第9話 白い謝罪の声
黒い鹿のS級魔物『黒曜の幻鹿』が締め上げられ、塵となったその場所には、異様な存在感を放つ“遺物”が残されていた。
「……なんだこれ」
足元に転がっているのは、黒光りする石と、見事なまでに禍々しい漆黒の角。
「魔石と角だな。黒曜の幻鹿の素材だ。しかも、かなり上質」
マルコスがしゃがみ込んで、角を手に取った。
「これ……商会に持ってったら売れるかな?」
「……これは、かなり高く売れる。けどな、ダメだ」
「なんでだよ」
「そんなもん売ったら、俺たちの実力がバレちまうだろ」
おい、カッコつけるな。
さっきの戦闘中、マルコスの魔法弾かれていたような……
「俺たち、じゃなくて。倒したのセレナなんだけど?」
「……俺の時間稼ぎがな。勝負の分かれ目だった。非常に重要な、ナイス、アシストだっただろ?」
「……アシストっていうか、セレナに邪魔って言われてただろ」
「ぐっ……」
マルコスが胸を押さえて膝をつく。
たぶん心にダメージ入った。
「まぁ、そういうことにしといてやるよ」
「とりあえず、その魔石と角は家に保管しておくからな」
「なあ、セレナの強さがバレるのって、まずいのか?」
「いや、セレナの強さが、バレるのは別に問題ねぇよ。……問題は、お前がこっちの世界に還って来てるって事がバレることだ」
その言い回しに、胸の奥がわずかにざわついた。
「……誰に?」
「川島家の残党さ。今も復讐のために戦い続けてる川島家・ゼルト派の奴らに、お前が戻って来たって知られたら、奴らは放っといてはくれねぇ」
なんとなくだが、マルコスの言いたいことが分かった気がする。
つまり俺が還ってきたと知ったら、川島家はきっと言うんだろう。
「ならば、復讐を果たせ」と。
「川島の名を継ぐ者として戦え」と。
「……マルコスは、どう思ってるんだよ」
率直に訊くと、マルコスは空を見上げながら、少しだけ笑ってみせた。
「俺だって……仇を討ちたいって気持ちはあるよ。ゼルト派の奴らと同じくらいにはな。セレナも、シラスも、そうだ。でも」
言葉を区切り、マルコスの声が少しだけ低くなる。
「……あいつらのやり方は好きじゃねぇ。憎しみに囚われすぎて、もう周りが見えてねぇんだ。守るべきもんを忘れて、壊すことばっか考えてる」
風が一瞬だけ、森の木々を揺らした。
あぁ、そっか。
マルコスは、ただのバカじゃない。
いつもふざけてるけど、その奥にはちゃんと正しさを持ってるんだ。
「だから、翼。今のお前がどこにいたって、俺は別にいいと思ってる。……ただ、あの家に戻るなら、自分の意思で行けよ。誰かに言われたからじゃなくてさ」
そう言ってマルコスは、俺の背中を軽く叩いた。
そのとき不意に。
「……若様の……好きにしたら良いよ……」
腕の中から小さな声が漏れた。
セレナ??
寝息混じりの寝言みたいな呟きだったけど、
ちゃんと、俺に届いた。
「……起きてるのか?」
返事はない。
けど、その言葉だけで、なんだか胸の奥があったかくなる。
「……そうだ。どんな選択をしても、俺たち森野派はお前について行くぜ」
「森野派……って、菜那さんの?」
「ああ。俺もセレナもシラスも。全員、川島家・森野派の生き残りなんだ」
その言葉に、胸の奥で何かが静かに震えた。
「……そうだったんだな。知らなかったよ」
マルコスが笑いながら、ぽんと俺の肩を叩く。
「ありがとな……」
俺はそっと、腕の中のセレナを見ると。
彼女はもう完全に夢の世界へと戻っていて、小さな寝息だけが静かに響いていた。
***
「翼、本格的な冬になる前に、自分の身くらい守れるようになっとけよ」
冬は弱体化するからって意味なんだろうな。
つまり、冬の季節は、俺ひとりでなんとかしなきゃいけないって事だ。
だけど、
「……間に合う気がしねぇ……」
冥来は、いまだに使えない。
ちょっと力を込めすぎると暴発するし、逆に抑えすぎると何も起きない。
練習を始めてから一ヶ月以上経つけど、まだ戦えるってレベルには全然届いてない。
今日の練習も結局、疲れただけで終わった。
練習終わりにグランベリーや木の実、商会で売れそうな物を探すが全然見当たらない。
……これじゃ、マルセラに会いに行く口実も作れないじゃん。
今日は……会えないのか……?
