第024話
「アイツ等、まだ帰って来ないのか」
国境壁前の草原。門の手前に用意した椅子に座る騎士は苛立ちを露わにするように何度も草を踏み潰しながら作業員の仕事を眺めていた。
騎士が苛立っているのは外套の女を追いかけて行った冒険者達が誰一人戻って来ない事だ。時間を掛けている事もそうだが、何より作業員の護衛や見張りが誰もいない以上、騎士は代役を務めねばならないからだ。
当然、国境壁全体を見張り、総ての作業員の護衛を一人で出来る訳はないのだが、命令を受けている以上見張りだけでもやらなければならない。
見上げた空は陽が沈み暗くなりつつあるなと、退屈な任務に意識をおぼろげにした騎士は周囲を見渡した。
「そろそろ交代の時間か」
門とは反対の南、その場から見える訳ではないがトゥーレの方角に視線を向けた騎士は、草原を歩いて来る数十人の冒険者達を見つけて一息吐いた。
と、その時だった。ぞろぞろと持ち場に移動していた冒険者達が足を止め始めたのは。皆揃って国境壁の門から森へと視線を向け、足を止めるだけではなく近くの者達と騒ぎ始めていた。
その視線を騎士は追うように森へと視線を向けたが、眼前に迫って来ていた一人の冒険者に目が留まった。
「な……ッ」
まるで滝にでも打たれたかのように全身を濡らした冒険者。当然雨など降ってはおらず、そして見れば誰もが雨や滝の類によるものではないと理解出来た。
その冒険者は血塗れだったのだ。顔の左半分は血に染まり、およそ全身から血を滴らせながら森を抜けて国境壁を潜った葵は騎士の前に立った。周囲で立ち止まっている冒険者達を眺め、目の前の騎士に視線を向ける。
「交代の時間なら、もう帰るよ」
そう言って、血塗れの冒険者──夜坂葵は右手を差し出した。騎士は動揺しながらも頷くと共に返事し、その右手に報酬を入れた布袋を乗せる。
すると葵は再びゆっくりと歩き出す。その足取りが妙に遅く、そして何かを引き摺る音が聞こえて騎士や冒険者達は視線を彼の足下に移した。
「き、貴様それは何だッ!?」
狼狽える騎士。周囲の冒険者達も口元を押さえたり、青褪めた表情をしたりと、葵の足下に注目している。
「…………アンタが言ったよね。殺せって」
引き摺られていたのは外套の女。女の足首を握り締めた葵が振り返り、その冷めた視線を女に落としてからもう一度騎士に向ける。
「なら、別に墓くらい作ってもいいよね?」
その一言の後に、葵と同じ前半勤務の冒険者達が国境壁を抜けて戻って来る。
「ほら見ろ、引き摺ってやがるぜ」
「ギリアム、お前も物好きだな。ガキの面被った狂犬飼ってるなんてよ」
腹を抱えて歩くギリアムは隣を歩く冒険者を無視し、視線を葵に向ける。その後引き摺られた女を見て、込み上げて来た物を吐き出しそうな素振りを見せる。
「おうおう、もう吐く物もねえだろうが」
そう言って笑う冒険者も、葵を視界に入れないようにしているようだった。
「お、おい。確か葵だな。墓を作るのは構わんが、せめて抱えて運んでやったらどうだ?」
騎士はギリアムの様子を見た後、それは道徳に反する行いであるからと葵へ注意を促す。
「それも依頼?」
「い、いやそうではないが……」
しかし、葵は問い返す。問い返されるとは思わなかった騎士は思わず尻込みして言い淀む。周囲の冒険者は葵のその態度に嫌悪を覚えるも、事実依頼を果たした者に何かしら言う資格はないと黙っていた。
「……まあいいよ」
仕方なくというように溜息を零し、女を両手で抱き上げた葵はその場から歩き去った。
「葵はまだ帰ってないのか?」
「はい。妙ですね、いつもであればもう御帰宅なさっている頃なのですが」
普段なら「ただいま」という葵の声に反応して自室を出るというのに、いつまで経ってもその声が聞こえず様子が変だと思った乃愛は居間に下りてクーラに問い掛ける。
クーラもまた、いつも葵が帰って来る頃に食事の用意を終えるのだが、テーブルに並んでいる料理は既に冷めていた。
「電話がないのは不便だな」
頭を掻いて、そういえばクーラにはわからないかと苦笑いを浮かべた乃愛は玄関の方へと歩き出した。玄関の扉を葵が開けて帰って来た訳ではない。楽しみで仕方がないのだ。
