第2話 最初の夜、失う理性
明かり一つない漆黒の世界。
気がついたら暗闇の中だった。真っ暗で何も見えない。手を伸ばしても自分の指すら見えなかった。
ここはどこだ? 異世界は?
『──還ってきたな』
黒い蕾が、また何かを告げている……ただ今までとは少し違っていた。
『ここが、俺たちの故郷だ』
「……え?」
これは今までの囁きじゃない気がする。俺に話しかけてる?
「お前……黒い蕾なのか……?」
『ようやく気づいたか。ずっと一緒だったくせに、今さらそれを聞くかよ』
間違いない。会話になっている。記憶を流してくるだけの存在が俺の言葉に応えている。こんなこと、今まで一度もなかったのに。
胸の奥が急にざわつき始めた。何かがうごめいているような気配を滲ませて。
『この姿で会うのは初めてだな』
その声と同時に姿が現れた。漆黒の暗闇の中で何も見えないはずなのにコイツの姿だけは不思議と見える。
俺と同じ顔で同じ声。けれど目だけが違っていた。透き通るような深紅の瞳。静けさと神秘を纏い、吸い込まれそうなほど深い光を宿していた。
「お前その姿……俺……?」
『当然だ。俺はお前で、お前は俺でもある。俺はずっと、お前の中にいた』
そんなわけ──そう言いかけて言葉が詰まった。どこかで納得してしまっている自分がいる。
『気をつけろよ。優しさは殺される世界だ。決して他人は信じるな……もう同じ過ちは繰り返すな。力が欲しければ魂を喰うんだぞ』
「……よく分からねぇよ……」
『もう行け。ここから先は、お前の足で歩け』
その声を最後に辺りの闇はまるで夜明け前の空のように、ゆっくりと色を取り戻していった。
──目を開けると、そこには誰もいない
「あ、あれ……俺、寝てたのか……?」
木の葉の擦れる音や湿った草の匂い。遠くで不気味な獣の鳴き声も聞こえる。この場所を俺は知らない。ただ、ひとつ確かなのは、ここが自分のいた世界ではないということ。
──俺は確かに異世界にいた。
***
無数の大木が立ち並び空を覆っている。地面は湿っていて足元には苔と落ち葉が広がる。風はなく森全体がじっと息を潜めていた。草の匂いすら不安を孕んでいる。鳥の声は、どこか不気味さがあった。
「おっっしゃやぁぁああ!!」
本当に来たんだな。夢じゃない。これは現実だ。これで良いんだ、俺の人生はこれで良い。代わりに全て捨てて来たんだから。
よし、ここはもう日本じゃない。浮かれていないで警戒しないと。平和ボケしてたら多分すぐに死ぬ。菜那さんは迎えに来てくれないのか? 迎えに行きますって言ってたよな……
とりあえず森から抜けた方がいい。このまま木々に囲まれてじっとしているのはどう考えても良くない。
どこかで何かが見ている気がしてならなかった。足元の葉が擦れる音すら自分の位置を告げてしまうようで気持ちが落ち着かない。
目的地は分からなくても、とにかく人が居るところまで……
***
とにかく森から出たい。俺は2、3時間ほど歩き続けていた。でも、どこに向かってるのかは自分でも分かってない。さっきから「たぶんこっち」って進んでるけど正直まったく根拠がない。
ササッ
踏み出すたびに足元の音がやけに大きく感じる。
異世界の森で音を立てるのが、こんなに怖いなんて思わなかった。
「……ん?」
……いや違う?
これは俺だけの音じゃない。俺の後ろで何かがこっちを視ているような。動物の気配じゃない。なんかもっと威圧的なような……
見られてる絶対何か後ろにいる。
でも振り返りたくない、見たら終わる気がする。ホラー映画なら100%後ろにいる。
ギィイイィィィ
背後で木が軋む音。
うん、はい。
今のは完全に何かが動いた音だ。
気のせいじゃない。ついに来たな異世界の洗礼が。
その瞬間、
「ガアアアアアアア!!」
「うわっ、やっぱ来たああああああ!!」
叫びながらダッシュ。
逃げろ俺! 考えるな! まず生きろ!
何が出たのか? 知らん! 見る余裕なんてない。
心臓がバクバクいってる、肺が苦しい。
足がもつれる。
いや、もつれるな! もつれたら死ぬ!
