flag.1 幼馴染
私立恋ヶ丘学園の朝は早いーー。
始業前から運動部が活気良く汗を流し、まるで未だ眠気まなこの学校を起こしてやっているようでもある。
本日は快晴。
あたたかな朝日が校舎に差し込み、二度寝を目論む学校に追い討ちをかける。
さて、そんな眩い朝日を後光さながらに背に受け、人気の少ない廊下を一人歩く少女がいた。
彼女の名は長老院 撫子。
学園一の才女にして、美女にして、淑女にしてーーつまりところ学園中の憧れの的である。
そしてーー言うまでもなく、この物語の主人公だ。
そんな、学園の人気をほしいままにする彼女だが、しかし実のところ、交友関係はかなり狭くーーというか皆無に近い。
それというのも、あまりにも『高嶺の花』である彼女にフランクに話しかけられる者は、異性はおろか同性にもほとんどおらず、結果ーー彼女には、真に『友達』といえる間柄の人間が数えられるほどしかいないのである。
さて、ここで着目したいのは、
『ほとんどいない』
ことではなく、むしろ
『僅かだが確かにいる』
ということである。
誰もが近寄りがたい学園のマドンナーー長老院 撫子と、対等に触れ合える稀有な存在。何を隠そうその正体はというと……おや、噂をすればーー。
「あれ、撫子。なんでこんな朝早くにガッコいんの?」
気づけば、長老院 撫子の目の前には、健康的に身体を火照らせる快活な少年が、一人いた。
「撫子、確か部活には入ってなかったろ?」
と、ユニフォームの襟元で滴る汗を拭う彼は、矢継ぎ早に問いを投げかけた。
これに対し、長老院 撫子は、慈愛に満ちた笑みで応え、そして親しみと優しさを絶妙なバランスでブレンドしたーーそんな口調で答えた。
「知ってるでしょう?わたし、早起きと散歩が日課なのよ」
そして彼女は真っ白な歯を見せた。
大人びた彼女からは、およそ想像がつかないような無邪気な笑顔。これに虜になった男は数知れず。
一瞬、虚を突かれたように少年は言葉を失ったが、やがて彼もまた笑みを浮かべ、
「相変わらず、娯楽が高校生のそれじゃないよなあ」
と、苦笑した。
少年の名は、武田 大和。
そして、両者の間で交わされる流麗なやり取りから察せられるように、二人の間柄は、『幼馴染』である。
『幼馴染』という特権。
いかに相手があの長老院 撫子といえど、旧知の仲であれば、互いに気の置けない関係でいられるのも必定である。
つまり、長老院 撫子と対等に接することができる僅かばかりの人種ーーその一人こそが、この大和である。
そんな大和は、早朝からのバスケの自主練を終え、体育館から校舎に戻ってくるところであった。
……おや?
ここで、撫子の脳内に一つの疑問が浮かぶ。
「そういえば、大和。なんでユニフォームのまま、校舎に戻ってきたの?」
撫子の疑問ももっともである。
なぜ体育館備え付けの更衣室で着替えず、校舎内をうろうろしているのか。これでは、大和は制服の袖に腕を通す暇もなく、始業のチャイムが鳴ってしまうではないかーー。
単にうっかりしていただけなのかーーとも思ったが、
「っ……」
妙にたじろぐ大和の様子を見るに、そうではなさそうだ。
藪蛇を突いたかと刹那、不安に思った撫子であったが、すぐに好奇心が勝り、「どうしたの?何かあったの?」と顔を近づけ詰め寄った。
そのとき、撫子は自身があまりにも大胆な行動に出ていたことにようやく気がついた。
急接近する二人の顔と顔ーー距離と距離。
運動を終えたばかりの大和の息遣いには少し乱れが見え、上気する彼の顔を間近でまじまじと見ていると、なんだか撫子の方まで身体が熱くなるような感覚に襲われた。
こんなにも、
ずっと、
一緒に、
近くにいたのに。
こんなにも、
じっと、
二人きり、
近くでーー大和のことを見つめることなんて、果たしてあったかしら。
意識せずとも、意識せざるを得ないゼロ距離ーー撫子は次第に高鳴る胸を抑えられずにいた。
(あっ……これヤバいわ。この気持ちはマズイわよ撫子。なんだかいつもより大和のことが魅力的に見える。なんだか大和のことが、なんだか大和のことが……好きかもしれないーー!)
なんということはないーーただの会話がいつのまにか色恋沙汰に発展しかけている。
『死ぬほどチョロい』ということ。
そう、それこそが長老院 撫子の真骨頂である。
(『好きかもしれない』じゃない!!この気持ちは純然たる恋心!!好き!!好きよ大和!!ああ、あなたはなんて愛しいの!?)
完落ちの一歩手前である。
すでに大和を見つめる撫子の目には、ハートが浮かんでいる。
しかし、学園のマドンナであるという彼女の意地と矜持が、一握にも満たないほどのそんな自尊心がーーギリギリ彼女の暴走する恋心を踏みとどまらせた。
(いやいや……落ち着いて撫子。少し目と目が合ったくらいで、なんで好きになるのよ。これじゃあまるで、わたしがチョロい女みたいじゃないの。そんなのダメ!あってはならないことよ!)