稼ぎに出ている葵を出迎えて荷物を受け取り、ただ一言「おかえりなさい」と言える日常がどれだけ幸せな事か。葵が記憶喪失になった日から戻れないと思っていた日常が、異世界に来て取り戻す事が出来た。
その事を思えば帰りが遅い程度どうって事はないと心の中で自分に行って聞かせた後、こうして一つ屋根の下で一緒に暮らして帰りを待っているなんてまるで夫婦みたいじゃないかなどと考え始めた乃愛。玄関前で染まった頬を両手で覆っては一人ぶつぶつと呟き、そんな乃愛を眺めるクーラも何やら感動している。
そこへ物音がする。扉のすぐ傍から聞こえたそれにいち早く反応した乃愛は、続いて聞こえて来た吐息に扉の向こうにいるのが葵だと断定して素早くドアノブを握って扉を押し開いた。
「おかえり……」
そして笑顔で葵を出迎える乃愛の表情は、言葉を言い終える事も出来ずに一変する。
「うん、ただいま」
返事をしたのは間違いなく葵。しかし乃愛の表情が青くなっている事が気になったクーラは、乃愛の後ろから覗き込むように葵へと視線を向けた。
玄関を潜り、屋敷に入った葵の両手に抱き抱えられたのは血塗れの女。そして葵自身、全身に血を浴びている。
乃愛が駆け寄る前に葵の膝が折れ、その場で崩れ落ちる。抱えられていた女が床を転がった。
「おい、何があったんだ!?」
「もう、いいよ」
駆け寄った乃愛は葵を抱き起こし、意識があるか確認する。その中で葵が呟いたのは意味のよくわからない言葉。自分に言った言葉ではないのかと、先程まで葵の抱えていた女に視線を向け、
「説明の前に葵様の手当を!」
「ひぃッ!?」
乃愛は急に起き上がって大声を出す血塗れの女──イオリアを前に魔王らしからぬ悲鳴を上げた。
『なら、死んでもらうよ』
数十分前。陽が沈み掛ける頃、木漏れ日を反射して瞬く軌跡が一つ。頭上より降り注いだカランビットにイオリアは瞼を閉じた。
二人の間で血飛沫が舞い、返り血を受けた葵の顔を真紅に染まる。
『お前何を──』
その様子を見て駆け付けるギリアムの声。イオリアは瞼を開くと、その視界では葵が左手にカランビットを突き刺していた。
『ごめんね』
その瞬間葵は右手を力強く握り締め、何を血迷ったのかギリアムの胴体目掛けて全力の拳を叩き込む。
結果、体格差をものともせずに振り抜いた葵の拳によってギリアムは吹き飛ばされる。木の幹に背中を叩き付けた後、ギリアムは腹を抱えて足下に吐瀉物を撒き散らした。
『葵、何をして──』
イオリアが葵の左手を手当てしようと更に一歩近寄るも、振り返った葵は彼女の言葉を聞く事すらもせず左手首からカランビットを引き抜いた。が、葵の暴挙はそれだけに止まらない。
あろう事かその手首から滴る血を、まるで水袋を逆さに向けるような気軽さでイオリアの頭の上から浴びせていく。
『嫌ッ、な、何をなさって……ッ!?』
『君はここで僕に殺された。その一部始終を見ていたギリアムは、人間を殺す現場を初めて見て嘔吐。僕は死んだふりをしているイオリアを連れて国境壁を越える。……これが一番手っ取り早いよ』
あらかたイオリアを血に染めた後、葵は血の流れを止めるように二の腕を右手で握り締める。
『あとは……イオリアにも外傷みたいなのを作った方がいいんだろうけど……』
葵はイオリアを眺める。心臓を一刺し、というのが一番印象に残りそうなのだが、イオリアが身に纏う衣装は布面積が少ない。まるで踊り子のようなその服は、胸の谷間に穴を開けようものなら切れてしまう可能性もある。
とはいえ、その他の場所に穴を開けて外傷のような跡を作っても、死に至らぬ場所ばかり。死んでいると思わせるには、やはり胸を覆っている衣服に穴を開けるのが妥当だった。
『構わないわ。…………いいえ、構いませんわ。葵様、貴方が左腕を貫く程の痛みに比べればどうという事はありませんもの』
そう言い、葵からカランビットを取ったイオリアは胸元に穴を開ける。
『……少々、御辛抱下さい』
僅かに頬を染めたイオリアは続いて決心したように一度頷くと、呟くと同時に葵の左手を両手で包む。心配そうに傷口を眺めた後で、自身の胸に葵の左手を押し付け、流れる血を胸元に塗りたくり始める。