後ろから何かが地面を叩きながら迫ってくる音が聞こえる。
想像するだけで絶叫できそう。いや、これ以上叫んだら酸素なくなる。
「ちょ、待って待って待って、俺まだ異世界にきて初日だぞ、このままだと初日で死んじまう!!」
前に倒木、右は茂み、左は崖っぽい、選べって? 全部アウトじゃん。
なんだよ「約束の時間に迎えが来る」って誰も来ないじゃないか!
──前方の倒木
「よし、ジャンプだ。いける、俺なら跳べる。中学の頃の体育の成績、ギリ平均だったし!」
必死に足に力を込めて、ジャンプ! が思ったより幹が太い。
「う、うそーん、ちょっと、届かぁぁあなぁい」
足首が引っかかって後は案の定。
ゴシャ。
豪快にヘッドスライディング。口に土が入り肺が悲鳴を上げる。人生最後の食事が異世界の土だなんてあんまりだ。
背後からドスドスドスっていう不穏な足音。
どんどん近づいてくる。
音で分かる。たぶんヤバいやつ。
「誰かぁああぁぁあー! 助けてぇええぇー!」
「……大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないです!……えっ!?」
うずくまる俺に誰かがそっと手を差し伸べてきた。
「えっ……あ、え……ありがとうございます」
女性? えっ誰? 混乱でろくに言葉も出せなかったが俺は彼女の手を取った。
「こちらです」
彼女は足早に俺の手を引っ張り、俺を小さな洞窟に連れて行った。
「目を閉じて耳を塞いでいて下さい。……しばらく、そのままでお願いします」
彼女は穏やかな優しい声でそう言った。
正直、状況がさっぱり理解できない。
誰? なんでこんなとこに? 何が起きてる? でも迷ってる余裕もなかった。
「わ、わかりました……」
俺は言われた通りに目を閉じて耳を塞ぐ。外の音が遮断されて自分の呼吸だけがやけに大きく感じる。
──数分後
どれくらい経ったんだろう。
数分? 数十分?
森の中は妙に静かだった。鳥の声も風の音も何も聞こえない。
……いつまでこうしてればいいんだ。
不安と好奇心がこみ上げてくる。
でも、こういうときに見てはいけないものを見てしまって後悔するのが、よくあるパターンってやつだ。だから俺は必死に目を閉じていた。
そもそも彼女は何者なんだ?
こんな場所に、たまたま通りかかる。そんな偶然があるのか?
それに彼女は綺麗すぎる異常な程に。場違いなんてもんじゃない。何ひとつ、この森に馴染んでない。
──やがて。
「……お待たせいたしました」
静かにそう声をかけられた。
「もう、目を開けて大丈夫ですよ」
「……は、はい」
改めて彼女を見ると白銀の髪と貴族の葬礼を思わせる重々しい漆黒の衣が目に入った。彼女を一言で表現するなら白と黒。相反するはずの色が違和感もなく一つの輪郭に収まっていた。それは、まるで光と闇のようにも見える。優雅で静かでどこか冷たい。
俺はしばらく言葉を失っていた。というより語彙力が全部どこかに飛んでいってしまった。
……たぶん俺の辞書に載っていた優雅とか可憐って言葉は、彼女に出会うためだけにあったんじゃないかとさえ思える程であった。
──けど、それだけじゃない。
初めて会ったはずなのに、なぜか懐かしい気配がした。
彼女の瞳の奥に、どこか知っている気配があるような。
それが何かは分からないけど俺の心の揺れがそう言っている。こういう懐かしい気配がする人に出会うために還ってきたのかもしれない。少なくても、そうであってほしいな。
彼女を見て確かに心の奥が揺れた。この揺れは黒い蕾が囁いた憎しみの言葉よりもずっと俺の胸を掴んで離さなかった。
***
「た、助けてくれて、ありがとうございます。俺は川島翼です。お名前伺ってもいいですか?」
「わたくし、ノエルと申します。どうぞ……お見知りおきくださいませ」
ノエルはスカートの裾を摘み静かに礼をした。その動きはどこか舞うように美しかった。だが、その美しさが逆に恐怖も感じさせる。
姿も声も仕草も完璧すぎる。それが逆に不自然で俺の中の警戒心を妙に刺激した。
「ふふっ……川島様。そんなに身構えなくても大丈夫ですよ。安心してください」
