くないのに、急に態度がおかしくなったってかなり変だと思わないか?」

「そりゃ、そうだけど。日頃から我慢していて、爆発してしまったとかじゃないか?」

「そう取れなくもないけど、飯塚のやつそんなに我慢していたか?」

「……いや、意外といつも文句を言っていた。あれで我慢していたと言われれば、確かに怪しいところかも」


 沙織は学級委員を任されるほどのリーダー的存在だ。自分なりの正義と悪を持っており、物怖じせず、ダメなことはダメというタイプ。それもあって、日常生活の中で注意されることは多い。恋人だからか多少はおとなしめに注意してくれるが、それでもキッパリとものは言う。


 とてもじゃないが、我慢をしているとは到底思えない。


「だよな。なら、飯塚は誰かに乗っ取られてお前を嫌うように操作されていると考えてもおかしくないんじゃないか?」

「はあ……恭司、それは流石に幻想を抱きすぎじゃないか?」

「いや、そうとも限らないぜ。一応、根拠はあるんだ。まずはこれを見てくれ」


 恭司はそう言うと手のひらを空中にかざし、レイヤーを展開する。

 レイヤーは俺たちの脳内に埋め込まれた『ニューラルリンク』が視界に映る動作を察知し、起動するようになっている。


「昨日。休日で暇だったから都内をブラブラ歩いていたんだ。そしたらさ、偶然にも飯塚の姿を発見したんだ。あいつは相山と一緒に歩いていたんだ。これ」


 恭司はレイヤーを操作し、昨日の自分の視界情報記録を俺に見せる。視界情報記録とは、自分の視界情報をMP4形式にしたデータのことを言う。

 動画の時間軸にチェックされた項目があり、そこにカーソルを合わせると街の様子が写される。恭司の指差した方を見ると沙織の姿があった。彼女は男子の腕を両腕で抱きしめている。見るからにラブラブそうな様子だ。


「相山って、あのいつも一人でいる陰キャみたいなやつか」

 

 同じクラスの生徒だが、記憶としてはかなり朧げだ。彼の顔を見て名前を当てることはできるが、名前だけでは顔を思い出すことはできない。それくらい薄い印象の生徒だ。


「でも、何で相山と一緒にいるんだ。もしかして、沙織のやつ、相山に乗り移る気で俺を振ったのか! 全く、こいつのどこがいいんだ」 


 俺はレイヤーに映る相山を睨むように見る。オカッパ頭にメガネと、いかにも冴えない様子の彼。一体、沙織は彼のどこに惹かれたと言うんだ。


「まあ、落ち着け。ことはそんな生易しい話ではないんだ。これを見てくれ」


 次に恭司はとある記事を俺に見せてくれた。記事の内容は『脳内ハッキングで人を操る。社会問題へと発展する可能性も』と書かれている。


「これは?」

「一部の技術者の間で話題になっている記事だ。俺たちの脳に埋め込まれたニューラルリンクをハッキングして、身体的自由を奪うって言うとんでもねえ話だ」

「待てよ。沙織がこの脳内ハッキングの被害に遭ったって言うのか?」


「まだ可能性の段階だけどな。視覚情報記憶が気になったから、今日一日相山の様子を見守っていたんだ。お前が飯塚に怖じけずにアタックしている間もな。あいつお前が飯塚と話しているとき、不気味な笑みで笑っていたんだ。何か隠しているぜ、ありゃ」

「それが脳内ハッキングだって言うのか?」

「ああ。俺が相山のことを知っているのはあいつクラスでいつも成績トップなんだ。かなり頭のキレるやつなんだろうな。加えて、飯塚は突然お前に冷たい態度を取ったんだろ?」


「確かに、人格が変わったと思ったくらい急に態度は変わったな」

「だろ。なら、一度この線で調査してみるのはどうだ?」

「調査って?」


 俺の問いに恭司は笑みを溢す。明るい笑みというよりは、何かを企てているような不気味な笑みだ。きっと俺と沙織のやりとりを見て、相山もこのような感じで笑っていたのだろう。何だか薄気味悪い。


