第10話 裏切りのランベール
リビングの片隅。
部屋の中には、静寂と冷えた空気が満ちていた。
俺はひとり、テーブルの上に置かれたリュックをじっと見つめていた。
血の跡が生々しい。
このリュックは、あの洞窟に置きっぱなしになっていたものだ。
ノエル。
その名を思い出すたびに、心の奥に、ひやりとした感触が走る。
綺麗で、上品で、どこか浮世離れしていて。
なのに、その白い微笑みの裏に、悪魔のような獣が潜んでいた。
彼女は……いったい、何者なんだ。
そもそも、魔物じゃなくて人間なのか?
いや、違うな。
俺が……魔物だった。って信じたかっただけかもしれない。
でも、魔物じゃなくて本当に人間だとしたら。
俺は綺麗な女性を見るたびに、ノエルの“あの顔”を思い出すようになってしまうかもしれない。優しく笑っていた口が、俺の腕を噛み千切ったあの夜の光景と重なって、美しいものが怖くなる。
……今だって、少し怪しい。
たとえばマルセラさん。
あの人だって、めちゃくちゃ綺麗だし、優しいし、俺にディナー誘ってくれたし。
でも……なんか裏があるんじゃないかって疑ってしまう自分もいる。
「頼むから、マルセラは普通の人間であってくれよ……」
つい、声に出ていた。
誰もいない部屋で呟いたその言葉が、どこか虚しく響いて消える。
***
俺はそっと、血の跡がこびりついたリュックのジッパーを開けた。
中身をひとつずつ確認していく。
……水筒はアウトだろう。
中身を確認するのが怖い。
チョコは溶けてベトベトだし、パンもカビてた。缶詰だけは、無事みたいだ。
そして、一番気がかりだった“あれ”に手を伸ばす。
「……あった。無事だ」
手元には、透明のビニール袋に丁寧に包まれた一冊の薄い冊子。
傷も汚れもない。まるで奇跡みたいに、綺麗なままだった。
《週刊マーヴェラス特別編集・綾川水麗凪フォトメモリアル》
これだけは、どうしても異世界に持ってきたかったんだよな。
何もかもがフィットしなかった、前の世界。
日常も、仕事も、人間関係も。
自分の存在だけが、どこにも馴染んでいないようで、ずっと息苦しかった。
でも、唯一ハマったものがあった。
それが彼女、綾川水麗凪だった。
きっかけは高校一年のとき。
「たまには刺激が必要だ!」とか言って、やたらテンションの高い友達に無理やり連れて行かれたアイドルのライブ。
正直、全然気乗りしなかったし、アイドルに興味なんてなかった。
「チケット余ってるから」って言葉に流されて、結局断れずに会場まで連れていかれた。
行ってみれば、そこは思ったよりも小さなホールで、観客なんて自分たち以外いなかった。
「あれ?これ本当にやるのか?」って思ったくらいだった。
そしてステージには、5人組のアイドルが出てきてきた。グループ名は『エトワール』
知らないグループだった。
肝心のライブは……うん、まあ、ぶっちゃけクオリティは高くなかった。
歌も、ダンスも、プロって呼べるレベルには程遠い。
俺よりダンス下手な子なんて、初めて見たし。
歌声も正直、音程迷子だった。
それでも。
なぜか、目が離せなかった。
特別な何かがあったわけじゃない。
当時の水麗凪は不器用で、ちょっと浮いていた。
それなのに……いや、だからこそなのか。
懸命に歌い、踊るその姿に心を掴まれた。
不完全で、不格好で、でも真っ直ぐ。
それは、ステージの上で光を放ってるように見えた。
「……なんだ、あの子……」
あの時、不意に口から漏れた言葉が、それだった。他の誰よりも、水麗凪だけが目に焼き付いた。
気づけば、目で追っていた。
気づけば、また会いに行っていた。
そして、彼女に会いに行く為にバイトも,必死に頑張った。
自分でも驚くほど、彼女のライブには通ったと思う。
ライブを重ねるたびに『エトワール』は、どんどん成長していった。
気づけば、彼女の動きは随分と滑らかになっていた。歌声も、最初の頃の不安定さが嘘のようだった。
きっと……相当努力してるんだろうな。
どれだけ練習したんだろう。
どれだけ悔しい思いをしてきたんだろう。
どれだけ涙を流したんだろう。
それでも諦めず、前だけを見て立ち続けたその姿が、俺には眩しくてしょうがなかった。
何かに夢中になれるって、どれほど幸せなんだろう、そう思っていた。
何かに夢中になって、全力を注いで、ボロボロになってもまた立ち上がる。
そんな強さも情熱も自分にはない。
でも彼女は違う。
気がつけば、『エトワール』はどんどん人気になって、チケットを取るのも困難な状況になっていた。
狭かった会場も大ホールになり、名前を呼ぶファンの声も増えて、グッズも完売続き。
どこか遠い世界の存在になっていくのを、肌で感じていた。
だけど、そんな俺の小さな支えは、ある日突然、音もなく崩れた。
スマホの通知に、見慣れない速報。
《エトワール・綾川水麗凪、芸能界引退》
……は?
