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第8話 女神の巡礼



**【マルセラ視点】**



 今日のランセル商会の朝は、少しだけ苦い。帳簿の香りと、紙の端で切った指の鈍い痛み。忙しなく動く職員たちの気配にまぎれて、私はいつも通りの顔をしてカウンターに立っている。


 だけど今日も、来てくれるだろうか。心のどこかで彼の姿を探している自分がいた。

 川島翼さん。ランセル家の新しい家族で左腕がない彼。


 最初に会った日、私は衝撃を受けた。家族契約して彼と握手した私の手は信じられないくらい、何も反応しなかった。初めてだった。

 あの時の私は、どんな顔してたんだろう。

 私の身体は男の人に触れると蕁麻疹が出てしまう。だけど何も起きなかった。

 翼さんは私の言葉を真っすぐに聞いて、ちゃんと受け止めてくれる優しい人だった。

 それが分かってしまったから、私は困っていた。


「マルセラさん、こっちの納品、確認お願いします!」

「あっ、はい、今行きます!」


 声をかけられて慌てて返事をする。今日も商会は忙しくて、ぼんやりしている暇なんて本当はない。だけど仕事に身が入らない。ふとした拍子に、彼の事を考えてしまう。


 これって、なに? ただの好奇心……だよね? だって出会ったばかりだし、まだ彼のこと何も知らないのに。

 だけど……あの声、あの瞳、気づくと心のどこかに残ってて。

 もっと話してみたい。もっと知りたい。けれどその気持ちが、「変に思われたらどうしよう」って不安が邪魔をしてくる。

 

 好きなんて言えない。そんなはずない、まだそんなはずないよ。

 何度そう言い聞かせても、胸の奥がふわりと熱くなる。

 あぁ……でも私……彼のこと、ちょっとだけ特別に見ちゃってる。

 

***


 ──その夜

 お風呂あがりの夜風が窓の隙間からふわりと吹き込んだ。

 私は、商会で働く前はザリアナ城でメイドをしていた。そして今もザリアナ城のメイド寮で暮らしている。もうメイドを卒業して久しいけれど、この部屋だけはどうしても離れられなかった。


 だって、この部屋には、私の大好きな人がいるから。

 イドナ先輩。私にとっては、お姉さんみたいで時にはお母さんみたいで誰よりも頼りになる大切なひと。私は、いつまでたってもイドナ先輩離れができないでいる。

 まだ右も左も分からなかった頃、何も出来なかった私に、掃除の仕方を優しく教えてくれたのも、泣きたい夜にそっと背中を撫でてくれたのも、いつもイドナ先輩だった。

 だから、職場が変わっても、立場が変わっても、私は今もここにいる。


 イドナ先輩のいびきは、今夜も絶好調だ。お腹を出して、たまに寝ぼけた手でポリポリ掻いたり、ときどきギリギリと歯ぎしりが混ざったりするのも、すっかり日常の一部。


 うん、これがいつもの夜。

 何の変哲もない、だけど大切な時間。隣にイドナ先輩がいてくれるだけで、どこか安心する。

 

 ──次の日の朝

 出勤前の支度をしていると、

「マルセラ……誘ったほうがいいと思うけどな」

 イドナ先輩が急にそんな事を言った。

「えっ、なにをですか……?」

 わざとらしく、とぼけた声が出てしまう。

「翼くんだっけ? アンタ最近、彼の事を楽しそうに話してるじゃない」

「そ、そんなこと……!」

 心臓が跳ねるのが初心者すぎて、動揺が隠せない。

 バレてる。というか、ずっとバレてた。

「気づいてないと思ってたの? 無理よ? 顔に出すぎ」

「……自覚は、ないんですけど……」

「それならなおさら。自覚がないうちに、想いって、どんどん膨らむから。どうせ止められないなら、せめて自分から動いた方がいいよ? 初めて痒くならなかったんでしょ? だったら逃しちゃダメよ」

「でも……知り合ったばかりだし」

 声がほんの少しだけ震えた。

「それに、まだ少し怖いです……」

 イドナ先輩は何も言わずに隣に座ってくれた。その静けさが、なんだか凄く優しかった。

「マルセラ、一度くらい冒険してきなさい。ダメだったら励ましてあげるから」

「うん……」

「それに、アンタが誰かと笑顔になるところ、私は一度でいいから見てみたいな」


 そう言って笑った先輩の瞳は、ただただ優しかった。その優しさに胸の奥がふわっとほどけて、私は静かにうなずいた。


 彼の事は、まだあまり知らない。名前と声と笑い方と優しさのかけらしか知らないのに。それだけで、こんなに心が動いちゃうなんて。『知り合ったばかりなのに』って、思ってしまう自分がいる。だけど『やっと出会えた、触れられる人を逃したくない』って思う私も、確かにここにいる。


 彼のこと、もっと見たい。もっと話したい。もっと笑ってほしい。その隣で私も笑いたいって思ってしまっている。

 この気持ちが「恋」かはまだ分からないけど、今はただ、初めての気持ちを信じてみたい。


「……イドナ先輩」

 声をかけると、イドナ先輩はブラシをくるくる指で回しながら振り向いた。

「今日……翼さんに会えたら……その……食事に、誘ってみようかなって……」

 自分で言っておきながら、胸の奥がふわっと熱くなった。頬まで火がついたみたいに熱い。うつむきそうになる顔を、なんとかまっすぐ上げた。イドナ先輩は一瞬ぽかんとしたあと、ぱぁっと顔を輝かせた。

「やっと言ったーっ! よし、偉いっ!」

 言葉と同時に、ぽんぽんっと私の肩を軽く叩いてくれる。その手のひらが、あたたかくてくすぐったい。

「じゃあ今日は気合い入れて、最高に可愛くしてあげるから。もう、いつもより三倍盛りでね!」

「あ、イドナ先輩! 翼さんが買ってくれた髪飾りつけて」

「はいはい、わかりましたよー」

「やったぁ! ありがとうございます」

 そう答えると、イドナ先輩はふふんと鼻を鳴らして私の後ろに回り込んだ。髪を優しくほどきながら指先がゆっくり動いていく。

「ねえ、マルセラ……恋してる顔って、ちゃんと可愛いよ」

 不意にそんなことを囁かれて顔が一気に真っ赤になった。鏡越しに笑っている先輩の瞳が、まるで光の粒みたいにキラキラして見えた。

「……まだ恋って感じか分からないです!」

「あーはいはい」

 髪型は、先輩が一生懸命セットしてくれた特別仕様。鏡の中の自分を見て、少しだけ照れくさくなる。

「うん、完成。可愛いよ」

 そう言ってくれた先輩の声が、くすぐったくて、でもすごく嬉しかった。

「うわぁ、素敵です。ありがとうございます」

 歯がゆくて、ちょっとくすぐったいこの気持ち。今日がほんの少しだけ特別に思えた。


「……行ってきます」

 そう言って扉を開けると、背中に優しい声が届いた。

「行ってらっしゃい、頑張って、マルセラ」

 私は小さく頷いて、ほんの少し早足で商会へ向かって歩き出した。



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