王弟 レオンサイド 1
ヒロインサイド以外は、誰側視点かと通し番号で統一予定です。
次回はヒロイン視点に戻ります。
今日の分の仕事が完了し、ため息をついて背凭れに寄りかかる。
ざーっという音に気付いて窓の外に目をやると、いつの間にか本降りの雨が降っていた。
ちょうど仕事が終わる時間帯なので馬車が混み合いそうだ。
「今日はこれで帰るぞ」
立ち上がりながら告げると、まだ仕事をしていた執務官たちがいっせいに顔をあげた。
「は? もうそんな時間……って五時じゃないですか」
「どうしたんですか、殿下」
いちおう王宮の就業時間は、日本とほぼ同じ八時から五時だ。
昼休みを一時間半くらいゆっくりとる習慣が貴族にはあるため、実質働いている時間は七時間ほどだが、その昼食時に仕事の話をしていろんなことが決まることも少なくない。
「不正摘発が一区切りしたんだ。おまえたちも残業しないで帰れ」
しっしっと手を振って追い払う仕草をすると、若いやつから先に嬉しそうに帰り支度を始めた。
大きな成果をあげた分、執務室のみんなには無理をさせた穴埋めをしなくては。
「おまえたち二か月以内に順番にまとまった休みを取れ。事務官にふたりほど欠員が出るが、代わりに強力な助っ人が来るから大丈夫だ」
俺が仕事をするこの部屋にいるのは、補佐官ばかり。
執務官や事務官は近くの部屋が部署ごとに割り振られている。
「まとまった……本気ですか」
「妻が喜びます」
「いいから早く帰れ。俺ももう帰る」
バタバタと帰り支度を始めた補佐官たちの様子を眺めながら上着を着ていると、レイフがにやにやしながら近づいてきた。
「シェリル嬢に叱られたのが堪えましたか」
「馬鹿を言うな。睡眠不足と疲労で今日は何回も判断ミスをおかし、子供を危険な目にあわせてしまった。彼女には悪いが、それでも今回くらいの問題ならまだいい。王族の判断ミスで国が傾くこともあるんだぞ」
兄が若くして即位し苦労しているのを見ていたので、少しでも早く役にたちたくて仕事を始めた。
だが、まだ成人していない俺を軽く見る年寄りはたくさんいる。
だから認めさせたくて、成果を上げるために無茶をしすぎた。
「また過労死なんてしたくないだろう」
「確かに。まだ若いから平気だと軽く考えていましたよ。しっかり休んだほうが仕事の効率が上がるとわかっているのに、駄目ですね」
ようやく記憶を取り戻したヒロインが、まさか中身が俺より年上の、乳母のような話し方をする少女だとは予想もしていなかった。
確かに整った顔立ちをしていて、十年経ってゲームのストーリーが始まる年齢になったらはっとするほどの美人になるだろう。
だが、貴族社会には美男美女がごろごろいる。
彼女のような美しい容姿の子供にも何度も会っている。
それでも彼女が目を引くのは、大人びた表情とまなざしのせいだ。
「そういえば、あの瞳」
話をしていた時には、薄めの茶色の瞳だと思っていた。
ゲームでは瞳の色は話題にあがらなかったし、赤や金色の瞳のキャラがいる中で、割と地味な色合いのヒロインなんだなと思った記憶がある。
ポロック伯爵が彼女を高く抱き上げた位置から落としたとき、間一髪で抱き留めた彼女の瞳はいつもより明るい夕焼けの色のようだった。
大きく見開いた瞳の色にその時は注目している余裕なんかなかったし、号泣されてどうしていいかわからなかったせいで、今まで忘れていた。
「夕焼けの色の瞳はどこかで見たことがあるぞ」
「実は私は、その話をしたくてみんなが帰り始めているのにまだここにいるんですよ。あの瞳は、ギルモア侯爵家の家系に見られる瞳です」
「ギルモア?」
あの熊のような大男集団か?
