第025話
──……ここはどこだろう。
真っ暗闇の中、脳裏に浮かべた言葉をただ自覚する。声には出さず、周囲を見渡しもしない。瞼を閉じているのだからそれは無意味であり、真っ暗なのも当然だった。
聞こえて来るのは波の音。そして一羽の鳥のさえずり。
ここはどこだろうと、そう疑問に思ったのにも拘わらずその事が真摯にどうでもいいと、それは途方もなく億劫で邪魔な雑念に彼は感じた。
この場で意識が芽生えたのがどうしてか、自分の存在が何であるか、その二つだけがやけにハッキリとしていた。
聞こえて来た波の音と鳥のさえずり。それが彼を暗闇の中に存在させた。
名称は夜坂葵。種族は人間であり、髪の色は黒かった。色素の薄い瞳の色は金色で、身長は他人よりも少し大きかった。
──……他人?
何だそれはと葵は止めていた思考を働かせ始めた。わからないという事は、必要のない事である。途轍もない程厭わしいものであると感じた。故に見ない、考えない。
それは自らに関係のないものだ。
故に居場所などどうでもいい。
それは自らを忌み嫌うものだ。
故に言葉を紡ぐ必要はない。
それは自らいなくなるものだ。
故にその瞳は何も映さない。
だから知らない。だから関わらない。だから見たくない。
そんな事は最早必要ないのだと、葵は自分に言い聞かせる。
“此処に還って来たのだから”
懐かしき場所。誰もいない場所。何もいない場所。それは虚空。
ただひたすらに眠る場所。自身に最も適している場所。彼は空虚。
『さようなら、葵』
だから眠ろう。
──……違う。
自分はここにいるべきなのだから。
──違う。
誰にも邪魔されず、何者にも犯されない。全の存在せぬ一にて完結する世界。
唯我の境地。
この世界は自分だけが存在すればいい。何もいらない。何者も必要ない。自分さえあればいい。心の中は、それだけで満たされているハズだから。
──僕は……。
脳裏に浮かぶ別れの言葉を思い出し、呪いのように意識を蝕む何かを振り払うように葵は瞼を開けた。その別れは、けして容認出来るものではなかったから。
大切な他人が、そこにいたから。
『何だここ』
いつの間にか鳥のさえずりは消え、波の音だけが耳に響く。周囲一帯総てが真紅の浅瀬。真っ白な空と真紅の海。霞みがかった血平線を遮るものは他に存在せず、小さな波がただただ脹脛に押し寄せる。
『……咎崎?』
見知った背中を見つけ、葵は声を上げる。明らかに異常なその場所で乃愛がいた事に安堵しながらも、こんな所にいさせたくないと感じて葵は駆け寄った。
『咎崎、よかった。とりあえずどうにかしてここから……』
傍まで駆け寄って、乃愛の様子がおかしいと感じる。呼び掛けているのに振り返らず、ただジッと手元の何かを見下ろしていた。
『ねえ、咎崎──』
肩を掴み、僅かな力で振り返らせた瞬間、蒼い瞳が葵を見上げる。乃愛ではない、そう自覚した葵の視界にまた亀裂が走った。
『ぐ……ッ!?』
同時に、込み上げた痛みに膝をついて頭を抱えた。いったいこの亀裂は何なのだ、この感覚は痛みというものなのか。誰かに問い掛けようにも、自分にしかわからないそれをどう話せば伝わるのだろう。
煩わしい。やはり他人というのは面倒だ。先程までのように、眠っていた方がどれ程楽だっただろうかと葵は思った。
『それは無理よ、貴方は産まれてしまったのだから』
そう考えた時に、まるで断頭台の刃が襲って来るかのような重圧と声が葵に降り注ぐ。同時に、
──……スズメ?