毎日商会に行ってたのに、デートの次の日に限って行かないとかイメージ悪くないか?
***
家に戻るとマルコスは昼寝、セレナは冬眠中。リビングは静まり返っていた。
……なんか、俺だけ取り残された感すごい。
窓の外を見れば、空はどんより曇り空。
「あぁ、暇だな……」
コンコン。
玄関の方から、ノックの音が響いた。
「……ん? 誰だろう?」
「すみません」
扉の向こうから聞こえてきたのは、低めの落ち着いた声だった。男の声……だな?
「は、はいっ!」
思わず声が裏返る。
慌てて玄関に向かい、扉を開けると。
そこには、見知らぬ男が立っていた。
「少し、お尋ねしてもいいですか?」
男の声は穏やかだったけど、どこか確信を持った口調だった。
「えっ……は、はい」
「片腕の方って、あなたですよね?」
「……そうですけど」
なんで知ってるんだ。
そう口に出す前に、男の手元に目が行った。
「このリュック、あなたのものですよね?」
その瞬間、脳がフリーズした。
リュック。
異世界に来る時、背負っていた物だ。
最低限の食糧と水と着替えと
お守り代わりの推しの写真集。
何より覚悟を詰め込んだ、大切な荷物。
でも、腕を食われた洞窟に置きっぱなしになってたはず。
それが、目の前にある。
「そのリュック……俺のです。間違いないです」
「……あ、良かったです」
「えっと……でも、なんでこれをあなたが? それに、どうして俺のだって分かったんですか?」
「……いやぁ、実はですね。たまたま会った女性に、頼まれまして」
「……女性?」
「はい。白い髪の、やたら上品な口調の……それはもう、とんでもなく綺麗な方でしてね。『このリュックを、片腕の青年に渡してほしい』って、そう言われたんですよ。いや、美人にお願いされちゃったら断れませんって!」
その瞬間、背中に冷たいものが走った。
脳裏に浮かぶのは
ノエル。
最近少しだけ遠くになっていた存在が、一瞬で背後まで迫ってきたような感覚。
左肩の“喪失”が疼く。
ただの記憶じゃない。
あの夜、夢とも現実とも分からぬ狭間で、
俺の左腕は、ノエルに喰われた。
聖女のような白の裏にあった、底知れない黒。
「本当は……彼女にこのリュックを託されたのは、一ヶ月以上も前のことなんですが……」
男は少しバツが悪そうに頭をかいた。
「“片腕の青年”っていう手がかりだけだったので、あなたに辿り着くまでに時間がかかってしまいました。申し訳ない」
「いえ……全然、大丈夫です。むしろ、ありがとうございます」
「それと……彼女から、リュックの持ち主に伝えてほしいって言われてましてね」
「……伝言?」
「えぇ、ちょっと曖昧なんですが……たしかこう言ってました。
『……取り返しのつかないことをしました。謝って済むなんて、思っていません。でも、それでも……ごめんなさい』
って。……たしか、こんな感じだったと思います」
その言葉を聞いた瞬間、背筋が凍った。
さっきまで穏やかだった時間が、何かに飲み込まれるように濁っていった。
「……わ、わかりました。わざわざ、ありがとうございます」
絞り出した声は、自分でも驚くほど震えている。
「それでは、私はこれで」
男が丁寧に頭を下げて去っていくのを、ただ茫然と見送るしかなかった。
理解できるのは言葉の意味だけ。
心の奥では得体の知れない恐怖が響いていた。
優しさなのか、それともまた、罠なのか。
彼女の本心が、まるで見えなかった。
『取り返しのつかない事をしてしまいました』
それはつまり、あの夜のことだ。
俺の左肩。空っぽの袖。
俺にとっては悪夢のような夜。
リュックに付いてる血を見ると、
遠くに行ったはずの恐怖が、また這い寄ってくるようだった。
……どういうことなんだ。