第002話
あからさまにガラが悪そうな男達は四人。
大通りの隅っこを通っていた僕のすぐ隣の路地裏で、一人の男子学生を恐喝していた。
「ああん?」
「そうそれ。そういうのだよ。凄み方もヤンキー漫画に出て来そうだよね」
胸元まで入り込んで下から覗き込んでくる男にそう言って、視界に飛び込むように振り上げられた拳を首を傾げて避ける。
「ッ、てめ──」
「先に手を出したのはそっちだからね」
振り上げられて伸び切った右手の手首を掴み、伸び切った肘に目掛けて僕は右腕の肘を薙ぎ払った。
加減したつもりだったけど、今朝の事でイラついていて肘を撃ち込んだ相手の腕から変な音が聞こえた。
「っがぁあああああああああああッ!?」
逆に曲がった右腕を押さえながら男が倒れ込んで邪魔だったから、丁度いい高さになったその頭を蹴り飛ばして僕は前に足を運んだ。
「お前、相当喧嘩慣れしてんな」
「まあ、そんな覚えはないけど。放してあげたら、可哀想じゃん?」
真っ赤な坊主頭の男が前に出る。こういう言い方も古臭いけど、たぶん連中の頭なんだろう。
肩幅は広いし、太い手足。それが全部筋肉なのは見ればわかるくらいには威圧感があった。
喧嘩慣れしてるって? 知らないよ、記憶ないし。この一ヶ月でこういう事が何度もあったのは事実だけど。
どうにもトラブルに愛されてる体質みたいだ。……ああ、今回は僕が吹っ掛けたんだっけ。
「俺達とこいつはダチなんだよ。それともお前もオトモダチに──」
「いや、なりたくないよ」
「……はぁ、空気読めないガキだな」
「それは認めるけど、お互い様だよ。真っ赤な坊主頭って流行ってると思ってるの?」
瞬間、彼の拳が僕の視界を揺らした。
「おーおー、まだ立ってられるのか。おいガキ、今なら見逃してやってもいいぞ。年長者に生意気言ってすいませんでしたって頭下げたらな」
視界がまだ歪んでる。その視界の中で男達が笑ってるのが見えた。元々整った顔立ちとして認識はしていなかったけど、それはとても醜くて吐き気がする程に、
「おいガキ何とか言え──」
気持ちが悪い形相をしていた。ので、その三人の内一人の顔面を蹴り潰した。
「へげッ、俺何も言ってねぇ……」
笑ってはいたと思うんだけど、何も言ってないと言い残して男は倒れた。
あとは二人。真っ赤な坊主頭とその影に隠れる男。
「よくもやりやがったなッ!」
「はいはいテンプレ」
真っ赤な坊主頭の拳が全く同じ角度、同じ場所に叩き込まれる。おかげで視界はまたグラついたけど、予めちゃんと見ていたので坊主頭の腹に蹴りを突き入れた。
「ぐ……ッ、何つー馬鹿力──」
こういうのを何て言ったっけ。オーバーリアクション? 芸人にでもなりたいのか、坊主頭が両腕で腹を抱えて腰を曲げていた。
まるで蹴って下さいと頭を垂れているように見えたので、最初の男と同様にその顔面を蹴り飛ばした。
「てめ、何で平気なんだよ」
「悪いけど、漫才に付き合う気はないんだ」
仰向けになった男の顔面を思いっきり踏み込む。けど男がすぐさま首を傾げて避けたので逆の足で先程蹴り飛ばした腹を踏み抜いた。
「がッ、てめ──」
一回。
二回。
「や、やめ──」
腕を割り込ませて来たけどその上から三回目。
四回。
五回。
六回。
七回。
八回。
十に行く前に、後ろから物音がしたので振り返り、視界に飛び込んで来た金属バットを左腕で受け止める。
変な音がした。けどそんなのは気にならない。この身体に“痛みは通用しない”から。
受け止めてからそのまま左腕を伸ばして先程坊主頭の後ろに隠れていたその男の胸倉を掴み上げる。
「て、てめえ人間か?」
「逆に、君達が人間なの?」
「何の話だよ!?」
「……わかんないならいいよ」
