1 シンデレラの世界をぶち壊してやる
ちょうど一年前の今日、少女は、シンデレラに出会った。
けなげで優しく美しい彼女に、少女は嫉妬していた。きっと、すでにこの世にはいない両親からも、たくさん愛されて育ったのだろう。
憎い。なぜ彼女だけ。なぜあの子だけ。
――その少女の名を、アナスタシアという。亜麻色の長い癖毛と、緑色の透き通った瞳の持ち主である。
だがしかし……彼女には、誰にも言えない秘密があった。
それは。
……前世の乙女ゲームの記憶がある、ということ。
前世の自分は引きこもりで、この乙女ゲームをひたすらやりこんでいたのを、今でもよく覚えている。
そのゲームのタイトルは「シンデレラ」。
意地悪な継母と二人の姉に日々苦しめられながらも、勇気や優しさ、夢を見続けることを忘れなかった、前世の女の子の夢のようなゲームである。
そして……今。
「シンデレラ、水をちょうだい」
「シンデレラ、掃除して」
シンデレラ、シンデレラ、シンデレラ……。
毎日のように繰り返される彼女の名を、初めは、自分も調子に乗って呼んでいたことがあった。
憎くて、可愛いのが気にくわなくて。
――いじめたくて。
***
しかし、シンデレラに出会ってから、数ヶ月後。
「あっ」
パリンッ!
その日は運悪く、外が凍えるように寒かった。窓は結露でびしょ濡れになっており、アナスタシアの手にあったガラスのコップも、滑りやすくなっていたのだ。
いつものように「シンデレラ」と名を呼べばよいものを、なぜか自分はそうしなかった。
落ちたガラスを地道に拾っていると、ちくり、と破片が指に刺さる。
……ああ。なるほど。
途端にどうしてか、シンデレラをどれだけひどく扱っていたか、アナスタシアは思い出した。
そう、それはもう、突然に。
美人なのが羨ましかった。使用人の誰からも好かれているのが気にくわなかった。
だから、こんなにも知らないうちに、自分は醜くなっていたのだ。
大好きな恋愛小説を読む度、ああ、どうして悪役って、こんなにも哀れで醜いのだろう、と考えた。
でもそれは結局、人ごとではなかったのだ。
まさにそれは、自分以外の誰でもない。
――シンデレラから見て、自分は……。
「アナスタシア様?」
ふと、背後から声がかかった。その声に振り返ると、シンデレラ――いや、エラが、こちらを心配そうな目で見つめている。
咄嗟に、アナスタシアはガラスを手で隠した。
彼女に、余計な迷惑をかけたくない。
「な、なんでもないわ。気にしないで」
そう言ってガラスをかき集めれば、エラはそっとこちらへ歩み寄ってしゃがみ、一緒にガラスを拾ってくれる。
「……怪我するわよ」
「慣れていますから」
そう、にっこりと優しい笑みを浮かべる。
あれだけいじめたのに。
あれだけ傷つけたのに。
なのに、どうして彼女は、こんな自分に笑いかけてくれるのだろう。
「あら。……怪我、してますよ」
気弱な声で言えば、彼女は自分の手を握る。人差し指から垂れる血を、自分の掌で押さえ、来てください、と椅子に座らせる。
エラは棚から救急箱を持ち出すと、消毒液と絆創膏を持って、アナスタシアの前にしゃがむ。
そっと自分の手を取り、慣れた手つきで手当を施していく。
「……はい、出来ました」
「あ、あり……」
そのたった五文字の言葉は、すぐには口から出てこなかった。
昔から言いたかった言葉なのに、今だからこそ言える五文字なのに、喉に引っかかって出てきてくれない。
「あの……どうかしました?」
「へっ? い、いや……」
――今まで自分は、あの乙女ゲームどおりに生きてきた。
嫌がらせだってするし、暴言だって吐くし、エラを悪者みたいに扱ったりもした。
嫌いなのは本当だったし、消えろとまではいかないものの、早く王子と結ばれちゃえ、とは何度も思ってきた。
あの衝撃のエンディングまで、一直線に進んでいくはずだった。
でも。
もう無理。だってわたし、知ってるのよ? あの子がどれだけ苦しんできたか、あの子がどれだけ優しいか。
それを知ってしまえば、もう、嫌がらせなんかできない。
できるわけがない。
「……シンデレラ。いえ――エラ」
エラが、驚いたように自分を見る。
アナスタシアは、冷たく凍った彼女の手を、優しく握った。
「今まで、わたし、あなたにひどいことしてきたよね。あなたが泣いているのも知っているのに、苦しんでるってこともわかってたのに、」
本来なら自分は、悪役ポジションにいて、シンデレラを毎日のようにいじめて、そして結果、あのガラスの靴のおかげで一族もろとも没落コースで死ぬはずだった。それが正しいのだと思っていた。その筋書きどおりに生きてきた。
「あなたのことが、嫌いだったの。綺麗で優しくて、誰からも好かれて。だから」
だけど。
「――わたし、もう、こんな人生やめる。やめてやるわ!」
そんなふうに、誰かを傷つけて死ぬんだったら。
「エラ。今までひどいことして、ごめんね、ごめんなさい。それと……ありがとう」
それならいっそ、シンデレラの世界なんか……
「許して、くれる?」
わたしがこの手で、ぶち壊してやる!
***
アナスタシアは、母とドリゼラと共に、シンデレラをいじめていました。
今まで、たくさんの意地悪をして生きてきました。
でも。
――わたしは、そんな人生はもうやめる。
これからは、エラを守って生きていく。
わたしが、あのフェアリーゴッドマザーになる。
かつて、いじめっ子だったはずのアナスタシアは、なぜか、いつの間にか、シンデレラに心を開いていました。
そして、彼女こそが。
この物語のヒロインでした。