『いや、そこまでしなくても──』
服の上からではない。そう大きくない胸の僅かな膨らみと、その小麦色の肌の感触に葵は腕を引っ込めようとするも、イオリアの両手はそれを許さない。
『必要な事ですわ。それよりせめて止血を』
イオリアは外套の端を破り捨て、葵の脇近くの二の腕をきつく縛る。葵は自分が出血死はおろか、乃愛の法則によって乃愛が死なない限り死なない事を知っている。故に、その止血は自分に必要のないものだと思ったが、時間もなく説明するのが面倒故に葵はイオリアに軽く頭を下げた。
『どうも』
『いいえ。あとは私が死んだふりをすればいいのですね。殿方の胸の中というのは初めてでその──』
地面に横たわり、恥ずかしそうに頬を覆うような素振りを見せるイオリア。表情はどこか楽しそうだったが、突如足を引かれた事でその表情は完全に素に戻った。
『──ああ、こういう……』
抱き抱えるのかと思いきや引き摺るなんて、とイオリアは死んだふりを始めながらも思わず呟いてしまう。
他に方法は……と言いたい所だが、手首を切ってまで他人の望みを聞き届ける葵にこれ以上を望むのはおこがましいというものだ。
だが、葵に物申したいのはイオリアだけではない。
『吐くっつーだけなら口に指突っ込むだけでいいだろうがッ』
イオリアを引き摺って去って行った葵の背中に向けて、木の幹に手をついたギリアムが不満を漏らすが、既に遠くへ歩き去った葵に聞こえる事はなかった。
「……という事があってな」
葵の手首を魔法で癒し、テーブルから少し離れたソファーに寝かせた後クーラに輸血治療を頼み、葵の命に別状はないと聞かされて安堵した血塗れのイオリアを浴室に叩き込んで一息吐こうとした乃愛だったが、尋ねて来たギリアムによって事情を説明された。
話の途中で加わったクーラは客人であるギリアムに茶を出し、乃愛の後ろに控えている。
「なるほど」
説明を受けた乃愛は誰がどう見ても不機嫌だった。料理が下げられたテーブルに置かれた乃愛の右手は、人差し指で何度もテーブルを叩いては彼女が苛立っている事を示している。
その正面に座るギリアムは大きな体躯であるにも拘わらず、乃愛の眼の前で子犬のように縮こまっていた。
というのも、ギリアムは葵以上に乃愛に頭が上がらない。仲間との合流もせずにキングゴブリンと戦って逃げ帰ったギリアムは、その仲間──ライヒの遺体と形見を持ち帰った乃愛に恩があり、その恩人が不機嫌であるのだから、気が気じゃないのも当然といえば当然の事。
そもそも乃愛に直接頼まれた訳ではないのだが、その恩人の連れである葵の面倒を引き受けていた。にも拘わらず瀕死の重傷で帰したのだから、葵が勝手にやった事とはいえギリアムが乃愛に合わせる顔がないと思うのは当然だった。
「すまないな、ギリアム。葵が心配をかけた」
「な、何を言ってる。仲間の事なんだ、当たり前だろッ?」
ため息の後に謝罪する乃愛に対し、ギリアムは思わず椅子から立ち上がって声を上げる。緊張で声が裏返っているが、それに気付くどころか咄嗟にテーブルへ身を乗り出し、乃愛との顔の距離が近くなってしまったギリアムは身体を硬直させる。
乃愛はその大きな声に驚いていたが、すぐにその表情を柔らかな微笑みに変えた。
「ありがとう。ギリアムは仲間想いなんだな」
その微笑みを直視したギリアムは即座に視線を逸らす。本来であればその言葉はライヒを死なせてしまったギリアムにとって胸に突き刺さる言葉であるのだが、ギリアムはそういう理由ではない事を自覚している。
──……おい何を考えてるんだ俺は。この人は恩人なんだぞ。
何も言わずにテーブルから手を退け、ギリアムは椅子に座る。大きな手で顔を隠すように頭を押さえ、左右に振っては頭から妙な考えを振り払う。
「湯加減はいかがでしたか?」
と、その時だった。乃愛に見惚れたギリアムを鬼の形相で睨んでいたクーラが問い掛けるように声を上げる。乃愛もギリアムもクーラが問い掛けた者に視線を向けた。
「ええ、ありがとう。けれど、この服はいったいどうなさったの?」
「クーラに掛かれば洗濯から裁縫まで一瞬だ。どうやってるかは秘密で私にも教えてくれない」
