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平穏なき家  作者: 四季
1/3

前編

「おいこら! どうなってんだ! 酒は揃えとけっていつも言ってんだろうが!」


 既に飲酒を始め赤い顔になっている男が、金の髪の女性に怒鳴る。そして、大声を浴びせるだけでは足らず、女性の顔面を殴った。後方に向かって転んだ女性は、頬に手を当て、狩られそうな小動物にも似た弱々しい顔つきをしている。


 窓の外はまだ明るい。

 閉められたカーテンの細い隙間からは、穏やかな光がこぼれてきていた。


「で、でも……あなた、言っていたじゃない……。酒は好きなのを、自分で買うからって……」


 女性は泣き出しそうな顔をしながら言葉を紡ぐ。

 が、懸命に絞り出した声も、すぐ怒声に掻き消されてしまう。


「テメェはどんだけ役立たずなんだよ!!」

「ごめん、なさい……。でも、わたしはただ、迷惑をかけないように……」

「酒ぐらいきっちり揃えろ! それが妻として当然のことだろ!」


 地面に倒れ込む女性の腕は震えていた。

 もっとも、震えの理由が恐怖か苛立ちかははっきりしないのだが。


「いいか? 次こんなことになってたら、本気で怒るぞ」

「……い、今も……本気じゃない……」

「あぁ!? 何だ? 文句あんのか!? あぁーん!?」

「ごっ……ごめんなさい……」

「よし。今日はこのくらいにしといてやる。俺は心が広いからな」


 怒鳴り散らして気が済んだのか、男は急に落ち着いたような顔になった。顔面は赤らんだままだが、怒りの情が湧き上がってくるのは止まった様子。


「おい! 愛しい息子!」

「呼んだー?」

「飲むぞ! 一緒にな!」

「おっす」


 男は繋がっている向こうの部屋でテレビを見ていた一人目の息子に声をかける。そこから流れるように、二人は酒を煽り始めた。テーブルにカップとビール瓶を置き話しつつ酒を口にする時、男はそれまでとは別人のようになっていた。よく笑い、よく喋り。直前まで女性を怒鳴り散らしていたのが、嘘みたいだ。


 その時もまだ、女性は床に座り込んでいた。

 彼女は、放心状態で動けなかった。



 ◆



「いいか? ちゃんと家の中にいろよ」

「は、はい」


 陽が沈みきった頃、男は酒飲み仲間でもある息子と共に家から出ていく。それは今日始まったことではない。もう数年、そんな日々が続いている。


「じゃ、俺は息子と二人で飲みに行ってくる!」

「あの……帰りは何時くらいに……?」

「あぁ!? うるせぇ! 黙って待ってろ! いいな、勝手なことするなよ」


 帰宅する予定時間を尋ねようとした女性だったが、脅すような言い方で返され畏縮する。


「……分かって、いるわ……もちろん。待っているわ」

「そうだ、それでいい。女は従順な方が良いからな。じゃあな」


 男が出ていき、扉が雑に閉まった瞬間、女性はその場にへたり込んだ。溜め息をつき、手のひらを額に当てる。そんな時だ、背後から一人の少年が現れたのは。


「また夜遊びとは、情けないね」


 少年の髪は女性の髪とよく似ていた。どこが似ているのかというと、色と繊細さである。そして、整った顔立ちもまた、彼が女性の血を引いているということが明らかにしていた。


「ビタリー。……また覗き見していたの?」


 女性はその頃になってようやく緊張から解き放たれたようだった。


「覗き見して、って。悪いことしてるみたいな言い方は止めてほしいな」

「そう。そうよね。ごめんなさい」

「今日また殴られてたけど。母さん、やっぱり、そろそろ誰かに話した方がいいよ。このままじゃいつかは……命が危ない」


 女性はお嬢様だった。世のことなど何も知らず、年頃になるまで狭い世界で暮らしてきた。ある時、そんな彼女の前に一人の男性が現れた。それが、今、彼女に暴力を奮っている男である。


 男も最初から暴力的だったわけではない。

 多少強引なところはあったが、強く優しく導いてくれるような人で、女性は彼のそんなところに惹かれた。


 男は皇帝の血を引くそう多くはない存在。直系ではないが、皇帝に近い人間だった。先代皇帝と妾の間にできた次男だったのだ。


 何も知らない無垢な娘は、男に惚れ込み、流れるように結婚。

 子もすぐにできた。


 すべてが上手く進んでいるかのように見えていた——皆の目には。


 けれども、結婚生活の開始から一年も経たぬうちに、二人の世界は歪なものへと変貌していく。その引き金となったのは、女性の不器用さだ。良家の出身ゆえ教養がないわけではないのだが、料理も掃除洗濯も上手くできなくて。小さなことの積み重ねが、夫となった男のストレスとなり、やがて二人の関係性は変化していく。


 第一子が生まれ、男のストレスはさらに増える。

 とにかく子どもがうるさい。そこから生まれた苛立ちが、最終的には女性へ向いた。


 その頃から、男はそれまで以上に酒を飲むようになる。飲酒によってストレスを消そうと考えたのだろう。だが、結局、酒は男の凶暴性を高めただけだった。


「分かってるわ、ビタリー。わたしだって、こんなことを続けたいわけじゃないの。でも、でもね? 今さら人には言えないわ、こんなこと」


 一人目の子がある程度手から離れた頃、二人目の子ができた。

 男の気まぐれから誕生した命だった。


「黙ってたら救いなんてないよ」

「いいの。ビタリー、貴方がいるもの」

「……意味が分からないんだけど」

「あの人とお兄ちゃんはあんな風になってしまったけれど、ビタリー、貴方は違う。貴方だけはわたしの味方をしてくれる。……いいの、それだけで」

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