第037話
「久し振りに聞く名前ですねぇ」
キュクロは機嫌がよかった。少し前まで上機嫌どころか同胞達の馬鹿さ加減に呆れ果てていたのだが、リオンの質問に答えれば殺さないという発言から気分が高揚している。もっともそれが“人間の分際でいい度胸だ”という気持ちの表れであるのは言うまでもないが。
だが、それもまた状況が変わった。後で殺すつもりでいた対象から、聞き流す訳にはいかない名前を聞いたからだ。こうなってはいい加減な言葉の応酬でやり過ごす訳にはいかず、後に殺すつもりでいた相手との向き合い方も変えねばならない。
「それをどこで?」
「今質問しているのは私だ。他と違って頭がよさそうだと思いましたが、どうやら期待外れだったようですね」
魔王を前にして物怖じしないリオンの態度と物言いにキュクロは一つしかない瞼の上にある眉間に皺を寄せる。それはわずかな時間であり、前髪に隠れていた事からリオンには見えなかった事だろう。そう安堵し、危なかったと心の中で呟いたキュクロは取り繕うように髪を掻き上げた。
「おやおや、これは失礼を。会話というのを久しくしていなかったのでね。……ですが、この私以上にルシフェリア・ニーベルングについて語れる者もそういませんよ」
言いつつ腕を組み、指の間から零れて垂れた前髪に息を吹き掛ける。自己陶酔しきっているその仕草が鼻につき、もう斬ってしまおうかと考えた。が、リオンはキュクロの自信満々な態度が気になった。
「ニブルヘイムという、ここからは随分と離れた地。基本的には一種族だけで国という不可侵の領土を持つ魔族にとって例外中の例外。多くの種族がヴァンパイア族を中心に集い共存していた大国に、王女として生まれたのがルシフェリア・ニーベルングというヴァンパイアです」
思い出すように呟くキュクロは足下に纏めて置いてある薪の一つを拾い上げ、真上に軽く放り投げては一回転させてを何度も繰り返しつつ別の手で頬杖をついた。
「大国とはいえ大厄災を受けた後だったが為に、ルシフェリア・ニーベルングが見たニブルヘイムはかつての栄華の絞りカスみたいなものですがね」
「大厄災とは何ですか?」
問われたキュクロは弄んでいた薪を炎の中に放り投げるとその一つ目をリオンに向ける。
「邪竜ニーズヘッグによって世界樹は傾き、討伐に向かった魔族も数え切れない程死にました。竜とはいえ魔獣。それ故に簡単に片がつくと思われていましたが、最後に討伐に向かったニブルヘイム軍もただ一人を残して全滅。そのただ一人というのが、貴方の纏う鎧の持ち主。そういえばそれ以降ですね、彼がニーズヘッグ・ニーベルングと名を改めたのは」
殺した竜の名を継ぐヴァンパイアの王。魔王が自ら出陣する程の事案だったのだから、ニブルヘイムの領土に多大な被害が出た後であり、そして事態が事態故に多くの兵が出陣に加わったに違いない。
絞りカスという表現が正しいものとするなら、その被害もその出陣に加わり死した兵の数も国の過半数を占めていたのだろう。
「その後ルシフェリア・ニーベルングは生まれましたが、彼女が十歳になるかならないかの頃、天使族の総攻撃がニブルヘイムを襲いました。理由を私は知りませんが、それによりニーズヘッグは死亡。若くしてルシフェリアは王を名乗り、ほぼ壊滅状態にあったニブルヘイムの復興を目指しました。私も微力ながら支援しようとしていた矢先、魔族領域全土にある情報が流れたのです」
それ程疲弊した国を支えるには、彼女はあまりに幼過ぎた。
「それが七年前、聖杯争奪戦が起こる引き金となった。ルシフェリア・ニーベルングという聖杯を求め、過去にない程の戦火が魔族領域に広がったのです」
両手を広げ、その口元を緩ませて、まるで夢見る少年のように眼を輝かせて、キュクロは愛する妻の名を呼ぶようにその名前を口にする。