自慢するように、そして女としては妬むように、複雑な声色で乃愛が口にする。イオリアは二人を交互に見ては何やら納得したかのように頷いた。
「さすが、という所かしら」
「どういう事だ?」
何か含むように呟くイオリアの表情が乃愛は気になった。問い掛けると、イオリアは瞼を閉じて上品に御辞儀する。
「申し遅れましたわ。私はイオリア・ヴァナヘイム。先程葵様やそちらの方も驚かれていましたので、私の事は御存知かと思います」
「ああ、そうか。隣国の御姫様……でしたね」
「ふふ、御互い堅い口調はやめにしませんか? 葵様にも面倒を御掛けしましたし、私はある御願いがあってこの地に来たので」
慌てて畏まる乃愛に笑みを零したイオリアは提案する。クーラとしては人間風情がルシフェリア様に何たる無礼を、などと思っているのかもしれないが乃愛は別だ。むしろその提案はありがたいものだろう。何せ一国の姫と話す事なんて一度もなかったのだから。
「あ、ああ。それで頼む」
「ありがとう。それで、さっきの問いに答える前に少し前置きをするわね」
乃愛の正面に座るギリアムの隣の椅子を引くクーラに御辞儀し、気品に溢れた仕草で腰掛けると、イオリアは瞼を閉じた。
「笑われてしまうかもしれないけれど、私は生まれつき“風を感じる”事が出来るの」
──……あれ、もしかして痛い子かこの御姫様。
いきなり失礼な事を考える乃愛。
確かに初対面の人間に言われればそういう反応も無理はないのかもしれない。
風を感じる、という台詞を多くの作品で見て来たが現実で言えば電波や厨二病だ。この世界の人間には魔族と違って聖痕以外の特殊な能力が備わっていない。故に思春期特有の妄想のような戯言と思うのも仕方のない事かもしれないが、混血にして亡国の魔王である女が他人に厨二病だなどと言えた義理はない。
「風と言っても、雰囲気……かしら。風はあらゆる事を教えてくれるの。周りに誰がいるか、何人いるのか。対峙した敵の行動も凡そは」
「そういやさっき葵も俺も完全に攻撃が読まれてたな」
「ええ。どんな生き物も風を纏って生きているから、私は眼で見ていなくても、風が教えてくれるの」
一瞬考えただけだった。だが乃愛のイオリアに対する考えを見抜いているかのように、片目を閉じたイオリアが乃愛に笑い掛ける。乃愛は視線をクーラに向けるが、顔には出ていなかったとクーラは首を横に振った。
「だからわかるの。今度は確実にそうだと頷けるわ。クーラさんと……えーっと」
「ああ、悪い。私の事は乃愛と呼んでくれ」
名前を言えずに言葉に詰まるイオリアに名乗ると、イオリアは頷き一度閉じた瞼を何かを決心したように開く。その瞼を閉じた際、僅かに怯えるような表情をしたのが乃愛にはわかった。
だからか、嫌な予感がしたのだ。故に黙らせるべきかと迷ったが、乃愛が考えを纏める前にイオリアは口を開いた。
「貴方々二人は魔王ね。特に乃愛、貴方からは強力な風を感じるわ」
止めるべきだった。風を感じるなどという特異な力が本当にある事が今ここで証明された。イオリアの額に僅かに浮かぶ汗が、その言葉が本気であると告げている。
「おいおい王女様。冗談にも程があるぜ? この人はゴブリン族の魔王に殺された俺の仲間の遺体をわざわざ運んでくれたんだ。そんな人が……」
しかし恐れて尚、その視線は乃愛をずっと見続けていた。イオリアのその視線の先を見たギリアムは、乃愛の表情が変わらないのを見て口を閉ざした。
「ゴブリン族は人間も食べると聞いてるけれど、遺体を運んだという事はそこに居合わせたという事ではなくて? 遺体を運ぶくらいだから御仲間を殺したのはキングゴブリンでしょうけど、キングゴブリンが仕留めた獲物を人間の女に見す見す運ばせるかしら?」
「それは……」
あれ以来、何度か調査が行われたがゴブリン族の魔王が暴れているという情報はない。仲間の仇であるから、恐れて戦えずとも調べるくらいはしていた。だがそんなギリアムも、その後キングゴブリンがどうなったのかを知り得ていない。
「それなら乃愛。貴方はキングゴブリンを殺してから、街まで遺体を運んだのではなくて?」




