魅惑の副収入
コバルトブルーに染まる冷たい空が、私はなんだか嫌いです。子供たちはそれぞれに家族の待つ家路につき、幸せそうな電灯が家々を灯してゆきます。そんな幸せな時間を、かつての私もきっと過ごしていたのでしょうね。さあ、あれから一体何年が過ぎたのでしょう、私は三十路になりました。両親は数年前に、孫可愛さに兄夫婦の暮す分譲マンションを買い叩き、引っ越していきました。私は生まれ育ったこの家を譲り受け、冴えないOLをしています。
一人暮らしというものは、なんともわびしいものですね。今日も私はデパ地下のお弁当をタイムセールで買って来て、缶ビールをちびりちびりとやるのです。面白くもないテレビを消して、私は貯金通帳を取り出します。そしてひとりでそれを眺めては、にやにやするのです。次は箪笥の中から小銭を出して数えはじめます。百円均一で買ってきた、コインケースに硬貨を種類別に入れていく作業といったら……ああ幸せ。エステに行くより、甘いものを食べるより、この小銭セラピーこそが私を最高に癒してくれるのです。親孝行? 親なんてどうせ自分より先に死ぬ。兄弟? そんなもんこれっぽちも当てになんてなりません。友人? ふん、鼻で笑うわ。
地獄の沙汰も金次第。世の中お金、お金だけが私を癒し、守ってくれるのです。女もね、30歳を超えると、若さを失ったかわりに強かさを手に入れる。そうやって自分の傷を上手に舐めて、生きていく術を手に入れるんです。
結婚? ああ、結婚を夢見たことも確かにありました。20代の頃には、そんな甘やかな幻想に胸を膨らませてもいました。友人たちの華やかなドレス姿を、私は何度羨望の眼差しで見つめたことでしょう。十人並みの容姿の私は、皆にとってさぞかしいい引き立て役になったことでしょうね。物欲しそうな私の顔を見て、皆さぞかし優越感に浸ったことでしょう。でもね、女は結婚すると、皆おばはんになるんです。そして子供を産んだらおっさんになる。今度はそんな友人たちを、私は冷笑してやるのです。それでもなお、自分の心に、いつの頃からかぽっかりと空いた、孤独の穴は埋まることなく、ときどき死にたくなるほどにスースします。
私はパソコンのスイッチを入れて、立ち上がるまでの間に、自分のために鍋でホットミルクを沸かしました。それを飲むとなんだか、泣きたいような気持ちになりました。やっぱりお酒にしとけばよかったと思いました。
おっと、あかんあかん。話がやたらと暗くなってしまうわ。仕事でうだつがあがらへん、おまけに結婚もしてない、ついでにいうなら彼氏もいてへん、私は世間でいうところの負け組。でもそんな私に神様がひとつだけ、素晴らしい才能をくれたんです。それはケチという才能なんです。お金を貯めるという才能なんです。そして聞いてください。私には夢があるのです。
画面に映るのは不動産情報。
「よっしゃ、これや!市内中古マンション1DK、700万円台。登記費用、改装を考えても800万でいける」私は膝を打って、勢いづきました。短大を卒業し、苦節10年。必死の思いで貯めたお金、それが自分の全てでした。
そして私は翌日、その中古マンションを即金で買いました。
市内の一等地、日当り良好、なんとも言えん、ええわ。ベランダの窓を開け、私は思い切り伸びをしました。すでに鍵を貰っていて、私は我が城を眺めにこうして会社帰りにやってきたのでした。
「ええと、電気、水道、ガスの手続きと、登記が終わったら速攻でリフォームにはいらんとね」私は手帳を取り出して、部屋の寸法やらを手際よく書き出しました。このところ寒さの厳しい日が続いていたけれど、今日はめずらしく小春日和のいいお天気。斜陽がやんわりと窓から差し込んでいる様を見て、私はにわかに焦りを覚えました。
はよせな、あかん。4月の新年度に向けて、すでに顧客の不動産の物色ははじまっている。出遅れてなるものか! 不動産賃貸業。これが私の夢の不労所得――――
絶対に顧客をつけてみせる! そう意気込んだのでした。