「聖杯とは何ですか? お前達はあの女をどうしようと思っている?」
「聖杯とは栄光の証。ルシフェリアは我等魔族にとって一族繁栄の鍵となる者なのですよ。彼女の産み落とす第一子に継承される“不死の王”は魔族の至宝ででしてねぇ」
キュクロの言葉にリオンは思い出した。いや、むしろ殺しても死なない事が気になっていたからこそリオンは王命に背いてでもここに来たのだ。
『咎埼を返せ』
獣のような男。ルシフェリア・ニーベルングを担いでいた自分を対象として、身を焦がす程の怒りを露わにしていた人間──夜坂葵。
「“不死の王”は殺しても死なない。殺す方法は……?」
「察しの通り、子を授からせる事です」
キュクロの言葉を聞き、かつて戦った夜坂葵の怒りの正体が何であるのかをリオンはここで理解した。あの魔王が何故人類領域に身を潜めているのかも。
要するにルシフェリア・ニーベルングという存在は杯なのだ。代々継承される力という酒を注がれた杯へ、総ての魔族が我が子に与える為に群がる仕組み。ほぼ壊滅状態になった国の王がそれではそういう図式が成り立っても不思議ではない。
そして好意寄せる女を道具として扱うその図式をあの夜坂葵は嫌悪し、あれ程の怒りを以ってルシフェリアを守っていたのだとリオンにはわかった。
だが法則がある。“不死の王”という力は性質上継承した者は必ず魔王となる。魔王の絶対条件である法則もまた魔王の第一子である事だからだ。違うのは引き継ぎであるか否か。
つまり“不死の王”を持つルシフェリアは魔王なのだから、切り札である法則が牽制となって他の魔王が“不死の王”を狙うなど容易く出来るものではないハズなのだ。
「……そう、本来ならば得体の知れない法則を恐れて誰も奪おうなど思わないですし、極少数の奪おうと思った者を迎え撃って蹴散らすだけの魔力を彼女は有している。彼女の父であるニーズヘッグが所持していた“魔剣グラム”も“不死の王”と並ぶ魔族の至宝と呼ぶべき剣。それを彼女が隠し持っていると噂されていますし、早々攻め込めるものではありませんでした」
法則に加えて魔剣の存在。そんなものは聞いた事がなかったが、不死の力と並ぶ魔族の宝と呼ぶ程の物なのだから、強力無比な兵器か何かなのだろう。
であれば尚更ニブルヘイムは安泰のハズなのだが。
「そこで、広まったのが“対象一人に対し心臓を共有し、対象者を魔王が死なない限り死なない存在にする”という戦闘向きではない彼女の法則の情報。となれば、どうなるかなど明白でしょう」
その法則を聞いて脳裏に過ぎるのはやはり葵の存在だった。傷つき、もはや立てる状態にないにも拘らず、自分に立ち向かって来た人間の姿を思い浮かべる。
そう、奴は人知を超えた法則という力によって死なない身体を手にしていた。故にあれ程の傷を負って尚戦えたのだ。もっとも、死なないからといって心が折れない訳ではないが。
──……アレは生来の怪物だ。となれば無鉄砲に強者に挑み、そして死んだ。つまり……。
傷ついた葵に駆け寄り、抱き締め、流していた涙。そんな法則がもし自分にも使えていたとするなら“どのように使うかなど決まっている”からと、リオンはかつての自分の体験を元に葵がその法則の対象に選ばれたのだと想定する。
「人間に害するつもりはない、か」
キュクロに聞こえぬ声で呟くリオン。それは乃愛の言葉であり、リオンがあの時信じなかった言葉だ。だが害するどころか一度限りの法則を人間の為に使用したとなれば、もはやその言葉を信じる以外に道はない。
「故に聖杯争奪戦は行われた。歴代最強の魔力を有していても所詮は子供。魔力が尽きるまで消耗させてしまえば敵ではないと、そう思った大半の魔族が一気にニブルヘイムを攻め落としました。あれ程激しくあれ程短い戦争も過去なかった事で──」