蒼い眼の女が手にしていたであろうスズメの死骸が葵の眼前に落とされる。
『アイン』
葵の前でしゃがみ込む蒼い眼の女。空いた両手で葵を抱き締める。……その視線とその行為、そして目の前の存在に苛立ちを覚える。それがどうしてだかは葵自身どうやら理解していないようだ。
『私はずっと、そこにいるからね』
葵の視界が天を仰ぐ。そこには満月の浮かぶ白い空が広がっていた。否、浮かんでなどいない。その月はゆっくりと、しかし確実にこの血の海へと落ちている。それを亀裂が生じた視界で眺めていた葵の意識は、蒼い瞳の女の最後の言葉を聞き終えると同時に再び暗闇の中へと消えていった。
「半分正解、と答えておこうか」
イオリアの視線を正面から受け止め、乃愛は返答を口にする。クーラがそれを呼び止めようとするも、乃愛は手を翳して逆にそれを制止した。
「クーラ。お前は他の人間に魔族だとバレた事はあるか?」
「いいえ」
「なら、イオリア。風、だったか? こちらの予想を越えた特異なその力、他に持っている者はいるのか?」
今度は逆に乃愛からイオリアへの問い掛け。その威圧感は先程までの乃愛ではない。まさしく魔王として、別種族である人間に告げている。初対面のイオリアはともかく、ギリアムはその豹変ぶりに動揺しているようだった。
「私の知る限り、私だけよ」
「他の人間に私達が魔族であると話したりは?」
「そんな余裕はなかったわ」
「…………まあ、ならいいか」
切迫した空気を破壊するように、乃愛は投げやりに呟いた。
「終わりかよ! 殺されると思ったわ!」
「私を何だと思ってるんだ──」
「魔王じゃねえのかよッ」
動揺していた反面、緊張の糸が切れたギリアムがツッコミを二度連投する。その当然のツッコミに乃愛は複雑な表情で頭を掻き、仕方ないなと言うようにイオリアに視線を向けた。
「私は確かに魔王だったが、クーラは違う。私に仕えるメイドで、私は国を滅ぼされた魔王だ。……嘘を吐かなかったからいいものを、私じゃなかったら殺されてるぞ」
「諸事情でサイクロプスの魔王を探しているの。人間の形をしてるのに、魔族の風を感じたから……」
「……一緒にされるのは御免だな」
何かを思い出すように、腕を組みながら乃愛は呟く。今、ヴァナヘイムに対して攻め込んでいる魔族がサイクロプスだというのは有名な話で、イオリアの目的は理解出来る。いかに魔族といえど、頭を失えば混乱するだろう。戦況を押し返すには充分に考えられる手だ。もっとも、サイクロプスの魔王を倒す事の出来る実力があればの話だが。
「それで、魔族であれば魔法に秀でてるのも頷ける、という意味だったのはわかった。サイクロプスの魔王を探しているのも、理由も合わせて理解はした」
「なあ、待ってくれ。二人が魔族で、別に敵って感じではないのはなんとなくわかった。正直人間の敵だと考えたくないだけかもしれねえが、葵は何なんだ?」
「……どういう事だ?」
ギリアムが立ち上がり、考えが纏まらずあたふたとしながら問いを投げる。しかし乃愛はその意味が理解出来ず、ギリアムのその様子を一瞥した後に何か知ってそうなイオリアに視線を向けた。
「葵様は御自分の手首を犠牲に私の願いを聞き入れて下さった。それは魔族の、それも治療の魔法を使える仲間がいたからこそでしょう?」
「ああ、それは私の法則があるからだろう。私の法則は生涯を共にする随伴者として一人と契約する。一度しか使えない法則だが、私が死なない限り葵は死なない。……だから、どうせ死なないと高を括ってそうしたんじゃないか?」
ギリアムはふとこれまで葵と行動を共にし、国境付近に現れた魔獣との戦いでいくつか心当たりがあった。命知らずというか、被弾覚悟というか、奴隷級にはない度胸が葵にはあった。しかしそれを聞けば少しは納得する。
とはいえ、自ら進んで痛い思いをしたいとギリアムは思わなかったが。