北の豊かな大地を領地に持つ大貴族だ。
男性は体格がよく、髪や髭が豊かで、ギルモア侯爵は目が半分隠れるほど長い眉毛をした老人だ。
女性はそれに比べると華奢な印象を受けた。
「そうか。しかしなんでギルモア」
「調べてみましょうか」
「明日でいいぞ」
話しながら外に出ようとした時、書類を手にふたりの執務官が部屋にはいってきた。
「あれ? もう誰もいない?」
呑気な声をあげたのは三十代の執務官だ。
ああ、一緒にいるのは掛け算を知らないアホじゃないか。ちょうどいい。
「どうしようかなあ。明日の朝一番に提出しないといけない書類なんですよ。困ったなあ」
レイフに仕事をさせる気満々だな。
「そこの箱に入れておけば、明日の朝、処理してもらえるぞ」
「いや殿下、それでは間に合わないんですよ」
「なら、なんでこの時間に持ってきた」
「それは……そうなんですけど、いつもはこの時間でも」
「今後は補佐官に時間外の仕事は基本させない。おまえは二級執務官だろう。補佐官に時間外の仕事をさせようとするな」
実家や後ろ盾の力が強いやつは、好き勝手しても許されると思っていることがある。
こいつはその典型だ。
「それと、そこの掛け算を理解できないやつ」
指をさしたら、地味な顔をした男がびくっと肩をすくませた。
「おまえは明日から来なくていい。今日帰宅する時に私物は全部持って帰れ」
「な、そんなことしていいんですか? 僕はアンブラー伯爵の推薦で」
「おや、たかだか伯爵ごときのコネがある程度で、王族相手にその態度ですか」
レイフがにこやかに話しながら男の肩に腕を回した。
「お、大伯父がバークリー侯爵……」
「またバークリーか。あいつは何をやっているんだ。明日の会議には出るはずだな」
「そうでしょうね」
「話をする必要があるな」
「おーっと、まだ逃がしませんよ」
俺とレイフの会話を聞きながら、男は少しずつ後退ろうとしてレイフにヘッドロックをされている。
「どうも王位継承権を放棄したら、王族ではないとでも思っている勘違い野郎が多くて困りますね。王弟殿下はいずれは大公になる方ですよ。王家から籍を抜いても公爵家よりも上だということを忘れてもらっては困ります」
楽しそうだな。
レイフはにこやかな顔のまま近衛兵を呼んで、
「彼には荷物をまとめる時間を三十分だけあげて、そのあと王宮の外までお送りしてあげてください。その時に身分証明書を忘れないで回収してくださいね。明日からは王宮にはいれない人なので」
「ま、待ってください」
「真面目に仕事をしろと何度も注意しましたよね、殿下がやさしいからと甘く見るからこういうことになるんです」
まだ成人していない俺が、王族だからとあまり偉そうにするのはどうなんだろうと、気さくな仕事仲間としてある程度の無礼は許してきたのが仇になったな。
まともなやつはそれでも礼節を守り、距離感を間違えない親しさで接してくれるのに、中にはこいつらのように勘違いする人間が出てくる。
今回はふるいにかけるいい機会だとしても、王族を軽く見られては陛下にまで迷惑をかけてしまう。
どうも日本人だった時の感覚がたまに懐かしくなって、親しい人間と身分差で距離を取らなくてはいけないのが寂しい気分になるんだよな。
転生者の仲間たちの中でも、他のメンバーは名前で呼び合っているのに、俺だけは王弟殿下と呼ばれてしまう。
彼らの中には、俺の名前を憶えていないやつもいるかもしれない。
「で、おまえはなんだったかな?」
書類の件でごねていた男に声をかけたら、仲間が連れて行かれるのを茫然と見送っていた彼は、慌てて書類を箱に入れ、深々と頭を下げて逃げていった。
「今日は陛下との夕食会ですか」
「夕食会というより、報告会だな」
月に二度、必ずふたりだけで食事をする機会を作ってきた。
陛下が結婚しても子供が出来ても、それは変わらない。
