第007話
冒険者ギルドに申請を終えた二人に手渡されたのは紹介状。それに首を傾げていると、聖職者の少女は進んで解説を始めた。
とある一つのジョブ以外はこの街、トゥーレにジョブマスターが存在し、新米冒険者はまず依頼を受けれるだけの知識と技能を教わるとの事。
つまり、
「っという訳で、ジョブクエストを始めよう」
という事だ。
世話になった聖職者と戦士に感謝の言葉と別れを告げて酒場を出た葵の第一声に乃愛は「ああ、うん。そうだなー」と何やら気のない返事をしている。
理由は当然、相性のいい狂戦士ではなく密偵を葵が選んでしまった事だ。
「どうしたの?」
そっぽを向いて返事をした乃愛が気にかかり、葵は彼女の顔を覗き込む。他人の気も知らないで、とはこの事だろう。
「……別に。狂戦士なら神官との相性もよかったのになって思っただけ」
「ああ、うん。それは思ったけどさ、狂戦士だとでっかい斧とか重たい武器持つ事になるんだよね」
言われて乃愛は巨大な斧を担いだ葵の姿を想像する。乃愛の狂戦士のイメージは上半身裸体の裸足。下半身を隠すだけのボロ布を纏う妄想上の葵に乃愛は首を横に振り、そのイメージを消した。
次に妄想したのは全身甲冑。狼のような冑に黒いマント。こちらは好みだったのだろうが、葵の顔が一切見えない事に乃愛は不満気な表情に変わった。
「で、そんな武器持ってたら咎崎を抱えて逃げる事出来ないし、いざって時に走れないからさ。いつでも動ける身軽な方が僕には合ってると思ったんだ」
その言葉に乃愛は妄想を加速させた。
逃げ惑う神官である自身の窮地に颯爽と現れ、抱き抱えると共に空に飛び上がる葵の姿。
「いいかもしれない」
「え? 何が?」
夢を見過ぎである。
「まあいいや。それに狂戦士だと神官の回復がなかったら死ぬだけだからね。甦生魔法や甦生アイテムの存在がわからない以上、そんな無責任な職なんて御免だよ」
「…………そうだな」
当たり前だがゲームではない。説明を受けた際、装備の支給が無駄にならない為の審査があると聖職者の少女は言っていた。支給された装備が無駄になる理由は二つ。
一つ目は冒険中に紛失や破損。しかしこれは向き不向きに関係なく起こり得る。であるならと、葵が考えた二つ目の理由は“向いてない職を選んだ冒険者が何の成果もなく死亡する”事。
この二つ目の理由なら合点がいく。向いてない職業故に死亡した例が多ければ、ギルドもそういう対策をするのが当然。そしてその対策が取られているのは死亡した冒険者の装備品が回収出来ないから。
つまり、街に戻って来ないからだ。
死んだら神殿や教会で復活出来る訳でもなく、そこらの魔獣の血肉となるか、植物の肥料になるか。あくまで異世界であってゲームの世界ではない。魔法はあってもその効果は慣れ親しんだゲーム程万能ではないのかもしれない。
「どう思う? 甦生魔法ってあるのって、聞いた方がいいと思う?」
なら聞けばよかった、と思えるがそういう訳にはいかない。葵が聖職者の少女にそれを聞かなかった理由は勿論ある。人間は生きている限り、平等に死は訪れる。もしこの異世界に甦生魔法があるのなら、老いて死んだ者や戦いで死んだ者を蘇らせる事が出来るとしたら、ここは死別のない世界となる。
異世界故に、元の世界の常識など通用しない。しかし聖職者は折れかけていた葵の骨を無償で治癒した。それはつまり葵を心配し、人間が持つ優しさによって行われた道徳的行為。
果たして死別のない世界で、死別のある世界以上の道徳が存在するだろうか?
