第003話
「さようなら、葵」
静寂の中、今煙となって消えた炎のように儚く声は響く。その後に舞い上がった風音に、少年──夜坂葵は重い瞼を開いた。
まず目にしたのは青い空と白い雲。眩しい陽射しが葵の顔を照らしたが、目の前に広がる光景に目を奪われた彼がそれを意に介する事はなかった。
否、出来なかったのだ。
彼の視界、空を舞う純白の羽根。風に揺れるその羽根と同じように靡くのは彼のよく知っている銀色の髪。
咎崎乃愛。
その羽根の色と彼女の髪の色が似ていて、そして羽根の舞う視界の中央に彼女が立っている事から、
「天使……?」
ボンヤリと頭を過ぎった言葉を葵は口にした。
空を見上げていた乃愛はそれを耳にしたのか、彼が目を覚ました事に気付いて視線を落とした。
紅い瞳。
それは少し驚いているかのようだった。何に驚いているかはわからないが、乃愛は彼から逃げるように一歩後退した。
が、握り締めた片手を胸元に持って来ては踏み止まり、決心したように倒れ込む葵の傍に両膝を着いた。
「大丈夫か?」
何度目かになる乃愛の声に葵は耳を傾けた。
その口調は堂々としたものだが、腫れ物に触るような表情やそっと肩に手を回そうとする彼女の態度には不釣り合いにも思える。
そもそも抵抗があるのなら倒れている彼を起き上がらせようとしなければいいのだ。
そういう意図があったのか、葵は手で乃愛を制止させてから自力で上半身を起こした。
「咎崎……その、僕は君に謝りたくて──」
葵は彼女を探していた。
それは記憶を失った自分が、少なくとも近しい存在であったハズの乃愛に対して言うべきではない事を口にしたからだ。
「そんな事より周りを見ろ」
しかし謝罪の言葉を乃愛は制止する。
瞼を閉じ、僅かに呆れてるような残念そうに哀しんでるような、ため息交じりに告げた乃愛の言葉に葵は首を傾げると同時に視線を泳がせた。
土。
まず目に写ったのはそれだった。
そこから僅かに視線を上に。すると今、自分達がクレーターのように陥没した場所にいる事がわかった。
「は?」
更にその盛り上がった大地の先は見渡す限り木で囲まれていて、意識が途切れる前にいた風景とは異なり過ぎている事に気付く。
そもそも、昼夜が入れ替わっている。それ程長い間意識を失ったような感覚を葵は感じなかった。
──……どういう事だ?
と葵が疑問に感じた時、背後で物音がする。
「何だ?」
葵は素早く起き上がって振り返り、陥没した場所から這い上がろうと盛り上がった大地に手を伸ばす。
「待て待て」
「え?何で?」
後ろから肩を掴まれた葵は振り返る。
周りを見ろと言ったのはそっちだろうと思いつつ振り返った葵は、乃愛が彼の行こうとしていた先を指差していたのでその後を追うように見上げた。
そこにいたのは木の棒を片手に持った半裸の子供。いや、違う。子供どころか人間にしては頭身がおかしい。
葵の膝元くらいの身の丈で二頭身半の“それ”を、彼は何と呼称するのかを知っている。
「ゴブリン?」
「みたいだな」
ボソッと呟いた葵の言葉に乃愛は頷く。
ゲームやアニメ、他のメディアにもよく出る生物だ。しかしそれは空想上の生物であり、実在しない事を葵は知っている。
家に置いてあったゲームや小説で暇を潰していた甲斐があったが、予習しててよかったというような感慨は湧かなかった。
──……んな馬鹿な。
目を擦ってもう一度見上げる。
何してんだ、と言いたげにゴブリンがジッと葵を見つめている。
「逃げるぞ夜坂──」
と、乃愛が立ち去る為に真逆へ振り向こうとした時、
「ギシャーーーー!」
咆哮と共にゴブリンが葵へと飛び掛かった。
「な……ッ!?」
それに気付いて声を上げた乃愛が彼を庇うように一歩前に出ようとして、それを葵が左手で押し退ける。
倒れ込む乃愛。すぐさま視線を彼へと戻すが、
「ごめんね」
その視線は葵の躊躇ない蹴りによって吹き飛ばされていくゴブリンに流れた。
弧を描いて遠く彼方へ飛んでいくそれはまるでサッカーボールのようだった。
「……たくましいな」
「いや、これでも結構焦ったよ」
ゴブリンを蹴った足を手で払い、逆の手を乃愛に差し出す葵。
恐る恐る乃愛はその手を取り、起き上がってからスカートについた土を払う。
「ありがとう」
「ん? うん、とりあえずここから離れようか。何が何だかわからないけど、ここにいてさっきみたいなのにまた襲われるのも嫌だし」
律儀に礼を言う乃愛を見ず、周囲を確認する葵。
とはいえ何が何だかわからない状況で動くのは遭難する可能性がある。
ふと葵はスマートフォンを取り出そうとして制服の上着の胸ポケットに手を刺し込む。
──……あれ、プリクラ帳がない。
スマートフォンと同じポケットに入れていたハズなのに、と思いながら取り出したスマートフォンを見て葵は動きを止めた。
圏外。当然GPSも使えない。
しかし彼が目を丸くしたのはそこではない。
──……二十三時?