「私は魔王を倒して名声を得ようとは考えていないけれど、法則は魔王にとって切り札ではなくて? 不死の従者の弱点が主で、主である魔王の法則は使用済みとわかれば──」
「殺せる、か?」
立ち上がった乃愛はイオリアを黙らせるかのように言葉を遮り、その真紅の瞳でイオリアを見据える。その瞳に何を見たのか、イオリアは椅子を吹き飛ばす勢いで立ち上がると、そのまま飛び上がって身を翻し、その両手にダガーを握り締める。
「待て。私に交戦の意志はない」
「私もそうなのだけど──」
「いいから落ち着けクーラ」
武器を抜いた自身を宥めているのだとイオリアは思った。武器を抜いたのは勿論自衛の為。眠っていた猛獣が目の前で立ち上がった際に身構えるのと同じ原理。だからつい武器を抜いただけで、自分も交戦の意志はないと告げようとしたイオリアだったが、しかし乃愛の言葉は自分に向けられているものではなかった。
いつの間にか背後に感じる風。乃愛を意識し過ぎて、ついさっきまで乃愛の後ろに控えていたクーラの接近に気付かなかった事にイオリアは驚愕する。
「承知しました」
イオリアの背中に向けていたメスを下げ、クーラは頭を下げる。何事もなかったかのように乃愛の後ろに立つと、乃愛は腕を組んで大きく息を吐いた。
「私は葵の主じゃない。私と葵の関係は…………色々複雑だが、交戦の意志がないのはお前達が葵の連れて来た客人だからだ。少なくとも、私は人間を襲わない魔族だなんていう説明より理解出来るだろ?」
「そうね。血塗れの葵様を見た時、貴方は随分動揺していたようだし」
「あー、まあわかったなら武器を降ろせ。人間に刃を向けられてもおかしくない存在なのは自覚してるが、慣れている訳じゃない」
恥じるように片手で顔を覆う乃愛に頷き、イオリアはダガーを腰に戻す。武器を抜いた事を咎められると思っていたイオリアだったが、乃愛にそういう様子はなくむしろ当然というように口にした。
葵の客人という枷があるからなのかイオリアにはわからないが、村の中で堂々と家を構えている程だから少なくともしばらくは信用していい魔族だろうと認識する。
「そもそも弱点の露呈、という意味では今更なんだ。私はさっき国を滅ぼされた王だと言ったろ? 確かに私は魔族で人間の敵かもしれないが、私の国を滅ぼしたのは魔族なんだ」
「味方に滅ぼされたっていう事か?」
「いいえ、恐らく違うわ。人間だって思想が違えば争うもの。まして魔族なんて各々生態の違う種族がいるのだから、それぞれの国があってしかるべきで、国家間の問題は容易に解決出来るものではないわ」
魔族というのは総称。人間にも肌の色で違いはあれど、魔族程の違いはない。ならば別々の場所で生活し、そしてそれ故に時として衝突が起こる。人間と敵対しているのが魔族、というのではなく魔族同士の争いは元々あった、という事。
「さすが王女だな。私の国は他種族を多く束ねる国で、他より多くの領土を誇っていた。そんな国の王となった私だったが、ある問題によって多くの国が手を組んで戦争を仕掛けて来た。戦争といっても奇襲を受け、一夜にして終わった戦いだったが」
昔話を笑って口にする乃愛。忌々しい過去、笑って話す内容ではなかったが、そもそもその笑みに楽しそうな感情は宿っていない。
「そのある問題とは私の力に直結していて、他の国はその問題解決として私を殺す為だけに手を組んだ。さっきの法則の事はおろか、私の総ては魔族領域全土に知れ渡っているさ。だから人間に教えたところで大差はない」
「今サラッととんでもない事を聞いた気がするんだが」
「そうね。その“ある問題”というのは置いておくとしても、魔族領域全体に手の内が知れ渡ってる中で生き延びてるのが一番驚きだけど」
ヴァナヘイムは今魔族の一種族であるサイクロプスに攻められているだけで滅びかけている。実際、攻められているからこそ、魔族がどれだけ脅威なのかをイオリアは知っているが、他種族同時となると最早人間に打つ手はないだろう。
言ってしまえば乃愛の魔王としての力はヴァナヘイム全軍を遥かに凌駕するという事だ。
