第7話 墓前の祈り、檻の叫び
朝は【冥歌・冥来】の練習、昼は売れそうな素材を採取して、そのまま商会に納品。そんな生活も今ではすっかり日常になっていた。そして今日も、いつものように商会のドアを押し開ける。
「よっし、マルセラさんに会えるかなぁ……あれ?」
受付に彼女の姿がない。
えっ、今日お休み? 地味にショックなんですけど。
少し落ち込みながらも別の受付の人に素材を渡しつつ、さりげなく聞いてみる。
「今日って、マルセラさんはお休みなんですか?」
すると受付嬢は含み笑いを浮かべながらこう返してきた。
「ふふふ、商会にいらっしゃる男性って皆さんその質問なさるんですよ」
「えっ、あ……ああ、そ、そうなんだ……」
マルセラ目当ては、やっぱり俺だけじゃなかったか。
「じゃあ、今日はお休みなんだ?」
「はい。でもマルセラさんなら、たぶん霊園の方にいらっしゃるかと」
──霊園? って、つまり墓?
「急ぎのご用でしたら伝言お預かりしましょうか?」
「あ、い、いやっ、大丈夫です! そんな急ぎとかじゃないんで!」
うん、ただちょっと、会えたら嬉しいなってだけだから。
商会を出て、なんとなくザリアナの町をぶらつく。昼下がりの風が心地いい。知らない通り、見慣れない路地。思えば、この町のことって全然分かってないんだよな。そんな事を思いながら角を曲がった、そのとき。
「……翼さん?」
「うわっ!? マ、マルセラさんっ!?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。まさかの遭遇。
うそでしょ、こんな偶然ある!? やばい、今日ツイてる。めちゃくちゃラッキーじゃないか。
「どうしたんですか? 霊園にいらっしゃるって聞いてたんですけど」
「あっ……よくご存知ですね。商会で聞かれました?」
「はい。もしかして、もう帰り道ですか?」
「いえ、今から向かうところなんです。ちょうどお花を買いに行こうと思っていて」
なんでだろう、仕草ひとつ取っても愛嬌があって可愛い。
「翼さんは、何をしていたんですか?」
「あ、えっと……ただ散歩してただけです。この町、まだまだ知らないところが多くて」
「それでしたら私がご案内しましょうか?」
「えっ……い、いいんですか?」
「はい。用事はそれほど時間がかかりませんし、終わったらご案内しますよ」
「そ、そうですか……! じゃあ、お願いします!」
──よっしゃああああ!!
心の中で両拳を突き上げた。
***
「じゃあ、まずはマルセラさんのご用事を優先で。花屋と霊園……でしたよね?」
「はい。お花屋さんはこの道を少し進んだ先にあります。すぐですよ」
並んで歩きながら、どこかぎこちない空気が流れる。
俺の右手とマルセラの左手が、あと少しで触れそうな距離。でも触れない。
──いや、触れちゃダメなんだけど。
さっきから風が吹くたびにマルセラの髪がふわりと揺れて、ほのかな花の香りがする。なんの香りなんだろう。
「翼さんは、お花って……お好きですか?」
「え? あ、はい! もちろん好きですよ! たぶん!」
「ふふっ、たぶん……ですか?」
「いや、あの、えっと……見てる分には、すごく……」
噛んだ。いや、噛んだというか、もう意味わからないこと言ってる。
「お花って綺麗ですし、誰かのために選ぶのも素敵なことだと思うんですよね」
「……マルセラさんは誰のために?」
「……大切な人です」
その一言に何か聞いちゃいけない気がして、それ以上は踏み込めなかった。
花屋はすぐに見えてきた。こぢんまりとした店だったけれど、色とりどりの花が軒先に並び、通りを明るくしている。
「少しだけ、お待ちいただけますか?」
「もちろんです」
マルセラは店の奥へと進み、店主と何か穏やかに話しながら慎重に花を選んでいる。その横顔を気づかれないようにそっと見ていた……やっぱり綺麗で可愛い。凛として、でもどこか儚げで。俺はなにを期待してるんだろうな。
数分後、小さな花束を手に戻ってきたマルセラは小さく微笑んだ。
「お待たせしました……それでは霊園へ行きましょうか」
「はい」
ふたり並んで歩き出す。今度はさっきより、ほんの少しだけ距離が近い。けど、それでも指先が触れることはない。甘くて、もどかしくて胸の奥がちくりとするような空気を俺は抱えていた。