それは待ち受け画面にあった現在時刻。
警察に連行され、乃愛を探した。
連行されたのが放課後に喧嘩をした後で、交番にはそんな長い時間いた覚えはない。そして、乃愛を探していた時間は定かではないが、そういう時間の経過の話ではない。
真昼間。
澄み切った青空がある今この時間が二十三時である訳がないのだ。
「咎崎、ちょっとスマホ貸して」
「…………嫌だ」
「いいから貸して」
葵の勢いに乃愛はため息を吐いてから渋々スマートフォンを渡す。
同じ機種の色違いなスマートフォンを受け取った葵はそんな事を気にする事もなく待ち受け画面を、
「やっぱり駄目」
開く間もなく乃愛の手に掠め取られる。
「……時間見たいだけなんだけど」
「それならそう言えばいいだろ」
呟く乃愛。
何やら怒っているようだったので葵はそれ以上何も言わず、スマホを覗き込む乃愛の回答を待った。
「二十三時だな」
壊れている訳ではなかった。
何食わぬ顔で言った乃愛に若干思う所があったが、ここを離れるのが先決だと先程自分で言ったばかりだ。葵は一先ずその疑問を先延ばしにする。
とはいえGPSが使えない以上、進路は勘だけを頼りにするしかないのだが。
「こっちだ。行こう」
葵が決めあぐねていると、その正面を横切るように乃愛が歩き出す。
「おい待──」
「あまりジッとしてても始まらないだろ」
一理ある。
それにここは先程妙な生き物に襲われた場所。襲われたい訳ではないし、立っているよりは歩いた方がマシというもの。
葵はそう気持ちを切り替えて乃愛について行く。
乃愛が盛り上がった大地に手をかけてよじ登り始め、葵もそれに続く。
が、彼の鼻先に何かが掠める。
「……ッ!?」
それがスカートの裾であると気付き、葵は心臓の鼓動を跳ね上がらせて後退り、その足を踏み外して尻餅をついた。
──……気まずくなる所だった。
ボンヤリと考えたのはそんな事。
記憶を失い、先天性の無痛症という事を除けば彼も普通の男子高校生だ。そういう物に興味がない訳ではないが、今現在二人っきりの状況で“それ”を目の当たりにしてしまっては今後に支障が出かねない。
「どうした? 手、貸そうか?」
登り切ってから振り返り、スカートの裾を押さえながらしゃがんだ乃愛が首を傾げながら彼にそう問い掛ける。
人の気も知らず、と葵は右手で後頭部を掻きながら起き上がり、差し伸べられた手を素直に掴む。
とはいえ体重をかけては真っ逆さまに引き摺り落としてしまうのが関の山。葵はその手に手を添えるだけで、意を決して飛び上がっては足と逆の手だけで登り切る。
「ありがとう。……で、こっち?」
「ん? ああ、そっちに行こう」
手を貸したのに、その手に一切の負荷を感じなかった乃愛が呆れるように笑みを零し、葵は彼女に何も言わせない為に登り切ってからすぐさま問いかけながら歩き出す。
きっと彼女も思った事だろう。男の子だな、と。
頷いてから、先を歩く葵の下へ駆け寄った乃愛だったが、彼の横を通り過ぎた辺りで失速し、前を歩く。
「僕が前に──」
「大丈夫さ。前なら見えるし、あお……夜坂は後ろに注意してて」
男としてこういう時は前を歩くべきだと考えていたが、乃愛の笑顔に気圧された葵は「まあいいか」と呟いて、周囲を見渡しながら歩く。
静かと言えば静かな時間が過ぎていく。
聞こえるのは二人分の足音と、風音と動物か何かの声。
こうしていると普段と変わりはないが、周囲の地形、生えている草や花に覚えがない。
そして何より違うのが、いつもと立ち位置が違う事だ。
前を乃愛が。その後ろを葵が歩く。
記憶がある一ヶ月の間、体験した事は一度もない。にも関わらず、それを葵はどこか懐かしく感じていた。
習慣は抜けない。記憶を失くす前も彼女に気圧され、彼女の後をついて回っていたのだろうと彼はその光景を思い浮かべながら乃愛の背中に視線を移した。
「ねえ。やっぱり僕が前を歩くよ」
葵がそう言い出したのは、乃愛が前に立って歩き出してから三十分程が経過した時だった。
特にスキップをしている訳ではないが、軽やかに山道を下る乃愛は振り返る事なく一度首を傾げた。
「んー? どうしてー?」
散歩に夢中。話半分と言うように周囲の景色を眺めながら乃愛は答える。
葵はその様子を眺めながら考え事をするように、いや言うべきか言わないべきか迷うように空を見上げた。
「背中、破けてる」
が、最早言い出した事だったと意を決してそう告げる。
彼女の背中、肩が露出している制服は元々そういうデザインであるが、肩甲骨の辺りに左右同じ大きさの穴が開いていた。
言われた瞬間乃愛は「あ」と呟いて足を止める。
──……ん? 気付いてたのかな?