人間って何だよと、そんな哲学の話は面倒この上ない。そもそも僕より頭の悪そうな連中と議論した所で時間の無駄だ。この状況も面倒だし、そろそろ終わりにすべきだと舌打ちをする。
片手で持ち上げていた男の身体を坊主頭の上に叩き付け、二人纏めて止めを刺そうと前に一歩踏み込んだ所で、
「待ちなさい」
後ろから腕を掴まれた。
「警察だ」
と、そんなこんなでパトカーに乗せられた。誰かが通報したんだろう。男子生徒が恐喝されている時は見て見ぬフリをしていたのに。
一応、助けたつもりなんだけど。不公平に思えて腑に落ちない。
とはいえ止めてくれて助かった。そろそろ疲れてきてたし、座り慣れたその心地に身を任せて少し眠る事にしよう。
「……で、君は何度ここに来れば気が済むのかね」
「はあ、どうもすいません」
それから数分後。当然大した時間は眠れず交番に連行され、小一時間程同じ事を何度も繰り返し言われ続けた。
人を助ける事は構わんが、君はいつもやり過ぎだと。
被害届もないし、目撃者が多かったり、被害者の証言があるから説教だけで留めているが云々繰り返し。
交番で厳つい男に囲まれて、こうして丼を奢られる事はこの一ヶ月何度もあった。
警察の話ではもっと昔から僕はこうだそうで、人間記憶がなくなってもそう簡単に本質は変わらないんだなと、説教を聞き流しながらまたそんな事を考えていた。
“夜坂葵は他人の痛みがわからない”
先天性無痛症。
早い話が生まれつき痛みというものを感じない身体だ。噂の通りというより、僕は自身の痛みがそもそもわからない。
金属バットで殴られた腕も必ず病院に行って診て貰うようにと、事情を知っている警察官に言われた。
よく小説にも漫画にも出て来る病気だが、いい事ではない。折れてる事も気付かずに放置もあっただろうし、最近になって苦笑いしたのは殴り過ぎて指が動かなくなった事があった。
幸い折れていなかったが、一週間程がんじがらめに固定された。たぶん医者も僕をよく知っているのだろう。
ネットで見ればいかに危ない病気なのかがわかるのだが、幸い僕は命の危機には至らず今日まで生き延びた。
……だから、咎崎に叩かれて“生まれて初めて物理的な痛み”を知る事が出来たあれが、いったい何だったのだか不思議に思う。
「とりあえず、恒例の持ち物検査だ。もう暗くなっちまったし、さっさと鞄の中身をブチ撒けてとっとと帰れ」
「口が悪いんですけど……」
呆れた警察官に苦笑いしながら言葉の通り鞄の中身を机にブチ撒けた。
「あ」
「あん、プリクラ帳? お前がそんな物持ってるとはな」
笑いながら筆箱の中身を確認したり懐かしみながら教科書をめくる警察官。
そういえば見るのを忘れていたと手帳を手に取り、僕も暇潰しに中を見る事にした。
「……え?」
「どうかしたか?」
「いや、別に……」
「あー、流石に青春真っ盛りのプリクラなんざ見たくねえから、他の物も異常はねえし帰っていいぞ」
言って、警察官の男が席を立って奥に引っ込んでいく。僕はただ座ったまま、総てのページに目を通していく。
そこには、
「咎崎……?」
と僕が二人並んで写っているプリクラが一ページにつき各一枚ずつ貼られていた。
プリクラの貼られていない余剰部分にはまるで日記のようにビッシリと、僕の字とは思えない綺麗さでその日の出来事や行った場所などが記されていた。
「まるで……」
僕の表情は相変わらずだが、笑ってる顔も稀にある。対照的に、あの俯いた少女の笑顔がずっと続いていた。
気付いた時には、僕はブチ撒けた中身の回収もせず、鞄も持たず、ただそのプリクラ手帳だけを握り締めて走り出していた。
最初は家。
いない。
次は公園。
いない。
一緒に行ったと書いてあった隣町の映画館。
いない。
どこにも、どこにも咎崎はいなかった。
「僕達は……付き合ってたのか?」
僕は痛みを感じない。
けど、咎崎は違う。
ずっと耐えていた?
