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第3話 手紙の重さ、生きる意味



 森は穏やかに息づいている。

 木々の隙間から差し込む朝の光が、柔らかく地面を照らし爽やかな風が草を揺らしていた。

 けれど洞窟の中は、まるで地獄のようだった。床を染める血の匂いが空気に溶け、命は静かに終わろうとしていた。時間も音もどこか遠い。左側の感覚も既になく痛みすら分からなくなってきている。


 なんでノエルをもっと警戒しなかったんだろう。違和感なんて、いくらでもあったじゃないか。優しすぎる声も、不自然な距離感も、まともなわけないだろ。きっと俺は、もう助からないんだろうな。


「……死ぬの……かな」

 耳の奥で自分の心音が響いている。頭がぼんやりして生きている音は、どんどん遠ざかっていくようだ。

 あと少しで……静かに終わる。ああ……そっか、完全に詰んだのか。

 視界がじわじわと滲み、世界が黒く塗り潰されていく。音も、匂いも、重力さえも何もかもが遠のいていく感覚。まるで深い底なしの闇に静かに吸い込まれていくようだった。

 

 ──ばさっ

 ──……つばさ……

 ──つば……さ


 ……誰が呼んでる? 気のせいか?

 誰かが呼んでる気がした。だけど遠い。小さくて何を言っているのか分からない。耳の奥に、ぼんやりと残響のように響くだけだった。


「おい! 起きろ、翼!」


「……だ…れ……」

 視界の端、逆光の向こうに誰かの顔が見えた。知らない顔だ。でも声は妙に懐かしさを感じてしまう。

「よし、生きてるな! 緊急事態だ、お前を連れていく!」

 そう言うなり、男は迷いなく俺の体を抱え上げて背負った。

「……」

 俺は誰かに運ばれているのか? どこへ? 誰が? どうして? 

 そんなの分からない。俺には思考を巡らせる気力すら残っていなかった。


***

       

 誰かの背中に自分が乗っている。足音が地面を叩くたびに肩の痛みが意識を引き戻してくる。

「……おい、寝るな。死ぬぞ、お前!」

 このひと誰なんだ。そう思っても声は出ない。意識が落ちてまた引き戻されて、それを何度も繰り返した。


「……もうすぐだ、もうちょい耐えろ!」

 ノエルの声とは違う。その息遣いには菜那さんみたいな温かさがあった。必死に俺を生かそうとしてくれてるのが分かる。

 気づけば森の景色は終わり、遠くで煙が上がっていて人の気配がした。

「……ま…ち…?」

 安心した。助かったんだって思えた。その瞬間、体の力が一気に抜け、彼の背中にしがみついたまま俺の視界は暗くなっていった。


***


 目を覚ました時、そこは見知らぬ部屋だった。天井があり壁がある。ただそれだけのことが妙に心を落ち着かせた。屋根のある安心感がこれほど頼もしいものだったとは。


 ベッドの上だ。

 左肩に鈍く痛みが走る──いや違う。

 痛みがない。

 恐る恐る視線を向けると、そこには分厚く巻かれた包帯。

 肘も、指先も──なにも……もうない。

 あるはずの左腕がどこにもない。


 胸の奥に、ぽっかりと穴が開いたような感覚が広がった。

 腕がない、無くなってしまった。もう手を伸ばすことも誰かを抱きしめることもできない。当たり前にあったはずのものが、まるで最初から存在しなかったかのように消えている。ずっと昔から自分は片腕だったんじゃないか。そんな馬鹿げた錯覚さえ浮かぶ。

 けれど違う。違うんだ。


 左手の感触の記憶、左手で握った誰かの手。それら全部が記憶の中で急に色を失っていく。左手の温もりはもう二度と戻ってこない。取り返しのつかないことをしてしまった。全部、俺のせいだ。もっとちゃんと警戒していれば、こんな結末にはならなかったかもしれない。彼女の美しさに勝手に舞い上がって浮かれていたんだ。調子に乗っていたんだ。あの微笑みに少しでも心を許した自分が許せない。俺は、ただの馬鹿だ。


 ものすごく長い時間、眠っていた気がする。けど目を覚ました瞬間、何もかもが変わって見えた。これが異世界なんだって本当は少しだけ期待してた。冒険や出会いや新しい生活。そんな都合のいい物語が、どこかで始まるんじゃないかって。


 ──でも違った

 少なくとも腕を喰われるなんて想像していなかった。これが現実なんだと思った瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた気がした。

 怖かった。悲しかった。

 きっとそれは失った腕だけのせいじゃない。俺の中にあった希望や期待も、どこかで喰われてしまったのかもしれない。俺は一体、何をしてるんだろう。


***

 

