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楽園変生 第一部 ──不死の随伴者──  作者: 紅葉 昂
第一部【不死の随伴者】
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第016話

 肉を斬り裂き、骨を両断し、目にかかる血か汗かわからぬものを拭い去り、シルトは両手を広げて咆哮する。

 最初に追って来ていたゴブリンは十数匹。しかし彼の前にいるゴブリンは二十は越え、視線の先で駆け寄って来る者達さえいる中、彼の足元には先の十数匹のゴブリンが物言わぬ屍となって転がっていた。

 最下級魔族といえど、ゴブリンはれっきとした魔族であり、群れをなしている以上圧倒的に不利なのはシルトの方である。故にゴブリン達も先程までケタケタと笑っていたものだが、積み重なった屍の山は彼等からその笑みを奪っていた。


 異常な光景だった。


 シルトの鎧は数ヶ所が砕け露出した肌から血を流し、十数匹のゴブリンを殺した後、その凡そ倍近い数のゴブリンを前にした彼の瞳には未だ光が灯っている。

 叫びと共に薙ぎ払われる大斧に三匹程のゴブリンが両断され、周囲の屍が二十を超える。これを異常と言わずして何と言うだろうか。

 シルトの冒険者の階級は傭兵級。一人前の冒険者ではあるが、それは魔獣を相手にする場合である。最下級魔族であるゴブリンも視野に入れていい階級だが、それはあくまでパーティーを組んでいる場合であり、少なくとも単騎で二十以上の数を相手に出来るものではない。


「どうしたテメエ等ッ、こんなもんかよッ!?」


 事実、彼自身もそう感じていた。これ程までに身体が動いた事がかつてあっただろうかと。二十の屍を築いて尚身体は動く、呼吸は荒くとも握り締めた大斧は未だ健在で、棍棒を打ち付けられた頭は痛むが罵声を吐けるくらいに思考も冴えている。

 回復役もいないこの場で無茶をしていると思いながら、それでも彼は退かない。いつしかそんな背中を見た事があったなと心の中で笑みを浮かべながら。


 リオン・クロワール。歴代最強の覇者級冒険者とされる彼女はまるで嵐のような戦い方だった。彼女の話は本人に口止めされた事もあって、長年共にいたリーベにしか話していなかった。だが口にはしないだけで、シルトはずっとリオンにあって自分にないものに悩まされていた。


 闘争心。


 魔獣や魔族と戦う事は即ち殺し合いだ。立ち向かう勇気や打ち倒す為の力も必要だが、何より殺意がなければ話にならない。

 彼にはそれが全くない。殺す事が特に好きな訳でもなく、特に手に職がある訳でもなく、大きな図体と鍛えられた身体があったが故に冒険者となった。が、戦う理由など生きる為に金を稼ぐ程度だった。

 それで十分だとも考えていた。

 討伐数などを競う冒険者の中で話が合わず、周囲の人間が彼を笑った事もあった。だから長らく組む相手も出来ず一人で依頼を受け、日銭を稼いで生きていた。

 周囲と違う事を気にしている訳ではなかったが、一人では受けられる依頼も限られてくる。そんな時、遠距離職しかいないパーティーにギルドの推薦で抜擢され、魔獣の討伐に同行する事になる。


 その時出逢ったのが、リーベだった。


 酷いパーティーだった。息はバラバラ、弓術士(アーチャー)は獲物に矢を当てる事が出来ず、リーベはよく転び、魔法使い(ソーサラー)は誤射をする。若干一名のただのドジを除いて見習いばかりだった。

 だがその日の冒険は楽しかった。

 別に何かしら特別な言葉をリーベから言われた訳でもなく、初対面で恋慕の気持ちを抱いた訳でもない。ただ気付いた時にはいつも行動を共にするようになっていた。誰もいなかったシルトの隣に、当たり前のようにリーベがいつもそこにいた。


 だからこうして一人で戦うのは久し振りの事だった。


 だからこうして彼女の危機に身を挺する事は当たり前だった。


 未だ彼の心に殺意はない。それでも殺し、屍を築く。そこにあるのはリーベに対する感謝の気持ちと、大切な者を失う事への恐怖のみ。シルトの眼に、最早かつてのリオンの背中は映っていない。無我夢中に、我武者羅に、ずっと追い続けていた背中をいつの間にか追い抜いて、傭兵級としては在り得ぬ力を振るって眼前の敵を叩き潰す。