「もういい。聞きたい事は聞けました」
昔を思い出し笑って語っているキュクロへ背中を向け、もはやここに用はないと言うようにリオンは馬に跨った。
「おや、御望みはルシフェリア・ニーベルングの総てでは?」
「私が知りたかったのは奴がどんな存在かという事です。弱点や種族ではなく、有害か無害かという点のみ」
そう言って馬を歩かせる為に手綱を軽く引くリオンだったが、立ち上がったキュクロは飛び上がると華麗に宙返りしてリオンの跨る黒馬の行く手を阻む。
「貴方が私にもう用はないと言うのであれば、次は私の質問に答えて頂きましょうか」
前髪を払い上げつつ発言するキュクロであったが、黒馬はそのまま歩き続けキュクロの横を通り過ぎようとしていた。分け目のない前髪の隙間からそれを目にし、暗闇の中でキュクロの腕が黒馬の首に伸びる。
下等な獣が、生命体として上位に存在する魔族の、それもその一つの種族の頂点に君臨する魔王を無視しようなどあまりに愚かなのだ。故にこれは必然。自ら火中に飛び込む愚者がその身を焦がす業火を以って如何に自身が愚かであったかを知るように。
リオンとキュクロの視線が重なる闇夜に舞い上がるは月光に照らされた血飛沫と、切り離された身体の一部。
「触るな、汚らしい」
それは、腕。
キュクロがその視線で追い、河原に転がったそれは、腕。
当然、魔王を恐れぬ馬が魔王の腕を吹き飛ばした訳ではない。そもそも魔王の腕は、その指先はまだ馬に触れてすらいなかった。
ならば何が起きたか? それは明白であるも、キュクロのその大きな一つ目はその事実を視認する事すら出来なかった。
「は……ッ!?」
だから、キュクロは自分でも驚く程自然にそんな疑問符を交えた言葉を吐き出した。それはまるで“今何が起こったのかが自分にはわからない”とでも言うかのように。事実理解が追い付いていないのは、魔王という絶対存在としての自尊心が彼の動揺を更に煽っているからこそ。
要するに“ただの人間に腕を斬り落とされた”という可能性を見失わせたのだ。
「……これ以上のお前との会話は私にとって価値がない。その代わりに、一つ忠告しておきます」
その様子を見て何を思ったのか、用はないと告げた者に向けて再び口を開くリオン。しかし馬を止める事はなく、去り際の一言とでも言うように森の暗闇へと進みながら。
「今すぐ軍を退き、魔族領域へ帰りなさい。でなければ死ぬ事になる」
「……それは脅しでしょうか。いい気になるのも程々に──」
「いいえ。約束通り今後私はお前を殺めはしない。そもそも軍を退かないのであればもう会う事もないでしょうが……」
腕を斬り落とされたのだと認め、屈辱を苛立ちに変えたキュクロはリオンの忠告に口を挟む。するとリオンは見当違いのキュクロの物言いに思わず口元を緩ませた。
その笑みがバレないように配慮して声音を抑えはしたものの、リオンの気遣いも空しくキュクロは一つしかない眼の上に怒筋のようなものを浮かべる。
「人間風情が……ッ」
振り返りざまに吐き出すようにして紡がれた言葉は今までのような気取った口調ではなかった。先程の怒りを覚えながらも笑みを浮かべていた口調でもない。ただ純粋に、言葉の通り人間風情に与えられた屈辱に身も心も震わせた怒りの発露。
だがその言葉も振り返った先、既にリオンの姿が暗闇に消えていた事に気づくと小さく舌打ちをした。
「ヤザカという男に精々気をつける事ですね」
闇夜の森に響くリオンの言葉。暗闇に消えた背中をキュクロは追わず、告げられた名をその耳に反響させていた。
当然ながら聞いた事のない名前だ。このキュクロという魔王はその容姿からして若くはない。故に多くの魔族と親交がある訳だが、そのいずれにもヤザカという名はいなかった。