「ふっふーん」と鼻を鳴らした恭司は調査の詳細について俺に話してくれた。


 2


 休日、俺は恭二と待ち合わせをし、とある作戦を実行することとなった。

 することとなったのだが……


「ヨッス! 朝早くから悪いね」


 目の前に佇む陽気な少女に俺は生気を失ったように啞然とした。

 紺色のパーカーに、腿丈のミニパンツ。金髪ポニーテールにまん丸とした紺碧の瞳。

 パーカーから垣間見える胸部はほんの少し浮き出ているように思える。


「お前……本当に恭司か?」


 俺は恐る恐る目の前にいる彼に尋ねる。この場合、彼女と言ったほうがいいのだろうか。


「あ、まさか恭司と間違えられてる? 違うよ。私の名前はヘクト。本名じゃなくてコードネームね。本名は残念ながら秘密」


 彼女はウィンクをしながら人差し指を鼻先へと当てる。


「あー、恭司ではないのか……」


 思わず、息を吐く。友人の趣味が『女装』でなくて良かった。

 安堵するも、もう一つの疑問が生まれる。


「恭司は今日は?」

「来ないわよ。今日は私と辻くんで飯塚さんを尾行するの」


 そう。恭司からの提案は休日に沙織を尾行し、相山との関係を探るというものだった。

 ただ、何で言い出しっぺの恭司がボイコットしているんだ。


「ヘクトさんと恭司との関係は?」

「幼い頃からの友達よ。小学時代、ハーフで日本に馴染めなかった私に声をかけてくれて、そこから仲良くなったの」


 恭司のやつ、小さい頃からこんな美人な人と一緒にいたのか。そりゃ、クラスや同級生に興味を示さないはずだ。次に会ったときはとことんいじってやろう。


「そういうことで、飯塚さんの家まで案内してもらっていい?」


 時間は待ってはくれない。もし、この時間帯に沙織が家を出てしまったら、尾行作戦はあえなく失敗する。だからこそ、ヘクトさんは急かすように俺に言ったのだろう。

 俺とヘクトさんは沙織の家まで歩きながら会話をすることにした。


「恭司は何で来ないんですか?」

「彼は飯塚さんからの予定を聞いたがために動けなくなったそうよ。今週の休日、予定があるかどうか。なければ、勉強会に参加しないかって話をしたらしい。そしたら、今日と明日は用事があるって言ったそうよ」


 二週間後には期末テストが控えている。それを口実に沙織の予定を聞き出したようだ。恭司がヘクトさんを代理にしたのは、辻褄を合わせるためだろうか。


「それにしても、よく承諾しましたね。友達の友達の元恋仲の尾行なんかに」

「まあね。恭司とは長い付き合いだし、恩もたくさんあるから。それに脳内ハッキングの情報について得られるのだから私にとっては一石二鳥だと思ったの」

「ヘクトさんは何をされているんですか?」

「技術者よ。ハッカーとでも言っておこうかしら」


 なるほど。だから恭司はヘクトさんを代理で呼んだのか。

 一般人二人よりも専門家がいたほうが作戦はうまくいきそうだもんな。

 ヘクトさんと会話を交わしていると、程なくして沙織の家にたどり着いた。


 見つかると危険なため、角際で門戸が見える位置に移動する。沙織は出た後に駅に行くことを予想して、駅の方とは反対の方に居座り、待つこととした。


「沙織がいつ出るかは分かっているんですか?」

「いや、まったく。ここからは持久戦だよ。何だか刑事の張り込みみたいで面白いね」

「そう……ですね」


 何時間も待たされる可能性があるというのに、面倒くさい様子一つ見せず、朗らかな笑みを浮かべるヘクトさんを羨ましく思った。この人はどんな状況でも楽しめる人なんだろうな。


 待つこと数時間が過ぎ、お昼を回り始めたところで門戸から沙織が姿を表した。

 白のTシャツに黒のミニスカート。顔には少しお化粧をしている様が窺える。これからデートに行くような感じの服装だ。


「ようやくお出ましだね。可愛い子じゃん」

「……」


 ヘクトさんの言葉に反応できず、俺は沙織を凝視する。

 これから沙織が相山と会うのを目の当たりにするのか。果たして、俺は二人の仲の良い様子を黙って見ていられるだろうか。今、この時点でも沙織を引き止めたくて体がうずうずしている。