別にそれは秘密でもなんでもなく、よく話題にもしているというのに、なんで不仲説が出るのか不思議でしょうがない。
陛下は俺にとっては、兄であるのと同時に、父親の役目までしてくれた大事な家族だ。
転生者の話を女神に一緒に聞いた仲間でもある。
ゲームの中では国王についての描写がほとんどなかったが、現実の兄と同じような人物だったとしたら、自分が王になろうなんて考えた王弟の気持ちが理解できない。
「そうか。ヒロインは恋愛に興味なしか」
食事といっても、ワインに合うつまみをいくつも用意させ、侍従も給仕も下げてふたりだけでのんびりと話をする時間だ。
暖炉の傍の椅子に腰を下ろし、料理を思い出したように食べながら兄はワインを楽しんでいた。
童話に出てくる王子のような容姿をした兄は、一見人当たりのいい優しい国王という印象を人に与え、国民の人気が高い。
だが、優しい国王では一癖も二癖もある重鎮たちをまとめるなんて出来ない。
時折、場が凍り付くような威圧感と存在感で、大貴族共を黙らせる激しさと腹黒さも持ち合わせている。
「八歳の子供がそう言う言葉を話すのを見るのは、滅多に出来ない経験だな」
「中身は赤子とはいえ孫のいた女性ですからね。男は、特に世話のかかる男とは関わりたくないようですよ」
「では、レイモンドのようなタイプは駄目か」
「会いたくないそうです」
そこが一番の懸念点だったので、俺も兄も彼女の話を聞いてほっとした。
「だが、レイモンドのほうが惚れる可能性はあるな」
「あるでしょうね。黙っていれば驚くほど整った容姿をした少女です。ただ表情が子供らしくありません」
「計算が好きで事務仕事をやりたがる乳母のような話し方をする美少女……変わっているな」
本当にな。
「ショックのためか帰宅してから熱が出て寝込んでいるようです。記憶を取り戻したばかりの八歳の体に、ここ何日かの変化とさらわれかけるという恐怖はかなりの負担だったんでしょう」
「そうだな。回復系の魔道士を手配してやるといい。それにおまえも、十五歳の少年の体に激務をさせるのはやめるんだ」
「はい。今回のようなミスを二度と起こさないためにも、体調管理は万全を期します」
ということで、俺は酒ではなくレモン水を飲んでいる。
もともと舐める程度にしか飲んでいなかったが、成長期の体にアルコールはよくないという話を聞いたことがある以上、成人しても十八まではあまり酒は口にしないつもりだ。
「ヒロインは面白い子のようでよかった。男主人公のほうは少々厄介なようじゃないか」
「ゲームのようにコアハンターになり、名声を集めてのし上がる気でいるようです。それにヒロインに興味を持っているようで、今後も彼の動きには注意しなくては」
「めんどうだな」
ゲームのキャラで一番人気だったのが女性ヒロインだ。
男性ゲーマーの中には男主人公を動かして、ヒロインと恋愛をしたいという要望をゲーム会社に出す者もいて、男主人公になった転生者はまさにそのひとりだったんだそうだ。
「実際に会話すれば、ゲームの中のヒロインとはまったく違う人間だとわかるんですが、我々がそれを彼に言っても無駄ですから」
「王宮で働くようになれば護衛もつけやすい。彼女が活躍してくれることを祈るよ」
活躍か。
俺が祈るのは、彼女がこの世界に転生したことを後悔しないで済むようにということだな。
ヒロインになれて舞い上がるような女性だったらどうしようかと心配していた時よりも、苦労をしながら子供を育てあげたという優しい女性が、転生者や彼女の魅力に惹かれて付きまとう男に傷つけられないかの心配のほうが切実かもしれない。
好き放題するヒロインならいくらでも対処できるが、今はまだ幼い少女を守るのは大変だぞ。
「おまえも気をつけろよ」
「は? なにがですか?」
「わからないならいいんだ」
意味深なことを言って、兄は楽しそうにワインを飲み干した。