「い、いえ……その、すみません。緊張してしまって」
「もう日が暮れ始めていますし、夜の森は危険です。今夜は、この場所で休みましょう。きっと、お疲れなんですよ」
その言葉を聞いて、ふと全身の力が抜けるような感覚がした。
ああ、俺は疲れてるんだな。
緊張で張り詰めていた感覚がほんの少しだけ緩んでいく。
魔物に襲われて命からがら逃げて…確かに無理もないか。
「……そうですね。今日はここで休みます」
彼女の声は柔らかくて耳に届くたび心が撫でられるようだった。なのにどうしてだろう。安らぐどころかどこか落ち着かない。
「焚き火を少しだけ……暖をとるくらいにはなります」
「ノエルさんって、ひとりでここに?」
「はい。この森には慣れていますので、あまり怖くはありません」
「いや、でも……さっきの魔物ってやつですよね?」
「ふふっ、ですから目を閉じていていただいたのです」
「もしかして……あれ、ノエルさんが?」
「はい。川島様に害が及ばぬよう処理いたしました」
さらりと処理と言った。
口調は終始穏やかで笑みも優しい、おまけに彼女からは懐かしい気配すらする。でも、なぜか背中に冷たい汗がにじむ。美人すぎて俺が緊張してるだけなのだろうか?
──この人、何者なんだ。
「ご安心ください。わたくし、川島様に悪意などありません」
「なんで俺を助けたんですか」
「理由なんて必要でしょうか?」
「……え?」
ノエルは、くすっと笑った。その笑顔は完璧すぎて人形みたいだ。
俺はリュックの中を漁り持ってきた食料を取り出した。
缶詰とコンビニで買ったパン。保存が効くやつを選んだはずだけど、もう少し何か工夫しておくべきだったかもしれない。
「ノエルさん、よかったら一緒にどうですか?」
俺がパンを差し出すとノエルは首を傾げた。
「よろしいのですか? それは川島様の大切な食料なのでは?」
「一人で食べるより誰かと一緒の方が美味しいかなって」
ノエルの視線が俺の手元と顔を交互に見比べる。
正直ちょっとドキッとする。いや、嘘だ。だいぶドキッとした。
「それに、俺のことは川島様じゃなくて、翼でいいですよ」
これは完全に下心である。こんな美女に「翼」って名前で呼んでもらいたい。それだけのために、なんなら缶詰もう一缶出せる。
「かしこまりました。では翼様」
……うん、やっぱり様はついたままだった。
でもしつこく訂正してウザがられるのは嫌だし
まぁ、これはこれで悪くないか。
「はい、これもどうぞ」
俺は缶詰もノエルに手渡した。ノエルは不思議そうに缶詰を見つめ、そして渡したパンを食べた。
「……翼様。これ、すごく美味しいですね」
目を丸くして純粋に驚いたような声を上げるその様子に思わず笑みが漏れた。異世界で初めて誰かと食べた食事。こんなにも普通なことが少しだけ特別に感じた。
「ノエルさん、人の住んでいる町って近くにありますか?」
ランタンを灯しながら俺は気になっていた事を口にした。森の中であんな目に遭ったばかりだ。できるなら早く文明の匂いがする場所に行きたい。
「はい。少し歩きますが朝に出発すれば日が暮れる前には辿り着けると思います」
ノエルは穏やかに微笑んで続けた。
「もしよければ、ご案内しましょうか?」
「えっ、いいんですか。助かります、ありがとうございます!」
素直に嬉しかった。ノエルの存在が、右も左も分からない異世界での不安を和らげてくれる気がした。そして心の中で謝った。最初に怖いだなんて思って、ごめんなさい。
「いえいえ、では今日はもう休みましょうか」
ノエルのその一言で俺も準備を始める。リュックから寝袋を取り出し洞窟の床に敷いた。そこで気づく。
──狭い
洞窟の幅が思った以上にギリギリだった。寝袋を敷けるスペースは、どう見積もっても大人二人が並んで横になれるかどうかってところ。
いや、これはまずいんじゃないか?
ふとよぎるのは男性としての邪念。いや違う、リスク管理の一環だ。
だが脳裏には「翼様、私は気にしませんので。ご一緒にどうぞ」なんて言ってくれるノエルの幻聴まで再生されてしまっていた。
……って何考えてんだ俺は!