元いた世界では傷を癒すのに時間を要する。病院の診察も手当も金銭を対価に支払う。しかし異世界では魔法を使うだけで傷は一瞬で回復する。治療に使う包帯も道具も必要としない、そんな便利な世界で生きた人間が傷を見た途端に血相を変えて治癒を施した。
ゲームでは戦闘を戦略性などの為に甦生魔法やアイテムなどが用意されている物はあるが、その甦生魔法や甦生アイテムがストーリーに関わって来るのは少ないだろう。つまり物語上はそれ等のアイテムは存在しないのだ。
死者を尊び、別れを惜しむ。だからこそ、生命を繋ごうと人間は抗い、必死になるのだ。死んでも蘇るのならば、そんな世界で生命は大切だなどと語る者は異端であり、必死になるのは徒労でしかない。
「誰も死なないなら悲しい事もないだろうし、悪い世界ではないのかもしれないけどね。けど、僕は死ぬ事を軽んじたくはないし、命を価値がないなんて思いたくない」
価値のない物に人は振り向かない。
故に葵は聞けなかった。聖職者の優しさに触れたからこそ、生命を慈しむ心を目の当たりにしたからこそ、甦生魔法の有無を問う事は出来なかったのだ。
「…………いや、よしておこう」
乃愛は俯いて葵から視線を背け、考えるような仕草の後に首を横に振る。失う事の悲しさを知るからこそ、そんな馬鹿げた問いをする気にはなれなかった。
「じゃあジョブクエが終わったら酒場の中で落ち合おう。時間がかかるようなら、手短なクエストでも受けて宿代を稼いでおくから、出来るだけ回復魔法を使えるようにして来てくれるかい?」
「わかった。絶対に無茶な依頼は──」
「はいはい、じゃあ後でね」
言って、背中を向けた葵は乃愛を見ずに手を振りながら歩き出す。異世界生活を始める為の第一歩。無職から冒険者となる為の道を進む葵の背中を見守っていた乃愛は、しばらくしてから葵とは正反対の方向へと歩き出した。
「……ここ、だよね」
地図を見てからもう一度目の前の建物を見る。
石造りの屋敷。街外れにあるその場所は人通りも少なく、所々亀裂の走ったその建物は、どう見ても取り壊し予定が決まっていそうな古い建物。
「まあ、ありがちといえばありがちか」
密偵の職業は遊撃。気配を消し、敵を奇襲する職業。そういう職業の師をやっている者が古ぼけた建物を根城にしているのは御約束と言えば御約束だ。
扉の前で仁王立ちを続けても何も始まらないし、一先ず入ろう。どうせこの後の展開も御約束なんだろうし。
そう思ってドアノブを掴んだ瞬間、予想外の事が起きた。
「……壊れた」
思わず口にしたけど、どれだけボロいのこの建物。てっきり開けた瞬間ならず者が飛び掛かって来ると思ってたのに……。
仕方がないので蹴破る事にした。
容易く砕け散った扉の向こうは真っ暗で、いかにもという雰囲気だった。
御決まりのイベントを用心しながら中に入り、真っ暗闇をただ進む。外観的にあまり広いとは思えなかったけど、それにしても狭過ぎる。真昼間から一転しての真っ暗闇と無音。いや、寧ろ静か過ぎて耳鳴りがうるさい。
「ねえ、誰か──」
突如、閉鎖的な感覚がなくなった。きっと通路から部屋に入ったのだろうと思い、口を開いた所で背筋が冷えたように感じる。
「なッ!?」
反射的に身を屈めた僕の頭上を通り過ぎる華奢なシルエット。
そう、これが御決まりのイベント。忍者や密偵、ボロ屋敷真っ暗闇の場所での御約束だ。
「凄いね、気付かなかったよ」
記憶を失って一ヶ月。こうして後ろから襲われる事も何度かあった。けどその全部が奇襲になっていなかった。足音や吐息、視線を受ける感覚。どれもこれも、今から襲いますと言っている奴等ばかりだったからだ。
けど、今のは違う。
御約束で御決まりのイベントと思っていなかったら間違いなく当たっていた。それだけ段違いに速かった。シルエットの彼女が飛び掛かる選択をしていなかったら、その踏み足の僅かな気配を感じる事が出来なかったら、今頃僕の意識はないだろう。
「ちッ!」
だけど減点だ。こういう場合に取るべき行動は驚く事じゃない。躱される事を想定しての立ち回りだ。避けられて驚いて、着地と同時に舌打ちなんて居場所を教えているようなもの。
「これが試験なら、甘く見過ぎだよ」
言って着地した女の傍に踏み込み、どこを掴んだかわからないけど着ている服を引っ張って蹴り飛ばした。
「が……ッ」
軽かった。
蹴った感触とシルエットから想像するに鍛えられた身体のイメージはない。という事は、新入りの歓迎に入門したばかりの初心者を宛がったという所だろうか。
「ねえ、まだ続けるの? あんまり無意味に人を殴りたくないんだけど」
つまり、この暗闇の中で僕を見ている仕掛け人がいる。当然そんな事をするのはジョブマスターだろう。それに聞こえるように少し大きめに言うと、頭上より手を叩く音が聞こえて来る。
なるほど、高みの見物か。これも御約束のシチュエーションだ。
「悪かったね、もう下がっていいよ」
燃え上がる松明。四つの炎が部屋を照らし、視界が開く。頭上にいた女が僕の正面に舞い降り、蹴り飛ばしたローブの女に声をかけた。
──また女か。
そう思いながら視線を周りに向けると、一つずつ松明を持つ他の奴等も女だった。ローブを着ていて身体のラインは見えないけど、全員美人の部類だろう。
ただ一人、目の前に降り立った軽装の女以外は。
「アンタ、中々やるじゃないか。今の蹴りも奇襲に怯まない度胸も、密偵向きって訳じゃなさそうだけど」
葉巻を咥えてマッチを使って火を着ける。その指も顔面も包帯。辛うじて残っているのは碧い右眼とその周囲。包帯で隠した胴体と、動き易そうなホットパンツ。肩に羽織る外套は短く、その手足の包帯も隠す気はないようだ。
美人ではない。美人だった、というべきだろう。
「何だい、私の身体が気になるのかい? ……冗談でも抱きたくないだろうね、悪かったよ」
──これが、ジョブマスター?