一瞬、目を疑った。
脱退じゃない。活動休止でもない。
芸能界引退。
慌てて公式サイトを開いた。
だけど、そこにあったのは、たった数行の事務的な文章だった。
『このたび、綾川水麗凪は体調不良を理由に芸能活動を終了し、引退することとなりました。応援してくださった皆様に、心より感謝申し上げます』
本人の言葉は一切なし。
顔も、声も何もない。
そこに彼女の姿は、どこにもなかった。
当時、ネットは大騒ぎになった。
スキャンダル説、電撃婚説、事務所とのトラブル説。
誰もが憶測を語り、勝手に彼女を語り始めた。
テレビのコメンテーター達は、まるで何もかも知ってるような口調で「引退の背景」を語り、SNSでは勝手な想像が一人歩きしていた。
みんな、知ったような顔をして、好き勝手に言葉を並べていた。
けど、本当に彼女の事を知ってたのは誰だった?
いや、俺も分かってなかったのかもしれない。
ぽっかりと空いた空白だけが残り
水麗凪への想いも、支えも、全部その空白に吸い込まれていくように消えてしまった。
でも写真集は水麗凪を推していた事を思い出させてくれる。
俺の大切な宝物だ。
「……水麗凪……何してるんだろう」
それをリュックの中からそっと取り出して、
今はもう会えない世界の彼女に、ほんの少しだけ、思いを馳せた。
***
久しぶりにページをめくって、水麗凪の写真を眺めてみた。
やっぱり、可愛い。
俺が彼女を推していた理由は、見た目じゃないけど、こうして見ると、やっぱビジュアルも最強だったな。
マルセラにも引けを取らないくらい……いや、それは言いすぎか。
「翼、何見てんだー?」
いきなり背後から声をかけられて、俺はビクッと体を跳ねさせた。
マルコスだった。髪はぐしゃぐしゃ、寝起き丸出しで、あくびをしながらリビングに入ってくる。
「……思い出の写真集。大事なやつだ」
表紙を閉じながら、そっと答えると、マルコスの視線が俺の横にあるリュックに移った。
「ってか、なんだこのリュック。血ついてんじゃねぇか」
「ああ、それな。俺の腕を食った人が、これ届けてくれって、オッサンに託したやつ」
「……は? なんだそれ? 意味不明だぞ」
「いや、俺もだよ」
「それ、俺にも見せてくれよ」
「丁寧に扱えよ、俺の宝物だから」
マルコスはページを一枚、二枚とめくりながら、眉をしかめる。
「こいつ……知り合いか?」
「いや、知り合いっていうか……ファン? ずっと一方的に推してたっていうか」
その瞬間、マルコスの表情が、ぴたりと変わった。
瞳の奥に鋭い光が灯る。
「……翼、コイツは敵だぞ」
「は? どうした? 寝ぼけてんのか?」
「間違いねぇよ。この写真の女……【天命十二刻】序列九位。綾川水麗凪だ」
マルコスが呟いたその名前に、俺の心臓がドクンと跳ねた。
「……てんめい、じゅうに……なんだって?」
「【天命十二刻】。この世界の神から称号を与えられた、十二人の選ばれし強者ってことだ」
「は、はあ? なにそれゲームの設定? てか待って、そんな強キャラ設定の奴が水麗凪?……いやいや、似てるだけじゃないのか?」
「間違いない、絶対本人だ」
「じゃあ、なんで敵なんだよ」
「綾川水麗凪が、ランベール家の者だからだ」
「ランベール家?」
その名を口にした瞬間だった。
ズキンッと、胸の奥が締めつけられるように痛み出した。
息が……できない。
喉が焼け視界が揺れる。
頭の中で、何かが脈打って暴れ出す。
やべぇ。これ……蕾が……いや冥歌が暴れてやがる……。
「翼! 深呼吸しろ!」
マルコスが慌てて俺の背中を支え、言葉を投げかけてくる。
「大丈夫だ、落ち着け!」
重い鎖みたいだった空気が、少しだけ和らぐ。
ああ……クソ。なんなんだよ、
だけど、知る必要がある。
知らなくちゃいけない気がする。
「マルコス……大丈夫だから。ランベール家について教えてくれ」
声が少し震えてた。
でも、マルコスはすぐに察してくれたらしい。あきれたように鼻を鳴らして、それでも答えてくれた。
「しょうがねぇな……。でも、無理すんなよ」
マルコスは椅子にドカッと腰を下ろして、真顔になった。
「ランベール家の親、つまり当主は『シルヴァ・ランベール』こいつは元々、川島家の中でもランベール派って派閥を率いてた幹部だった」
川島家の……内部の人間?
ってことは裏切り者か。
「で、そのシルヴァの糞野郎が謀反を起こした。お前の両親を殺したのも、シルヴァだ」
視界の端がジリジリと滲む。
やばいな。冥歌が暴れてる……。
鼓動のリズムが狂っていく。
喉の奥が焼けるみたいに熱い。
「落ち着け、翼」
マルコスの声が、俺を現実に引き戻した。
「ランベール家は、その後、家を立ち上げた。つまり正式な一族になったってことだ。しかも今じゃ【刻家】のひとつだ」
「……刻家?」
「さっき言ったろ、天命十二刻。あの称号を授かった奴が属してる家、それを刻家って呼ぶんだ」
「つまり……水麗凪は、天命十二刻の一人で……そのランベール家の所属、ってことか……」
「ああ、間違いねぇ。ランベール家は、川島家・ゼルト派とずっと戦ってる。冗談抜きで、殺し合ってる状態だ」
頭が痛い。鼓動の音が、耳の中で爆音になってる。
推しが、俺の両親を殺した家の一員?
……冗談にしても、きつすぎる。