「この私を馬鹿にして……ッ! おのれ……おのれ人間め」
失った左腕の痛みは感じていない。いや、正しくはそれどころではない。人間如きに腕を落とされた怒りは計り知れないものがあるだろう。それもこのキュクロのような高慢な貴族のような男であるならなおさら。
が、その口元は鋭利な笑みを浮かべた。それが奇妙な事なのは言うまでもない。先の通り、キュクロは今プライドを傷つけられたばかりなのだ。そんな男が笑い出したのだから気が狂った以外に第三者が予想出来るものではない。
同族としてもそうなのか、近くにいた小型のサイクロプスが様子を伺うも、触れようとした腕がキュクロの残った右腕によって圧し折られる。
「しかし、しかしだ。奴は私を見くびり過ぎていた。所詮は薄汚い人間という訳ですねぇ!」
容易く、そして何気なくキュクロは同胞を投げ飛ばす。それはまるで背後の屑籠に向けて見もせずに投げ捨てるかのような無造作に。その細腕からは信じられない程の怪力だが、むしろ同族に対してすら他人の尊厳を気にしないその振る舞いこそ魔王と呼ぶに相応しいと言える。
「奴……奴ですか。なるほど」
私が知りたかったのは奴がどんな存在か。リオンはそう言っていた。この口振りは身近で見たか、接触した事がある者にしか使わない。
続いて無害か有害か、という言葉は集団や組織などの複数の者を示唆するような言葉だ。一個人が一個人に対して有害という言葉は通常では使わない。魔族にとっては有害どころか有益ですらある。それを人間である先程の冒険者が判断しようとしているのだから、当然キュクロはある答えに辿り着く。
「……そうですか。やはり、やはり彼女は生きていましたか! 我等が花嫁、ルシフェリア・ニーベルング!」
歓喜の叫び。同時に遠くで響く雷鳴。月光よりも激しい輝きに照らされたキュクロの顔面。失った左腕と残った右腕を広げ、キュクロはしきりに笑う。
「待っていました! ずっと待っていましたよ! 私は貴方を待ち焦がれていました!」
その醜い顔面を今更右手で覆い隠し始めたはいいが、その気色の悪い笑みまでは隠せていない。
「馬鹿な冒険者だ。“不死の王”など聖杯の価値に値しないというのに」
呟き、その眼で周囲の同族達を見回した。その表情は笑みを浮かべていた先程とは一転して冷めた瞳をしていた。
「どいつもこいつも使えぬ馬鹿ばかり……。もういい、それに事情も変わりました。あの冒険者の口振りから人類領域に彼女が身を潜めているのは明白。中でもスライムのいないエルフガーデン及びその南側にある人類領域が最も有力と言っていいでしょう」
キュクロはそう呟き、集まった同族達の正面に立って胸を張る。
「これより私直々にエルフガーデンを攻め落とします! お前達は私に追従し、我が花嫁を探す間逃走する人間共を待ち伏せし蹂躙なさい!」
号令と共にキュクロは自らの顔を覆っていた腕を薙ぎ払う。王の参戦に配下のサイクロプス総員は雄叫びを上げ、一斉に進軍を開始する。
……そう、進軍を開始した。キュクロがたった今「追従しろ」と言っていたにも拘わらず、だ。もはやキュクロが再び頭を抱えた事は言うまでもない。
リオン・クロワールの唐突な援護の甲斐あってヴァナヘイム軍は見事街に攻め込んだサイクロプスの迎撃に成功した。とはいえ激戦の末に街は大きなダメージを負い、城に戻った騎士もそれを迎えた民達も影の差した浮かない顔を俯かせていた。
が、そんな暗い雰囲気に包まれた城に光が射し込んだ。
「イオリア様、よくぞ御無事で」
フィル・ヴァナヘイムの孫娘、即ち現在の国のリーダーの帰還。街の被害なんぞと、皆が活気だった。が、現状はさほど好転はしていない。主の連れ帰った援軍がたった三人という事実にヴァナヘイム軍上層部は何とも言えない顔をしていた。