確かジョブマスターは全員が聖戦級の冒険者のハズだ。けど、目の前にいる彼女はどう見ても強そうなイメージはない。確かに歴戦の密偵の風格はある。ジョブマスターと言われればそう見えなくはないが、どちらかと言えば落ち武者。敗走兵と言うべきか、包帯の隙間から僅かに焼け爛れた皮膚が見える。
「そんな顔をすんなっての。アンタの想像通り私は敗残兵。つって、まあ負けた訳じゃないか。私がいる事に気付かなかった騎士団の連中が村ごと魔族を焼き払った時にこうなったんだよ。今となっちゃ数分しか満足に動けないから、こうしてジョブマスターなんてやってるだけ」
腕を組み、葉巻を歯で噛みながら犬歯を剥き出しに愉快そうに笑う。何だそれは? 魔族にやられた訳じゃなくて味方にやられたのか。
「気付かなかった?」
「食い付くなよ。わざわざ騎士の方々を持ち上げてやってんのにさ。……魔族ってのはそれだけ脅威なんだよ。味方の命くらい捨ててでも食い止めたいくらいにはさ」
負けた訳じゃない戦いで村を焼き払ったのなら、それは作戦だと思った。何の躊躇いもなくおどけた口振りだったけど、少し顔を曇らせた所を見ると、恐らく自分を犠牲にした作戦に納得している訳でもないのだろう。
「……何だいその顔は。私の態度が気に入らないのかい?」
「そうじゃない。騎士の名誉や誇りがどうとかを言うつもりはないけど、随分格好が悪いと思っただけだよ」
この世界の騎士は、という言葉は伏せた。
「格好悪い? へえ……」
騎士といえば騎士道。それに準じるような話をいくつか読んで来たけど、どうやらこの世界ではそうじゃないようだ。
「何が?」
だというのに、目の前の女は残った右眼を大きく開いて僕の顔を下から覗き込んで来た。その気迫に圧され、僕の足が一歩後退する。
何だ、今の速さ。五歩以上先にいたのに、傍に来るまで全く見えなかった。
「アンタもしかして、生命は尊いだの何だの言うクチか? んな訳ないだろうが、くたばっちまえば魔獣の餌にしかならん。腐っちまえば魔獣も食わねえ。そもそも生命って何だ? 身体のどの部分だよ。尊いって価値を説いてる教会の連中だって、気前のいい戯言抜かして金も出さねえ。ああ、エロ親父共は金で女を買ってたっけな」
唾を吐き捨ててから、包帯女の口は止まらない。捲し立てるように言い聞かせて来る。けど、感情的になってる割りには怒ってるようには見えなかった。
「よく覚えときなよ、坊や。密偵になるなら罠も裏切りも捕まる事も、当然死ぬ事も覚悟しな。最前線で戦う前の下調べに行かされる事だって勿論ある。心を無にしてなきゃ足が震えて、隠れ潜む事だって出来やしない。見つかれば囮か捕縛か死か。頼れるのは自分だけ。味方が助けてくれるだなんて思うんじゃないよ。アンタの隣には誰もいないんだ」
人差し指が額を射抜いて来る。吐き捨てるようだったけど、まるで母親に言い聞かされたかのような、そんな気分になる。何だか懐かしくなった。覚えていない僕の母親は厳しい人だったのかもしれない。
「よく言うよ。密偵なのに村に残って魔族の足止めでもしてたんじゃない? 聖戦級の密偵が、騎士団の作戦に気付かないとは思えないし」
「…………賢い子はあまり教え子にしたくないねえ」
どうやら当たっているらしい。
「けど、まあ合格だね。私を前にしてハッキリ意見するなんていい度胸、大した坊やだ。密偵の技、アンタに叩き込んでやろう。何ならここで可愛がってやろうか? 私もそろそろ後継ぎが必要だしね」
「そんな歳でもなさそうだけどね。まあ、悪いけど遠慮するよ。僕にはやらなくちゃいけない事があるし」
「へえ、女かい? ここの女は私を除いて美女揃いだと思うけど。相当の美人さん連れてんだねえ」
そう言いながら、包帯女は指を鳴らす。すると先程蹴り飛ばしたであろうローブの女が現れ、手にしていた何かの革のような物を広げる。