登記も無事に終了し、リフォームもいい感じに仕上げてくれました。私はホームセンターに行き、照明とカーテンとそれとおそろいのスリッパを買いました。これはいわばお菓子のラッピングとおまけみたいなもので、中身は同じでもそのラッピングと、ちょっとしたオマケをつけることで商品の売れ行きは、おのずと違ってくるのです。カーテンは淡いブルーで、レースのカーテンには濃いブルーの菫が小さく刺繍されてある、ちょっと洒落たものでした。スリッパにも同じ菫が刺繍されてあります。このスリッパにも意味があって、物件を賃貸するにあたって仲介を不動産屋に依頼しているのですが、このスリッパの位置の乱れで、客が来たかどうかを観察するのです。あとは少し上等目の芳香剤を置くことと、トイレットペーパーを三角に折っておくことです。小さなことですが、なんだか釣りに似ているようでわくわくします。そしてとうとう、釣り餌に魚がかかったのです。もとい私の物件を借りたいという客が現れたのです。不動産屋からのFAXに目を通し、私の胸は高鳴りました。
「えっとお、杉浦孝四郎28歳、ちっ年下か。勤め先、N商事……めっちゃエリートやん。年収……うわっすごい」
エリートで、こんだけ年収があるのに、こんなしけたワンルームマンションを選ぶなんて、奇特な人やなあと思いました。家賃は月7万5000円に設定しました。7万円は私の副収入となり、後の5000円は共益費ということになります。貯金はすっからかんになったけど、月7万円の副収入はおいしいと、貯金通帳を見ておもわず顔が緩みます。
半年ほど経ったころでしょうか、銀行に記帳に行ったのに、例の借主から入金されていないのです。しかたなく私は借主である、杉浦孝四郎氏の携帯に電話をしました。「家賃を払ってください」というと、「申し訳ありません」と愁傷気に言いますが、期限を聞くとすごくつらそうでした。せやけど、こっちも商売、ボランティアでやってんのとは違います。ああ、お金ケチって間に保障会社を入れなかったことが悔やまれる。
ええい、こうなったら、自分で取り立てに杉浦氏の住まいに行くしかない。と腹をくくりました。
「権利の上に眠るものは法の保護に値せず!催告や催告」いつぞやに受けた行政書士試験対策の講義で、講師の先生がいっていたではないか。しかしそう自分を奮い立たせるも、世の中物騒やしなあ。逆ギレされて簀巻きにコンクリート詰めで、大阪湾に流されたらどうしよう。そんなことが一瞬脳裏を過ぎっておっかなかったけど、ふと思ったのは、『自分が死んで、誰が本気で悲しんでくれるだろうか』ということだった。夫もおらん。子供もおらん。親はおるけど、所詮自分なんて兄のスペアみたいな存在。自分がいなくなったところで、さほど困ることもあるまい。
「いつ、死んでもええわ」
そんな軽さが寂しくもあり、また心地よくもありました。
大家の特権で、私は杉浦孝四郎邸の部屋の鍵を勝ってに開けました。
「ちょっと、入るわよ。私、大家の野々村です。はじめまして」
慇懃無礼に、私はずかずかと部屋に踏み入ります。
「あっ、どうも」
夕方にも関わらず、パジャマ姿で無精髭を生やし、男はパソコンの前に座っていました。生気のない顔で、じっと私を見つめます。
ちょ……ちょっと私なにドキっとしてるのよ。今まで散々枯れた女やったくせに。私はブンブンと頭を振りたい衝動に駆られました。でも、アカンこれは反則や。めちゃめちゃイケメンやん。ワイルド系?いやなんかでも、草食系の優しい甘さもある。アカン、アカン。これは仕事や。私は今家賃の取立てという一大事業を行おうとしてるんやで、正気に戻れ私。私は私を必死で説得したのです。
「お茶飲みます?」
媚びるでもなく、なんだかそれは自然な笑みに見えました。
「ええ、いただくわ」
私はどっかりと腰を据える。
「家賃のことですが、本当に申し訳なく思っています」
ひどく疲れたような顔で、申し訳なさそうに謝ってくれました。どうしたんやろ、私。イケメンやから無意識にチェック甘いんやろか?