「ここはどこだ……?」

 ベッドの周囲を見回すと本棚が壁一面に並んでいる。 

 古びた分厚い本、紙の地図、魔導書? っぽいやつまである。


 そのとき扉の向こうから足音が近づいてくるのを感じた。

 ギシ、ギシ……と木の床の軋む音が近づいてくる。

 そして警戒する間もなく扉が勢いよく開いた。


「よお、起きたか!」

 現れたのは水色の短髪の青年だった。

 年の頃は十代後半、見た目的には高校生くらいだろうか。澄んだ水みたいな瞳と整った顔立ちがどこか神秘的で現実感がなかった。

 彼は一歩こちらへ近づき、腕を軽く組みながらこちらを見下ろした。

「もう大丈夫そうだな。でも動くと傷が開くぞ?」

 軽い口調だけど彼の声には、わずかな安心が混じっているように思えた。

「た、助けてくれて……ありがとうございます」

「そんなかしこまっちゃって。翼も大人になったな」

「……え?」

「まだ一歳だったから覚えてないか。俺はマルコス、水の精霊だ。よろしくな」

「よ、よろしく……」

 ……水の精霊!? 懐かしさは感じるが記憶にない名前だ。

「いや~、焦ったぜ」

「えっ?」

「菜那に言われた場所に迎えに行ったのに、翼いねぇからよ。仕方なく森を一日中探して、やっと見つけたと思ったら、この有様よ。何があった?」

「……そうか。迎えに来てくれてたんだ」

 左肩に視線を落とすと、ノエルの姿が脳裏によぎる。

「この腕は……喰われた」

「喰われた? 魔物か?」


 その言葉で、ようやく頭が整理された。

 ……そうか、そうだよな。

 ノエルのこと、美しすぎて魔物だったなんて考えもしなかった。けど、よく考えればここは異世界だ。人間に化ける魔物がいても不思議じゃない。そう自分に言い聞かせた。そうであってくれと願いを込めて。


「そう……魔物に喰われたんだ」

「でも、命があっただけ良かったじゃねぇか。ほんとにな」

 マルコスは安堵したような表情をしている。


「そういえば、さっき菜那さんに言われて迎えに来たって言ってたよね……菜那さんは? ここにいるの?」

「隠してもしょうがないから、はっきり言うぞ」


「──菜那は死んだよ」


「……えっ」

 頭の中が真っ白になる。

「……そんな、嘘だろ……」

 声に出そうとしても喉がつかえて出てこない。

 また会えるって、ずっと信じていたんだ。

 なのにどうして……

 マルコスはまっすぐ俺を見ていて、その瞳には冗談の気配は一切なかった。


「これ、菜那から預かってた。お前に渡すようにって」

 マルコスはポケットから手紙を取り出して俺に渡した。見覚えのある字が、しっかりと封をされた封筒に刻まれている。俺が、それを受け取るとマルコスは、それ以上何も言わずに静かに部屋を出ていった。扉が閉まる音だけが、やけに重く響いた気がする。それはまるで何かが終わった合図みたいで胸の奥が少しだけ冷たくなった。


***


 この手紙は最後の声になるんだろうな。手紙を読むのが少し怖い、読んだら何かが終わる気がして。きっとこの手紙には何かが詰まっている。だけど、それを受け止めきれる自信がない。読みたいのに読みたくないような、そんなグチャグチャな感情を抱えたまま震える指で封を切った。



──『翼へ』


 まず最初に、二つのことを謝らせてください。十年前、翼が十一歳のときに姿を消したこと。そして今回、約束通り迎えに行けなかったこと。本当に、ごめんなさい。


 本当は、ちゃんとその手を引いてあげたかった。翼をひとり、あの世界に置いてくるなんて、心が張り裂けそうだった。でも、それはできなかった。翼を還す為の準備を、どうしても先に終わらせなければならなかったの。それでも、十年間も一人にさせてしまって、寂しい思いをさせてしまって本当にごめんなさい。


 翼は、川島家という一族の嫡男です。だけど翼が一歳の時に、ある者達が川島家を裏切り、内戦が起こり川島家は滅んでしまいました。

 生き残った仲間たちは、今もそれぞれの想いを抱えています。中には復讐や一族再建を望む者もいます。

 でも私はその為に翼を還したわけではありません。翼の人生は翼のものです。誰かの為じゃなくていい。どうか自分の為に選んでください。そして、どんな選択をしても私は心から応援します。

 

 翼は、ほんとうに優しい子でした。小さな頃から誰よりも人の痛みに敏感で、自分のことよりも他人のことばかり気にしてしまう、そんな優しい子でした。無理に笑って黙って我慢して。そんな翼が私はずっと心配でした。