石畳の道を抜け霊園の門をくぐった瞬間、空気が変わった気がした。
小鳥のさえずりも、木々を揺らす風の音も全てがどこか遠く、静寂に包まれていた。背の高い木々に囲まれたその場所は、まるで世界から切り離されたような穏やかでやさしい時間の流れる空間だった。太陽の光が木漏れ日となって降り注ぎ、石畳にまだら模様を描いている。色とりどりの花が供えられた墓石たちは、どれも誰かに大切に想われた証のように感じられた。
マルセラは、一つの墓の前で立ち止まる。その墓石にはモニカと刻まれていた。
「……モニカ?」
どこかで聞いたことのある名だと思ったら、それは彼女の派閥の名でマルセラ自身の名とも同じだ。マルセラは、さっき買った花を静かに墓前へ捧げた。
「モニカ。今日はね、私の派閥に入ってくれた、ランセル家の家族を連れて来たの」
優しく微笑みながら話しかける姿は、商会のマルセラよりも、もっとずっと素を感じた。この人が、どれだけマルセラにとって大切な存在だったか一目でわかる。年齢も性別も何一つ知らないけれど。初めて見るマルセラの素の表情を見ていたら俺も何か言いたくなってしまった。
「は、初めまして、モニカさん」
不思議と緊張して背筋が伸びた。
「マルセラさんの派閥に入れてもらった、翼といいます。まだまだ未熟ですが……リーダーのマルセラさんを支えられるように頑張ります」
──たった一言だけど、なぜか心の底からそう言いたかった。でも、これはマルセラに向けて言いたかっただけなんだろうな……
「……翼さん、ありがとうございます。モニカは私の命の恩人で親友なんです」
そう言ってマルセラは静かに微笑んだ。けれどその笑顔には、どこか遠いものを見つめるような影が差していて。言葉にしない何かが、その向こうにある気がした。
本当は聞いてみたかった。どうして命の恩人なのか、どんな風に出会って、どんな風に別れたのか。でも開きかけた俺の口は、そのまま何も聞かずに閉じた。
踏み込んではいけない気がした。その代わりにマルセラにかけられる言葉を必死に探した。でも、どれだけ探しても見つからない、どんな言葉も彼女の想いに触れるには、あまりに軽すぎる気がして。
マルセラは、そっと手を合わせてから立ち上がった。
「また来るね、モニカ」
その言葉は風に乗って空へと昇っていった。
「付き合わせちゃってごめんなさい。さぁ、行きましょ!」
マルセラがにこやかに微笑む。その笑顔を見て「いいえ」とか「気にしてません」なんて冷静に紳士的な返事ができる男が、世の中に何人いるんだろう。俺には無理だ。
「は、はいっ!」
俺の返事はやや裏返っていた。
***
そして再び、ザリアナの町並みへ。レンガ造りの通りを並んで歩きながら、俺は何となく周囲の視線が気になっていた。
視線というより……殺気? えっ、なんか視線が痛いんですけど。
すれ違う男たちが明らかにこちらを見てる。
目つきが怖い。たぶんアレだ。俺が、マルセラの隣を歩いているからだ。
いや待って誤解だ! 違うんです皆さん! デートとかじゃなくて、たまたま会って、たまたま霊園について行って、たまたま今こうして……。
心の中で必死に弁解しても刺さるような視線は消えてくれなかった……このままじゃ、近いうちに背中から刺されるかもしれない。
命がけの散歩になってしまった。恐ろしい町だ、ザリアナ。それでも横を歩くマルセラが、とても穏やかな顔で町を見つめていて。その横顔を見ていたら不思議と、ちょっとだけ胸が熱くなって、マルセラを連れて歩いている自分が少しだけ誇らしくなった。まぁ、刺されても悔いはないかも……
角を曲がった瞬間、通りのざわめきがすっと遠のいた気がした。歩く人々の流れが、ある一角だけ違っていた。時間の流れが少しだけ違って見えて、俺の視線はその場所に吸い寄せられた。広場の片隅。露店の明るい喧騒とは明らかに異なる空気。その中心にあったのは粗末な木の檻。中には人の影があった。
男や女、そして子どもまで。皆、ぼろぼろの衣服をまとい顔を上げようともしない。まるで自分がそこに存在していないかのように黙ったまま、ひたすらに地面を見つめていた。
「……奴隷か」
思わず漏れた言葉は自分でも驚くほど冷たく響いた。その隣でマルセラが短く頷いた。