落ち着け、やんちゃな下半身よ、頼む、静まれ!
気がつけば俺は汗拭きシートで体を清めていた。
「翼様、ひとつだけ……お願いがございます」
「……え?」
この空気、この間、この言い方……これは来たんじゃないか?
いやいや落ち着け、俺。でも、お願いって何?
この流れはさすがに、そっち系のお願いでは?
いや、それは願望。強めの願望。
もしや一緒に寝ましょう的な?
いやいや、さすがに展開が早すぎる。でも異世界基準ならアリなのか?
ていうかこのタイミングで「ひとつだけお願い」って、うん、間違いない!
ノエルは目を伏せて、ほんのわずかに言葉を選ぶように間を置いた。
「わたくし……血が少しだけ苦手なのです。ですので……どうか、お怪我には気をつけてくださいませ」
「……あ、はい」
引くほどバカな妄想をしていた俺に対して、ノエルはまったく違う表情をしていた。ほんの少しだけ悲しげに。その声はどこか祈るようにも聞こえた。
「ノエルさん、寝袋敷きました。良かったらどうぞ」
声が少しだけ裏返ったのは気のせいじゃない。
「いいんですか?」
「どーぞ、どーぞ」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて……」
ノエルが静かに礼をして寝袋に横になる。その動作すら上品で俺の理性を容赦なく蝕む。
……で俺はというと。
「俺は座ったまま寝ますんで」
と言いながら洞窟の隅に背を預ける体勢を取る。
心の奥底では「それくらい気にせずご一緒に」の一言を、ちょっとだけ期待してた。まぁ、そんな展開が都合よく起こるわけないよな。
ノエルを見ると彼女はもう静かに眠っていた。その寝顔は聖女のようだった。柔らかな呼吸で、どこか儚さすら感じさせる。寝る前にもう少しだけ話していたかったという気持ちも、なかったと言えば嘘になる。
俺は硬い岩肌の感触に体を縮こまらせる。
「……痛っ」
指先がズキッとした。見ると、うっすら血がにじんでる。
「絆創膏すら持ってきてねぇのか、俺……」
自分の準備不足にちょっと呆れた。
あぁ寝袋に行きたい……
そう思いながら浅い眠りに落ちていった。
***
「……よく寝た……?」
仰向けのまま目を開けた。暗い洞窟の天井が視界にぼやけて広がる。
なんで俺、寝袋で寝てるんだ? それに体が重い。なんか腕に違和感もある。
ノエルは背中を向けて洞窟の入り口付近に座っていた。
「ノエルさん、おはよ……」
えっ……
声が詰まった。
彼女は、ゆっくりとこっちを振り返った。
「……ん、ふふ、ふふふふふ……」
その顔は確かにノエルだった。でも何かが違う。いや、すべてが違っていた。目が赤い。真っ赤だ。鮮血をそのまま流し込んだような赤い瞳が、ぎらぎらと輝いていた。そして口元には真っ赤な何かが、べったりとついている。彼女は赤く濡れた唇で、ぽつりと呟いた。
「……おいしい……」
そして、ほんの少しだけ微笑んだ。
「あぁ、おいしい、おいしい、あぁ止まらない……」
おいしい? えっ何か持ってる?
赤と白が混じっていて先の方には赤い何かがぶら下がっていた。ぶらぶら揺れている。それを見た瞬間、全身に寒気が走った。
──腕だった。人間の腕。
皮膚は裂け骨が飛び出ている。筋肉が千切れたまま垂れていた。血がぽたぽたと落ちて地面に染みをつくっている。
人間の腕? えっ……もしかして……嘘だろ!? ちょっと待って!