乃愛のその妙な反応が少し気がかりになったが、顔を少し赤らめた乃愛がチラチラと葵を見ているせいで葵の頭から考えが霧散する。
しばらく立ち尽くす二人。
覚悟はしていたが気まずいな、と葵は別の方へ向けていた視線を乃愛に戻す。
彼女は恥ずかしそうに背中に視線を向けようとしながら後ろに手を回しているが、着たままでそれは無理がある。
どうやら怒ってはいなさそうだな、と葵はホッと息を吐く。
こういう場合、よく女性は「見た?」などと言って理不尽に責めて来る事が多いからだ。
記憶喪失な彼がそう思ったのは、部屋にあった小説などでそういう場面があったからだ。
実際はそうでないのかもしれないが、葵は乃愛と小説や漫画、ゲームのキャラクター以外で女という存在を知らない故に、少し偏った不安をしていたようだ。
未だに背中を見ようとする不器用な彼女に葵は少し笑いそうになるが、それを堪えて着ていたブレザーを脱いで乃愛の肩に羽織らせる。
「……あり、がとう」
「ちょっと汚れてるけど、まあ我慢してね」
そう言いながら葵は彼女の頭の上へと手を伸ばそうとして、止める。これも身体が記憶している事なのだろう。
しかしそれはかつての自分達が彼氏彼女であったのならいざ知らず、少なくとも今の葵と乃愛はそういう関係ではない。
あくまでクラスメイト。隣の席であるだけ。
例え過去に親密な関係を築いていたのだとしても、彼は彼女をストーカーだと言って泣かせたばかりだ。
よくわからない状況に遭遇してあやふやになっていたその事を葵は思い出す。
「あのさ、咎崎。僕は君に──」
再度、彼は謝罪を試みる。
でなければ自分は彼女と一緒に行動する資格はないと感じたから。
葵は彼女の目を見る。
だが乃愛は彼から目を背けた。
それが意味するのは拒絶か、それとも別の何かか。
何にせよ、記憶を失った葵では乃愛の行動が意味する物を見抜く事など出来はしない。
「……見ろ、夜坂。街が見える」
乃愛の唇が紡ぐ言葉に葵は謝罪を諦めて彼女の視線を追う。
森の中、生い茂る草木の僅かな隙間からそれは見る事が出来た。
「行こう、夜坂」
乃愛の手が葵の手を掴む。
先程背けられた紅い瞳は彼を見上げ、その唇は柔らかな笑みを形作っていた。
「あ、ああうん。行こうか」
乃愛に手を引かれ、葵は駆け出す。
下山を終えて茂みから抜けた先に広がる辺り一面の花畑。
二人は青空の下に広がる幻想的な花畑を走る。
彼の手を放した乃愛がクルリと回り、楽しそうな笑顔を浮かべて彼を見つめる。
「前向いて走りなよ」
「大丈夫。私はドジっ子な属性は持ってないから」
葵の言葉に乃愛はそう答え、しかし身体の向きは前に戻す。
──……女の子って、わからないな。
思春期の男は誰だってそう思う。
泣いていたと思えば普通に接し、次の瞬間には怒ったり笑ったり。
初めに見たのは泣いた顔。
次に見たのは、必死に彼へと駆けていた慌てた顔。
スマートフォンを掠め取る怒った顔。
花畑に咲く笑顔。
どれもこれも今日が初めて見た咎崎乃愛。
自然と見入ってしまうのは男の性で、葵もまた彼女に微笑みかける。
そうして駆け続け、二人は街に辿り着く。
──……もしかして、とは思ってたんだ。
昼夜の逆転と、名前を知る未知の生物との邂逅。
そして大通りを行き交う人々の風貌はどう考えても現代の日本では考える事の出来ない物だった。
全身甲冑の者もいれば、旅人のようなボロボロの外套を纏う者。
露出の多い衣装で歩く女性もいれば、見るからに魔法使いですと言わんばかりの紅い宝玉が填められた杖を持つ、黒い三角帽子の少女までいる。
石造りの道や建造物。大通りに並ぶ出店の数々。
これが意味する架空の物語を、そういうジャンルを葵はよく知っている。
これも予習の賜物だが、当然実際に自分の身に起きたなどと決めつけるのは些か早計で、そして何より頭が悪い。
そんな突飛な発想をする程葵は楽観的で夢見がちな高校生ではなかった。
だが、現実は彼程に現実的ではなかったようだ。
「異世界転移ってジャンルらしいな」
ポカンと口を開けて街の入り口に立っている葵の横で、咎崎乃愛は何食わぬ顔で振り返るとそう呟いた。
順応性が些か高過ぎるが、葵はその事にツッコミを入れる余裕がない。
乃愛は周囲を見渡してから何やら思い付いたように手を叩いた後、頭を抱えている葵の正面に回り込み、手の平を差し出しては悪戯っぽく微笑みかけた。
「冒険者、ようこそ異世界へ。夜坂葵、君が描く君の物語を私に見せてくれ」
一日目はここまでです。4話は明日更新致します