そこには何種類もの短剣が並んでいた。徐に突き出して来たそれを見て、どういう意図なのか包帯女に視線を移すと顎で指示して来る。たぶん、選べって事だろう。
「まあ、美人なのは認めるよ。ちょっと子供っぽい気がしないでもないけどね。見た目がどうって話じゃないんだけどさ」
「あ? 女なんて見た目だろうが。変わった事を言う坊やだね」
「確かに、僕も好きだし美人に越した事はないと思う。たぶん、誰だってそうだろう。けど、そうじゃないんだ。僕が言いたい事はそうじゃない」
泣いている咎崎を見た。
泣かせたのは僕と、かつての自分自身。許せないと思ったんだ。彼女を置いて行ったかつての僕も、当然酷い事を言った僕自身も。
これは間違った形をしている。
そう思った。僕は彼女を泣かせていい者じゃない。僕は彼女を置いて行っていい者じゃない。
間違っているのならば、正さねばならない。
そう思っていたんだ、ずっと。それは彼女に対してだけ思っていた事じゃない。何も言えない弱者に強者は何もかもを強制する。あの時の恐喝していた奴等もそうだ。見るからに自分より弱い者を集団でなんて、何て格好の悪い間違いだろう。
視界に入れるだけで吐き気がするんだ。だから正すしかない。誰だってそうだ、たぶんそれなりの共感は得られるだろう。髪型が乱れてたら気になるし、身体に泥がついたら拭う。これはただそれだけの話なんだ。
だけど残念な事に、僕はかつての僕じゃない。だから彼女は、咎崎乃愛はけして僕に振り向かない。だから、えっと、何だろう。何が言いたいんだろう僕は。
僕は咎崎の事を思い出したいのか?
僕は自分を思い出したいのか?
……いや、たぶん違う。きっとそうじゃない。
「あんまり話が得意な方じゃないからさ、上手く言えないんだけど」
綺麗だと思った。
端的に、陳腐で何の捻りもない感想。咎崎がとても綺麗だと思った。美人がいいっていうのはきっと誰でも共感出来るんだろうけど、そういう意味じゃない。
記憶を失った僕をずっと見守ってくれていた。忘れられている事を知っていて、声をかければいいのにそれも出来なくて、忘れている僕に怒る事もせず、謝罪の言葉も聞こうとしない。かと思えば久し振りに話す事が出来てはしゃいでいる。
「端的に気になるのさ。異世界の事もそうだけど、それよりもその子の事が」
「は? 異世界……何だって?」
まるでガラス細工のような女だと思った。
気味の悪いストーカーだと思えば実は可愛くて、強気な口調のくせに繊細で。泣いている顔も笑ってる顔も、嬉しそうな顔も残念そうな顔も、落ち込んでる顔も怒ってる顔も見た。どれも別人のように思えた。
……全部、綺麗だった。見る角度を変えれば写っている景色を変えるガラス細工のように。
きっと乱暴に扱えば壊れてしまう。
きっと手放せば砕けてしまう。
だから大事にしたいって、そう思った。間違っている関係を正したい。きっと話を持ち出せば関係は戻る。だけど、咎崎が好きだった僕はそんな事を言わないだろう。
……たぶんきっと咎崎も僕も似た者同士で、ただ不器用なだけなんだろうなと思うけど。やっぱり意地を張るだろう、僕は男だし。
「だから一緒に旅をしたい。ここで暮らすのも魅力的な御誘いだとは思うんだけどね」
選んだナイフを拾い上げ、頭上に放り投げてから逆手に掴み取る。
要するに何が言いたいかって言うと、咎崎に僕を見て欲しい。
かつての僕として間違った形を戻したい訳じゃなく、今の僕が咎崎を守り、新しい世界で新しい関係に辿り着きたい。当然、僕の中じゃ主人公は僕だ。なら、ヒロインくらいは守れるようにならなくちゃいけない。
ああ、何だっけ。そう、確か咎崎は物語を見せろと言ってたっけ。だから、見せてあげよう。残された記憶に咎崎はいなかったけど、もう二度と置き去りになんてしない。失った記憶も関係も戻らなくていい。
ただ正しく、新たな物語を二人で始めたいんだ。