俺はゆっくりと自分の左肩へと視線を向けた。
……なかった。
あるはずの俺の左腕がなかった。肩からごっそりと消えていた。
感覚が急に狂い始めた。視界がじわじわと滲み目の前の光景はぼやけていくのに、骨を噛み砕く不快な音だけは鮮明に耳に響いてくる。
──ミシッ、バキバキ
頭の中に直接響いてくるような、どこまでも気持ち悪い音だった。
気持ち悪い、吐き気がこみ上げてくる。鉄の匂いが鼻を刺して頭の奥がズキズキする。思考がおかしくなって痛みが分からない。怖い、気持ち悪い。
──バキ、メキ、ゴリュッ。
骨は砕かれ関節が引きちぎられている。思考がついていかない。喉の奥から突き上げるものに抗えず、俺は嗚咽とともに全てを吐き出していた。
嘘だ、絶対に嘘だ。頼む、夢であってくれ! そしてノエルは血まみれの指先を舐めながら囁いた。
「ねえ、翼様。……とっても、いい味がするんですね。甘くてあたたかくて……ふふ……わたくし、もっと欲しくなってしまいます」
その声だけは確かにノエルだった。あの穏やかで優しくて、少しだけ影のある声。けど今は骨と肉を噛み砕きながら狂った目で笑っている。ノエルのその言葉で、ようやく現実が追いついてきて激痛が走った。
「がっ……があっ……うあああああああああああ!!!!!」
痛い、痛い、痛いなんてレベルじゃない、熱い。
骨が軋み、心臓が破裂しかけ喉が裂けるほどに叫んだ。でも叫びは届かない、喚いている俺を見つめながら彼女は笑っていた。
「ふふふっ……そんな顔しないで下さい。そんな顔見せられたら、わたくし感じてしまいますよ。あぁ……もっと欲しい、もっとです。翼様をもっと食べさせて下さい」
まるで高級な酒でも味わうかのように手についた血を音を立てて舐めている。生々しい音がこだまするたびに彼女の肩は微かに震えている。焦点の合わない瞳で、まるで発情した獣のように彼女は俺の腕をしゃぶり尽くしていた。指の関節に奥歯を突き立て軟骨を噛み砕くたびに悦に浸っている表情を見せる。それはもう心の底から溺れている表情だった。
「ん……んふ、ああ……おいしい。翼様の味、温かくて……舌の上で、まだ生きているようですわ。血の香りも、脂の甘さも、全部……とても愛おしい。もっと……もう少しだけ、くださいな。こんなに満たされているのに、まだ、次が欲しくなってしまいますの……翼様、ねえ、見て。わたくし、止まれそうにありませんの」
ダメだ……思考がまとまらない意識がじわじわ滲んでいく。
これは夢だ、悪い夢だ。頼む、早く覚めてくれ……
***
はっ、と息を呑んで目を開けた。
「……夢だよな? 夢でいいんだよな?」
あのノエルの顔をした化け物も、赤い瞳も俺の腕を喰らう咀嚼音も。全部、夢の中の出来事だった。
辺りは静かで空はすでに明るい。洞窟の中には木漏れ日が淡く射し込んでいた。
異世界に来て最初に見る夢があんな悪夢だなんて、どんなスタートだよ。
けど体を起こした瞬間。何かがおかしい。体が異様に熱い。空気は濃くて匂いが違う。これは血の匂い?
「……えっ……」
寝ていた地面がじっとりと濡れていた。手をついた瞬間ぬるりとした感触が伝わる。目を凝らすと、そこには理性が拒む色が広がっていた。
乾ききれぬ血の海。洞窟の床一面にそれはどろっと広がっていた。空気には鉄と肉が混ざり合ったような重たく生々しい臭気が満ちている。それは鼻の奥にへばりつき喉の奥までじわじわと染みこんでくるようだった。
──嫌な汗が滲む。
吐き気が込み上げる前に、もっと強烈な何かが襲ってきた。それは左肩から全身にかけて電流のように駆け抜けた。
「ーッッ、ぐああああああああああああああああ!!」
全身に感じていた熱が焼けるような激痛に変わった。
あったはずの左腕が跡形もなく消えていて感覚がない。けど痛みだけは異様なほどリアルだ。ただの痛みじゃない。今まで感じたことのない痛みに涙が止まらなくて、自分が壊れたような気がした。
「がっ……うぐっ、ぅあ……! あ゛あああああッ!!」
叫ぶ声が自分の声じゃないみたいだ。
「ノ……エルさん…な……んでだよ……」
洞窟内には誰もいない。視界の隅、寝袋の隣に落ちていた。
──骨付きの肉片
俺の左腕。手首までついていて手首が反対方向に曲がっていた。
「……なんだよ……もうやだ……よ」
この時、理性が崩れる音がした。
「……菜那さん……助けて……」
声にならない叫びは血の匂いが淀むこの洞窟に静かに溶けていった。誰にも届かず残酷な沈黙に呑まれていくように──