進化の階層:呼ばれた名と、蠢(うごめ)く影
目の前の扉に立った折原たち。
後ろには戦闘AIロボ部隊が整列し、誰一人として前に出ようとしない。
扉の向こうで、何かが潜んでいるのは間違いない。
冷たい空気が、わずかな隙間から漏れ出していた。
地下四階とは明らかに違う“死んだ空気”だ。
ケイジが小さく呟いた。「……嫌な感じだな。ここだけ、空気が生きてるみたいだ」
ヴァリシオンが警告音を鳴らす。
『折原様、扉の向こうに不明反応。生命反応……ではありません』
折原は静かに特殊超音波ブレードに手を添えた。「分かってる。……いるな、何かが」
扉を重々しく押し開いた折原は、すぐに“動く影”を視界の端で捉えた。
……くちゃ、くちゃ、くちゃ。 暗闇の奥で、何かが蠢いている。
湿った肉を噛みちぎるような音が、静寂のフロアに不気味に響いていた。
折原はHUDの暗視スコープを明度最大に切り替える。
緑色の視界が一気に鮮明になり、影の正体が浮かび上がった。
――爪の長いゾンビが、死体を食い荒らしている。
死体の方に視線を移す。
その死体もまた、ゾンビだった。
「……共食い、だと?」
折原の眉がわずかに動く。
ゾンビ同士が食い合うなど、通常の感染個体ではあり得ない。
ケイジが低く呟く。 「おいおい……どういう状況だよ、これ」
ヴァリシオンが即座に解析を開始する。
『折原様、対象個体の行動パターンが通常のゾンビと一致しません。“捕食行動”が優先されています』
「捕食……?」 折原は息を呑んだ。
ゾンビがゾンビを“食う”理由など、本来存在しない。
だが、この個体は――まるで“飢えている”かのように、夢中で肉を貪っている。
くちゃ、くちゃ、くちゃ。 その音が、五階の静寂に溶けていく。 折原は直感した。 ――これは、ただの変異じゃない。
――何かが、この階で“進化”している。
ケイジが一歩前に出ようとした瞬間だった。
……カツン。 乾いた音が、通路の奥から響いた。
折原が反射的に顔を上げる。
暗視スコープの端に、細長い“影”が一瞬だけ映った。
「……誰か、いる」 ケイジが眉をひそめる。
「いや、違う。あれは“誰か”じゃねぇだろ」 ヴァリシオンが警告を重ねる。
『折原様、知性反応を検知……しかし、識別不能です』 折原の背筋に冷たいものが走った。 ――知性反応。 通常のゾンビではあり得ない反応だ。 そして、この反応には覚えがある。 (……まさか) その時だった。 通路の奥、暗闇の向こうで“それ”がゆっくりと立ち上がった。 ガリ……ガリ……と壁を爪で引っかく音。 その動きは、ゾンビのように鈍くはない。 むしろ、人間よりも静かで滑らかだった。 折原の視界に、細長い腕と、異様に伸びた指が映る。 ――あの知的ゾンビだ。
ケイジが低く呟く。 「おい……また出やがったのかよ、あいつ」 影がこちらを向いた。
暗闇の奥で、光のない瞳だけがぼんやりと浮かび上がる。
そして―― ……オリハラ…… 折原の名を、確かに呼んだ。
ケイジが息を呑む。 「おい、今……折原の名前、呼ばなかったか?」 折原は答えられなかった。
影はゆっくりと後退し、闇に溶けるように姿を消した。
……マタ……キタ……
声だけが、五階の奥へと吸い込まれていった。
……くちゃ、くちゃ、くちゃ。 爪の長いゾンビが死体を貪り続ける中、 通路の奥から、微かな“気配”が揺れた。
折原が反射的に顔を上げる。
その瞬間――
……オリハラ……
声だけが、闇の奥から響いた。
ケイジが目を見開く。
「おい……今の、聞こえたよな」 折原は答えられなかった。 声は確かに折原の名を呼んでいた。 続いて、低く歪んだ囁きが落ちてくる。 ……マタ……キタ……
ヴァリシオンが警告を鳴らす。
『知性反応……急速に後退しています』 影は見えない。 だが“そこにいる”気配だけが残っていた。
そして――
……オマエノ……アイテハ……コイツダ……
その言葉と同時に、 死体を食っていた爪の長いゾンビの動きが止まった。
ビキ……ビキビキ……ッ。
骨が軋む音がフロアに響く。 ゾンビの背中が盛り上がり、 腕が異様な角度にねじれ、 爪がさらに伸びていく。
ケイジが息を呑む。 「おいおい……変わり始めたぞ、あいつ……!」
折原はブレードを構えた。
――知的ゾンビが“進化の引き金”を引いたのか。
闇の奥で、声だけが最後に囁く。
……コロセ……
変貌した怪物が立ち上がる。
その背丈は、折原の視界を覆い尽くすほど巨大だった。
肉が膨張し、骨が軋み、太くて固い爪がコンクリートの床さえ簡単に引き裂けそうな程であった。