「それで、無理を承知でお願いするんですが、自分は今小説を書いていて、どうかこの小説を書き終えるまで、家賃を待っていただけないでしょうか。実は僕失業していて、貯金も底をついた状態なんです。でも今出版社の方から声をかけていただいて、ようやくデビューに漕ぎ着けたんです。この小説さえ書き終えたら、原稿料が貰えるんです。だからそれで家賃の滞納分を必ずお支払いしますので」
このとき彼がもし、イケメンでなかったなら、
「なに言うてんねん、このご時勢そんな甘っちょろい話が通用すると思ってはるんか?誰かに借りるなり、血売るなりしてでも絶対に払ってもらいます。なんならその編集社に立て替えてもらったらどないですか?」くらいは言っただろう。ううう、恐ろしやイケメンパワー。
何をとち狂ったのか私は
「その小説、読ませて。その内容を見て決める」
なんて言ってしまったのです。一瞬、彼が目をまんまるくさせて、ぽかんと口をあけました。そのアホ面といったら……。
「まるで、お前なんかにわかるかって顔してるわね。これでも私昔、月刊タイガースに投稿して3回くらい掲載されたことあるのよ」
自信満々に言ってやると、彼の顔が微妙にひきつったように思いました。
「あ……あの、月刊タイガースは別に……」
「家賃待ってあげているのだから、それぐらいは利子よ。見せなさい」
そういうと彼は、しぶしぶパソコンの横に散乱する紙を束ねて持ってきました。
それは、男と女の悲恋を綴ったものでした。男に戯れを仕掛ける女、しかしそれがもとで男の嫉妬を買い、やがて愛する男によって命を絶たれる女。女は全て計算尽だったのです。昔犯した自分の罪の大きさに耐え切れず、にこやかに艶やかに笑いながら、密やかに死を願うようになったのです。女は愛する男の手にかかり死ぬことほどの幸福は無いと、遺書に綴りました。
芸術というものは不思議である。なぜこうも人の心をとらえて離さないのか。全然水をはじかないお肌と同じく、私の枯れきったカスカスの心にもまだ、感動するという人並みな感性が残っていたことを知りました。胸に感じるあたたかさ。ああ一体何年ぶりのことでしょう。
「野々村さん、泣いてくれるのですか?僕の作品を読んで泣いてくれるのですね」
彼の顔が輝きました。確かに凄い、彼のイケメン関係なくすごい作品だと思いました。
「すばらしい作品だと思うわ。仕方がないわね、今月末まで家賃待ってあげる」
「あっありがとうございます。それと完成したら、一番最初に読んでくれますか?」
なぜだか、どぎまぎしてしまいました。それはこの人にとって人生を賭け、それこぞ魂を込めて書いたものに違いないだろうに、そんな神聖な領域に自分などが踏み入ってもよいのだろうか。私はごくりと生唾を飲みました。
「いっいいわよ。光栄だわ、私もその作品の仕上がりを楽しみにしているから」
本当は恐ろしくもありました。だけど私は精一杯の虚勢を張りました。
「ところでその作品、一体いつ仕上がるの?」
そういうと彼はひどく辛そうな顔をしました。
「もう少しなのですが、スランプで」
騙されてる、私はきっと騙されているのです。あれは時間稼ぎの小芝居に決まっている。だけどふと、そんな美しく甘やかな嘘に騙されてみたいと思いました。そして今日も私はひとり寂しくデパ地下のお弁当を貪り食らうのです。
そのとき携帯が鳴りました。
着信は杉浦氏からでした。
「野々村さん、もう僕書けません!」
「はあ?」
そして私は小一時間後には、杉浦邸の前に仁王立ちで佇んでいたのでした。なぜだか両手に食材を持ちながら。
「野々村さん、うううっ」
私は号泣している杉浦氏を怒鳴りつけました。
「甘えたことぬかすな!そんなに書いてもいないでしょ!家賃かかってんのよ、死ぬ気で書きな!」
四の五の言わさず、杉浦氏をパソコンの前に座らせ、そして私は両手の食材を展開し、料理を作り始めました。もうここ数年一人暮らしをはじめてから、料理なんて作ろうと思ったことさえありませんでした。作れないわけではないのです。一応これでも一通りは勉強したんです。誰かのためにと思うとき、人の心は熱くなるものなんですね。傷つくことを恐れ、自分の殻に閉じこもり、小銭を数えていた日々。それはどこか冷めていて少しずつ自分が死んでいくような感覚にとらわれました。諦めという平安を得た代価に、心が死んでしまったのです。いや、正確には眠っていただけなのかもしれません。そして、彼の書く作品を読んで、心がざわつきました。自分の中で目覚めた何か。それは熱く、なんだか、かかっかかっかとして、自分でも説明がつきません。この人の為に、なにかをしてあげたい。この作品を作るための手助けをしたい。そう思っている自分がいました。
手早くミートスパゲッティーとサラダを作り、杉浦氏の前に置きました。なんだかそれは少ししょっぱいような気がしましたが、杉浦氏は泣きながら完食していました。
「おっ美味しいです。野々村さん。あの……野々村さんって下の名前、貴和子さんっていうんですよね」
「なんで知ってるの?」
「えへへ、賃貸契約書に載ってました」
「あっそう」
不機嫌な振りをして照れを隠した私の顔を、こてんと床に寝転んだ杉浦氏が意味ありげに覗き込みました。あっまた反則。その顔自体が反則なの!