 退く訳にはいかないから、故に、粉砕し、両断し、引き裂いて、殺す。殺したい訳ではなく、殺させない為に、リーベを護るその為だけに死を撒き散らす。

 最早その戦いぶりは傭兵級の先、守護級の領域だ。それも傭兵級から上がったばかりの強さではなく、守護級として在り続けた者の力に匹敵する。


 精神は肉体を凌駕する。


 どれだけ身体を鍛えようとも、どれだけ強敵を打ち倒したとしても、それだけでは限界がある。上を目指すには見上げる必要がある事と同じで、欠けていた闘争心が満たされた今、彼は傭兵級に収まる強さではなくなった。

 守護級並みの強さを発揮し、惜しみなく力を振るい続けるシルトにとってゴブリンなんぞ最早敵ではない。そこにシルトに並び立つ程の存在はいないが故に他を圧倒する。

 そう、並び立つ存在など一人として存在しない。今や生きているゴブリンは屍の数より少ないのだ。シルトも負傷しているが、今の彼を止める事などゴブリン達に出来はしない。


 敗因があるとすれば、時間を掛け過ぎた事だった。


 飛来する黄金の槍は彼の左腕を粉砕し、その大柄なシルトの身体を横転させる。突如起きた事に動転するシルトだったが、起き上がると同時に目にした標的に乾いた笑いを発した。

 簡単な理屈だ。並び立つ者など一人としていなかったが、非情にも上はいたという事。


 キングゴブリン。


 その名の通りゴブリン族の王。その強さは法則を抜きにして聖戦級のライヒと互角。突如投げ込まれたのはライヒから奪った槍だった。

 大斧を手にしたまま失った左腕を押さえ、シルトは立ち上がる。


──例え相手が魔王だろうが……ッ!


 男として、ただ殺される訳にはいかなかった。想いの丈を力に変えて、震えを叫びで吹き飛ばし、シルトは進撃を開始する。


「邪魔だ雑魚共ッ!」


 キングゴブリンとシルトの前に割って入る数匹のゴブリン達。たった数匹、今の彼にはその程度邪魔にさえならない。


 ハズだった。


「“四十四番目ノ悪夢”」


 薙ぎ払った腕が何の感触もなく空を切り、強く握り締めていたハズの武器がその手にない事を目にしたシルトは足を止めてしまう。

 群がるようにして飛び掛かる数匹のゴブリン。自身の手からそれ等に視線を移して、


「え──」


 勇ましい強さを揮った者の最期にしては、何とも間の抜けた声を上げた。











 走る。


 ひたすらに走り続ける。


 シルトと別れてから随分経つが、一度も足を止めずに走り続ける。止まってなんかいられない。頼まれたから、左腕に抱え込んだリーベが何を言っても、何を叫んでも無視を続けた。