「はい。あそこは奴隷の取引所です。奴隷を売ったり、買ったり……そういう場所です」
マルセラの声には俺が感じている感情はない。それは無関心ではないけど語ることに慣れすぎてしまった声に聞こえた。
「珍しい光景ではないんです。借金を返せず売られた子。戦争に負けて捕らえられた人。家を失った家族……理由はさまざまです」
苦しみには、いちいち名札がついていない。誰がどんな人生を送ってきたか。ここに並ぶ彼らの中には、かつて誰かの大切だった人もいるかもしれない。愛した人がいたかもしれない。けれど今は檻の中。価格を貼られ誰かの所有物として扱われている。俺は言葉を失ったまま、その光景を見つめていた。
アニメや小説の中では何度も見てきた設定だった。物語の一部として消費される、感情のない背景。登場人物の覚醒や救済劇に都合よく配置される道具のような存在……でも目の前にいる彼らはまぎれもなく人。
視線を巡らせた中に、ひとりの少女がいた。焦げ茶の髪はぼさぼさで膝を抱えて俯いている。服は擦り切れ、足元は泥にまみれ、痩せこけた手足は折れそうなほど細かった。怒りも、悲しみも、怯えすらも、彼女からは感じなかった。ただ存在を主張することをやめてしまった、そんな目だった。けれど俺が彼女を見ていた次の瞬間、彼女は俺を見た。
──しまった、目を合わせてしまった……。
声を上げたわけでも手を伸ばしたわけでもない。けれどその瞳は、まっすぐ俺を捉えていた。何も語らないその視線から確かに伝わってきた。まだ終わっていない。終わりたくなんかない。生きたい。助けてほしい。そんな叫びが痛いほど胸に突き刺さった。けれど、それを見たところで俺には何もできない。
正直、目なんて合わせるべきじゃなかった。何も知らないふりしてマルセラの隣に立って通り過ぎればよかった。この世界の正しい歩き方をするなら、それが最適解だったはずだ。
奴隷商人の野太い声が通りに響いている。
「見ていきな、見ていきな! この娘は若いが家事もできる! 食費もかからねぇ、実に経済的だ!」
「こっちの男は鉱山仕事に最適だぞ! 丈夫で我慢強い、なにせ飯抜きでも文句ひとつ言わねぇからな!」
まるで商品説明だ。いや、商品というより道具の説明。血が通った人間ではなく便利な機能を売っているように聞こえる。
「翼さん?」
背後からマルセラの声が届き、現実に引き戻されるように俺はわずかに肩を揺らした。
「奴隷が珍しいですか?」
その問いに、すぐには答えられなかった。
「……そ、そうですね。ただ……」
喉の奥が詰まりそうになる。
「奴隷商や奴隷制度なんて……なくなってしまえばいいのにって、本気で思いました」
実際は助けてやりたいが何もできない。心のどこかで強く叫ぶことしか出来ない。目の前の少女を見捨てるという選択肢しかない事に心が追いつかない。少女の瞳の奥にある微かな希望に俺は背を向ける事しかできない。罪悪感ごと歩き出すしかなかった。見なかったことにする。それがこの世界に慣れる最初の一歩だとしたら、俺はいつまで経っても一歩を踏み出せないと思う。
***
「翼さんって、優しいんですね」
「いや、そんな……ただ衝撃だっただけですよ」
「私も。私もそう思います……奴隷商なんて大嫌いです」
マルセラが同じ感情を抱いてくれていて良かった。
それから俺たちは再びザリアナの町を歩いた。美味しいパン屋に地元民しか知らない定食屋、武器屋に魔道具屋。マルセラの案内はまるでプロの観光ガイドのようだった。気がつけば、今日一日でかなりザリアナ通になった気がする。
そして、ある露店の前で足が止まった。そこには煌びやかなアクセサリーが並んでいた。
「へぇ、これ格好いいな」
「ほんとですね。あっ、これ……可愛い!」
マルセラが指さしたのは小さな花を模した上品な髪飾りだった。
あぁ、絶対似合う……でも、買っていいのか? 俺みたいな立場の男が恋人でもない相手にアクセサリーって普通にキモくない? 重くない? マジでやらかさない? 刺されない?
「おっ、お目が高いねぇ! それ、魔石が仕込んであって、魔力を込められる髪飾りさ」
店主が声をかけてきた。勢いで反応してしまう。
「じゃ、じゃあ、これください!」
「まいどあり!」
──やべぇ、買っちゃった……!!