記憶をなくした僕が、咎崎を知らない僕を見ながら、咎崎の知らない僕を見ながら彼女はずっと泣いていたのか?
今朝の咎崎の表情が脳裏に浮かぶ。
腫れていた目尻。自分に気付かない、自分を思い出さない僕を見て、彼女はどういう気持ちだったんだ。
“夜坂葵は他人の痛みがわからない”
僕は理解していた。
理解していたつもりでいた。
けど、そんな事はなかった。僕は知らなかった。咎崎の泣いていた理由も、泣いた理由も、どういう想いで僕を叩いたのかも、何も知らなかった。
あの時僕の流した涙は、あれは……僕の涙ではなかった。
あの時の僕の胸に走った痛みも、僕の物ではなかった。
習慣は抜けない。
彼女の泣いている姿を見て、僕の身体が記憶している事を成しただけ。
「くそ、どこにいるんだよ」
周囲を見渡し、真っ暗になった視界の中で彼女を探す。
建設中の高層ビル。地図がそこにあったので見てみれば、そこは僕の住んでいる街の隅っこのようだった。
無我夢中で走ったとはいえ、何でこんな所に来てるんだ。早く戻ろう。
そう思って、歩き出そうとして膝をついた。足が限界に来ているらしい。痛みを感じない事のデメリットはこういう時だ。自分の身体の異常に気付きにくい。
無痛症とはいえ本来なら疲労は感じるハズだが……。
「少し、休むか」
そのままの体勢で、荒い息を落ち着かせる。
自然と周囲を見回す視線。勿論見つからない。
いるハズがないのだ。僕が今日、泣かせてしまったから。追い払っておいて、こうやって探し回るなんて、まったく滑稽だ。
身勝手で、噂通りの最低な男だ。
ずっと、間違っているのは世界だと、周囲の人間だと思っていた。けど実際は違う。
間違っているのは僕だった。
理解しているつもりでいた。
他人の痛みがわかるつもりでいた。
それら総てが、自分の驕り。
馬鹿で身の程知らずで、この世界に適応出来ないでいた、愚かしい自分の驕り。
『間違っているのはみんなでも世界でもなくて、きっと僕なんだ』
どうやら、僕は昔の自分にようやく追いついたようだ。
聞き覚えのあるフレーズ。僕がずっと口にしていたらしい言葉の続きは……何だったか。
浮かび上がりそうだった続く言葉は、突如鳴り響いた轟音に掻き消された。
空を見上げる。突風に煽られた建設中のビル。その上層の鉄骨がズレ始めている。
あ、これは駄目なヤツだ。
そう思って動こうとしたが、やっぱり足は動かない。手抜き工事め。やっぱり間違ってるのは僕じゃなくて世間様なんじゃないかと考え直したくなる。
「葵ッ!」
聞こえた声に振り返ると同時に視界に飛び込んで来る咎崎の姿と、再び上空より響く轟音。
その上空で風を切る音。
僕に駆け寄って来る咎崎の足音。
いくつかの音が響く中で僕の耳は、目の前で駆け寄って来てくれる彼女の足音しか聞こえなくなっていた。
その姿が、夢にも似た病院の廊下を駆ける彼女と重なった。あれは交通事故に遭った僕を心配して駆け付けてくれたのかと、今更ながら理解した。
だがもう遅い。
君を泣かせたのは僕だ。
君を苦しませたのは僕だ。
君を殺すのも、どうやら僕らしい。
間違っているのは僕でいい。だから世界よ、せめて彼女だけは助けてくれ。
必死に死にに来ている彼女を、愚かな僕の代わりに救って欲しい。
「それなら僕は、僕に似合うような“間違った世界”に生きたかった」
呟いたのか、脳裏を過ったのか。
咎崎に抱き締められた僕はふとそんな言葉を思い浮かべた。
ただ茫然と夜空を見上げ、その視界の先から襲い来る鉄骨に僕の命は奪われるのだろう。
元々身体が限界だ。死ぬ寸前の走馬燈が浮かび上がるような量の記憶なんか持ち合わせてもいない。
意識は絶望によって暗闇に引きずり込まれていく。
終わる。
僕も、咎崎も。
そう思って閉じかけた瞼の先、僕が最後に見たのは夜空に広がる白く大きな翼だった。