当然だ。救援要請に向かったのはイオリアを含め六人。むしろ数が減っているのだから、何の成果もなかったと捉えるのが普通である。
だがそんな顔をしている上層部に腹を立てた乃愛の自己紹介によって作戦会議室の空気は一変する。イオリアが連れ帰ったのは人間に味方する魔王なのだから、驚きもするだろう。
隣で頭を抱えていた葵の気も知らず、乃愛はサイクロプスの魔王は何とかすると断言し、その間他のサイクロプスを食い止めるよう言い放って作戦会議室を後にした。過去の国を追われた事のある乃愛としては、友人であるイオリアのとった救援要請が非難を浴びる結果に黙っていられなかったのだろう。
今現在はイオリアの私室で魔王打倒の話し合いを始めようとしていた。
しかしそれは一向に始まらず部屋は静まり返っていた。というのも、当然乃愛の暴露発言は葵の意図していないものであった為だ。この密室の中の空気は不機嫌な葵の雰囲気に満ちているが故に誰も話を切り出そうとしないのだ。
「…………何考えてるの?」
口を開いたのは壁に背を預けて腕を組む葵。とても不機嫌そうな彼を見て乃愛は少し落ち込んだ様子だった。
「落ち着いて下さい葵様。乃愛は私の為に──」
「落ち着いてるし、それもわかってるよ。だけどそれでも正体をバラすのは軽率だって言ってるんだ」
乃愛を庇うイオリアだが葵はそれを遮る。そもそも葵が一人でイオリアを追ったのは乃愛の存在を魔族に嗅ぎつかれるような真似をしたくなかったからだ。
勝手に追って来たのは葵としては不本意であるもののそれを咎めるのは身勝手。しかしだ、乃愛の正体を晒すという行為においては黙っておける訳がない。
明らかに不機嫌な葵を申し訳なさそうに見上げる乃愛は、椅子の上に縮こまって座っている。今に始まった事ではないがどうにも魔王には見えないなとギリアムは思いながら、恋敵である葵の肩を小突く。
「気持ちはわかるが今はそれより優先する問題があるだろうが」
葵はその言葉を聞き、一度イオリアに視線を向ける。視線の先で頷くイオリアを確認すると、葵はイオリアの私室に来てから何度目かになるため息を吐き出した。
「先に、咎埼はサイクロプスの魔王を知ってる?」
「サイクロプス族魔王の名前はキュクロ・アルゲース。よく父に面会に来ていたから知っている」
「向こうは?」
「直接会って何度も話した事がある仲だ。私を忘れる事は……まあないだろう」
「やっぱり駄目だ。咎埼は今回の戦いに参加させられない」
乃愛と重ねていた視線を一方的に遮るように葵は瞼を閉じる。乃愛が椅子から立ち上がり抗議しようとするも、再び開いた葵の視線が鋭く乃愛は二の足を踏む。その視線に僅かに肩を跳ねさせた者がもう一人。先の乃愛の宣言に救われたイオリアだ。魔王である乃愛の力を使えばサイクロプス軍を容易に退ける事が出来るのは事実であり、当初のイオリアの目的でもあった。
だがイオリアは追放された魔王の境遇を知ってしまった。その魔王の力を使う事がどういう事か、どういう結末を生むかを知ってそれでも乃愛に期待する程イオリアは人間を捨てていない。
「得体の知れない法則を持ってる魔王に咎埼が姿を晒すのは危険過ぎる。僕とイオリアとギリアムの三人だけで戦うべきだ」
その言葉にギリアムもイオリアも乃愛の視線を気にしながらも頷く。それしかない、そうだろうなと、乃愛を案じているからこそ乃愛を戦闘には参加させられないと皆が思っていた。
「イオリア、街の地図が欲しい」
「わかりましたわ」
「あと他に何か使えそうな道具があると嬉しい。何でもいいから見せてくれない?」
ギリアムは地図を受け取ると、乃愛の傍にあったテーブルに目を向ける。さすがに目の前で地図を広げる訳にもいかず、一言謝罪の言葉を呟いては部屋の中心にテーブルを移動させてからその上で地図を広げた。イオリアは近場にあった小道具の解説を始め、葵はそれをイオリアの隣で真剣に聞いている。