 黙って見ていると不意に目の前にビニールが出てくる。驚きで思わず声が出そうになるが、両手で覆い、何とか息を止める。落ち着いたところで見るとビニールはヘクトさんが差し出しており、彼女は俺をニヤニヤ見ていた。


「歯痒い気持ちはわかるけど、我慢してね。昼過ぎたし、腹ごしらえにどうぞ」


 ヘクトさんの視線に羞恥心が込み上げる。沙織への想いは表面的にも出てしまっていたようだ。恥ずかしさを隠しながら、ビニールを受け取り、中を見る。中には餡パンが入っていた。


 本当にこの人は、この状況を楽しんでいるのだな。

 形も刑事になりきっている彼女に微笑ましい気持ちになりながらも封を開け、パンを口にした。


 ****


 沙織は予定通り、駅の方まで歩いていった。

 電車に乗り、三駅ほど進んだところで降車。改札をくぐると誰かを見つけたのか大きく手を振った。彼女の先には見知った顔の人物がいる。彼の私服姿は初めて見た。青と黒のチェックにジーパンとはいかにも彼らしい服装だ。


「彼は誰?」

「相山です。恭司の言っていたことは当たっていたんだな」

「……なるほど。第一段階はクリアってことだね。お楽しみはここからか」

「俺にとっては、まったく楽しくないことですけどね」

「そうだったね。ごめん、ごめん。とにかく後をつけよう」


 ヘクトさんに同意して、俺たちは沙織と相山の尾行を続けた。

 二人はアミューズメントパークへと足を運んでいった。まずは、二人してボーリング、ビリヤード、そして、ゲームセンターの方へと足を運んでいく。


 ビリヤードの際、沙織に教えるフリをして彼女の身体に触れた時、俺の心は強く揺れた。これがこの先も続くのかと思うと虫唾が走る。今すぐにでも、相山の元へ行って一発殴ってやりたい気分だ。


「気持ちはわかるけど、もうちょっと我慢してね」


 拳を強く握っている俺を察したのか、手を握っていないもう片方の手にヘクトさんの手が触れる。冷たくも柔らかい肌感に思わず脱力した。それを見計らい、ヘクトさんは拳を解いたもう一方の手も繋いだ。


「これで飯塚さんとあいこだね。彼女の目を盗んで女の子と手を繋いじゃうなんて」


 ヘクトさんはいやらしい視線を俺に向ける。俺は羞恥のあまり思わず、彼女の手を振り払った。俺は相山への怒りも相まって、ヘクトさんを睨みつける。ヘクトさんは「やり過ぎたかな」というように両手をあげ、観念するような素振りを見せた。


「飯塚さんの家でも言ったけど、今日一日は我慢してね。お願い」


 あげた両手をくっつけ、あざとくお願いするヘクトさん。そんな彼女に対し、鬱憤を晴らすようにため息をつくと、小さく「わかりました」と返事をした。


 3


 西に沈む夕日が橙色に燃え上がる。夕日の光は空を侵食し、世界を赤色へと包み込む。しかし、空は広大であり、夕日から少し上を見上げれば、青色の世界が浮かび上がる。夕日が浸透した赤と空の青が混ざった境界線は綺麗な紫色に輝いていた。


 そんな幻想的な光景に俺は瞳を奪われた。あまり気にして見ることはなかったが、世界はこんなにも綺麗なんだな。


「おーい、何を現実逃避しているの」


 その声とともに俺の頬に激痛が走る。見るとヘクトさんがこちらに手をやり、頬を思いっきり引っ張っていた。


「ヒタヒです……」

「なら、ちゃんと見ていなさい。心苦しいのはわかるけど、調査は最後までしなくちゃね」


 心苦しすぎるんですよ。声には出さないものの、心の中で愚痴を言う。

 太陽が天辺にある頃から西へと移り変わるまで、俺は沙織と相山のラブラブの様子を見せつけられた。


 相山と腕組みをして、体をくっつける沙織。ゲームセンターで景品を取った時に喜びのあまり相山に抱きつく沙織。そして、公園のベンチで湖に映る夕日に想いを馳せ、何だか良い感じになっている相山と沙織。それら全てを目の当たりにして、心はすっかりズタボロ状態になっていた。