 僕は他人の痛みを理解しない。今は、それでいいと思った。そうでなきゃ、きっと走り続ける事は出来なかっただろうから。

 けれど足は重いし、息が荒くて呼吸が辛い。都会暮らしの現代人には、砂利道ではないにしても山を駆け上がるのは相当に堪えた。

 それでもずっと走り続けていた僕の視界に、信じられない光景が写った。あまりの事にリーベを抱える手を放し、挫折するように膝を折って地面に突っ伏した。


「何だよこれッ!」


 状況が理解出来ない訳じゃない。けれどやり場のない怒りに僕は地面を殴り付け、そしてもう一度先程見た光景に視線を向ける。

 渓谷を登った先でいつしか平らな場所に行き着くか、左右どちらかの壁を越えられると思ってたけど、最悪だ。辿り着いた先は行き止まり。

 左右の崖は先程シルトと別れた場所よりも険しく、高い。とてもリーベを抱えて登れる崖ではなかった。


「何の為に……ッ!」


 シルトを置き去りにしたんだと、口にするのをやめて僕は振り返る。それは物音が聞こえたからで、案の定その視線の先、壁をよじ登るようにして立ち上がるリーベを見つけた。


「何のつもり?」


「いいでしょ、私の事は放っておいてよ」


 そういう訳にもいかず、立ち上がったリーベの前に回り込んで、リーベの道を塞ぐようにして壁に手を添えた。


「戻るつもり?」


 小さな身体を見下ろす。目線を合わせないのは、僕が前に回り込むと同時にリーベが顔を背けたから。

 俯き、問いに答えないリーベは壁伝いに歩き出そうとして、痛む足に短く呻き声を上げて立ち止まる。


「無理だよ、その足じゃ」


「放っといてって言ったでしょ」


「……頼まれたんだ。そんな事出来る訳ないよ」


 どの道放っておいても戻る事は出来なさそうだけど、そうも言っていられないし、また歩き出そうとしたリーベの肩に手を置いた。瞬間、


「何でよッ! どうしてシルトが残らなきゃいけなかったのよッ!」


 乾いた音と同時に響くリーベの声と、視界に飛び込んで来る泣き顔。

 前にも体験した事。時間にして一日前か、異世界に来た事で時間の間隔が狂ってるけど、飛び込んで来た景色はあの時とそっくりだった。

 涙が宙を舞い、潤んだ瞳が僕を責め立てるように直視する。


 あの時も、そして今も、時が止まったような気がした。


 咎崎に叩かれた時のように頬に痛みは感じない。しかしそうしなきゃいけない気がして、僕は叩かれた頬に手を添えた。


──僕が悪かったのか?


 咎崎に叩かれた時は僕の発言が原因だ。しかし今回は発言ではなく、少し前の行動が原因だ。シルトに頼まれたとはいえ彼を置き去りにした僕に、ずっと共に過ごしていたリーベが腹を立てない訳がない。

 どう声をかければいいかわからず見上げると、そこには星空が広がっていた。

 あの状況だ、きっとシルトはもういない。逃げる事は絶対に出来ない。僕も同じ立場なら咎崎が逃げる時間を少しでも稼ぐだろう。

 もし生き延びているとしたら、都合よく救援が来たぐらいしか思い付かない。けど、それは絶望的だ。


「……ごめん」


 何も言えずにいると、胸元に感触を感じて僕は視線を落とす。するとリーベが僕の胸に顔を埋めていて、相変わらず俯いて目は合わせてくれないけど、わかってくれたようで安心した。


「誰カ、イルノカ?」


 耳に届く言葉。周囲を見渡すが、暗くてよく見えない。けど、確かに聞こえた。


「どうしたの?」


 ハッキリ聞こえたのに、どうやらリーベには聞こえていないらしい。


「今、何か聞こえなかった?」


「……呻き声、かな? わからないけど、警戒するに越した事はないかも」


 問うと、期待していた内容とは違う言葉が返って来た。先のキングゴブリンの時もそうだった。法則という単語を聞いたから反応出来たけど、どうやらあれは僕だけが聞こえたらしく、ライヒも含めて三人は一切反応しなかった。

 この世界に来て意味のわからない文字があった。……いや、それより前だ。確か初めは……リーベとシルトに初めて話し掛けた時だ。あの時は二人が何を喋っているのかまるでわからなかった。どうしてあの時話せるようになったんだろう。


 そう考えながら、周囲を警戒して声がした方に進む。危険だからリーベは置いて、手にカランビットを握り締めて。


「誰かいるの?」


 よく見れば行き止まりじゃない。暗くて見えなかったが、洞穴があった。その中に入り、すぐにそれはいた。


「もしかして“先代”のキングゴブリン?」


 黒い髪に長い耳、周囲に転がる笛や人に近い形をしていた事で、予想した。もっとも、上半身しかないそれを人間に近い形というのは少し気が引けるけど。


「アア……オマエ、人間カ。人間ガ何故我等ノ言葉ヲ……」


「こっちが聞きたいよ」


 僕がそう言うと、足元に転がっている元魔王は長い口の端を尖らせて不気味に笑う。


「ソウカ、翻訳魔法ヲカケラレタカ。ソノ者ノ意図ハ知ラヌガ、一人寂シク死ヌヨリハマシカ」


 翻訳魔法? つまり僕は誰かに魔族の言葉をわかるように魔法を掛けられたって事? いったい誰が……。


「シテ、オマエハ何故ココニイル? 此処ハ我ガ家、コノザマデナケレバ殺シテイル所ダガ」


「アンタにとって代わって魔王になった奴に仲間を殺られた。アンタがこのザマじゃないなら、むしろここに来てないよ」


「……息子ハ、強カロウ。我モ力及バズコウナッタノダカラ、人間ニハ些カ荷ガ重イ」


 息子にやられたのか、この魔王。こっちはその息子に命を狙われている。魔族に人間を襲うなっていう方が無理があるけど、躾がなってないせいで自分が殺されたのはさすがに間抜けな話だ。

