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楽園変生 第一部 ──不死の随伴者──  作者: 紅葉 昂
第一部【不死の随伴者】
3/52

第001話

夜坂葵(やざか あおい)は他人の痛みがわからない”


 放課後、不意に聞こえた言葉に教室の窓際最後尾に座っていた僕は談笑するクラスメイト達に視線を向けた。

 よく聞く噂だ。一々気にしていられないが、不意に自分の名前を他人の口から聞けば誰だって反応するだろう。

 気を紛らわすように窓の外へと視線を向けようとした時、その視界を長い銀髪を靡かせた女子生徒が横切る。

 隣の席に座ったその女子生徒は、いつも僕の後を尾けて来る。


 僕はストーカー被害に遭っているらしい。


 ……らしいというのは、覚えていないからだ。

 一か月前、僕は交通事故に遭った。

 その時のショックで記憶がなくなったから、交通事故に遭った事も覚えていないのだが。

 私生活、会話、常識に関しては特に問題はないけど、重要なのは関わって来た人間を完全に忘れている事。

 とはいえこの一ヶ月、身体に異常のなかった僕は二、三日で退院して今日まで特に問題はなかった。……つまり、元々友達がいないようだった。

 親の事も覚えちゃいない。僕より前に事故で死んだらしく、その事実は交通事故の際、どうやらかかりつけの医者だったらしい男から聞いた。酷く残念そうに言っていたが、当の本人は覚えていないのでその哀れみは不必要な物だった。

 席を立ち、教室を出る。

 校舎を抜けて校門を潜り、いつもの下校ルートを歩く。

 不意に僕は立ち止まり、後ろに響いていた足音も止まる。

 僅かに振り返り、そこにいるであろうストーカーに視線を向けた。

 長い銀髪。それはまるで雪原のように幻想的で、夕陽を浴びた髪は糸のように引き込まれそうになる程煌いていた。

 フランス人形が着るような学校の制服。

 華奢でいて女体の黄金比を体現するかのようなその姿は、遠目で見れば命を持たない芸術作品と見間違える程。


 だがストーカーだ。


 名前は確か、咎崎乃愛(とがざき のあ)だったか。隣の席とストーキングされている事で、白紙に戻った人間関係の中で咎崎の名前はすぐに覚える事が出来た。

 俯いているから目を見る事も出来ないが、後を尾けているのならその前髪の隙間から僕を見ているのだろう。

 最初は何か用事があるのかと思っていた。記憶を失くした僕の事を知っている人かもしれないし、もしかしたら友人だったのかもしれない。

 だけど咎崎が僕に話し掛けた事は一度もない。だからきっと、僕が記憶を失くす前からこういう関係だったのだろう。

 だから無視して、視線を戻した僕は足早に家を目指した。

 空は暗くなり始め、そろそろ寄り道など出来ないと考えながら一軒家である我が家の扉を開けた所で、


「……私は何をしているんだろう」


 背後、ガレージの先に佇んでいるだろう咎崎の声が聞こえた。初めて声を聞いた事に少し驚いたが、話し掛けられている訳でもないのに反応する必要はないと扉を閉める。

 鍵をかけて自室に向かう。

 自室に戻った僕はこの一ヶ月いつも読んでいる漫画を手に取ったが、初めて聞いた儚い声色の言葉がどうしても気になり、読む気が失せた。

 漫画を放り投げてベットに倒れ込む。

 自分のしている事を馬鹿な事だと吐き捨て、それでもやめられないと、そう感じるような言い方だった。

 襲って来る睡魔の中で、思い浮かべるのは咎崎の俯いた姿と初めて聞いた声。

 もう誰もいなくなってしまった僕の周囲で、咎崎だけが近しい存在だ。

 それなら、向き合ってあげた方がいいのではないか?

 何がしたいのか、声をかけるだけでいいじゃないか。そうすればハッキリする。そして、この関係も終わる。

 ストーキングをされたい訳じゃない僕と、ストーキングをしたい訳ではない咎崎。

 お互いに必要のない事なのだ。だからハッキリ言って、やめさせないといけない。


“夜坂葵は他人の痛みがわからない”