「マルセラさん、今日は案内してくれたお礼です」
「えっ!? い、いえ、そんなの悪いですよ!」
「やっぱ……キモかったですかね? アクセサリーとか……」
「ち、ちがいます!! 全然そんなことないです! なんか、私が可愛いとか言っちゃったせいで……気を使わせちゃってごめんなさい」
「いやいや全然気にしてないです。もし、いらなかったら捨てて下さい」
「いや! 捨てんなよ! いいもんなんだからな!」
即座に店主が鋭いツッコミを入れてきた。俺は髪飾りを受け取って、マルセラに手渡そうとした、
──そのとき。
「じゃあ……これ、ください!」
マルセラが買ったのは、俺がさっき「格好いい」と口にしたシルバーのバングルだった。
「え?」
「これで、おあいこですね」
「いや、それじゃあ……お礼にならなくないですか?」
「ふふっ、いいんです」
「ありがとうございます! 一生大切にします! なんなら家宝にします」
「ふふ、大袈裟ですよ」
マルセラと並んで歩きながら、俺はさっき買った髪飾りをそっと手に取った。
指先に伝わる冷たい金属の感触と小さな魔石の光。派手すぎず、でもしっかりとした存在感がある。
「お店の人が魔力を込められるって言ってましたよね。翼さんの魔力、込めてみてください」
──え、今ここで!?
心の準備も魔力の準備もできてないってのに、急にそんな無茶振りをされるとは思わなかった。それに魔法なんて使った事ないんですけど。
けど期待に満ちたマルセラの目を前にして、「できません」とは言いづらい。
よし、ここは雰囲気だけでも出しておこう。
「おりゃあああああああああああッ!!!」
気合いだけは満点。なんとなく目を閉じて力を込めるフリをしてみた。イメージは胸の奥にある何かこう、こう……力をぐっと押し出す感じ。魔法とか知らんけど、たぶんそんな感じ!
──すると
ふわりと髪飾りの魔石が淡く光った。
「……えっ、えっ、今、光りましたよね?」
「ま、マジで!?」
自分でも驚いて目をぱちくりさせた。完全に気合いだけのつもりだったのに、どうやら何かしら反応してしまったらしい。
もしかして、俺の中の【冥歌】が反応した? いやでも暴走もしてないし……よし、セーフってことで。一応、マルコスには黙っておこう……
「すごい……翼さん」
マルセラが目を輝かせて笑った。思わずこちらまで顔が熱くなる。
──結果オーライってやつだな!
淡い光を纏った髪飾りは元の色に戻った。
「ありがとうございます! 大切にしますね」
その表情を見て思わず胸の奥がじんわり熱くなる。
「翼さん、腕出して下さい」
言われるまま右腕を差し出すと、マルセラはそっと、あのシルバーのバングルを俺の手首にはめてくれた。指先が触れるたびに心臓の鼓動が少しずつ早くなる。
「……格好いいですよ!」
彼女の声はいつもより少しだけ照れていて、でも俺の耳にまっすぐ届いた。
「ありがとうございます……!」
心がものすごく満たされてしまう。
夕焼けがザリアナの町をやわらかく染めていた。風は穏やかで露店の閉まる音も、どこか心地よく感じる。
「今日は……すごく楽しかったです」
マルセラがそう言って小さく笑った。その頬はほんのり赤くて、さっきより少しだけ距離が近い気がした。
「こちらこそ。本当に、いい一日でした」
言葉を返すと、マルセラは目を細めて嬉しそうに頷いた。そして手に握った花の髪飾りをそっと見つめてから、また俺の顔を見て微笑む。
「……それでは。気をつけてお帰りくださいね」
たったそれだけの言葉だったのに不思議と名残惜しさが残る。背を向けて歩き出す彼女の髪が夕陽に透けて金色に揺れた。マルセラの背中を俺はしばらく目で追っていた。
今日が終わってほしくなかったな。そんなことを思ってしまうくらい俺も楽しかった。
マルセラは振り返って手を振ってくれた。柔らかな風に髪が揺れて、その笑顔は春の光みたいだった。
──こんな日が、いつまでも続けばいいのに。
胸の奥に、あたたかな何かが灯る。それはただの記憶じゃない。きっと、もう少しで想いと呼べるものになる。そんな気がした一日だった。