1 或るエルフと出会い
──クロノヴ暦2025年4月──
森の木々がそよ風に揺れ、葉擦れの音が静かに響き渡っていた昼下がり。
「はっ……はっ」
その木々の間を息を切らしながら走る少女が1人。
彼女の名前はミラ、齢500歳ほどの若いエルフだ。
普段の彼女ならば、きっと薬草を摘み、日向ぼっこでもしている時間だっただろう。
では、何故彼女は走っているのか?
「森の動物たちが騒がしい……。一体何が起こってるの?」
エルフの繊細な感覚が、森の異変を感じ取り、彼女を突き動かしていた。
この未知の感覚が凶兆か、吉兆かは分からない。
ただ、漠然とした焦燥感が彼女を襲っていた。
長い銀髪が風に流れ、鋭い緑色の瞳が周囲を見渡す。
まだ異変の原因が掴めない。
今度は長い耳をピクピクさせながら森が創り出す音に耳を澄ませる。
鳥がさえずり、木の葉が地面に落ち、羽虫が羽音を立てる──。
すると、聞き慣れない音が耳に飛び込んできた。
かすかな、しかし確かに聞こえる泣き声。ミラは眉をひそめ、音のする方向へ足を進めた。
木々の間を抜けると、そこには思いがけない光景が広がっていた。
「おぎゃあ!おぎゃあ!」
小さな人間の赤子が、粗末な布にくるまれて木の股に置かれていた。
泣き声は弱々しく、まるで助けを求めるように震えていた。
ミラは一瞬立ち尽くし、その場に膝をついた。
赤子の顔は泥と涙で汚れていたが、男の子であることはすぐに分かった。
名前を示すものは何もなく、ただそこに捨てられているだけだった。
「人の子か……」
ミラは人間と触れ合ったことがなかった。あるとしたら森に迷い込んだ人間を送り返す程度のもので、当然、人間の赤子など、見たことがなかった。
「誰がこんなことを……」
ミラは小さくつぶやき、赤子をそっと抱き上げた。
エルフの細い腕の中で、赤子はさらに小さく見えた。
彼女の心に、驚きと憐れみが入り混じった感情が湧き上がる。
森に住むエルフにとって、人間は遠い存在だった。
ましてや、こんな無垢な命を捨てるなど、彼女には理解しがたい行為だった。
ミラは赤子を胸に抱き、立ち上がった。
彼女の動きは優雅で、まるで風のように自然だった。
赤子の泣き声が少しずつ収まり、彼女の体温に安心したかのように目を閉じた。
ミラはしばらくその場に立ち、森の静寂の中で考え込んだ。
この子をどうすればいいのか。森に連れ帰るべきか、それとも人間の住む場所へ返すのか。
「お前も……ひとりぼっちか」
ミラ自身さえ予想していなかった言葉が、口をついて出た。
その時、彼女の頭に一つの考えが浮かんだ。
「この子を育てよう。」
それは衝動的で、彼女自身驚くほど大胆な決意だった。
だが、目の前の小さな命を見ていると、その選択以外に道はないように思えた。
決意を固めたミラは赤子を抱いたまま、森の奥へと進む。
ミラは時折、優しく手で揺り動かし、赤子が落ち着けるようにしていたが、腕に抱く小さな命の感触にまだ慣れないでいた。
赤子の呼吸は落ち着き、時折小さな寝息が聞こえてくる。だが、ミラの心は穏やかではなかった。
この子を育てると決めた瞬間から、彼女の中で現実的な問題が次々と浮かび上がっていた。
立ち止まり、ミラは赤子をそっと見下ろした。
丸い頬と閉じた目が愛らしいその顔に、彼女は小さく息をついた。そして、胸元を見下ろし、ぽつりと呟いた。
「赤ちゃんの食料……私、おっぱいが出ないからな……どうしようか」
その言葉は、森の静寂に溶け込むように小さく響いた。
エルフであるミラにとって、母乳を出すことは自然な行為ではない。
彼女の種族は長寿で、子を産む機会も人間に比べて極端に少ない。
ましてやミラ自身、恋愛も知らず、子を産んだ経験などなかった。
そのため、この小さな人間の命を育てるための知識も、彼女には欠けていた。
ミラは木の幹に寄りかかり、考え込んだ。森には果実やハーブが豊富にあるが、こんな小さな子がそれを食べられるはずがない。
ミラは頭を悩ませる。
「森の動物に頼むわけにもいかないしね……」
ミラは苦笑しながら独り言を続けた。
鹿や兎が助けてくれるわけもなく、彼女は自力で解決策を見つけなければならなかった。
すると、赤子が目を覚まし、再び小さな泣き声を上げ始めた。空腹なのだろうか、それともただ不安なのか。
ミラは慌てて赤子を軽く揺らし、落ち着かせようとした。
「泣かないでくれ……私まで……落ち着かなくなる」
その時、彼女の頭にシンプルな答えが浮かんだ。
人間の村だ。遠くから眺めていただけだが、赤子に乳をあげる女性を見たことがある。
あそこに行けば、赤子に必要なもの——乳や食料が手に入るかもしれない。
だが、エルフが人間の領域に足を踏み入れることは危険を伴う。
森の民として、ミラは人間との接触を避けるよう生きてきた。
彼らの好奇心や敵意を向けられたとき、私は無事でいられるだろうか? ミラはそんな悪い想像をしたが、赤子の顔をみると悪い想像はなりを潜めた。
ミラは赤子を抱き直し、決意を固めた。
「この子のために、やるしかない」
彼女の声は小さく、しかし確かな意志が込められていた。
ミラは村の方向を向き、大きな一歩を踏み出した。
クロノヴ暦…クロノヴ大陸における標準的な暦であり、なんと地球のグレゴリオ暦と同じ型の暦である。月日の流れが地球人に分かりやすくてフレンドリーな暦なので作品の時間経過を感じるための一助となれば幸いです。