壁の外:混沌と悲劇
朝食を終えた折原は、エリシオンとともに司令ルームへ入った。 壁一面のモニターには、世界各国から送られてくる報告が映し出される。
人口の多い国ほどゾンビ化した人間が敵となり、検疫の進捗は遅れていた。 群衆の中に紛れ込む感染者は、秩序を乱す最大の要因だった。
アメリカでは巨大都市の混乱が続き、検疫所は常に人で溢れている。
ヨーロッパでは人口密度の高い都市部が苦戦している一方、北欧諸国は比較的早く検疫を終え、乳牛の飼育と魚の養殖を拡大していた。 アジアでは中国やインドが遅れを見せるが、日本と韓国の城塞都市はまだ情勢が落ち着いていない。
中東やアフリカでは水資源の確保が課題とされていたが、地下鉄ネットワークを掘削した際に地下水を全て確保済みであり、その水を利用した養殖施設が建設されていた。
避難民の受け入れ準備は、世界各地で着実に進んでいる。
折原は腕を組み、静かに分析する。
「いかに早く城塞都市の増築と食糧の増産を図り、避難民を多く受け入れ、空きのある城塞都市に送り込めるか……それが鍵となるだろう。」
その言葉は冷徹な計算ではなく、未来を守るための決意だった。
モニターには、増築される城塞都市の映像も映し出されていた。 畜産エリアでは乳牛が飼育され、魚の養殖エリアでは銀色の群れが水槽を泳ぐ。
さらに数年前から備蓄計画が進められ、難しいとされていた全天候型の米作も、エリシオン達農業型ロボットによって実現されていた。
黄金色の稲穂がドーム型施設の中で揺れる映像は、文明再建の象徴そのものだった。
折原はふと心配が胸をよぎり、エリシオンに問いかけた。 「エリシオン、ゾンビは中に入ってこないだろうか?」 エリシオンは落ち着いた声で答える。
「警備兵AIロボが外壁を守っています。ものものしい警備ですが、侵入は不可能です。さらに、検疫所には専用トンネルが設けられており、避難民はそこを通ることでゾンビに襲われずに済んでいます。」
その言葉に折原はわずかに安堵し、検疫所へ向かう決意を固めた。
要塞都市の外壁に設けられた検疫所は、秩序と混沌の境界線だった。
避難民たちは地上ルートから押し寄せ、長い列を作って検査を待っている。
だが、数年前からAIロボたちは検疫所につながる専用トンネルを掘削していた。
このトンネルは特殊ルートであり、避難民の流れを分散させるために設計されていた。
そのおかげで検疫所の混乱は最小限に抑えられ、ゾンビの襲撃からも守られていた。
折原が視察を始めたその時、母娘が列から進み出た。
母の顔は蒼白で、検査機器が赤を示した瞬間、群衆がざわめいた。 母の瞳に濁りが走り、ゾンビ化の兆候が露わになる。 娘が泣き叫び、母にしがみついた。
「いやだ!お母さんを連れていかないで!」 娘の声は鋭く、検疫所の空気を震わせた。
母は必死に娘の手を握り返し、震える声で囁く。
「大丈夫よ……離さないから……」
ナースAIロボが試験段階の薬を打ち込む。母の痙攣は収まり、濁った瞳が元に戻り、正気を取り戻した。
その薬は本来、乳牛の感染症を治すために開発されたものだった。偶然にもゾンビ化症状を抑える効果が確認され、今は人間への応用が試みられている。だが、完全な治療には至っていない。
母は隔離エリアへ連れて行かれる運命に変わりはない。
だがナースAIロボは人間に似せた柔らかな顔を浮かべ、ぬくもりのある声で娘に語りかけた。
「安心してください。お母さんと一緒に行きましょう。あなたを一人にはしません。」
娘の肩にそっと手を添え、母と娘を同じ隔離エリアへ導いていく。
泣きじゃくる娘の手を母の手に重ね、二人を離さないように支える姿は、機械でありながら人間以上の温もりを感じさせた。
母は隔離エリアへ向かう途中、娘の耳元で囁いた。
「必ず戻るわ。信じていて。」 娘は涙を拭いながら、小さな声で応えた。「うん……待ってる。」
折原はその光景を見つめ、拳を握りしめる。 秩序を守るための哲学――牛乳のように均衡を保つ思想――が、目の前の悲劇と優しさの狭間で試されていた。
「早く薬を完成させてくれ。完成させるためなら俺はどんな手を使ってでもやろう!」 折原の声は冷徹な命令ではなく、必死な願いだった。
母娘を救いたいという感情が、彼の言葉に滲んでいた。
外壁の外は混沌。 だがその中に、わずかな希望の光が芽吹いていた。