 でもこれからは、無理に笑わなくていいの。つらい時は誰かに助けを求めて欲しい。泣きたくなったら声を出して泣いて欲しい。そうしてくれる方が私は安心します。

 きっと今は、怖くて、不安で、どうしていいか分からないと思います。でも大丈夫です。翼はひとりじゃない、翼には仲間がいます。翼を大切に思っている人たちが近くにいます。だからどうか仲間を頼って下さい。


 ──そして、最後に。

 翼、二十一歳の誕生日、おめでとう。

 本当ならケーキを焼いて、一緒に笑って「おめでとう」って直接言いたかった。叶わなかったけど、でも言わせ下さいね。どうか幸せに生きて下さい。それが私の、たったひとつの願いです。


            ──森野菜那


 ──手紙を読み終えた。

 顔は枕に沈み視界は涙で滲んでいた。 

「……う……っ……」

 声を押し殺しても喉の奥から嗚咽が漏れてしまう。

 息が詰まりそうだった。呼吸は浅く苦しい。それでも泣くしかなかった。涙は止まらず枕をじわじわと濡らしていく。こんなふうに泣いたのは、たぶん初めてだった。張り詰めていた心の糸が音もなく、ふっと切れた。

 十年分の想い。あの頃の温もりが一気に胸へ押し寄せてくる。菜那さんの言葉が胸の奥を押し広げるように染み込んでくる。


「……菜那さん……」

 強くなれたと思っていた。施設を出て、一人暮らしを始めて。誰にも頼らず、自分の足で生きているつもりだった。でも違った。平気なふりをして我慢していただけだったんだ。誰にも迷惑をかけたくなくて、弱音を飲み込んで強がることで何とか立っていただけだった。

 本当は違ったんだ。いつも一人で寂しかった。お帰りなさいが欲しかった。いってらっしゃいが欲しかった。おはよう、おやすみなさい、温もり全部が欲しかったんだ。

 

 崩れるように泣いた。ぐしゃぐしゃに握った手紙が、まだ指に貼りついている。それでも離せない。この懐かしい温もりをもう少しだけ感じていたかったから。


***


 コン、コンと、控えめなノック音が扉の向こうから聞こえた。


「……入っていいか?」

「……お、おう」

 ドアが開き水色の髪の青年、マルコスが入ってきた。さっきと違って彼の表情は少しだけ硬い。

「泣き顔、見てないフリしとくよ」

 冗談めかした声。でも目は優しかった。

「大丈夫か? そろそろ説明していいか?」

「うん。……教えてほしい。ここが、どこなのかも」

 マルコスは窓の方をちらりと見て、ゆっくりと口を開いた。

「ここは【ザリアナ】って町のはずれにある、俺の知り合いの家だ。お前はここで三日間、寝てたんだ」

 三日間、一回も起きずに寝れた事には驚いたが、ザリアナ? 異世界に来て初めて聞いた、ちゃんとした地名だ。

「腕の治療はしておいた」

「……ありがとう、マルコス」

「礼はいい、回復薬をぶっかけただけだからな。あのぉ、なんだ、腕は残念だったな」

「いや、いいんだ。命があるだけでも、ありがたい事だよ」

「そうだな」

 

 マルコスには、そう言ったけど。正直なところ異世界に来て、こんな形で片腕を失うなんて思ってもみなかった。もう頭では理解できてるつもりだ。左手は戻ってこない。痛みも、もうない。けれど、心がそれを忘れてくれなかった。


「翼、お前は選択しないとならない」

「選択……?」

 マルコスは軽く息をついて、真剣な目を俺に向けた。

「翼。お前は、今も戦い続けてる川島家の残党と合流して敵討ちをしたいか?」

「……急にそんなこと言われても」

 言葉に詰まった。まだ、この世界に来て何も分かっていないんだ。町の名前すら今ようやく知ったばかりなのに、復讐? 川島家の残党? そんなの、いきなり言われても判断できるわけない。


「……復讐なんて俺には分からない。誰が敵で何の為に戦うのかもまだ見えてないんだ。俺はさ……ただ生きてみたいだけなんだよ。この世界で」

 精一杯、そう絞り出すのがやっとだった。自分が何者なのかも、どこにいるのかも曖昧なままで、答えを出せと言われても心がまだ追いついていない。


「そうか」

 そう言ってマルコスは言葉を選ぶように呟いた。

「だったら川島って名は、もう使うな」

「え?」


「──その名は、静かに生きるには重すぎる──」


「……わ、分かった」

 そう返した自分の声が、どこか他人のもののように聞こえた。納得したわけじゃない。ただ、答えを出せるほど、この世界のことを知らないだけだ。

「それでいい、じゃあ今日はもう少し休め。明日、町を案内してやるよ」

 静かに部屋の扉が閉まって一人になった。


 ──ザリアナ。

 ここで何かが始まる気は、正直まだしない。ただ、もう引き返せないだけだった。



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