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2 或るエルフと人間の村

 ミラは森の境界を超え、人間の領域に足を踏み入れた。

赤子を腕に抱き、彼女の銀髪が陽光に映えてきらめく。


「よしよし、もうすぐご飯が食べられるからね……」


 森では木々が彼女を隠してくれるが、ここでは隠れる場所がない。

村の入り口に近づくにつれ、土と煙の匂いが鼻をついた。

人間の生活の臭いだ。ミラは一瞬顔をしかめたが、赤子の小さな体をそっと抱き直し、心を決めた。


 村に足を踏み入れると、すぐに視線を感じた。

農作業の手を止めた男たち、家の窓から顔を覗かせた女たちが、じっとミラを見つめ、ミラの額に冷や汗が光る。

彼女の尖った耳と非人間的な美しさは、一目でエルフだと分かる証だった。

人間にとって、エルフは森の伝説に近い存在だ。

何を考えているのか分からない、近づきがたい生き物。

ミラはその視線に耐えながら、村の中心へと進んだ。


 広場に差し掛かると、数人の村人が彼女を囲むように近づいてきた。年老いた男が口を開いた。


「お前、エルフだな。何しに来た? 森に帰れ」


 その声には警戒と敵意が滲んでいた。

ミラは一瞬言葉に詰まったが、赤子を抱く腕に力を込め、静かに答えた。


「あの……この子に乳をあげたいんです」


 その言葉に、村人たちの間に奇妙な静寂が広がった。

老いた男は眉をひそめ、他の者たちは顔を見合わせた。

ミラの言葉は純粋で、切実だったが、人間には異様に映った。

エルフが人間の赤子を抱き、乳を求めるなど、誰が想像できただろうか。

やがて、一人の女が前に進み出た。

中年の、がっしりした体格の女性で、手には洗濯物が取り込まれた籠を持っていた。


 「お前がその子に乳をやるつもりか?  それとも誰かに頼みたいのか?」


 女の声はぶっきらぼうだったが、敵意は感じられなかった。

ミラはわずかに安堵し、言葉を探しながら答えた。


「私は……その、乳が出なくて。この子が捨てられていたから、助けたいだけなんです。お願いします」


 ミラの声は小さく震えていた。彼女の普段の優雅さは、ここでは無力に感じられた。

女はしばらくミラをじっと見つめ、やがてため息をついた。


「捨て子か……。まあいい、分かった。うちに乳が出る女がいる。ついてこい」


 女は踵を返し、ミラに背を向けて歩き始めた。

村人たちの視線は依然として冷たかったが、誰も止めようとはしなかった。

ミラは急いで女の後を追い、赤子をしっかりと抱きしめた。


 村の端にある小さな家にたどり着くと、女は中へ入るよう促した。

そこには若い母親がいて、自身の赤子に乳を与えている最中だった。

ミラが入ると、彼女は驚いたように顔を上げたが、中年女が簡単に事情を説明した。

若い母親は少し躊躇したものの、赤子を受け取り、そっと自分の胸に当てた。

赤子はすぐに乳を飲み始め、小さな手足が満足そうに動いた。


「あ、ありがとうございます。この子を助けてくれて……」


「いいのよ。それに、この子を助けたのはあなたもじゃない」


 ミラはその言葉を聞き、胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。

だが同時に、村人たちの冷たい視線や、自分がここにいる異物感も消えなかった。

ミラは赤子を救ったが、自分が人間の世界に馴染むことは難しいのだろうということを悟った。


 その日の夜、ミラは村に留まることを決めた。

恩を返すため、少しでも自分が村に馴染むため、そしてこの子を守るために何かできることがあれば、と彼女は思った。


 一夜明け、若い母親──リアの家で目を覚ました彼女は早速実践に移った。

最初はぎこちなく、村人たちの冷たい視線に耐えながらも、ミラは手を動かし始めた。

畑の雑草を抜き、水を運び、壊れた柵を直す手伝いをした。

時には得意の弓術で畑を荒らす害獣を仕留めたりもした。

エルフの軽やかな動きと繊細な手つきは、村人たちにとって異質だったが、次第にその誠実さが伝わり始めた。


「あのっ!他に何か手伝えることってありますか?」


「い、いや。もう十分だ。今日は休んでくれ。」


 ミラの善性と実直さは、言葉以上に態度で示されるものだった。

笑顔は控えめながらも温かく、疲れを知らない働きぶりに、村人たちの態度も少しずつ軟化した。

最初は遠巻きに見ていた子供たちが近づいてくるようになり、彼女に興味津々で質問を浴びせた。


「ねーねーおねえさん。なんで耳がとんがってるの?」


「私はエルフだからね。エルフの人たちはみんな耳が尖ってるんだよ」


「なんで赤ちゃんがいるのに、おっぱいがちっちゃいの?」


ミラは自身の胸元を見下ろし、顔をほのかに染めて答える。


「……えっと……それは私がまだ成長……途中なだけです……」


ミラは戸惑いながらも丁寧に答え、その姿が大人の警戒心をいくらか解いていった。


 日が傾くと、ミラは再びリアの家を訪れていた。

リアとは授乳期が終わるまでは赤子を預かってくれる約束になっていた。

彼女自身の赤子とミラが連れてきた捨て子に交互に乳を与えながら、リアはミラに目を向けた。


「そういえば……この子の名前はなんて言うの?」


 ミラはリアの隣に座り、赤子が乳を飲む様子をじっと見つめていたが、その質問に少し驚いて顔を上げた。


「えっと……分からないんです……」


 彼女の声は小さく、どこか申し訳なさげだった。

赤子が捨てられていたとき、名前を示すものは何もなかった。

ミラ自身、それを気にする余裕もなかったのだ。


 リアは軽く笑い、赤子を膝の上で揺らしながら言った。


「じゃああなたがつけてあげなさい。お母さんなんだから」


「お母さん、か……」


 ミラはその言葉に一瞬言葉を失い、頬がわずかに赤く染まった。

彼女は目を伏せ、長い銀髪が顔を隠すように落ちた。

子を産むことさえ遠い未来だと思っていたのに、今、この小さな命を預かる自分がいる。

彼女の手が、知らず赤子の頬に触れていた。

「お母さん」、それはあまりに大きな役割に思えた。

だが、リナの言葉には温かさと信頼が込められていて、ミラの心に小さな火を灯した。


「もう少し考えさせてください」


 ミラはそう言って、照れくさそうに微笑んだ。

リナはくすりと笑い、「急がなくていいよ。この子にはまだ時間があるんだから」と答えた。


 その夜、ミラはリアの家の片隅で眠る赤子を見ながら考え込んだ。

名前とは何か。この子にとってふさわしいものは何だろう。

森の言葉、エルフの響き、それとも人間らしい名か。

彼女の心はまだ答えにたどり着かなかったが、リアの「お母さん」という言葉が、静かにミラの中で根を張り始めていた。

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