その光景を見て、乃愛の胸が締め付けられるように痛んだ。それはほんの一瞬限り。同じ感覚を共有する葵が僅かに咳払いする程度の、そんな僅かな痛み。
自然と乃愛は立ち上がり、手を伸ばそうとした。どうして、誰に、もしくは何に手を伸ばそうとしたというのだろうか。その理由を考え始めた乃愛は伸ばそうとしたその手を止めた。
──……そういえば、私だけ人間じゃないんだった。
遠く感じたのだ。この場にいる皆が、手の届かない所にいる気がしたから手を伸ばした。イオリアが、そして葵が遠くに行ってしまう気がした。今も笑顔で話すイオリアと、それを傍で見つめている葵が、どうしても羨ましく思えた。
たった一度、戦闘に参加しない程度の事。乃愛の身の安全を考えた上での結果。
そんな事は百も承知。杞憂で無意味。今、咎埼乃愛の思考はそんな程度の事ではあったが、その紅い瞳は虚ろに変わる。葵を中心に飛び交う話し合いの輪の内に、ただ自分がいないというだけで。
『別にいら■い。■に■必要な■よ、■■■■■』
脳裏に浮かぶ言葉にノイズが走る。何だっけ、どうしてだったか、何の事だと虚ろな瞳のままで乃愛は思考し、伸ばしかけて止めていた腕をダラリと落とした。
「忘れたか?」
小さな声が部屋に響き、ギリアムもイオリアも、葵もその言葉に耳を傾けた。静寂に包まれる中、俯いていた乃愛は構わず口を開く。
「相手は魔王。お前達は人間だ。法則を知っていたとしても勝てる相手じゃない」
つい先程大型のサイクロプスをやっとの思いで倒したイオリア。最下級魔族の魔王から逃げ出したギリアムと、殺された葵。その程度の三人が協力したところでサイクロプスという強力な種族の魔王に勝てる訳がない。
「だけど私は魔王だ。私なら倒せる。必要なハズだ、私が」
最善の手として乃愛は参加すべきではないと葵は言った。身を案じているのは言うまでもない。
「だから私を使え! 私を必要だと言ってくれ!」
乃愛もそれはわかっている。わかっていたとしても、一人だけ除け者にされたような気持ちは芽生えた以上言葉は止まらなかった。
ギリアムの用意した机を両手で叩き、まるで乗り出すようにして訴えかける乃愛。その視線が潤んでるのを見た葵は、面食らったように目を丸くした。
「……葵」
「葵様……」
どうしたらいいのか逡巡しているのもあるが、涙ぐんでいる乃愛に何と声をかけるべきか葵は考えていたのだが、そんなのわかりきってるだろうにと両側から視線を向けられる。
気付けば三人から視線を浴びる形になっていた葵は、勘弁してくれと思いつつ顔半分を右手で覆った。
言わずもがなリスクがデカい。果てしなくデカ過ぎる。だからといって乃愛抜きで魔王を殺すのはほぼ不可能。となれば本人の希望でもある訳だから、危険を冒してでも乃愛を戦いに出すのが得策だ。
だが男としての気持ちが邪魔をする。誰が好き好んで想い人を危険に晒すというのだろうか。そのぐらいわかれよと半ば葵もムッとし、そして気付いた。ああ、つまりこれはただの我が儘なのだと。
「…………絶対に作戦通り動く事。それでいいなら、咎埼の力を貸してくれ」
顔半分覆ったまま、葵は観念したように呟く。すると一転して元気な笑顔を浮かべ、その目尻に浮かぶ涙を拭って乃愛は頷いた。ギリアムは腰に手を当てて呆れ、イオリアは乃愛の肩に手を添えて困ったように僅かに微笑んでいた。
我が儘を押し付ける訳にはいかない。リスクを負わなければ勝てないのなら、後はどうやって乃愛を護るかだ。例え一人では魔王に勝てずとも、魔王を護る事だけなら自分一人でも出来るハズだと、不死の随伴者は自身を奮い立たせた。