 何か上手い皮肉を言おうと視線を逸らしたその時、僕は視界に写った物に言葉を失った。


「……アレカ? 今朝我ガコウナッタスグ後、天井ヲブチ抜イテ来タ。オカゲデ仲間ニ看取ラレズ逝ク事ニナッタ」


 赤い鉄骨の山が四本、ゴブリンの住処である洞穴の天井を破壊し、地面に突き刺さっていた。

 あの時、元の世界最後の思い出とも呼べる場所で、降り注いで来た鉄骨と同じ物だろうか。あの時落ちて来た鉄骨は一本で、ここには四本。数は多いけど、時期が被っている。

 僕は今まで咎崎と僕だけが転移したと思っていたけれど、これが同じ時間帯に落ちて来たのなら、あの工事現場一帯が異世界に転移したと考えるべきだろう。


「ソノ様子ヲ見ルニ、オマエノ仕業カ。ナラバ自業自得ダナ、ココヲ失ッタ我ガ同胞達ハ新天地ヲ求メ、オマエ達ト遭遇──」


「…………死に損ないのくせによく喋るね。今すぐ殺してもいいんだよ」


 確かに言う通りなのかもしれない。僕や咎崎がこの世界に来た事でゴブリン達は住処を失って移動を始めた。なら僕等がこの世界に来なければ、ライヒもシルトも死なずに済んだかもしれないし、リーベが悲しむ事はなかった。

 けど、いやしかし、本当にそうだろうか?


「自業自得……? それを言うなら──」


 そんな極論を話すならと、言いかけた言葉は飲み込んだ。もう“話す相手がいなくなった”から。


「言うだけ言って死ぬのか。……まあ、逆に今まで生きてたのが不思議なくらいだけど」


 僕とライヒが崖から転落した時、瓦礫の下敷きになってもゴブリン達は生きていたけど、上半身だけで半日以上生き続けるのはさすがに生命力があり過ぎるだろうに。

 とりあえず鉄骨よりも奥が見えなかったので見えるようになるまで進み、行き止まりである事を確認してから引き返す。元魔王の死骸の傍に転がっている尖った骨笛を見つける。投擲武器くらいにはなるだろうと考えて拾い上げ、僕は洞穴の外に出た。


「何してたの?」


「いや、抜け道になってないか確かめたんだけど、ここはどうやら使えなくなったゴブリンの住処みたいだ。奥に出口はなかったよ」


 さて、どうしたものか。引き返す以外に文字通り道はない訳だけど、そうするとキングゴブリン達と鉢合わせするかもしれない。


「となると、登るしかないか」


 ほぼ垂直、場所によっては反り返ってる高さ二十メートルはある崖を人一人抱えてロッククライミング。加えて道具はカランビット一つで命綱はなし。失敗したら負傷してるリーベは受け身すら取れないだろうし、回復魔法がない今死に繋がる怪我は避けたい。


「葵、ゴブリンが……」


 聞こえた瞬間、僕はリーベを抱えて岩陰に身を潜める。音を消す戦技の使用を考えたがどうせ発動しないので諦め、外套の中にリーベを隠すようにして頭を下げた。


──……もう追い付いて来たのか。


 となると、やはり救援は来なかったと見て間違いないだろう。

 様子を窺う為に僅かに顔を出しながら、口に出してはいけない考えを思い浮かべる。状況の整理は必要だけど、仲間が死んでいる事前提なのは、何とも言えない不快感があった。


 小柄なゴブリンが二匹。


 追っ手はもっといたハズだけど、シルトが数を減らしてくれたのかもしれない。楽観視は出来ないけど、このチャンスは逃しちゃいけない。

 奴等が通り過ぎた所で音を立てないように全力で逃げるべきだろう。いや、キングゴブリンの姿がないのは気掛かりだ。このまま奴等がいなくなるのを待って、ここに残った方がいいんじゃないか?