自らのチョロさを頑として認めない撫子だが、実はこんなことは今までにも何度もあった。
何度も、何度も、何度も……何度も何度も何度も何度も何度も何度もーー数えきれないほど、長老院 撫子は、死ぬほど下らない理由で数多の男を好きになってきた。
24時間365日『好き』のダムが決壊している彼女が、しかし今の今まで誰一人とも関係を持たず、純潔を守り続けてきたのは、さすがは学園のマドンナーーといったところであろう。
それほどまでに、彼女にとって『チョロイン』という肩書きは許し難いものなのである。
さて、こうして数々の試練をなんとか乗り越えてきた長老院 撫子であるが、今日も『落ち』ることなく難を逃れることができるであろうか……。
(そ、そうよ……。幼馴染との恋愛だなんて、そんなありきたりでチープなシチュに誰が今更……)
自らの想いを一笑に付そうとしたそのとき、しかし彼女の脳内にフラッシュバックしたのは、日常の風景ーー、
ただ廊下を歩くだけで湧き上がる黄色い歓声、遠巻きから自分に向けられる畏敬の視線、声を震わせながらやっとの思いで話しかけてくるクラスメイトーーどれもこれもが、あまりにも非日常で、それゆえにいつだって、撫子の心が休まることはなかった。
それが、どうだーー。
気兼ねなく、気さくに話しかけてくる、気の置けない、唯一にして、絶対的な存在ーー。
そう!幼馴染!!
(超エモいんですけどーーっ!!)
長老院 撫子は、心の中で血反吐を撒き散らしながら、そう叫んだ。
事実上の敗北宣言である。
見ると、大和もこの異常な状況に混乱を隠しきれていない様子。
何かの拍子に口づけが交わされてしまいそうなほどの近距離で、二人の心拍数は最高潮に達した。
(やまと……しゅきーー)
そんな甘えた声が、長老院 撫子の口から、とうとう漏れ出そうになった。
そのときーー、
「ややっ!『ヤマトナデシコ』のお二方!今日も朝からお熱いですなあ〜っ!?」
品のないセリフを大声で吐き散らかしながら、二人のもとへ駆け寄ってくる男がもう一人。
「「そっ、そんなんじゃないっ!!」」
撫子と、大和の声が重なった。
咄嗟に離れる二人の距離。
二人の恋が実りそうになったその寸前、長老院 撫子の無敗伝説に、期せずして手を貸したこの下品な男の名は、吉良 吉春。
あだ名は『K・Y』
理由は言わずもがな。
彼もまた、撫子、大和の共通の幼馴染であった。
「KY……」
ボソッと、撫子がそう呟いた。
それは、独り言さながらの声量であったが、目ざとくーーもとい耳ざとく、K・Yはそれを拾い上げた。
「おやおや〜?俺に対して『空気が読めない』と、そう言ったのかにゃあ〜?するってぇと何か?今まさに、この場では、あんた方二人の間には、尋常ならざるそれ相応の『空気』ができあがってたってことかにゃあ〜!?」
ニヤニヤしながら、K・Yは捲し立てた。
「なっ……」と、赤面する撫子。
これには大和も耐えかねたのか、
「ばーか!ばーか!」と、小学生並みの捨て台詞をこぼしながら、その場を走り去った。耳を真っ赤にして。
慌てふためく二人に対して、
「ちぇ〜。なんでぇ、つまんねえの」と、K・Yは口を尖らせた。
勝手に横槍を入れてきた男に、なぜがっかりされねばならないのだ、と撫子は柄にもなくこの悪友に対し腹を立てたが、同時に胸を撫で下ろしてもいた。
(もしあのまま、K・Yが割って入ってきていなかったら……ムーディな雰囲気にノせられて、唇を奪われていたかもしれない。勢いに任せて身体を預けるだなんて、そんなの、この長老院 撫子に決してあってはならないことよ!)
依然として、自分のチョロさを認めたがらない撫子であったが、はたと不思議に思ったことがあった。
そういえば結局、大和はなぜユニフォーム姿でこんなところにいたのかしらーー?
そんなことを考えていると、いつのまにか廊下の果て、つまり玄関の辺りが生徒の声で賑わい始めていた。
あんなところを見られたのが、古くからの知り合いであるK・Yであったのが不幸中の幸いかーーと撫子は冷や汗を拭った。
あと少しでも遅ければ、続々と登校する学生たちに、撫子は致命的な弱点を晒すところであったのだ。
(わたくしはこの学園にいる間、何があっても『大和撫子』でい続けるのよ。隠し通してみせる……。『チョロイン』だなんて、誰にも絶対に言わせないんだから……!)
撫子は、決意新たに拳を固く握った。
この物語は、そんな長老院 撫子が、自らのチョロさを克服し、学園のマドンナとしてのプライドを守り抜く彼女の成長譚である!!
さてーー、
そんな気合十分の撫子に対して、K・Yは気だるそうに欠伸をこぼして、
「さあて、みんなも登校し出したことだし、俺も教室に戻るとするかね」と、何事もなかったかのように言ってのけた。
「呑気なヤツ」と、撫子は頬を膨らませた。撫子がこんなにも横柄な態度を取るのもまた、相手がK・Yだからこそであった。
そんな撫子の様子にはちっとも気づくことなく「じゃあな〜!」と、乱暴な挨拶だけを残して、K・Yはさっさとその場を去ってしまった。
「なによ。デリカシーのないヤツっ!」
ツンとする撫子。
(けれど、そういうぶっきらぼうなところ……しゅきーー)
デレる撫子。
彼女はもう……ダメかもしれないーー。