「貴和子さんって、呼んでもいいですか?」
私の心臓は壊れたかと思うくらいに、ばっくばっくといっています。
「ようし、なんだかヤル気と元気が沸いてきたぞ。今夜中に仕上げてしまいます」
杉浦氏は腕をまくり、はりきってパソコンに向かいました。それから何時間経ったでしょうか。私はうつらうつらと眠ってしまったのです。夢の中で私は猫になっていました。優しくあたたかな手のひらが何度も何度も私の頭を撫でてくれるのです。それはなんとも言えず気持ちの良いものでした。お日様の匂いがしました。
「やった! できた~完成」
そんな杉浦氏のけたたましい雄たけびによって私は目覚めました。
「貴和子さん、できたんです! ついに完成したんです」
杉浦氏は喜びのあまりむんずと私の手を握って離しません。東の空に太陽が昇り始め、私は杉浦氏と夜明けのコーヒーを飲む破目になりました。なにひとつHなことはしていませんが。今日が土曜日で会社が休みでよかったな、なんてことをぼんやりと考えていました。
それから一週間後、また杉浦氏から電話がありました。なにやら深刻そうな声色でした。
「貴和子さん、折入ってお話があるんです」
そして例によって、私は杉浦邸の前で仁王立ちスタイルで佇むのです。
「貴和子さん、どうかこれを受け取ってください」
そういって杉浦氏が手渡したのは、生命保険の証書でした。
「なにこれ?」
「僕の生命保険です。わずかですがこれで滞納した家賃お支払いできるかと思って」
「どういうこと?」
「僕、旅に出ようと思って。もう洗剤とガムテープも買ってあるんです」
「あほかあ!」
気がついたら私は杉浦氏をグーで殴り倒していました。
「あんたが、ここで自殺したらこの物件、瑕疵物件になってしまうやんか! そしたら値段ごっつい下がるし、借り手もつかん」
「だけど、もう僕にはこれしか家賃の滞納分を支払う方法がなくて」
「原稿料もらえるっていってたやんか!」
「それが、原稿を送付してから1週間経つのに、なんの音沙汰もなくて」
「だからって、簡単に生きることを放棄すな。ちゃんと生きて、そして何度でも作品を書けばいい! 出版社に認めさせるまで書き続ければいいじゃない! 私は……あんたの作品が好き、大好きなんやから」
そうヒステリックに叫ぶと、杉浦氏は私を抱きしめ、堰を切ったように泣き出しました。私も泣きました。二人で泣いて泣いて、ひょっとしたら一生分泣いたんちゃうかと思うぐらいの大泣きでした。
私が薄っぺらい杉浦氏の胸部で、酸欠のために危うく昇天しかけたころ、杉浦氏の携帯のバイブがビビビと鳴りました。
「あっもしもし、杉浦ですが」
私は思わずその場で手を握り締めて神に祈りを捧げました。携帯の電波が悪いのか、杉浦氏は私を部屋に残して廊下へと移動しました。しんと静まりかえった部屋に刻まれる秒針がやたらと大きく聞こえて、なんだか緊張した手のひらが汗ばみます。
「え? 本当ですか?」
ガラス戸越しに、上ずった杉浦氏の声が聞こえます。
神様、いいんでしょうか、期待を持っていいんでしょうか。
固く閉じた瞳からいつの間にか涙が溢れていました。
神様、どうかお願いです。死ぬ気で書いた彼の作品を、どうか……。なんだかくらくらと眩暈を覚え、私はそっと額をガラス扉にもたせ掛けました。ひんやりとした冷たさが心地良くて、小さく吐息を吐きました。
「貴和子さん、やったよ。僕やった。小説ちゃんと採用されました。原稿料貰えるんです。来月から、連載も貰えるんです」
次の習慣、勢いよく扉が開いて、私は強かに顔面を打ちつけてしまいました。「ぎゃっ」と小さく叫びましたが、どうやら鼻血が出たようです。たらりと生暖かい感触がします。うっわ、だっさー。
「貴和子さん、ええ? 鼻血。ごめんなさい。本当っ重ね重ね、すいません」
手当ては杉浦氏がしてくれました。血でよごれた顔を濡らしたガーゼでふき取って、小さく千切ったテッシュを詰めます。色んな意味合いをこめて、泣きたいと思いした。
「ちゃっ、ちゃんと家賃払いなさいよ」
とりあえず言ってみたけれど、鼻にテッシュ詰めている身ではちっとも格好がつきません。私は不貞腐れ、そっぽを向きました。
「じゃあ貴和子さん、前金払いますんで、ちょっと目閉じてもらえませんか?」杉浦氏は優しく微笑みました。
「なに? これでいいの?」
降りてきた何かが、優しく唇を掠めました。
驚いて見開いた目の前のに、杉浦氏のマジ顔がありました。
「結婚してください。貴和子さん」
ビビった私は思わずこくりと頷いて、その場で腰をぬかしてしまいました。極度に興奮したのでしょうか、今度はもう片方の鼻の穴からも、生暖かい感触がしました。
「ええ? ちょっと貴和子さん。大丈夫ですか!」
若葉萌え出ずる五月が終わり、花嫁の美しき6月を迎えようとしていたのでありました。