 過ぎる言葉。脳裏に浮かぶ言葉に耳を塞ぐようにして僕は眠りに落ちる。












『ここはどこだろう』


 ふと気が付くと真っ白な天井を眺めていた。

 起き上がり、真っ白な布団と真っ白な部屋。真っ白なカーテンが開いた窓の外から吹き込む風に靡いてユラユラと視界の隅に写っていた。

 立ち上がり、扉から外へ出てみる。

 真っ白な通路に真っ白な照明。そこが病院である事はすぐにわかった。身体に異常はなかったから、受付にでも行って帰して貰おうと歩き出す。

 帰らないといけない、そう思った。

 そしてそこにも、彼女はいた。

 息を切らして、必死に駆けていた咎崎は曲がり角を曲がった所で膝に手を置いていた。

 咎崎の名を知らなかった僕はただの風景として認識してその横を通り過ぎて受付に行った。

 何かが落ちたような物音が後ろで聞こえ、それでも僕は気にせず受付に行った。

 帰らないといけない、そう思ったから。


『身体、何ともないんで帰っていいですか?』


 受付の看護婦さんにそう言って、僕は入り口の先に広がる外の世界を眺めた。

 帰らないといけない。そう思ったのは、どうしてだったのだろう。


『どうせ覚えていないくせに』


 振り返った僕の視線の先で、ナース服を着た銀髪の女が僕の胸に手を添える。唇の端を尖らせ、まるで悪魔のように笑って僕を見上げていた。











「え?」


 いつもの天井。見知らぬ物ではなく、僕は一ヶ月前から毎日この景色を見ている。


「……どんな看護婦だよ」


 夢見の悪さに気分は最悪だ。何という夢を見せて来るんだ神様ってヤツは。いつか出会ったらぶん殴ってやろう。

 片手で頭を掻きむしった後でベットから降り、部屋から出て階段を降り、台所で食パンをトースターに叩き込んでから洗面所で顔を洗う。洗い終えた頃に焼き上がったトーストにバターを塗ってから口にくわえ、部屋に戻って制服に着替える。

 一ヶ月暮らしてて思うが、一人で一軒家は広過ぎる。なのに退院して帰った時、整理整頓された一軒家には違和感を覚えた。

 昔の事は覚えちゃいないが、習慣というのは無意識で行われる。

 僕はそう綺麗好きという訳ではない。汚いよりは綺麗な方がいいが、そうマメな性格をしている訳ではなかっただろう。

 この一ヶ月で家が散らかり始めているのがその証拠だ。


 そんなどうでもいい事を考えながらトーストを食べ終え、制服に着替え終えた僕は、昨日シャーペンの芯が切れた事を思い出す。

机の引き出しに触れる手。

 これが無意識の習慣というものなのだろう。予備の芯がある事をかつての僕は知っていたのだ。

 記憶を失った僕は導かれるままに引き出しを開け、芯を手に取る。と、そこに手帳のような物があった。手帳にしては少しデザインがファンシーというか、僕の他の持ち物に比べて可愛らしい物だった。

 表紙には去年の西暦が記されている。まさかこんな所で記憶の手がかりが見つかるとは、と思ったけどよく考えたら家探し程度はするべきだった。

 どうにも自分のいい加減さに嫌気が差したが、時計を見てそろそろ出た方がいい時間だったので鞄にそれを突っ込んで部屋を出た。


 階段を下りて玄関へ。靴を履いて、扉を開けて家を出る。鍵をかけ、振り返って登校。

 ガレージを出た先、真横にはやはり咎崎が塀に背中を預けて佇んでいた。

 それを通り過ぎるとしばらくして足音が聞こえ始める。彼女はいつも必ず五メートルか十メートルは空けてついて来る。

 ちゃんと言わないといけない。僕も咎崎も、こんな関係は終わらせるべきだから。

 曲がり角を曲がった先で足を止め、傍らの壁に背を預けて咎崎を待ち伏せる。


 どう言えばいいだろう。


 いざ言うと決めても、どう話せばいいのか。何せ、記憶を失ってからまともな会話を同級生とした事がない。


「……ッ」


 考えながらボンヤリと空を見上げていた僕の耳に当然と言えば当然な、驚いた咎崎の短い悲鳴のような声が聞こえて僕は視線を落とした。


「確か、隣の席だよね」


 確かって何だよと自分で自分の発言に突っ込みたい。確かも何も、この一ヶ月ずっと見ていただろうに。

 けど、咎崎は何も言わなかった。


「何でいつもついて来るの?」


 だからもう一度声をかけ、本題に入った。

 咎崎は俯いたまま何も答えない。ただ黙って、ずっと足元ばかり見ている。


『どうせ覚えてないくせに』


 瞬間、脳裏に過ぎったのは夢に見たナースの笑み。

 それは三日月のように鋭利で、その唇が紡いだ言葉もまた鋭利な刃物のように僕の胸に突き刺さる。


 腹が立った。夢に見たあの女が、咎崎と重なったから。


「答えろよ」


 だからつい声を荒げてしまった。咎崎の肩が一瞬強張ったのがわかる。

 こうして聞いているのに何故答えない。どうして僕の気持ちが伝わらない。

 いつもこうだ。この一ヶ月、何度か他人と喋った事がある。まともとは言えないが、その理由は僕の言っている事が理解されない事が多いからだ。


「いい加減鬱陶しいんだけど。……何ていうの、ストーカーっていうんだっけ、こういうの──」


挿絵(By みてみん)


