プロローグ
私立恋ヶ丘高校ーー、
学生人気、世間の評判、進学率ーー様々な面において高い評価と結果を常に叩き出す。そんな嘘みたいな名門校に、彼女は在籍た。
長老院 撫子。
品行方正、容姿端麗、才色兼備、文武両道ーーおよそ人間を形容する四字熟語として『最上』とも言えるそのすべてを、しかし彼女は余すことなく兼ね備えていた。
勉学やスポーツなど、あまねく分野の第一線で活躍する恋ヶ丘学園の生徒たち。しかし、そんな群雄でさえ、学園内の廊下においては、彼女に道を譲るーー否、道を開ける。
さながら海を割ったモーセのように、長老院 撫子が歩く先では、自ずと人が避けーーもとい人の波が裂け、一筋の道が開けるのである。
ところが、道を譲る彼らのほとんどの目に映るのは、嫉妬や憎悪といった負の感情ではない。もちろん諦めにも似た劣等感などでもない。そこにあるのはただ、羨望や憧憬といったーー彼女に対する厚い信仰心である。
そんな眩いばかりの熱視線を、日々受けて生きる彼女の姿は、ますますの輝きを見せる一方であった。
さて、そんな完全無欠の長老院 撫子にも、付け入る隙ーーもとい『とある弱点』があった。
ややもすると、長所とも取れるような彼女のその『短所』の正体はというとーー、
「ーーあっ!」
そのとき、誰かが小さな悲鳴を上げた。
誰もが、ただ廊下を歩く長老院 撫子の姿にうっとりと見惚れていたために、異様なまでに静まり返っていたーーそんな校内には、まるで似つかわしくない小さな叫びが、しかしやけに大きく響き渡った。
見ると、長老院 撫子の前方から、向かってくる少年が一人いた。
いや、この場合『向かってくる』という表現は正しくないのかもしれない。
なぜなら、その少年は眼前の長老院 撫子には目もくれずーー具体的には手元の分厚い参考書に視線を落とし、ぶつぶつと独り言を唱えながら歩いているからである。
さて、そんな絶賛前方不注意中の彼と、長老院 撫子の間に起こる事故は、まったくと言っていいほど想像に難いものではなくーー、
「う、うわあ!でヤンス!」
衝突寸前の至近距離でようやく、視界の端に長老院 撫子の爪先を捉えたその少年は、珍妙な叫び声を上げながら、その場にすっ転んだ。
「いてて……でヤンス」
ひと目見ただけで、その度の強さを物語るーーそんな分厚いレンズの眼鏡のズレを手で戻しながら、彼は大衆の前で尻もちをついていた。
あわや学園のマドンナとの衝突事故を引き起こしそうになったその少年に対して、ある者は嫌悪感丸出しの視線を向け、またある者は、それを直接言葉にして彼にぶつけた。
周囲の人間が、そこまで露骨に攻撃的な態度を取った理由には、少年の見た目も少なからず起因しているらしかった。
マル眼鏡に出っ歯、さらには猫背でオーバーサイズの制服、そして極めつけは「ヤンス」という間抜けな口癖ーー少年のそんな『いかにも』な第一印象が。
そんなあからさまな悪意や敵意にさらされたマル眼鏡の少年は、ただその場で慌てふためくほかなく、そして、転倒の衝撃で手放し床に落としてしまった参考書に、力なく手を伸ばしたーー、
そのときであった。
二つの手と手が触れ合った。
二つの手と手が重なった。
マル眼鏡の少年のひ弱な手と、
長老院 撫子のすべてを包み込むような手がーー。
このとき奇しくも、両者の目的は一致していた。
落ちた参考書を拾い上げるという、たったそれだけの簡単な理由ーー。
地味で根暗な少年と、
学園中の憧れである美少女。
本来であれば、決して交わることのなかった二人の手と手が、今こうして重なり合った。
通常であれば、あまりにもありきたりなこのロマンティックな出来事は、一つの恋が始まるきっかけとなり、そして当然、この場において恋に落ちるのは少年の役割であり、恋に落とすのは少女の役目である。
……で、あるはずなのだが。
では、話を戻そう。
長老院 撫子には『とある弱点』がある。
その弱点の正体というのが、何を隠そうーー、
とくんーー。
(何この眼鏡クン、超カワイイんですけどーーっ!!)
死ぬほどチョロいーーということである。