「ねえ、飯塚さんって、辻くんと付き合っていた時もあんなにスキンシップ激しかったの?」

「いえ、俺と付き合っていた時はスキンシップは手を繋いでいたくらいです。沙織はそう言うのあまり好きじゃなさそうだったので」


 俺たちは公園の木陰に隠れながらベンチに座る二人の様子を観察していた。二人は背を向けた状態のため話しているのか、黄昏ているのかすら分からない。今の沙織は一体どんな表情をしているのだろうか。


「なるほど。そうなると脳内ハッキングの可能性は高くなるわね。まあ、ただ単に辻くんの前だけではそんな風に振る舞っていただけかもしれないけれど」

「やめてくださいよ。そんなこと言うの」

「ごめんごめん。お、動きがあったみたいよ」


 ヘクトさんの声につられるまでもなく俺は二人が顔を向かい合わせる瞬間を見ていた。さっきまであんなに現実逃避するように逸らしていたのに、今は釘付けになったように視線が離れない。


 相山と沙織の二人ともおっとりとした表情を見せる。

 相山がゆっくりと沙織の肩へと手を伸ばす。沙織は特に嫌がる様子もなくただただ相山の目に自分の目を向けていた。


「いや、こんなの我慢できるわけないだろ!!」


 この後の予想が難なく脳裏によぎった俺は、いてもたってもいられず木陰から出ると二人のところまで歩いていった。幸い、ヘクトさんに止められることはなかった。


「おい、相山!!」


 大声で相山の名前を呼ぶ。こちらへと顔を向けたのは沙織や相山だけではない。俺の視界に映る人全員が俺を覗いていた。どうやら、ここにいる全員が、今この場所が修羅場と化したことを悟った様子だ。


「辻……なぜここに……」


 二人の座るベンチの横に立つと相山が俺を見る。きょどった様子の彼を睨みつけると俺は構うことなく、沙織の両腕を握りしめた。


「沙織っ! 何でこんなやつと……一体どうしちまったんだよ……」


 今にも泣き出しそうな声をあげながら俺は彼女の体を必死に揺らす。沙織は黙ったままで返事をしない。俯いた彼女はその表情を俺に見せない。

 目を覚ましてくれと勢いよく体を揺らす。


「帰ってきてくよ、戻ってきてくれよ」


 声にならない声をあげる。目から溢れた涙がベンチを濡らしていく。

 刹那、沙織が俺の手を握る。俺はハッと眉をあげる。すると、腹部に激痛が走った。

 見ると、沙織は前の如く俺の腹に正拳突きを食らわせていた。


「せっかく良いムードだったのに、よくも邪魔してくれたわね」


 そのセリフがさらに俺の心をも抉る。心身ともに大きな損傷を負った俺はその場に崩れ落ちた。


「行こっ、亮大くん」


 沙織は立ち上がると相山の手を持つ。つられるように相山も立ち上がった。


「残念だったな、辻。彼女は僕を選んだんだ。別れても追ってくるとは束縛が激しすぎるよ。嫌われたんだからさっさと失せな」


 そう言うと、二人して公園を後にした。

 俺は相山の罵声を聞いても反撃する気力がなかった。それだけ、沙織に言われた一言が俺の心に傷をつけたのだ。俺は彼女にとって、大層な邪魔者だったんだな。

 