 考えが纏まらない。情報が少な過ぎる。せめてトゥーレへ帰る道さえわかれば──


「ぁ……あ……ッ」


 外套の中から顔を覗かせたリーベが口を開けている。何か見つけたのかと思った僕はもう一度岩陰から顔を出し、見つけた。


 シルトの大斧を担いだキングゴブリンを。


 しまったと、思った時にはもう遅くて、


「シル……ッ!?」


 慌ててリーベの口を塞いだけど、小柄なゴブリンが僕等を見つけて鳴き叫んだ。

 失念していた。奴の法則が武器を奪う法則なら、いや例えそうでなくともシルトの死を連想する物をゴブリン達が持っているかもしれないと考えるべきだった。

 舌打ちをして、リーベを手で抱き上げて走り出す。四の五の言っていられない。両手が塞がって武器も抜けない以上、キングゴブリンの横を通り過ぎて逃げ切るしかない。


──出来るかどうかわからないが、やってやるッ。さっきはシルトがいたから逃げ切れたとか、不安になる事柄は全部シャットアウトしろ。ただひたすら全力で、前に向かって突き進めッ。


 余裕綽々と棒立ちしているキングゴブリンを横切り、走り続けながらも振り向いて、追って来ないキングゴブリン達を見て自然と笑いが込み上げる。

 やった、成功した。もうこのまま逃げ切れる。


「“我ガ法則ヲ訊ケ”」


 どうして、僕はそう思ったのだろう。


 どうして、奴等は追って来ないのだろう。


 どうして、僕は……──


「“四十四番目ノ悪夢”」


 足を、止めたのだろうか。


 どうしてか、身体が軽くなった。ならば何も気に留めず走り去るべきだろう。何をしているのか、自分でもわからない。

 このまま走り去れば逃げ切れる。奴等は追って来ないのだから、シルトが作ったチャンスを、無駄にしない為にも。


 だから、僕は走った。


「ぁあーーーッ!」


 まるで戦利品を掲げるようにしてリーベの身体を握り締めるキングゴブリンに向かって。


 奪いやがった。必死に走って、逃げ切ったと思ったのに。奴はそんな僕の心境を見透かして、追わずに奪いやがった。

 群がるゴブリンが邪魔だ。押し退け、跳ね除け、首の肉を削ぎ落して、一直線にリーベの下へ向かう。


「……ぇ?」


 声を上げるリーベに手を伸ばす。あと数歩、あとほんの少し走って飛べば取り戻せる。彼女だけは、リーベだけは助けなきゃいけない。シルトに託されたんだ。殺させないし、奪わせない。

 何の為にシルトを見捨てたんだ。何の為に僕は痛みに耐えたんだ。何でもいい、その手を放せ。


「ごめんね、葵──」


「リーベ、僕は──」


 どうしてそんな事を言うんだ。今助けるから、謝罪じゃなくて礼を言ってくれ。

 けど、言葉の続きは出なかった。弾けるような音と共に、水を含んだスポンジでも絞るかのように握り潰されたリーベの返り血を浴びて、僕は走るのをやめた。


 何だこれは?


 どうしてこうなった?


 僕等がゴブリンの縄張りに来たからか?


 それともリーベ達と冒険に来たからか?


 リーベやシルトに逢わなければ、あの時声を掛けなければ、


『ナラバ自業自得ダナ』


 あの鉄骨の山と共に僕がこの世界に来なければ、二人は死なずに済んだのかもしれない。


 膝を折り、今日一日の出来事が頭の中で反復される。とても親切で、お節介で、優しい二人だった。僕の事を、手のかかる弟みたいに見ていたと思う。兄弟も家族も、僕の記憶に残っちゃいないけど、ただ暖かい二人だった。

 けどさ、もう……もうこの返り血からは、その温もりを感じない。


「僕が、悪いのか? ……どうして、二人が死んで……」


 僕がこの世界に来なければ?

 何を言ってるんだ僕は。そんな極論を話すなら、


挿絵(By みてみん)


「お前等が生きているッ!?」


 魔族が生きている事がそもそも悪いと、そう思った。

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