「なるほど、だから葵もこっち側の事は無知なんだな」
「どういう事よ?」
何かに気付いたようにギリアムが口にし、イオリアは問い掛ける。ギリアムは葵の眠るソファーに親指を向けて口を開いた。
「いや、こいつヴィーグリーズルの冒険者なのにヴァナヘイムの事やこの国の常識に疎い所があってな。その戦争を逃げ延びた時に拾ったんなら納得だ。王女様も言ってたじゃねえか、貴方は魔王ですねって。そいつはつまり、葵の風が普通の人間の風と違ってたって事じゃねえのか?」
「ええ、確かに。葵様の風は他の人間とは全然違うわ。魔族……の方がまだ近いかしら」
そう言い、イオリアとギリアムは乃愛に視線を向ける。だが乃愛はしばらく考えるような素振りを見せた後で首を横に振って否定した。
「いいや、私や葵が人間領域に疎いのは別の理由だ。戦争時に追い込まれた私は次元に穴を開ける程に力を暴走させ、結果その穴に飲み込まれた。それによって降り立った異世界に長く滞在し、そこで出逢った葵と共に意図せずこの世界に帰って来た。お前の風を感じる力というのが私にはわからないが、恐らく異世界の人間というのと、葵の心臓が私の心臓と同化してる影響だろう」
「またサラっと……」
「もう何でもありね貴方達」
二人は乃愛の言葉を聞いて頭を抱える。ただでさえ魔族は人間よりも圧倒的な力を持つ。さらにその上、法則なんて力を持つ魔王は常識で語れる存在ではない。
「まあ、我ながらそう思う。しかしそういう何でもありな力である法則が備わっているからこそ、魔族領域は魔王同士が牽制し合い戦争に発展する事がないのが普通なんだ。それを起こさせた私は魔王の中でも異常なんだよ」
言って、自嘲気味に笑う。ギリアムもイオリアも乃愛の話し方から望んで戦いをけしかけるような性格には見ていない。そもそもギリアムからすれば、恩人である事以外でも乃愛を特別意識しているのだから、他の魔王や魔族と同じように見る事はなかった。
「私の話はここまででいいだろう。葵にも話していない事を話したし、これ以上は御互い疲れるだけだ」
「そうね、傷を抉るような事をして悪かったわ」
「気にするな。それで、次はこちらから聞くとしよう。今も尚サイクロプスに攻められているハズのヴァナヘイムの王女が、こんな所で何をしている?」
立ったままだった乃愛は葵に視線を向け、イオリアに問う。葵の眠るソファーに腰掛け、眠っている葵の顔を覗いてはそのクセ毛を指で弄ぶ。
「助けて下さった葵様のいない間にあれこれと勝手を言うのは筋違いだと思うの。だから私の事は……後でいいわ」
そう言いながらも、イオリアは思い詰めた顔をしている。クーラはそれを眺め、予想する。そもそも、王女であるイオリアが隣国に来る内容など国を捨てての逃亡か、救援要請のどちらかだ。
クーラとしてはどちらにせよ、主である乃愛の意のままに任せるつもりだ。当然乃愛もクーラが考えている事と同じ事を考えているハズであるから、その意を読み取る為にクーラは乃愛へと視線を投げ掛けた。
が、乃愛は葵の髪の毛で遊んでいた。
「……ルシフェリア様」
「え!? あ、ああうん。そうだな、続きは葵が起きてからにしようっ」
乃愛自身がイオリアに問い掛けたというのに、この女は葵の髪に触れるのに夢中になっていた。ちゃんと聞いていたぞ、と取り繕う乃愛だったがこの場にいた全員が心の中で「聞いてなかったろ」とツッコミを入れている。
「と、とりあえず部屋ならいくつか空いているし、今日の所は泊まっていくといい。明日には葵も目を覚ますハズだ」
慌てて葵の髪から手を放した乃愛は、腕を組んで背中を見せるようにして顔を隠す。乃愛の意向を聞いたクーラが、さっそくギリアムとイオリアの使う部屋の用意に向かう中、イオリアは葵と乃愛に視線を向ける。
その後、隣にいるギリアムにすら聞こえぬ程の小さな声で、ただ一言「使えそうね」と呟いては微かな笑みを零していた。