「お疲れ、辻くん」


 少ししてヘクトさんがやってくる。俺は泣きながら彼女に乞うように視線をあげた。


「ヘクトさん、俺を消してください……」

「何でよ……飯塚さんと復縁できるチャンスが巡ってきたのに、どうしてそんなことを言うの?」

「はあ……さっきのあれ、見てましたか? どう考えても、終わりでしょ」

「そんなことはないさ。ミッション完了よ。辻くん」


 ヘクトさんは笑みを浮かべるとしゃがんで俺の額に人差し指をつけた。


「脳内ハッキングの処理はおそらく完了したわ。あとは時間の問題よ」


 俺は思わず、目を大きくした。

 今のどこに処理をした要素があったのだろうか。


 ****


 それから、数日の時が過ぎた。

 俺は緊張のためか扉の前で口に溜まった唾をごっくんと飲む。

 最後にあったのは正拳突きを喰らった時。あの時の彼女の敵意に満ちた表情は今でも悪夢として出てくるくらい俺にとっては恐怖だった。


「よしっ」


 ひとりでに気合を入れるように声をあげるとノックする。


「はい、どうぞ」


 部屋から声が響く。部屋の中の彼女もまた緊張しているのか声は震えていた。

 恐る恐る扉をあけ、中を覗く。部屋は最後に来た時と同じような雰囲気だった。

 ピンクを着飾った勉強机にぬいぐるみだらけのベッド。彼女はぬいぐるみに囲まれながら頭だけ布団から出して、こちらを見ていた。


 額に熱冷ましシートをつけ、頬は熱のためか、それとも照れているのか赤く染まっていた。瞳がキラキラしており、前に会った時の敵意を持った視線は完全に消え失せている。別れを告げたときの冷めた表情はすっかりとなくなっていた。


「健人……」


 仄かに呼ばれた俺の名前に心が揺れる。ベッドのそばまで寄ると脱力したように座り、彼女の顔を見た。


「ごめんね。すごく迷惑かけたと思う」


 第一声は謝罪だった。俺は首を横に振って、彼女の布団からはみ出した手を握った。

 恭司の言うとおり、沙織は脳内ハッキングを受けて相山を溺愛するようにプログラムされたようだった。


 なぜ、脳内ハッキングされたと分かったのか、それは彼女が発熱を起こし、『身体検査』を受けたからに他ならない。今の医療では、発熱の原因が『ニューラルリンクによる影響』か『人が本来持つ免疫による影響』かが分からない。


 そのため、発熱時には二つの観点から診断を行なっていく。

 沙織の発熱は『人が本来持つ免疫による影響』だった。しかし、診断を行なった際にニューラルリンクに異常が見られ、急遽別の診断を受けることとなった。


 その際に、最近流行している『脳内ハッキング』の被害に遭っていることが分かったのだ。沙織は無事に治療を受け、ハッキングを処置してもらうことができた。

 奇跡のように思われるかもしれないが、これは意図的に仕組まれたものだった。


 ヘクトさんと俺が調査をした際、彼女は俺の手を握りしめて、『人工蚊』を付着させた。それを持ったまま今度は俺が沙織の腕を握り、沙織の腕に付着。そして、ヘクトさんが『人工蚊』を操作し、針を注入。それによって発熱反応を起こし、検査を受けることになった。


 全てはヘクトさんが仕組んだことだったのだ。

 調査の後、種明かしをされ、一時期は疑ったものの、今の沙織からの謝罪によって本当であることが分かった。


「熱、すぐ治ると良いね」

「うん……ねえ、健人。熱が治ったらさ、またデートしよ」

「もちろん。あ、そういえば、沙織ってスキンシップとか好きだったの?」


 俺の質問に彼女は目を大きくする。相山と一緒にいた時のことが彼女の本来の気持ちなのか、それだけは聞いておきたかった。


「はあ……何でこんな時にそんなことを聞くのかな……」

「ごめんごめん。いや、本心はどうなのかちょっと気になって。別に言わなくても……」


 すると、沙織はふと起き上がり、俺の頬に向けて唇を当てた。突然の行動に思わず、時が止まる感覚に襲われた。触れた唇は離れると暖かい吐息を頬にかける。


「好きな人とだったら、好きかも」


 俺は思わずぽかんとした表情を見せる。沙織は「してやったり」というように憎たらしい表情を見せた。いつもなら腹を立てているところだが、あの件の後にそれを言われるとなると、何だかとても嬉しく感じてしまった。


 これで一件落着。その安堵もあってか、後日俺は発熱で寝込むこととなった。

 沙織からは再び謝罪のメッセージが飛んでくることとなった。

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