 ため息交じりに紡ごうとした言葉は遮られる。


 衝撃が脳に叩き込まれた。


 この一ヶ月で体感した事のない、いや“生まれて初めての感覚”が神経を通って脳に流れ込み、視界に飛び込んだ光景に僕は口を閉ざした。


 咎崎の手が僕の頬を叩いた。


 振り抜かれたその手は白く、そして細い。真っ白な前髪の下、僕は初めて咎崎の顔を見る事が出来た。

 まず思ったのは薔薇。真紅の瞳は見ているだけで、いや見る以外の事を忘れる程に美しく、思わず背筋が寒くなる程に整った顔立ち。


 けれどその目尻は腫れていた。


 咎崎の目元から零れる涙が雫となって僕の視界から消えていく。

 生まれて初めての感覚は、いつも感じている物と同じ名前で呼ばれる事を知っている。

 その光景を見た時に、頬と同じ衝撃が胸を貫いたから、これがそういう物だという事を初めて理解した。

 そして視界の中で、彼女は明後日の方角へ走り始める。

 追おうとして、足が動かない。呼び止める事も出来ない。口を開いても、声が出なかった。

 ただ誰もいない場所へ手を伸ばすくらいが関の山で、その手は当然何も掴まない。

 意味がわからない。


“僕は初めて痛みを知った”


 噂を聞いた時に、僕が唯一感じる事の出来る痛みとそれは似ていた。

 だけど全然違っていた。

 痛むのは心と、叩かれた頬。

 左右の手でその痛みに触れる。


「何……だよ、これ……」


 胸を押さえる左手に何かが落ちた。

 それを見て、僕は僕が泣いている事を知った。


「何なんだよ」


 右手は痛み出した頭を押さえ、壁に背を預けながらその場に座り込んだ。


 ああ、何故どうして、僕はこうなったのだ。


 ああ、何故どうして、君は泣いたのだ。


 泣かせるつもりじゃなかったんだ。

 ただ聞きたかっただけなんだ。そして、終わらせるつもりでいたんだ。僕と君の関係を。

 なあ咎崎。僕は何か悪い事をしたのか?


「ったく、意味不明だよ」


 しばらくそうしていた僕は、涙を制服の袖で拭って立ち上がる。

 咎崎の事は気になるけど学校には来るだろう。もしお互いに落ち着いていたら、その時改めて話せばいい。

 重い足取りでいつもの通学路を“一人”で歩く。


 誰も僕の後を尾けない。


 そうか、ある意味で終わったんだ。そう自覚した頃には僕は教室の自分の席に座っていた。いつもと違って、僕は窓の外ではなくその反対側にある咎崎の席に視線を向ける。

 いつもならもう教室に入って来て、何も言わずに席に座っているハズだった。


「来ない、か……」


 始業ベルが鳴っても、咎崎は来なかった。

 咎崎が休むのは珍しい。そう言って教師もクラスメイトも僕を見る。不意に僕は首を横に振り、そして自分がやっている事の意味不明さに苦笑する。

 皆は知らないハズだ。僕が咎崎を泣かせた事も、僕が叩かれた事も。

 だからきっと、僕ではなく咎崎が座っているハズの席を見ていたのだろう。


 どうせ遅れて来るだろう。

 俯きながら「すいません」と小声で言って席に座るんだ。


 次の時間には来るだろう。

 僕の隣で一度立ち止まり、何も言わずに席に座るんだ。


 昼休みには来るだろう。

 教室に戻ったら何食わぬ顔で隣の席に座ってるんだ。


 そう、思っていた。

 けれどそんな事はなく放課後を迎えた。


 僕が泣かせたから?


 ……まあ、きっとそうなのだろう。ストーカーが泣いて、ストーキングされていた奴が罪悪感を覚えるなんて馬鹿馬鹿しい話だ。

 鞄を手に取り、帰路につく。

 いつもの道のりはいつもと違う。咎崎がいない。本当ならば歓迎すべきだけど、あの泣き顔を見て情が移ったのか妙に虚しく思えた。

 馬鹿か僕は。


「なあ、俺達ゲーセンで遊びたいんだわ。ちょっとでいいからよ」


 そして、僕以外にも馬鹿がいた。


「時代錯誤もいいとこだな」


 視界の隅、路地裏に差し掛かる所で屯っている男達へ聞こえるように、僕は八つ当たり気味に思った事を吐きかけた。

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